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☆閑談とちょっと気になる言霊の部屋☆ 言13 [趣味・カルチャー]

「三太郎余談」

 最近は子供の名前が実に独創的で、一寸見ただけではどんなつもりでそういった名前にしたのか、想像も出来ないようなものがかなりあります。

 昔は女の子には〇〇子と子を付けるのが定番でしたが、男の子には代表的なものがありました。

 それが「太郎」です。

 その原点となったのは、童話の世界での人気作品の三太郎です。つまり、

桃太郎、金太郎、浦島太郎という童話の世界での三太郎といわれている人気作品ですが、今回はそのことをもうちょっと深追いして考えた時のお話です。

上にあげた三人の人気者が、揃って「太郎」という名を付けられているのですが、あれはただなる偶然なのか、それともかつての世の中を象徴する現象であったのだろうかということなのです。

 昔はお正月を「太郎月」といったこともあったといいますから、一年の中で一番最初の月を象徴する名称として使われていましたし、能狂言に出て来る「太郎冠者」は冠者中で一番先輩であるということを象徴する名であったりするのです。つまり兎に角第一番のものに使われることが多いようです。

ところがそれは人間に対して使われる名称かと思っていましたら、利根川のことを「坂東太郎」という異名で呼んだり、「四国次郎」とか「筑紫四郎などという場合もあるのです。どうやらこの場合は、最も大きいとか、長いとか、その道に優れているというような意味でつけられているようです。しかし再び人間の名称としての太郎に話を戻しますと、物語の世界での太郎は、あまり芳しいものは存在いたしません。桃太郎、浦島太郎はいいとして、狂太郎・悪太郎・寝太郎・物臭太郎という者が登場したりします。その中の物臭太郎といえば、どれをどう取りあげたとしても、とても評価の対象にはなりません。恐らく物臭者の中でも飛び抜けた者なのでしょう。

あまり褒められたものではありません。

 兎に角ものの始まりであったり、代表的な大きさであったり、かわいいとか賢いというような象徴として、親としては将来を期待して「太郎」が使われたに違いありませんね。つまり物事の始まり、暮らしの始まりを記録する代表として「太郎」は存在していたように思います。

その思いに応える太郎さんかどうか、こっそり探ってみたらどういう結論になるでしょうね。

興味がありますが・・・。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の一 [趣味・カルチャー]

   第五章「決断の時を(あや)まらないために」(一)

    為政者の課題・「官司多すぎ、政治に不都合」

 

大同三年(八〇八)のことです。

 桓武天皇(かんむてんのう)の崩御を受けて、御子である安殿親王(あてしんのう)践祚(せんそ)して平城天皇(へいぜいてんのう)になられてから三年目のことです。

 先帝時代からの政治的な問題が残っていました。

 税の納入問題、民・百姓の収める調・庸等の問題があったり、大学寮の直講博士(じきこうはかせ)一員を削減し、紀伝博士(きでんはかせ)を置くことにしたという報告があり、天皇はこう指示されました。

 「今聞くところによると、道路を往来する百姓らが病気となり、飢えと渇きのため死亡する者がいるという。これはまことに官司(かんし)(きゃく)(延暦二十四年四月の条をこころえず、村里の者たちが看病に当らないことによる。近ごろ疫病がはやり、死者が多数となり、死体を収めず路傍に曝されている状態となっている。これでは死体は埋葬するという本来のあり方に背いている。諸国司らは国内を巡検して病人を世話し、尖閣(今年正月に遺使して死体を埋葬したことがみえる)により放置されている死体は、すべて収容して埋葬せよ」(日本後紀)

 天皇は大極殿に出御して、名神に祈願を行いました。天下の疫病の気が盛んになり広まっているためです。

 天皇は更にこうおっしゃいました。

 「聞くところによると、『大同元年に洪水が起き、その被害から復旧しないうちに先年来疫病が流行し、非業の死を遂げる者が多い』という。人民の困難を顧みると、深く憐みの思いが生ずるので、恩沢を施して彼らを慰めようと思う。そこで、大同元年に七分以上の田が水害により被損した者の戸が借り入れている正税稲(しょうぜいとう)の未納は、すべて免除せよ」(日本後紀)

 天皇は思わしくない状況を思い、次のようにおっしゃいます。

 「朕は徳がなく、謹んで皇位に就き、薄氷をわたる思いで人民の苦痛を(あわれ)み、危険な奔馬を御する思いをしながら宮中において寧日なく過ごしている。自制して政治を思い、精神を励まして、施政に当たっているが、仁に基づく政治は人民に行き百々和、誠意が天に伝わっていない。朕が皇位について以来、災いの兆しが出現しており、近ごろ天下諸国に飢饉が起き、疫病がはやり、若死にする者が多い事態となっている。これは朕の不徳によると頃であり、災いが人民にまで及んでいるのである。政治にあたり反省し悩むばかりである。上は天の心に違いだらしなく煩雑な政治を行い、下は人民に災難をもたらす仕儀となっているのではないかと恐れている。これらはすべて朕の過ちである。人民に何の罪があろうか。静かに子のことを思うと、寝ていても起きていても忘れることができないのである(攻略)」(日本後紀)

平城天皇(へいぜいてんのう)の時代・・・つまりその後の嵯峨天皇(さがてんのう)が、まだ神野親王(かみのしんのう)といって皇太子であった時代のことです。

 天皇は即位前から問題だといわれていた、藤原薬子(くすこ)尚侍(ないしのかみ)として後宮へ招き入れたために、彼女は天皇の威を借りて、傍若無人に振る舞うようになっていたりしていたのですが、天皇は一方では祖霊の建設しようとしていた都を築こうと動いたり、蝦夷(えみし)討伐のために国の財を費やさなくてはならなかったのです。やがて財性緊縮化を図ったり、民の負担軽減に気を使いましたので、見た目ではすべてが順調に思えたのですが・・・。

為政者・平城(へいぜい)天皇

大同三年(八〇八)九月二十日のこと

発生した問題とは

天皇は即位すると官僚組織の改革などということにも挑むのですが、それを途中で挫折させてしまうと、すべてが旧状に戻ってしまいます。

一朝一夕には達成できません。

そこで天皇は即位草々に受けたある訴えに対して、決定していたことをもう一度検討し直しました。

飢饉と疫病を言上してきた、諸国の今年の調は免除せよと指示しました。これよって疫病の諸国では、調(ちょう)免除となることが明白で、疑いの余地がないにも拘らず、ある国司は病人の調を免除して、その分を病気でない民から徴収しているというのです。これは愚かな役人の過ちで、却って民に苦難を与えている。早く命令を下して、このようなことのないようにせよと指示します。浪人の調(ちょう)および十七歳から二十歳の男子である中男作物(ちゅうなんさくもつ)(奈良・平安時代に中男の調の代わりに課せられた現物納租税)の徴収に当たっても、同様にせよという指示をされると、更にこうともおっしゃいました。

「官司が多すぎると政治に不都合が生じ、職員が少なすぎると、事務が滞ることになる。そこで適宜、官司を併合し、適切に事務を執行させることにした。かつて、諸司の官人には暇な閑官(かんかん)があれば多忙な劇官(げきかん)があり、それに応じて給与や賜りものを厚くしたり薄くしたのであるが、今般の官司の改革により閑劇を解消したので給与は以前と異なることになる」(日本後紀)

現代でも何度も問題になる課題ですが、平安時代でも政庁の官衙で働く者が、多いのか少ないのかということで、問題になることがあったようです。

為政者はどうの対処したのか

天皇は宮司の整理統合や暇な官人の淘汰を進めました。

大同元年の記録で「年来不作で、民の疲弊がはなはだしくなっている。租を軽減しないと百姓が生活できなくなるので、伊賀、紀伊,淡路三国の田租は今年からはじめて六年間得田(とくでん)六分、損田(そんでん)四分として徴収せよ」と指示したことがあり、国内全体を平均して通計してはならないというような、指示をしたりするのですが、大和国からは班田使(はんでんし)の数が河内、和泉国の倍になっていることから、その人数を減らして、民の弊害を除いて貰いたいというような、要求が出されたりするのです。

政庁はそれを認めて大和国の班田使の次官ひとり、判官二人、主典二人を削減したということが記録されています。つまり官僚組織の改革に先鞭をつけて、律令制をきちんと機能できるようにしたいと動き始めるのです。しかしその頃、蝦夷(えみし)との抗争という問題にも立ち向かわなくてはならなかったのです。ところが天皇は政庁の中で起こった思いがけない事件のために在位五年にもならない内に弟の神野親王に譲位することになってしまうのです。

 そのことについては、第一章「卓越した指導者であるために」(一の二)の「状況に応じた指導をすること」の閑談の中で、詳しく触れましたが、政庁の実力者、藤原南家の伊予親王(いよしんのう)による天皇呪詛するという事件のためでした。

それを知った藤原の北家を中心にした政庁の中には、不穏な空気が漂い始めて、天皇は皇太子であった弟の神野新王に、後を頼まなくてはならなくなってしまったのです。

平城天皇から為政を託された神野親王は嵯峨天皇となって、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥(みちのく)国一帯に勢力を持つ蝦夷(えみし)という民族との抗争問題に、直面することになってしまうのです。

その鎮圧や防御のための砦の建設、騒動鎮圧のために財を費やしますし、武器の調達や兵士の多くの兵士を送ったりしなければなりませんでしたから、平安京とはかなり離れた遠隔の地である陸奥国での騒動を鎮めるためには、使う費用は大変な負担になる問題でした。

これまでの天皇はそれらの民族に対して、兎に角力による屈服をさせようと試みてきているのですが、嵯峨天皇は彼らに対する理解を示すということで治めることにしました。

ようやくすべてが落ち着いたと思われたのですが、既に為政の世界から退いたはずの平城太上天皇は、問題の尚侍の扇動に乗って、再び復権を夢見て平安京に戦いを挑み、結局失敗して蟄居しなくてはならなくなりました。愛する藤原薬子は自殺するという結末を迎えたのでした。

上皇は当初行おうとしたことには、期待するような清新な改革の意図があったはずなのですが、薬子の意のままに動いたために、初心をまっとうしないで終わってしまったのでした。

これは現代でも充分に取り上げることが必要な問題なのではないでしょうか。

天皇にとって官僚組織の改革ということは不可欠なことだったのですが、結局薬子という女性にのめりすぎて、その結果やろうとした目的も果たせずに終わってしまったのです。ふと現代の為政のことを覗いてみると、これまでの新内閣としてスタートしても、当初はかなり威勢のいいことを言うのですが、時がたつにつれてまったく意欲を感じさせなくなっているということが、ほとんどの傾向で国民を失望させています。薬子のような女性に迷うようなことがないことを願いたいのはもちろんですが、他の世界からの密かな圧力も排除して貰いたいし、議員の数を増やすか減らすかで、何度も議題になりながら、結局自分たちの数の増減という問題になるために、結局あたりさわりのない形になってしまいます。スタートの時の清新な意欲は、決死して忘れないで欲しいものです。しかしこれには、議員の地元の国民の意向も関係してきます。議員だけの問題ではありません。国民の意識改革が必要かも知れませんね。

温故知新(up・to・date)でひと言

 現代に置き換えていうならば、いつもそのことでは中途半端な結果しか出しません。先人に学ぶというのは、まさにこういうことではないでしょうか。古来「(とつ)(げん)(びん)(こう)」ということがいわれますが、指導者は口先の言葉よりも実践が大事だということです。口が重く不器用でも、実行は敏速で正しくありたいと望むものです。それ「拱手傍観(きょうしゅぼうかん)」とも言います。手をこまねいていて何もせず、傍からただみているだけでは、何も解決いたしません。「盤根錯節(ばんこんさくせつ)」といって、困難に出合ってはじめてその人の力量、価値が判るとも言います。駄目な者は去って貰い、有能な人に関わって貰いたいものです。それを実現する機会は選挙の時だけなのですが、なかなか思うようにはならないものですね。


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