☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆言35 [趣味・カルチャー]
「大寒小寒のわらべうた」
昔の「わらべうた」の中にこんなものがありました。
大寒 小寒
山から小僧が泣いて来た
何といって泣いて来た
寒いといって泣いて来た
岩波文庫によると、こんなわらべ歌が歌われてきたのは、山形、福島、茨城、群馬、千葉、東京、静岡、愛知、岐阜、岡山、愛媛だといわれていたといいます。
そんな「わらべうた」の中でも三重、香川では、
山にずっきん(頭巾)おいて来
というのもあるそうです。
これを見ると、これらの「わらべうた」が多くの場合太平洋がわの地方で歌われていたそうで、その理由を調べた結果ある理由が判りました。冬の寒い風はシベリヤやモンゴルの方から、日本海を越えて日本に吹き込んで来るので、そのために日本海側の地方では寒さが海からやってくることになるようなのですが、寒い風は日本列島を縦断する山脈を吹きこえて太平洋側の地方に吹きおろすのですので、そのためにこの地方では寒さが山からやって来るので、この風は乾いているために肌に突き刺さるといいます。
山を越える時に雪を降らせて乾いてしまうからだそうで、その雪が「わらべうた」では「頭巾」と表現されたのだろうということです。
それぞれの地方で、おかれた環境の特徴を反映した季節の現象を、わらべ歌に反映して歌っていたわけで、科学全盛の時代では生まれない「わらべうた」かも知れませんね。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の七 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの思いを知るために」(七
課題「結びの言葉」
長いことお付き合い下さって有難うございました。
未整理のまま読みずらいことも多々あったと思いますが、兎に角四苦八苦しながら最後まで辿り着きました。
古代と現代を、政治・経済・文化を通して何らかの接点があるのではないかという思いがあって、平安時代の中で一番安定した時代であったという評価を得ていた、嵯峨天皇の治世であった年月を選んで、どんな生活をしていたのか、為政者はその時の事象にどう対処してきたのかということを取り上げて、現代との接点の中で評価してみました。兎に角古代と現代を比較するということは、すべてが同じ条件で比較しないと無理だと思っていたのですが、あまり窮屈に考えないで、思い通りにやってみようとして書いてきました。
お互いに厳しい制約の中で仕事をしてきた人々が、そろそろそうした制約された時間から解放された状態になられてきています。そうした自由な時間を獲得されたみなさんと、気楽に雑談をしてみませんかという思いから始めた企画でした。聞くところによりますと、まったく自由に使える時間を獲得したものの、その自由時間の使い方に苦慮していらっしゃる方もかなりあると聴いていますので、是非この企画に参加して頂けたらと思って書いてきました。素材としては大変地味なもの嵯峨天皇現代を斬る その十一の七でしたが、お陰様でブログの中での人気は、かなり予想外の人気を維持してこられました。本当に長いお付き合いをして頂き有難うございました。
今回はまったく創作的なところは極力さけて、その時の現実を取り上げることに専念いたしましたが、次回は創作を原点にしたお話で楽しんで頂こうと考えております。
しかし私も来年は卒寿という高齢に達しますので、ブログの終わり方についても、いろいろと思案しているところです。これからのことはじっくりと考えてみたいと思います。
取り敢えず長いこと「嵯峨天皇現代を斬る」にお付き合い頂いたことに感謝いたします。
有難うございました。
どうぞいい年をお迎えになられますようにお祈りいたします。
藤川桂介
令和五年秋
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑35 [趣味・カルチャー]
「天気予報のはじまり」
最近は気象状況が不安定になっている関係もあって、天気予報の放送を見たり聞いたりする状態が、昔とは大分違った気持ちになっているのではないでしょうか。それと最近大変目立つことといえば、女性の気象予報士が大変多くなったということでしょうか。
そんなことから、特に「天気予報」というものの始まりに興味を持って、あの予報という習慣はいつごろからのものなのか調べて見ることにいたしました。
一寸した気象状況の変化が、時に予想もしない災害を及ぼしてしまうといいことがありますから、大変大事な職業ですが、それだけ天気予報士という職業には期待も寄せられますし、それなりに緊張感もあるのです。そんなことからこの職業を目指す人が多くなっているのではないでしょうか。
そこで「天気予報」というものは、いつごろ始まったのかといったことを調べてみたくなったのですが、どうも6月1日というのが、気象史上にとってはかなり出来事の多い日であったようですね。
1860年の桜田門外の変があった年には、オランダが世界ではじめて暴風警報事業などというものを始めたそうですし、新しいところでは明治八年・・・1875年に東京で気象観測が始められ、それが今日の気象記念日になっているようなのです。更に昭和三十一年の6月1日は中国が大陸の気象資料を公開しました。そして日本で天気予報が最初に発表されたのも、明治17年6月1日が始まりでした。
現在は政治、経済に大いに関係がありますし、日常生活でも天気予報は欠かせないものとなりましたね。
嵯峨天皇現代を斬る その十一の六 [趣味・カルチャー]
第十一章 「落書きの真意を知るために」(六
課題・「皇太子決定を揶揄して」
平安時代になる前までは、かなり皇太子を巡る悲劇が繰り返されてきたのですが、嵯峨天皇が即位した時から、もう皇太子にした者は絶対に悲劇の人にはしないという決心をされたのです。第二章「安穏な暮らしを保つために」「その一」「戦力の不足を知る」で嵯峨天皇が味わった無念な思いについて詳しく書いてありますので、機会を見て是非ご覧ください。
ところが文徳天皇が即位してまもなく、嵯峨天皇の念願の思いは、また覆されてしまったのです。
文徳天皇が皇太子に就けようと熱望していらっしゃった、第一子の惟喬親王を無視して、この年に、右大臣が推す親族の惟仁親王を皇太子にしてしまうことになってしまったのでした。
為政者・文徳天皇
嘉祥三年(八五〇)十一月二十五日のこ
発生した問題とは
嵯峨王朝も次第に力を失い、藤原氏の勢いだけが強くなってきていました。文徳天皇はその第一皇子である惟喬親王を皇太子につけたかったのですが、右大臣にとって政敵であった、紀名虎の娘静子が生んだ子であったことからなかなか承知されません。政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから、民にとっては謎でしかありません。実は文徳天皇にはすでに三人の皇子がいたのですが、そこへ第四皇子として惟仁親王が誕生するのです。実はその母が、実力者藤原良房の娘明子であったのです。そんな事情についてはまったく知らされない民は、文徳天皇が即位して時が経つというのに、政庁で起こっていることについてはまったく知らされないことから民にとっては謎でしかありません。一向に皇太子が立てられないという異常事態が続いていることに異様なものを感じるようになっていたのです。ついにその異常事態を解消しようとした公卿たちから、現代ではとても考えられない苦肉の解決策が打ち出されたのでした。
為政者はどう対処したのか
公卿たちから思いがけない提案が行われたというのは、競馬、相撲で勝負して勝った者の推す者を皇太子とするという、奇想天外な提案だったのです。結局競馬は惟仁親王側が勝ち、相撲の勝負となった時、惟喬親王側の代表として怪力の紀名虎が登場して惟仁親王側を圧倒するのですが、あわや負けになりそうであった時に、惟仁親王側の者が彼らの勝利を祈っていた僧正に危機を知らせます。すると僧正は突然、手に持った独鈷を脳天にぶち当てて砕くと火の中に放り込んで祈るのです。その結果、一気に形成は逆転して、惟仁親王側が勝利してしまうのです。皇太子問題はこの年十一月に、ついに今上の意に反して、右大臣が推す親族の惟仁親王を立てることで決着してしまったのでした。その勝負による決着という話は、あくまでも伝承に過ぎないとしても、その不自然な皇太子の決定は、直ぐに世間に広がって「三超」と揶揄されるのでした。
「大枝を超えて、走り超えて、騰がり躍どり超えて、我が護もる田にや、捜あさり食む志岐や、雄々い志岐や」(日本三代実録)
(大枝・・大兄惟喬親王・・から私が大切にしている田に、勝手に飛び込んだ鴫は思うにまかせて餌をついばんでいる)
つまり更衣の紀静子は文徳天皇に一番愛されていて、惟喬親王、惟条親王、惟彦親王をもうけているのですが、その三人の兄弟を飛び越えて、第四皇子でしかも生後九か月にしかならない幼児を立太子としたというのです。明らかに右大臣藤原良房を揶揄した童謡です。
やがて彼は強引に惟仁親王の立太子を強行しますが、文徳天皇は意欲を失って宮中を離れて暮らすようになり、天安三年(八五八)に三十二歳という若さで崩御してしまいます。
やがて惟仁親王は清和天皇となるのですが、「朝廷は遷都を実のある形にするために、政情の安定を願っていたのですが、それが容易に叶えられないのは、蝦夷での抵抗が激しいために、その討伐、鎮圧にかなりの財を費やさなくてはならないという問題を抱えていたからです。清和天皇はあまりにも幼すぎることから、すべての政務は、藤原良房が摂政太上大臣として取り仕切るようになってしまったのです。
為政の世界の強引な権力闘争ですが、庶民は決してそれを見逃してはいないよという意志表示を、童謡という形で批判したのです。それにしてもあの童謡は、良房の行為を鋭く見つめて、鋭い批判の矢を放っています。しかもその童謡の中では、皇太子になるはずの惟喬親王に対する同情を漂わせながら、権力を思うがままにしている良房を痛烈に批判しているのです。
すべてのことにまだまだ意識が遅れている時代であったころなのに、あの落書きの鋭さは異質です。ひょっとすると政庁に近いものが、良房への批判を籠めて世に流したのかもしれません。しかし落書きといっても、古代と現代のそれには、それに籠められている意識に、あまりにも差があるので愕然としてしまいます。はっきりとした為政に対する意志表示であったのに対して、現代の落書きの意味のない自己中心ぶりに呆れるばかりです。ただの落書きで古代のそれとはあまりにも違い過ぎて言葉を失います。
温故知新(up・to・date)
天皇の第一皇子でありながら、天皇以上の権力を持った藤原氏の「生殺与奪」の横暴な権力のために、皇太子になれなかった惟喬親王はそれから後、風雨にさらされた「櫛風沐雨」という状態で、非情に苦労する苦難の道を過ごすことになるのでした。彼はやがて大原の里へ引っ込み静かに暮らします。
政治に対する批判精神は、まださまざまな点で遅れていた時代であった中では、実に鋭いものの芽生えを感じます。 しかし彼はまさに不自由な身の上で、籠の鳥である「池魚篭鳥」だったのでした。
彼に同情した在原業平は公務の忙しい中を、大原の里まで親王を慰めに行っています。政治の世界にはこうした非情な境遇に出会う親王のような人が、沢山いるような気がいたします。