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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑26 [趣味・カルチャー]

「むかしの鶏」

 最近聞えなくなったものの一つは、何といっても代表は犬の遠吠えでしょう。昔は夜などに、町のあちこちから犬の遠吠えが聞こえていたものですが最近はほとんど聞かなくなってしまいました。犬がそれぞれ交信する機会であったのではないかと思うのですが、夜になってあっちこっちから犬に吠えられては、うるさくてたまらないという人が出てきてもおかしくはありません。そんな訴えでも多くなったのがきっかけになったのかもしれませんが、最近は静かな夜を過ごしているのですが、考えてみると昔よく聞いたもので最近聞かない声問えば、鶏の声です。夜明けと共に結構町のあちこちから、コケコッコーという声が聞こえた者でした。最近は都会地の一般の住宅で鶏を飼うという人はいない所為か、ほとんど聞いたことがありません。

 これは雑談になるのですが、昔はコケコッコーと子越えていたはずなのですが、本によってはカカカッカーと鳴いていたというのです。

 カケが鶏のことだというのです。「庭つ鳥かけは鳴く」などと言っていたというのです。

庭で飼う鳥として、もともとカケと呼ばれていたのが鶏であったというおはなしです。一頃からか庭つ鳥が濁って、鶏となったということです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その九の一 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(一)


        課題「生き方の違いを理解せよ」


 嵯峨天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。これまで戦いを行いながら、蝦夷の人間の生き方を理解しようという心境に達していたのでした。そして・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁七年(八一六)八月一日のこと


発生した問題とは


 夏のある日のこと、皇太弟の大伴親王と共に、皇后のいらっしゃる後宮で宴が催されると、親王に宝琴を下賜なさり、彼にそれを演奏させたりして皇后と共に楽しまれました。こんなことを催して、後宮と皇太子とを近づかせようとされたのでしょう。こうして身近なところでは、気遣いも充分に発揮できるのですが、民との接点を円滑に作り出すのは大変困難です。地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 俘囚よりもむしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。帝は彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように、指示をしていらっしゃったのです。


 嵯峨天皇が治政を率いるようになってから、もう七年にもなります。大分為政についても落ち着きを持って運営していらっしゃるのですが、政庁を悩ませてきた蝦夷(えみし)俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として連れて来て、各国の民と共に暮らせるようにすることはできないかと、いろいろな面で廷臣たちと腐心していらっしゃいました。伊勢神宮司の大中臣朝臣清持(おおなかとみあそんきよしじ)という者が、規則を守らずに仏事を行ったという問題が取り上げられ、神祇官(じんぎかん)卜占(ぼくせん)したところ、そのようなことをすると祟りを招くというのです。天皇は直ちに大祓いをするように命じて彼を解任したりしました 


為政者はどう対処したのか


さまざまな方面に細心の注意を払っていらっしゃるのですが、地方・・・特に陸奥のあたりでは、依然として小競り合いが頻繁に起こっているという知らせが入ってきます。帝はそういう知らせを無視するようなことはいたしません。かつて朝廷は京の建設と同時に、蝦夷との戦いにかなりの力を注がなくてはなりませんでしたが、今は大軍を投じて戦うようなことは、ほとんどなくなってきています。それでも陸奥のあちこちでは小競り合いが起こるようなのです。その争いの最中に捕らわれ、やがて朝廷の支配下に入れられて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、農民として暮らすようになった者)として諸国に送られた蝦夷は、その土地の者たちと同化するように仕向けていたのですが、その試みは思うほど成果を上げているとはいえません。まだ一般農民としての同化が浅い状態の者を、夷俘(いふ)と呼んで区別しているのですが、もともと感性は違うし生活習慣も違うところから、その土地の者と簡単に同化できないのは当然です。帝はそうしたことについても関心を寄せていらっしゃって、


 「夷俘の性格は、これまでの民と異なり、朝廷に従うようになっても、なお野性の心性を残しているので、諸国に指示して指導してきた。今、因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国の俘囚らが、勝手に入京して、小事について、いきなり手続を経ずに、上級の役所へ訴えてきたりしている。これは国司が俘囚を慈しむ方法を誤り、道理に合わない処断をしたことによるのだ。今後はそうした手順を無視して、越訴(おっそ)(段階を踏まずに上級官庁へ訴える)する者がいたら、俘囚担当の国司を実情に応じて処罰せよ」(日本後紀)


 天皇は俘囚よりも、むしろそれを監督する者に対して注意をするほどでした。彼らの生活習慣がこれまでの一般の民とは違うということを知った上で、少しでも早く同化して同じ法律の中で暮らすように指示をしていらっしゃったのです。


民の中で抵抗民族であった蝦夷がいるが、朝廷に従がった以上民と差別をしてはいけないと諭すのです。


嵯峨天皇の博識による先見性による指摘です。つまり相手を理解せよというのです。こんな問題はまさに現代的な問題でしょう。気の抜けない問題が山積です。


さまざまことに気遣いをなさる帝は、それだけ目に見えない疲労が蓄積してしまわれるのでしょう。その処理のために疲れて、とうとう病臥してしまわれたのでした。しかし天皇の蝦夷の対する意識は明確になってきています。蝦夷との共存をするために、その生き方を理解しようという心境に達していたのです。正に異民族との共存ということでは、まさに現代的な問題提起に、なっているのではないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 確かに人にはそれぞれ違った暮らしのスタイルがあります。まして今回の問題のような違った文化をもった民族の場合は、その暮らし向きについての理解をするということは、容易なことではありません。しかしそれだからと言って、お互いの無理解をそのままにしてしまっていては、永遠に対立は解けないでしょう。先ずはそれぞれの生活の情報を手に入れておいて欲しいということが大事ですが、先ずはマジョリテイ側のマイノリテイに対する度量が必要です。広く包容力が求められるような気がします。清濁(せいだく)併呑(へいどん)といって、すべてを飲み込んで向かい合う、気持ちの広さが必要です。しかし古来磨斧作新(まふさくしん)という言葉があり\ますが、どんなに難しいことでも、忍耐強く努力すれば必ず成功するということが云われます。人間生来の善意でもって、打算抜きの安らかな気持ちが無くてはなりません。そして生知安行(せいちあんこう)という言葉を思い出しましょう。人間生来の善意でもって、打算抜きのやすらかな気持ちで行うことで、困難な問題も解決の道が開かれます。



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