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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の五 [趣味・カルチャー]

   第八章「人間関係をうまくやるために」(五)

    為政者の課題・「管理のあり方を考える」

一つのことを徹底させるためには、それに関わることについては、徹底的に気配りをしていなければ、一方では成果を挙げても、一方では危い面が出てきてしまうのではありませんか。

 かなり前から親交のある、朝鮮半島北部の渤海(ぼっかい)國はもちろんのこと、異国からの来訪者も、次第に多くなってきていたのですが、その宿泊、接待などに使われていた東西に作られている鴻臚館(こうろかん)(筑紫、平安京に設けられた外交使節の宿泊施設)が、昨今は病人が寝泊まりしたり、喪に服している者が謹慎生活をするための場として使ったりしているというのです。そのような勝手な使われ方をしていては、いつの間にか建物や垣根を壊したり、庭を汚したりすることを、きちんと管理できないことは明らかです。帝は京の中の取り締まりをしたり、官人の綱紀粛清に努めている弾正台(だんじょうだい)(京内の官人の綱紀粛正を司る)や、京の行政、訴訟などを取り扱う、左右の京職(京の行政、訴訟、租税、交通の事務を行う)に取り締まるように命じたりもされました。迎賓館の整備と同時に、しっかり警備せよと指示したことは大事なことです。公共施設も管理が杜撰(ずさん)だと荒れてしまうはずです。

嵯峨天皇は施設の管理を指示すると同時に、それに使う馬についても考えました。この頃馬に関しては軍用としても大変重要なもので、管理ということを徹底させるためにも警備に使う馬も不足してしまっては意味がなくなってしまうし、備えるといっても馬の整備ができていなければ、目的を果たすことができません。

 軍では馬が重要だが、今聞くところによると、「権門貴族や富豪の者たちが辺境に使いを遣わして、夷狄(いてき)から馬を求め、そのため辺境では騒動が持ち上がり、兵馬が不足している」という。延暦六年(七八七)でも陸奥・出羽国での馬を買い入れは禁止しているが、それを守らなくてはならないと考えられ、違反する者は厳しく取り締まり、買った馬は没収としました。こんな指示を出されたのです。一つのことを徹底させるためには、それに関わることにも気配りをして指示をしなければ、一方では成果を挙げても一方では危い面が出てきてしまいます。このようなことは現代にも起こりそうで、注意を要するのではないでしょうか。

為政者・嵯峨天皇

弘仁六年(八一五)六月二十七日のこと

発生した問題とは

 春になると嵯峨天皇は、神泉苑で花宴を催して文人たちに詩を作らせて楽しんでおられましたが、そんな中でさまざまな情報も手に入れていらっしゃいました。

やがて天皇は四月に祖霊との邂逅を求めるために、気になっていらっしゃった近江國の韓埼(からさき)へ、皇太弟の大伴親王と共に行幸されました。

その時崇福寺(そうふくじ)の門前へさしかかると、大僧都永忠(ようちゅう)や護命法師たちが、僧を率いて門外においてお迎えいたしました。帝も輿(こし)を降りられて金堂に上がられ、仏に敬礼(きょらい)されると、その後、永忠大僧都の案内で、祖霊桓武天皇が天智天皇を追慕して長岡京時代に建立されたという梵釈寺へ向かわれたのです。天皇はそこでも輿を降りられ、眼前に広がる琵琶湖の眺望を楽しまれ詩を作られましたが、それを皇太弟と多くの群臣たちが唱和いたしました。文人でもある帝にとって、最も満足できる瞬間であったかもしれません。やがて帝は琵琶湖へ船を浮かべられ、国司が用意したその土地の歌舞をお楽しみになられました。やがてそんな天皇に永忠は、唐国で留学中に学んだと思われる、茶を点じて給仕されたといいます。それはそのころの最も新しい文化であった、唐風のおもてなしであったはずです。祖霊との絆もつなぎとめられた天皇は、清新な気分で京へ戻られると、近江で大変気に入られた茶を作るように、畿内と近江、丹波、播磨などに指示をなさって、毎年献上するように命じられたのでした。ここでいう茶というのは団茶(だんちゃ)といわれるもので、茶をボール状にまとめたものに湯を通して使ったと思われるものです。

国の財政がひっ迫してしまっているのを知った天皇は、自らの子供が多く、皇族たちを養育するためにかなりぼうだいな経費を要するということも、財政を苦しくさせている原因の一つであることを知って、前代未聞の臣籍降下という思いきった決断を行われたのですが、それは口先だけの、思いつきで済ませるような、いい加減な決心を述べられた決心ではありませんでした。

為政者はどう対処したのか

 天皇は六月になると臣籍降下させた、はじめの皇子、内親王たち八人を、右京から左京に移しましたのです。町の人と接しながら、生きていけということだったのでしょう。

 天皇は各地からやって来る訴えに応えていきます。

 「畿内・近江・丹波等の諸国年来旱害が頻発し、稼苗が損害を被っている。他方、国司は漫然として何もせず、百姓の被害が大きくなっている。中国では孝婦が無実の罪で、処刑されたあと旱魃に悩まされ、能吏百里崇が旱天の徐州

の刺史になると、甘雨(良き雨)が降ったと伝えられている。これにより、禍福は必ず国司によることが判る。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、狎れ汚すことのないようにせよ。もし、効果がないときは言上せよ。もし、効果がないときは言上せよ。以上を恒例とせよ」(日本後紀)

 するとそれから間もなく、右大臣藤原園人が、先祖のことについて政庁に訴えてきました。

 「私たちの高祖である大織冠(だいしょくかん)内大臣藤原鎌子(ふじわらかまこ)(鎌足)は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代に天下を統一して(ただ)し治めた功績により、封一万五千戸を賜り、嗣子(しし)正一位太上大臣不比等(ふひと)などは父を継承して大臣を排出する家風を立て、これにより慶雲四年に勅により封五千戸を賜りました。不比等(ふひと)大臣が固辞しましたため、天皇はその願を許し、二千戸に減定して、子孫に伝えることになりました。天平神護元年に従一位右大臣豊成(とよなり)が上表して返還しましたが、宝亀元年に勅により返賜され大同三年に正三位守右大臣内麻呂(うちまろ)が上奏して返還を申しましたが、許しを得られませんでした。伏して格別の封戸支給の理由考えますと、先祖の功労によると思いますが、いま私たちは陛下のますますの寵愛を受けながら、僅かな功績もなく、御恩を(こうむ)りながら深い山中に姿を隠すように責務を果たしていません。それなのに重ねて格別の恩寵(おんちょう)を貪り、久しく年月を経て、転地に俯仰(ふぎょう)して恥じ恐れるばかりです。これでは満ちれば欠けるという天の戒めに背き、必ずや大臣としての任に堪え得ないことになりましょう。伏して、伝えられてきた功封を返還してわずかでも国の経費を補い、少しでも職責を果たさず禄を貪るという事態をなくすことを請願致します。よく考慮され、私たちの心からの願いを許して下さい。これにより私たち一門の幸いが永続し、世の批判も止むことでしょう。真心に迫られるままに、謹んで表を奉呈してお願いいたします」(日本後紀)

 嵯峨天皇はそれを許しませんでした。

 現在は、とてもそれを許す余裕はまったくありません。

 天皇には実に様々な問題を処理していかなくてはなりません。そのために一つのことを徹底させるためには、一方のほうで不都合が起こってしまうということもあるようです。如何に天皇も真剣である限り、こういうことも起こることがあるでしょう。組織の頂点にある者は、様々なことに関わって処理しなくてはなりません。それは現代でも同じと言っていいでしょうし、現代は更にこれ以上の問題を処理しなくてはなりません。鴻臚館のことについても、現代ではあちこちにインフラといわれる公共工事で無駄なものを作ってしまって、ほとんど使われないという状態で放置されていたものがかなりありました。

 兎に角指揮を執る者は、それなりに毀誉褒貶(きよほうへん)が問われることを覚悟で問題の処理をしていかなくてはなりません。一方ではいいが、一方では困った状態になっていることもあります。よく廃屋となった建物を新たに再生しようとは思っていても、予算の関係で放置しているうちに、いつの間にか犯罪の巣窟になっているといったことが報道されるようなことが起ったりもいたします。

温故知新(up・to・date)でひと言

 そんなところを利用して困った人を助けようとする企画があっても、そこが悪用されてしまったら、「浮石沈木(ふせきちんぼく)というものです。善悪が転倒して物事が逆さまになるということです。「家之狗(そうかのいぬ)といって、見る影もなく元気をなくして痩せ衰えている人のような者は、救ってやらなければなりません。「窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)困窮して頼ってくる者があれば、どんな理由があっても助けてやろうという気持ちは大事にしなくてはならないのではないでしょうか。

 忙しさにかこつけて、手落ちがあまり多くならないようにしなければなりませんね。


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