閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の五 [趣味・カルチャー]
第五章「決断の時を誤らないために」(五)
為政者の課題・「旱魃に泣く民のこと」
弘仁九年(八一八)。
嵯峨天皇は即位してから九年が経過しています。
正月を迎えたのですが、年賀に集まって来た臣下に対して、次のようなことを申し渡しました。
「年来、年賀の儀に参列する臣下らは礼法を覚えず、動作を誤る者がいる。これにより威儀を欠くことがあるが、長い間の慣いとなって、改められていない。そこで、毎年十二月になったら担当宮司に指導させて、身のこなしや進退が整い、決まりに従うようにすべきである」(日本後紀)
天候に関しては、為政の力でどうにもなることではありません。雨が降ることを願う祈りを行い、神仏に加護を託するしかないのです。この頃の天皇の苦闘は、近松門左衛門によって「嵯峨天皇甘露雨」という作品で劇化されていますが、水害・旱害がつづいて、百姓たちが少なからず被害を受けています。公卿たちは申し出ます。
「臣下の俸禄を削減して、朝廷の経費の不足に充てることを要望します。穀物が豊稔となりましたら、旧例に復することにしたいと思いますと申告いたします」(日本後紀)
勿論それには天皇も賛成しましたが、政庁はにその運営に腐心している最中でした。そんな時であるからこそ、天皇は気持ちの乱れを引き締めるのです。
為政者・嵯峨天皇
弘仁九年(八一八)正月十五日のこと
発生した問題とは
いつの時代もそうですが、決まりというものは注意していないと乱れていくようです。責任のある地位にいる者はまだしも、そういったことから遠ざかっている者は、ついつい決まりを守ろうという気持が希薄になりがちなものです。
「朝廷における儀式の時の礼や服装、また低位の者が高位の者に合ったときの跪く作法は、男女を論ぜず改定して唐の法に従え。ただし五位以上の者の礼服とすべての朝服の色、および警衛の任に就く者の服は、現行どおりとして、改めてはならない」(日本後紀)
朝廷はその指示に従って、細かな作法を指示したのですが、天皇が改めてこうした厳しい作法についておっしゃるのは、先年起こった宮中での(殺人事件という)不祥事があったからに違いありません。あれは明らかに、宮中での暮らしに緊張感が薄れているからだとお考えになられたからです。年頭に当たって、そうした空気を引き締めるようとなさったのでしよう。
雨が降って欲しいという思いは、神仏に祈るしかありません。
為政者はどんな対処をしたのか
四月に入ったある日、天皇は朝議の時次のようなことをおっしゃいました。
「去年は旱魃で秋朱収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の所為で、百姓に何の罪があろうか。今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに群神に奉幣しようと思う。朕と后の使用する物品および常の食膳などは、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮で消費する資料の穀物もすべてしばらく停止することにする。そこで左右京職に指示して道路上の餓死物を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここでは刑部省、左右京職)に今回の処置の主旨を述べさせた上で釈放せよ。近頃不順な天候がつづき、浮名の二日照りが頭花にもなっている。今月二十六日から二十八日までの三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けようと思う。僧綱も精進して転経を行い、朕の平生の思いに副うようにせよ」(日本後紀)
天皇は直ちに被害の様子を調べに行かせ、その様子に応じて援助をさせたりいたしましたが、そんなところへまた地震も起こるのです。天皇は兎に角山城國の貴船神社、大和国の室生の山上の龍穴などへも、使者を送って、祈雨を行わせたりしたのでした。
相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野などで地震があり、山が崩れて数里もの谷が埋まり、圧死した百姓は数えきれないほどでした。
天皇は使いの者を食へ派遣して、地震の被害を巡視させ、はなはだしい被損者にはものを恵み与えることにしたのですが、思わずこのようなことを呟かれるのです。
「朕は才能がないのに、謹んで皇位につき、民を撫育しようとの気持ちは、わずかの間も忘れたことがない。しかし、徳化は及ばず、政治は盛んにならず、ここに至りはなはだしい咎めの徴が下ろされてしまった。聞くところによると、「上野国等の地域では、自身による災害で、洪水が起こり、人も物も失われている」という。天は広大で、人が語れるものではないが、もとより政治に欠陥があるため、この咎をもたらしたのである。これによる人民の苦悩は朕の責任であり、徳が薄く、厚かましいみずからを点火に恥じる次第である。静かに今回の咎のことを思うと、まことに悲しみ痛む気持ちが起って来る。民が危険な状態にあるとき、君一人を安楽に過ごし、子が嘆いている時、父が何もしないようなことがあろうか。そこで、試写を派遣して、慰問しようと思う。地震や水害により、住居や生業を失った者には、現地の役人と調査した上で、今年の祖・調を免除し、公民・俘囚を問うことなく、正税を財源に恵与え、建物の修復を援助し、飢えと露宿生活を免れるようにせよ。圧死者は速やかに収め葬り、できるだけ慈しみ恵みを垂れる気持ちで接し、朕の人民を思う気持に沿うようにせよ」(日本後紀)
この頃の為政者が、天の戒めとして受け止めて、自らの努力ではどうにもならない天災を凌ごうとしていらっしゃいます。しかし為政者はそのお陰で苦しむ民、百姓の苦難をいくらかでも和らげたいと努めるのですが,国を統治する者が、それだけでにできる限りの救済をすればいいという訳にもいきません。
たとえどのような困難があろうとも、国を治める努力は怠るわけにはいきません。それには天皇が理想とされる世界を、実際に形にして見せなくてはならないのではないかと発言する者がありました。
かつて遣唐大使まで務めたほどの重臣であったのですが、「薬子の変」の時、彼女との関係を疑われて、廷臣から外されていた藤原葛野麻呂です。
このところようやく名誉を回復して為政にかかわるようになっていたのですが、天皇はすでに何年も前から宴を唐風にしつらえさせたりしていることもありましたので、この際町を唐にならって作り上げ、気分を一新しようという提案をしたのです。
天候異変がつづいていて、どこか閉塞感のある気分を一掃したいという気持ちは誰にもありましたから、天皇もそれには大乗り気で、その先頭に立って指示を与え始められました。
平安京はにわかに唐風で彩られるようになりました。
間もなく大内裏(平安宮)の門号は唐風に改められるのですが、帝は自ら大内裏東面の陽明門、待賢門、郁芳門の額を書かれ、南面の美福門、朱雀門、皇嘉門の額は空海が書き、北面の安嘉門、偉鑒門、達智門の額を橘逸勢が書きました。まさに平安時代の三筆といわれる方々が、健筆を揮われたのです。
宮中の寝殿も仁寿殿として、南殿を紫宸殿と呼ぶことになりましたが、衣服も唐風に改めて、町の坊条も唐風の名称にしたのでした。
京の規模は大別して、左京を洛陽城、右京を長安城と呼ぶようにもいたしました。
しかしこの時はとてもこれで民百姓が満足できる状態ではなかったのです。現代の話題としてこれを取り上げる理由は納得して頂けるでしょう。
後進国としては、こうして先人の世界の作り方を学んで、やがて自国の文化によって町も国も作りあげる時がやって来ます。古代においては、中國の政治・文化・芸術の姿は、一つの見本だったことは間違い在りません。・
今は日本も欧米並みの町づくりをしていますが、国民の暮らしというものが、すべて欧米並みになっていつかどうかが問題です。更に浴を言えば、所謂日本らしい生活を生み出せるようになるのか、大問題です。
社会が全体的に沈み込んでいる時には、何か庶民の関心を、他のことに向けて気分の転換を図るのが、組織を率いる者には必要不可欠な資質になるのかもしれません。しかしそれを我々はどう受け止める心構えでいるべきなのでしょうか。
温故知新(up・to・date)でひと言
あくまでもその時の対処の仕方が問題なのだと思います。気構えをしっかりとして努力を積み重ねなくてはならないということでしょう。「両鳳連飛」という言葉があります。努力を忘れずに積み重ねて、やがて目標とした国と並び立つ国になることほど昇華した姿を見せることです。今は大変苦しい生活の状態で、訪ねる者もないという状態を「門前雀羅」というのですが、為政者は努力によって、いつまでも靴を履いたまま足の裏を掻くようなもどかしい状態をいう、「隔靴掻痒」の状態を国民に味わわせない施策というものを考え出して貰いたいものですね。
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