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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その五の六 [趣味・カルチャー]

      第五章「決断の時を誤らないために」(六)


        為政者の課題・「陰謀・密告・承和の変」


承和九年(八四三)、長いこと平安時代の平穏な暮らしを維持することに貢献してきた嵯峨太上天皇も、病床から復帰することが出来ないまま、天命の時を迎えようとしていました。


 太上天皇の最期が迫って来ていた時から、政庁を中心に、いや、その内外を中心に、次の時代へ向かった動きが進められていたのです。


 よく未開発国世界では、為政に対する不満が頂点に対して起こるテロ行為とは一寸違います。あくまでもこれまでの為政に大きな力を発揮してきた人が、政治の世界から去らざるを得なくなるという時が迫った頃から、新たな方向へ向かった為政の指導者を押し立てようという動きが、密かにうごめき始めていたのです。


 それに歩調を合わせるかのように、宮殿の中だけでなく巷にも「物の怪」などという得体のしれないものが現われたりし始めます。


 病床にある嵯峨太上天皇の様子が、まったく芳しくありません。暫く前から太上天皇の最後を予想して、藤原良房を中心とした政庁と、春宮(はるのみや)皇太子の恒貞親王(これさだしんのう)を中心とした人々の間には、実に不気味な動きが生まれていて、いつそれが暴発するかと、近くにいた者たちは不安になっていたのです。


 そんな最中の太上天皇が最後を迎えようとしている時に、祖霊平城天皇の御子である阿保(あぼ)親王が、皇太子たちの動きについて仙洞御所(せんとうごしょ)の嘉智子皇太后に密告してきたのです。


 そんな緊迫した中で、承和九年(八四三)七月十五日。ついに嵯峨太上天皇が崩御されたのです。


すでに太政天皇は生前に遺訓(遺書)を残しておられたことから、葬儀は即日薄葬で済まされ、直ちに仙洞御所の裏山である嵯峨山上に埋葬されました。ところがそれで、すべてが平穏なまま御子である仁明天皇の統治されることになったのかというと、あまりにも大きな存在が亡くなったために、とてもそうはいきませんでした。


すでに暫く前から進行していた政庁とそれに抵抗する若い官人たちの動きが一気に火をふきだしてしまったのです 


為政者・仁明(にんみょう)天皇


承和九年(八四三)七月十五日のこと


発生した問題とは


皇太子を中心とした東宮の者たちは、葬儀を待って皇太子を連れて東国へ向かい、そこで新たな政庁を興そうとしていたのですが、それを密かに企てていた中心人物の、橘逸勢(たちばなのはやなり)伴健岑(とものこわみね)が次々と逮捕されてしまうことになったのです。


政庁は阿保親王の密告を基にして六衛府に宮城門と内裏を守らせると、それと同時に左右京職に平安京内の街衢(がいく)(ちまた)の警護をさせた良房は、山城国の五道を閉鎖して、宇治橋、大原道、大枝道、山崎橋、淀橋を守らせていたのです。


拘束した健岑、逸勢の尋問が、直ちに始められましたが、なかなかその真相がはっきりと致しません。笞杖(ちじょう)(笞と杖)による拷問も行われているようです。


 嵯峨太上天皇の崩御から七日もしたころ、良房の弟、勅使左近衛少将藤原朝臣良相(ふじわらのあそんよしみ)は、近衛兵四十人を率いて、皇太子の直曹(内裏内の控え所)を包囲して武装を解除させると、武器を勅使の前に積み上げて置かせ、皇太子恒貞親王(つねさだしんのう)に従がう者たちを幽閉してしまいました。


すると間もなく良房の叔父に当たる、藤原愛発(ふじわらのあらち)をはじめ、藤原吉野(ふじわらよしの)文室秋津(ぶんやのあきつ)という、淳和太上天皇(じゅんなだじょうてんのう)以来の重臣たちを、次々と呼び出すと八省院へ閉じ込めてしまったのです。実に素早い処理です。


仁明天皇は良房の進言に基づいて詔を発し、首謀者とされた健岑、逸勢を謀反人として断定すると、その責任を皇太子恒貞親王に負わせて、彼を援護してきた愛発の栄職を解いて直ちに京外へ放逐。藤原吉野、文室秋津をそれぞれ太宰員外帥(だざいのいんがいのそち)出雲員外守(いずものいんがいのかみ)に左遷してしまいます。


どうやら良房は同じ藤原一門でありながら、邪魔になる有力な二人を政界から放逐してしまったのです。


間もなく今上は伴健岑、橘逸勢は合力して国家を傾けようと謀ったと述べられて、健岑を隠岐の国へ遠流。逸勢は姓を非人とされて伊豆国へ流されることになりました。


いずれは政庁を支えて行くであろうと期待されていた英邁の士であったのですが、藤原氏から警戒されて弁明も許されないまま、激しい拷問を受けた彼の体は腫れ上がってしまっていて、護送途中の遠江国板築(現浜松市三ヶ日町本坂)辺りで亡くなってしまったといいます。


為政者はどう対処をしたのか


老獪な良房はこうした事件も、自分にとって有利な展開となるように企み、邪魔になると思われる有力氏族の勢いを削ぐことにも利用しました。


その一つの標的であったのが、嘉智子太皇太后の一族である橘氏です。逸勢の処罰をきっかけにして、一気にその勢いを奪ってしまったのです。


内裏に引きこもってしまわれた仁明天皇は、気持ちが優れません。確かな容疑も固まらないまま拷問で痛めつけられた逸勢を、伊豆国へ流罪としてしまったために、旅の途中で亡くなったということを聞いて、彼はやがて怨霊になって襲ってくるのではないかと、怯えるようになってしまったのでした。


改革を夢見て、事を起こした東宮坊の官人六十余も、一度は逃亡したものの自ら出頭してことごとく流刑となってしまい、八月十三日には、宮中に拘束されていた恒貞親王は、四振りの剣を袋に入れて、勅使右近衛少将藤原富士麻呂に託して蔵人所(くろうどところ)へ差し出しました。


今上は直ちに参議朝野鹿取(あさのかとり)を嵯峨山へ遣わして、皇太子が健岑、逸勢が企てた悪しきことに関係していたことが判りましたので、国法に従って皇太子の位から退けることにしましたと、祖霊に対して報告致しました。


廃太子です。


かつて「薬子の変」の結果、皇太子としていた平城上皇の第一子であった高岳親王(たかおかしんのう)父の起こした事件に連座ということで廃太子としなければならなかった苦い経験をしていたことから、嵯峨天皇は在位中にあのような形で皇太子を廃太子とするようなことはしないと決心しておられたのですが、あれから三十数年した今、廃太子となられたのが、何と淳和天皇の御子である恒貞(つねさだ)親王だったのです。


祖霊にとって考えもしない悲劇が襲い掛かってきたのでした。


 少なくとも平安時代の弘仁・天安・承和という三十年もの間特別に大きな騒動もなく平穏な時代にして、民の暮らしの安定を図ってきた天皇が病の床に就かれた時から、政庁の内部から、次の権力者を巡る戦いが始まってしまったのです。


 こんなことは現代でもよくあることで、同じ派閥から起こった政変を経験しています。時には政庁に批判的な勢力によって、政権を奪取したこともありましたが、このところにはどうもそうした動きは見られません。しかしはるか二千年前には政庁の実権者を巡る戦いを、現実の問題として経験しているのです。


しかし現代の日本では、今回の「承和の変」に等しいような事件は起こらないでしょう。


 しかしこの時の死を目の前にした嵯峨太上天皇の心得について、現代を生きる者として感動させられたのは、実に現代的な判断をして、死後の処理について遺言を残していらっしゃったということなのです。


これまでの慣例であったら、平安京を挙げた大きな葬儀になるであろうと思われていた巨星の最期ですが、意外にもその葬儀は薄葬で済まされたことです。


 太上天皇は天命の尽きるのを知って、その葬儀についての思いを、かなり綿密に言葉として残していらっしゃったのです。それを読みますと、これが実に現代的な考えに基づいたものではないかということが理解できます。


 現代でも昨今は遺産相続の手続きを、本人の健在なうちに住ませましょうという呼びかけが熱心に行われていますが、平安時代の太上天皇は、実に克明に遺紹(遺書)を仔細に書き止めさせていらっしゃったのでした。


「私は不徳ながら、長期に渡り皇位をかたじけなくし、朝早くから夜遅くまで恐れ慎み、人民の生活をわたすことを思ってきた。天かは聖人の治める者であり、愚かで微小な者が当たるものではない。そこで私は皇位を懸命な人物に委ね、視線の風致を愛し無位・無号のまま山水を尋ねて散策し、無事ぶじ無為むいのなかで琴や書物を楽しみ、物に捉われない生活をしようと思ったのであった。(中略)そこで太上天皇としての葬儀は行わず、平素の願いを遂げたいと思う。故事にちなんで、送終そうしゅう(使者を送る)とすればよい。は天地の定めで、自然の理である。送終は、人をわずらわすことはないだろう。私は若い頃から病になりやすく、はなはだ薬石の世話になり常に、いつ死ぬかと恐れてきた。これまで口をつぐみ言葉にしてこなかったが、ここで私の思いを述べておこうと思う。およそ人の愛する者は生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることは出来ない。人の死とは精神は亡び、肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地に帰ることになるのである後略)」(続日本後紀)


 いずれその全容をお伝えする機会があると思いますが、


古代の為政者としては、極めて革新的な感性の持ち主であることが判ります。


天皇の諒闇中(りょうあんちゅう)ということもあって、このところ近隣の新羅(しらぎ)国なども朝貢にもやって来なくなってきていた上に、四月には神功皇后(じんぐうこうごう)の山稜から雷鳴のような山鳴りがあって、赤色の気体のようなものがつむじ風のようになって、南へ飛んだという不気味なことが起こったりするのです。そんな時に陸奥国からは、城柵(じょうさく)に籠って警備に当たっている兵士たちの中から、生業に就けないという不満が募って、逃亡する者が増えているということが知らされたりします。


それから間もない八月のことです。


大宰府から連絡が入ってきます。対馬島上県郡竹敷埼の防人らが、


「去る正月中旬から今月六日まで、遥か新羅国の方から鼓声が聞こえ、耳を傾けますと日に三度響いてきます。常に午前十時頃に始まり、それだけでなく黄昏時になると火が見えるというのです。海の向こうで何が行われているのか不安になります。(続日本後紀)


大きな存在を失った後だというのに、国の内外からは不安な話が持ち上がったりします。


温故知新(up・to・date)でひと言


 大きな存在を失った時には、手薄になったところを狙って、様々な勢力がその支配権を広げようとしてきます。


正にこの時にどう対応するのかということは、日ごろから準備していなくてはいけませんね。無関心でいてはいけないということは当然です。昔から「内憂外患(ないゆうがいかん)という言葉があるように、周辺の事情にもよく注意をしていないと、予期せぬ大事件。大変動が起こるかも知れません。まさに「晴天霹靂(せいてんへきれき)というものです。事態の動きによっては「急転直下(きゅうてんちょっか)全ての事情が突然変わってしまって、事のきまりが急に片付いてしまうということもあるのです。自分だけ置いてきぼりにならないようにいたしましょう。



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