SSブログ

閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の五 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(五)

    為政者の課題・「ものの怪、またまた内裏へ」

 承和七年(八四〇)仁明天皇(にんみょうてんのう)の治世になってから、もうかなりの年月を経てきていますが、お気の毒に一生懸命勤めてはいるのですが、世の中の空気は一向に良くなりません。

すでに第六章「運気の悪戯だと思うために」「その三の三」「ものの怪、内裏へ現る」の閑談で触れましたが、またまた同じような不可解なものの登場と戦わなくてはならないようです。父嵯峨太政天皇が健在であれば、何らかの考え方を示してくれるかも知れないと思う公卿も多かったでしょう。

 兎に角平安時代では、神仏に対する信仰によって、その霊威によって危機をかわすことが唯一の手立てであったのです。

 政庁は年明けの二月に、六衛府に対して特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。

勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、天皇には世相の乱れが気になっている最中のことでした。

「朕は人民を治める方法に暗く、人民を豊かにし教化をすすめる点に掛けるところがあり、政治は人民に安楽を齎+さず、十分な貯えを有するに至っていない。これまで日照りの害で秋稼(しゅうか)が稔らず、賑給(物を恵み与える)が広く行き渡っていないので、服御の費えを減らし、公卿らも食事の削減を志、適切な臨機応変のしょちを取り、封禄の一部を差し出し、公の費用を助勢することになった。これは疲弊状態を救い、国家を交流させるための時宜に応じた方策である。朕は公卿らの我が身を顧みない誠に応じしているが、なお、人民を豊かにできない恥の思いを抱いている。いま、時は秋で穀物はすこぶる豊熟となっている。国用を支えることができると判ってきたので、削減した封禄をすべて旧に復するのがよいと思う。司の者は子のことをよく理解し、朕の思いにそうようにせよ」(続日本後紀)

 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を創作して、身柄を捕えかつすすめ、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)

 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。

 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)

為政者・仁明天皇

承和七年(八四〇)六月五日のこと

発生した問題とは

そんなある日のこと、散位従五位上文室朝臣宮田麻(ふんやのみやたまろ)の従者陽候氏雄(やこのうじお)が、宮田朝麻呂が謀反を起こそうとしていると訴えてきたので、内豎(ないじゅ)を遣わして宮田麻呂を召喚した。すると宮田麻呂は使人と一緒に蔵人所(くろうどところ)へやって来たので、左衛門府に禁獄しました。

勅使左中弁(さちゅうべん)正五位下、長岑(ながみね)朝臣木連(いたび)・右中弁五位下伴宿祢成益(とものすくねなります)・少納言従五位下清滝朝臣河根(きよたきあそんかわね)左兵衛大尉(さひょうえのだいじよう)藤原朝臣直道らを京および難波の宅へ派遣して、謀反に関わる武具を捜索した。

 その日は宮城の諸門を閉鎖しました。

 訴え出た陽候氏雄を左近衛府に収監した。(罪ありと訴え出た者は誣告罪(ぶこくざい)の容疑者扱いとなる)

勅使らは宮田麻呂の京宅を捜索して、かなり沢山いろいろな沢山の武具を得、難波の宅の捜索で、更に兜二枚・壊れた甲二領・剣八口・弓十二張・やなぐい十具・鉾三柄からなる兵器を得、右近衛陣に棄て置いた。

 参議滋野朝臣貞主(しげのあそんさだぬし)左衛門佐藤原朝臣丘雄(さえもんのすけふじわあそんおかお)を遣わして、文屋宮田麻呂を尋問した。

 やがて謀反人文屋宮田麻呂の罪は斬刑に当るが、一等降ろして伊豆国に配流と下。その男二人のうち内舎人忠基は佐渡国へ流し、無官の安恒は土佐国へ流すことにした。従者二人のうち和邇部福長(わにべのふくなが)は越後国へ、井於枚麻呂(いのえのひらまろ)は出雲国へ流すことにし、連座した従者神叡(じんえい)枚麻呂と同所へ流すことにした。

訴え出た陽候氏雄は特別に大初位(だいそい)下を授け、筑前権少目(ちくぜんのごんのしょうさかん)に任じた。その告言(こくげん)により、犯罪の一端が明らかになったからである。

  為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのような事件は運よく未然に処理できたのでした。しかし為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが、またまた現れるようになったのです。

 平城京時代ではよく表れたのがはっきりとした相手に対する怨念を秘めて現れたのですが、今は何が原因となっているのか得体の知れない「ものの怪」などという妖怪が登場してきます。それが激しく話題になってきたのは、まさに仁明天皇の時代だったように思われます。

時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。

それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。

 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりするのです。

 それに対して天皇は次のように答えた。

「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒めであり、将軍が驕り、兵が怠けるようなことは軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくても、つつしむべきことである」(続日本後紀)

奥地の民がみな庚申待ち(庚申の夜、寝ないで徹夜する習俗)だと言って、みだりに出回るのを制止することが出来ないというのです。前はこのような行為は懲粛してきたのですが、国の力なくしては、こうした民の騒動を抑えることはできません。そこで援兵を動員して事態に備えるべきです。その食料には陸奥国の穀を充てたいと思います。但し、上奏への返報を待っていますと、時期を失う恐れがありますので、上奏する一方で動員致しますとあったのでそれを許可し、よく荒ぶれた民を制止し、併せて威と徳をもって臨むべきであると指示をしたのでした。

 得体の知れない物の怪などが現れることは、あくまでも為政者に対する神々による罰の暗示であると考える天皇は、更にこんな指示をいたします。

「神は居ますが如く祀り、民には自分のこの如く対処するのが、国司のとるべき古今の法則である。この故に従前、しばしば法令を出してきた。しかし国司の治政をみると、役人は公平ではなく民は疫病に苦しみ、穀物は稔らず、飢饉がしきりに発生している。政治のあり方として懲らしめ糺す必要がある。何につけ怠るのは人情であるから、五畿内・七道諸国に命じて、これまでの怠慢を改め、今後はしっかり勤務するように仕向け、部内を巡行して神社を修造するようにすべきである。禰宜(ねぎ)(あふり)らが怠務すれば、前格に従い職を解き処罰せよ。年間の神社修造数は書類にして申告せよ。三年の内に使いを遣わして調査し、神社が壊れているようであえば、国司・郡司は違勅罪に処すなどと指示します(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

遣唐使船の第二船が帰国の途中で航海中に逆風に遭って、治安の不安な南海の土地へ漂着して戦うことになった時敵は数が多く私たちは少なく、敵よりははなはだ弱体でしたが、運よく克てましたのは大神の御助けによると思われましたというのですが、今落ち着いて考えると、去年出羽国が報告してきた、大神が十日間戦う音を聞いたあと、兵器の形をした隕石が降ってきたというのと、遣唐使たちが南海の賊地で戦っていた日時とがまさに一致しているというのです。大神の神威が遠く南海まで及びましたことに驚き、かつ喜び、従四位の爵位を授け、二戸の神封を充て奉りますと申し上げよと申し上げます。捕獲した兵器を帰国後献上したのだが、それは我が国のものとは違うものであったと衝撃的な話が付け加えられました。

 こんなことは形が違っても、決して現代とは関係がないといって、一蹴してしまうことはできないのではないでしょうか。古代では天皇をはじめ為政に関わる者にとって、極めて不安な不気味な存在でしたが、現代社会においては誰もそんなものが登場したということはいいませんが、実際はその後まったく見せない物の怪よりも不気味なものが、(うごめ)いているかもしれません。

温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では神仏の存在ということについての思い込みは、とても古代の人とはその思い込みに差がありますが、それでも祖霊嵯峨天皇は、極めて覚めた視点でそうした得体の知れないものを見ようとしていました。祖霊は「局天蹐地(きょくてんせきち)といって、恐れてびくびくすることはないとおっしゃいました。一つの月を見るにしても、「一月三舟(いちげつさんしゅう)といって、三隻の舟から眺めるとそれぞれ異なって見えるように、人によって異なった受け取り方をするというたとえ通りで、兎に角奇奇怪怪(ききかいかい)なものが登場しても、仰天不愧(ぎょうてんふき)というもので、心の中にやましいところがなければ、天に対しても少しも恥じるところはないのです。みな胸を張って自信を持って生きていきましょう。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。