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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言11 [趣味・カルチャー]

「宵待ち草と月」

 

かなり昔のことになりますが、ラジオやテレビで流れてきた、ソプラノ歌手が歌う「宵待ち草」の哀愁の籠った歌を聞いてきた記憶が、かなり鮮烈に残っています。

それについて詳しいことを調べたこともありませんでしたが、最近歴史関係の図書を読んでいる時に、かつて「日待」「月待」という風習があったことを思い出しました。

 この歌の作詞は大正ロマンの代表的な画家として知られている、竹久夢二が作詞したもので、作曲は多忠亮という人が作った歌曲で、どうやら歌唱は、私の記憶に残っている人が四谷文子さんという人のもののようでした。

   竹久夢二作詞 多忠亮作曲 四谷文子歌唱

 

待てど暮らせど 来ぬ人を

宵待ち草の やるせなさ

今宵は月も 出ぬそうな

今宵は月も 出ぬそうな

 

 どうやらこれは、「月待ち」の風習が色濃く残っていた頃の歌だということが判ったのです。

まだ都会にも、月待をする風情が残っている頃のことで、五月の十五夜の後の満月が昇るのを待って、願い事をしようというので、恋する人がやって来るのを、今か今かという気持で待っている、如何にも切ない思いが伝わってくる歌曲です。

月待ちをする人が、土手の草むらに腰を下ろして恋する人を、月と重ね合わせて待ちつづけている風景が、浮かび上がってきます。

        満月(2009・3・16).JPG

(故人となったカメラ好きのO氏が月を愛する私に贈ってくれた20093月の満月です)

恋するあの人は、いつになったら来てくれるのだろうか。

古来「日待」「月待」などという信仰が、まだ色濃く残っている頃のことですが、きっと竹久夢二も、恋する人を待つ切ない思いで、満月を待っていたことがあったのでしょう。今か今かと待つ月の出と重ね合わせて、祈るように待っている竹下夢二の姿を思い浮かべてしまいます。

しかし・・・

 意地悪なお話を付けたしてしまいますが、大正ロマンの頃、所謂十五夜あたりの天候の具合が芳しくなくて、雨だったり曇りだったりということが多くて、なかなか素晴らしい満月には出会えなかったという情報があります。

 正確に言いますと一年のうちで一晩しかない十五夜は、陰暦八月十五日の夜のことで、その日が満月という日はほとんどないのだそうです。

天文学者でもない竹久夢二さんはそんなことも考えないで、ただひたすら月の出を待ちながら、恋いする人がやって来るのを、今か今かと待つ切ない思いを詩にしたのかもしれません。

 今や都会地では、月の出を待っているのを楽しむような、ゆったりとした気持ちのゆとりも失ってしまいましたし、それに叶うような環境も失ってしまいました。確かにビルラッシュの都会では、もう月待ちという風趣の復活を願うことは無理になったようですね。地方の田園地帯の小川の草むらあたりで、月待ちをするしかなくなったように思えます。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その四の三 [趣味・カルチャー]

      第四章「隠れた事情を突き止めるために」(三)


        為政者の課題・「成功は智慧の蓄積である」


 


弘仁十二年(八二一)の出来事です。


嵯峨天皇も即位されてから十二年にもなります。


兎に角様々な困難な問題にも直面いたしましたが、何とか国の安定を図って統治してこられました。


 弘仁八、九年には水害・旱害(かんがい)があって穀物が稔らず、官の倉庫も次第に空尽化してしまったので、公卿は暫くの間五位以上の者の俸禄の四分の一を割き、公用に充てることにしたのですが、十二年のこの頃は五穀もよく稔り、国の支出を支えることが可能でした。俸禄などの数を旧例に戻すべきだと天皇が指示されました。


それに対して公卿たちは、


「臣らが議定して削減した俸禄などを、みな恩旨により旧例に復することになりました。伏して陛下の御膳も同様に常例に復しますことを要望します」(日本後紀)


このように申し出ます。


天皇は九年四月のことですが、俸禄を下げて協力するという公卿の訴えに対して天皇はこうお答えになったことがありました。


「去年は旱魃で秋収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の所為で百姓に何の罪があろうか。今、天の下す罰を畏れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣して、速やかに群神に奉幣しようと思う。朕と后の使用する物品および常の食膳等は削減すべきである。また左右馬寮で消費する資料の穀物もしばらく停止することにする。そこで左右京職(きょうしき)に指示をして、道路上の餓死者を集めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(刑部省・京職)に今回の処置の主旨を述べさせた上で釈放せよ」(日本後紀)


それを取り消して元に戻すということです。その時の情況に合わせて、天皇は実に真摯に向き合って対処していたことが判ります。


その頃のことでした。


為政者・空海・嵯峨天皇


弘仁十二年(八二一)五月二十七日のこと


発生した問題と 


天皇と親交のある空海との関係から、高野山のほうは勅命で国司が面倒を見ていたので、空海は弘仁十一年に東國の布教をしていたのですが、それを終えるとこの年十二年(八二一)五月には、高野山を中心としたその山麓の布教と開拓を考えていたのです。


その広大な計画性や柔軟さで、信頼を得ていきつつあった彼は、やがて出身地である讃岐(さぬき)國の要求に応えて、万一の時に備えるために、灌漑用のため池である満濃(まんのう)池の修復という事業に取りかかるのです。


その行動力、指導性の声望は、これによって一気に広まっていきました。


讃岐國からは工事の指揮に当たっている空海について、政庁に次のようなことを報告して来てきました。


 「出家人も俗人も空海の風貌を敬い、人々は空海の姿を仰ぎみています。空海が留まるところには教えを乞う者が市をなし、出行するとあとを追う者が雲のごとくとなります。今、空海は郷里を離れ、平安京に住んでいますが、百姓は父母のごとく恋い慕っており、空海が来ると聞きますと、履物を逆さにしたまま慌てて迎えるほどです。伏して、空海を満濃池修造事業の別当として起用して完成させることを請願いたします」(日本後紀)


為政者はどう対処したのか


 讃岐の人々は、彼を単に学僧としてではなく、民衆と深いつながりのある菩薩(ぼさつ)として受け止められていたといいます。


彼は派遣されてから、ほぼ三、四か月という短期間に、それまでなかったと思われるアーチ形の堤防の、修築を終えて帰ったというのです。


空海はこうした土木工事のやり方については、唐国において学んできていたのかもしれません。


天皇は空海が唐国でのわずかな滞在期間の内で、かなり先進の知識を得てきているということを知って、学ぶということの大事を痛感しておられました。


こうした逸話を紹介するのには、それなりに理由があります。空海はただ密教という宗教上の活動や、業績だけでなく、まったく違った分野でも活躍をしています。綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)などという庶民のための学校を作ったり、今回紹介した満濃池の修復などのような、まったく畑違いの分野での貢献もかなりあります。


これはどういうことなのかということに着目したいと思うのですが、通常我々は何かに挑戦するとしても、それまでに学んだことか体験したことの蓄積によって、工夫したり、利用されたりしていくことが多いと思うのです。あまり堅苦しいことは言いたくないのですが、やはり幅広い知識を学んで吸収しておくか、社会生活をするうちに様々な方から知識を吸収しておくことは大事なことだということも言えます。


 昔は日常の上でも、芸能界、映像の世界でも、「引き出しの多い人」という言葉が使われていました。つまり様々なことに精通していて、その人に相談すれば、問題を解決するアイデアを次々と出してくれるような人の譬えです。いろいろな引出しから、その時、その場合に応じて、問題解決のアイデアを引き出してくれるからです。


これは前述しましたが、脚本家の作業でもよく言われていました。プロデュウサーから、あるアイデアが面白くないと判断して行き詰った時などに、「それならこんなアイデアはどうか」と、すぐに応じられるアイデアが出せる脚本家には、「引き出しの多い人という評価をしてくれて、大変尊重されることになったものです。


 すべては何らかの手段で学んだことなのですが、現代には、そういう基本的な問題をまったく無視してしまうことが、まるでいいことであるかのような雰囲気になっている若者を見かけます。つまりインターネットの「検索」をタッチすれば、簡単に答えが出て来るからです。しかしそれはあくまでも、独特な発想によるアイディアはなく、ごく一般的に通用するアイデイアに過ぎません。


それではその人の評価が高まるわけにはいかないでしょう。矢張りその人その人の独特な発想があってこその値打ちです。


 いつの時代であっても、どんな時代であっても、基本的に外してしまってはならないものがありますから、学校へ行くことは常識の第一歩というものを教えてらうためなのです。最近はそういった常識を取り払ってしまったことを言ったりやったりすることを、盛んに持ち上げたりしますが、すべての人に通用するわけではありません。


 先ず第一歩は学ぶことです。画期的なものを作り出したり、独創的な世界を切り開くのは、それから後のことではありませんか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 空海は留学僧として唐国へ渡りましたが、二十年という決まりに反してまで師匠の指示に従って帰国してしまい、暫く冷遇されるのですが、師匠の恵果(けいか)からもうあなたに教えるものはないというお墨付きがあって帰国したのです。空海の卓越した才能もありますが、兎に角行動的であったこともあって、各地でさまざまな知識を吸収してきているのです。


あの土木事業としか言えないような満濃池の修復も、その道の熟練者でもない空海がどうしてやり通すことが出来たのでしょうか。それについての回答をしようとしてもそれは不可能です。それだけ彼の各分野での活躍があまりにも多く範囲が広かったということです。結局彼の行った奇跡的な事業の成果は、これまでの知識の蓄積であったというしかありません。


空海は暗黙のうちに、知識の蓄積をしておきなさいと、話しかけているようにしか思えません。


そういった人との出会いをされていらっしゃる天皇は、「良禽択木(りょうきんたくぼく)といって、賢い鳥は木を選んでとまると言いますが、賢い人は仕えるべき主人を選ぶというように、空海のような優秀な人も集まってくるものです。それに倣おうとするならば、先ず「洽覧(こうらん)(しん)(しき)といって、広い範囲で見聞し、博識でなくてはなりません。そして事を論じる時には、「博引旁証(はくいんぼうしょう)といって、その裏付けとなる資料も必要ですし、脇から証拠を固めることも必要です。それをさり気なくやってのけることが出来たら、空海の凄さに迫ることができるでしょう。意外に地味な勉強が、何をするにも役立つということを、改めて知っておいたほうがいいと思います。しかもその知識を有効な時に活かしきるというのは、その人その人の才覚かもしれません。



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