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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言17 [趣味・カルチャー]

      

「海獣蜃気楼」


 いつも話題で取り上げられるのは、富山湾でおこる現象が蜃気楼というものです。勿論現代の人は科学的な光の屈折で起こる不可思議な現象であるとしか思わないでしょうが、恐らく古代の人々にとっては、神が何かを暗示する怪奇現象だと思って、気持ち悪い思いでいたに違いありません。


ものの本による解説によりますと、蜃気楼の「蜃」というのは、ハマグリのことだそうで、これが気を吐くので、空中に楼閣が現われるのだなどと言われていたようで、ナマズが激しく動くので自信が起るのだという話とつながるような話ですが、私が少年時代にそのナマズが動くのを察知する能力があるというので、防火水槽に雷魚を買っていたことがありましたが、こういった話には様々な尾ひれがつくようで、「蜃」は鮫竜の仲間で大きな角のある蛇のような動物で、これが蛇と雉との混血児だという説もあったのだそうです。


 勿論それ等はほとんど信用できませんが、富山湾の蜃気楼については、冬の話題としてしばしば他の仕舞えてくれます。


 冬の間日本アルプスに積もった雪がはるになって溶け出し、それが流れて富山湾に注ぐので海水温が下がるのですが、そうなると海面すれすれの空気は温度が低くて濃くなります。するとその上を吹く風はそれに比べて温度が高くてうすいので、そこで屈折が起って遠くのものが浮かび上がって見えて来るということになるらしいようです。つまり蜃気楼というのは現代的に説明すると、ただ光が屈折して起こる現象ですということになります。


 あの砂漠に起こる蜃気楼も同じようなことなのだそうですが、古代の人にとっては突然起こる神の啓示ではないのかと思って、よくないことが起るのか、はたまたよいことが起るのかと、普通ではいられなかったのでないでしょうか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る 六の三 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(三)


    為政者の課題・「ものの怪、内裏へ現る」


承和四年(八三七)仁明天皇が統治して四年になろうとしています。


 正月の十六日のことです。恒例によって皇太子を伴って紫宸殿へお出でになられた今上は、踏歌をご覧になられると翌日は豊楽殿で射礼(じゃらい)(六衛府から選ばれた者で行われる宮中の正月の儀式)を観覧されるのですが、その翌日も殿上に設けられた天皇の座の近づこうとした時、突然得体の知れない「ものの怪」が出現したのです。


 天皇は慌てて出席を諦めて大臣を遣わしたりいたしました。それにしてもなぜか仁明天皇が即位してから、ほとんど日常的に物の怪が現れるようになっているのです 


 「君主が安穏に過ごし、人民が和らぎ楽しんで暮らせるようにするには、十一面観世音菩薩の密教に基づく奥深い呪言の力以上のものはない」(続日本後紀)


 平城時代と変わって、怨霊ではなくものの怪などという得体の知れないものが宮中にも表れるという事態です。


 これまでは人間関係の中での複雑な関わり合いから生まれる怨霊というものでしたから、それを除くための手立てもいろいろとあったのですが、このところ盛んに表れる「ものの怪」というものは、何かを暗示しているのでしょうか・・・。


 天皇については、なぜ内裏へ現れるのか、その原因が掴めません。


為政者・仁明天皇



承和四年(八三七)正月十八日のこと


発生した問題とは


神仏の加護にすがるしかありません。為政の運営に困難を極めているところへ、嵯峨太上天皇の時代から気を使ってきていた俘囚(ふしゅう)たちが、時を経るうちに不満が溜まってきているようで、二月には陸奥国から不穏な動きが感じられるという報告が行われてきました。


蝦夷(えみし)との戦いの報告があって、その時に使われる武器が論議されるのですが、彼らは軍馬を使っての戦に優れているので、なかなか制圧できないということが陸奥国から進言してきました。しかし武器庫を調べても全体的に不調だし、その責任者を置くには財源がないという状態でした。


為政者はどう対処したのか


 朝議においては、次のようなことが話し合われていました。


剣戟(けんげき)は交戦の際に役立つ武器であり、弓弩(きゅうど)(大弓)は離れたところから攻撃する際の強力な仕掛けです。このために五兵(弓矢(きゅうし)(しゅ)()()(げき)からなる五種の武器)は適宜用いるものであり、一つとして欠けてはなりません。まして弓馬による戦闘は蝦夷らが生来(なら)いとしているもので、通常の民は十人いても蝦夷一人に適いません。しかし弩による戦いとなれば、多数の蝦夷であっても一弩の飛ばす(やじり)に対抗できないものです。即ちこれが夷狄(いてき)を制圧するたまには最も有力です。ところで、今武器庫の中の弩を調べると、あるものは全体として不調であり、あるものは矢を発する部分が壊れています。また、弩の使用法を学ぶ者がいますが、指導する者がいません。これは事に当たる責任者を置くに必要な財源がないことによります。そこで鎮守府に倣い、弩師(どし)を置くことを要望します」(続日本後紀)


何かすっきりとしない空気が広がっていきます。朝廷にはその始まりのところでつまずいている遣唐使問題もありますから、何とかそれを解決しなければなりません。遣唐大使常嗣と副使篁に再び節刀を与えて、それぞれ日を置いて大宰府へ向かわせました。ところがそれから間もなくのことです。四月になると陸奥国から玉造塞(たまつくりのさい)温泉石神(ゆのいしがみ)が雷のような響きを上げて振動して昼夜止まらず、温泉の湯が川に流れ込んで(おもゆ)のような色になっているというようなことが報告されてきたのです。それだけではありません。山が噴火して谷は(ふさ)がり、岩石は崩壊して更には新しく沼が出現して雷鳴のような音と共に沸き立っているというような、不思議な現象が数えきれないほど起こっているというのです。しかもそうした人心の不安を背景にして、俘囚たちが不気味に動き出していると按察使(行政官を観察する官)の坂上大宿祢浄野(さかのうえおおすくねきよしの)が至急便で報告してくるのです。


「去年の春から今年の春にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住人は逃亡する事態になっています。栗原、桃生(ものう)以北の俘囚は武力に優れた者が多く、朝廷に服従したように見えながら、反抗を繰り返しています」(続日本後紀)


 兵を増員したり、待遇を改善して欲しと訴えてきます。朝廷は直ちにそれに応えながら、威厳と恩恵を併せてそれを施すように指示するのですが、天帝が為政者の心構えを(いさ)めようとされるのか、六月のある日のこと、内裏の目の前に天の架け橋といわれる虹が、六つもかかるという不可思議な現象を起こしたりするのです。


 今度は十月になると霖雨(長雨)のために、穀物の価が跳ね上がってその手当もしなくてはなりません。それから間もなくのことです。天帝の咎めなのでしょうか、日の出から激しく風が吹き荒れ、京中の家々が損壊してしまうという災害に見舞われてしまったりするのです。時代の空気が怪しげなものを呼び込んでしまうのでしょうか。廷臣たちは天候異変ということが引き起こす現実的な問題の処理に腐心するのが精一杯で、時の流れの背後にある問題などについては、まったく考える余裕はありませんでした。しかしこんなことは現代でもあり得ることです。本人の心理状態にある緊迫したものがあると、予期せぬようなものを見てしまったりします。


 天皇には国内の落ち着かない雰囲気を治めることばかりでなく、前年あたりから接触して来る新羅国のことが気になっていました。遣唐使船を送り出す時に、海難事故に遭うことが多かったことから、新羅国へ使者を送って、仮に遭難した結果新羅国へ漂着することがあった時のことを、頼むために遣新羅国使(けんしらぎこくし)紀三津(きのみつ)送ったりしたのですが、彼は自らの失敗で使者としての任務を果たせず、新羅の不当な脅しを受けて帰国したのですが、その後のことが気になり始めました


 新羅国から婉曲に紀三津という者は信用できないという文書が送られてきたのです。その簡単な説明文につけて、新羅国の立場を説明した抗議文が届けられました。


 「三津は新羅へ到着すると、朝廷から託された使命を放棄して、もっぱら友好を目的として訪問したといったのである。恐れ怯えて媚び、自分に都合のよい発言をしたらしい。新羅執事者は太政官牒(だいじょうかんちょう)の趣旨と異なることを疑い、再三にわたり訪問したが、三津はますます困惑し、説明できなくなってしまった。これは三津に見識がなく、また弁舌が下手だったことによる。この故に執事者の太政官宛て牒では「新羅・日本国はお互いに通じ合い、偽り欺くようなことは少しも行なわないものです。使人三津はその任に相応しくない人物で、頼むに足りません」といっている。ただし執事者牒では「小野篁の乗船した船は、遠く唐に向けて出帆しており、必ずしも三津を重ねて唐へ派遣するのではないと言っています」とも述べている。へ派遣する施設には大使がおり、篁は副使でしかない。どうして大使の名を出さず、その下の者の名を出したのか。それだけでなく、その時、篁は日本にいて渡海は以前であり、「遠く唐に向けて出帆している」というのは、いずれも海路をとり航行する商人らの流言を聞いて、でたらめを言ったに過ぎない。「首枷(くびかせ)(にな)いて耳を破る」(易経・罪重くしかも改めようともしないで重罰を蒙る者のこと)というのは、思うにこのようなことであろう。また、三津は一介の六位に過ぎず、小舟に乗ったこのような者がどうして入唐使に擬せられようか。このような三津の発言は、ないことをあったようにいう偽論に近い。今回のことについて、大略を記すのみで事の推移を詳述しておかないと、後代の人は事情が判らなくなるので、執事省牒を全文写し附載しておく」(続日本後紀)


 このような前置きをした上で、新羅国執事者が日本国太政官の通牒してきたのです。


 「紀三津が朝廷の使人を詐称し、併せて贈物を(もたら)してきました。しかし、太政官牒を調査するに及んで、実の使人でないことが判明しましたので、通知いたします。三津らが提出した書状に当りますと、朝廷の命を受けて、もっぱら友好のためにやって来たとありますものの、太政官牒の入った函を開け牒を閲読しますと、大唐国へ派遣する使節の船が、新羅の領域へ漂着したら、救助して遅滞なく送還して欲しいとありました。我が方では再度勅使を出して丁寧に尋問しましたが、三津の言うことと太政官牒の内容とが一致せず、虚実を判断できない事態となりました。(後略)」(続日本後紀)


 近隣の国との接触にも神経を使わなくてはなりませんでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 そんな経験をしたことがありませんか。怨霊にしても物の怪にしても、その時の自分の置かれている状況と無縁ではありません。「意路不倒(いろふとう)といって、人間の思慮分別では理解できない不可思議なことと出合ったり、体験したりします。まさに「妖異幻怪(よういげんかい)というものです。この世の物とは思われない怪しい物や、尋常の能力では計り知れない不思議なことで、SF作品に登場しそうですが、物の怪などというものが現れることは、「探卵之患(たんらんのかん)といって、自分の拠り所を襲われたり、自分の内に秘めて居るようなものを見抜かれるのではないかという不安に駆りたてられるものです。そんな時にどう判断できるかによって、道筋を誤まらなかったり、とんでもない判断ミスをして困難と葛藤しなくてはならなくなるという、瀬戸際に立つことになってしまうかになってしまいます。果たしてどんなことに出合っても冷静でいられるでしょうか。



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