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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑24 [趣味・カルチャー]

                     「板についた」

 今回は板についたとは言っても、蒲鉾のことではありません。

 さまざまな仕事の世界でよく使われることばですが、特に演劇の世界ではよく耳にする言葉です。

 その世界に入って、長年研鑽を積んだ結果、1人前になったねという褒め言葉としてよく使われます。

「あいつもようやく板についたようだね」

 つい蒲鉾を連想してしまいがちですが、本来はこの場合に使われているのは「舞台」のことです。

 それを演劇の世界では舞台を「板」という慣例があることから、若手の俳優などが長年の修行の甲斐があって、演題の中でもいい役を無難にこなす様子を見て、「あいつもすっかりいたにちったね」などといって、芝居の中で違和感がなく演じられている姿を見た人がいう言葉です。

 それに対して「いや私はまだまだ蒲鉾役者ですよ」などと謙遜した言葉を受かったりするものから、青野とは蒲鉾から出た言葉と勘違いする人がおいのだと思います。

 これはやがて一般的な日常の中でも使われるようになって、結婚したばかりで手伝いにでた奥さんも、当座は物慣れなくて魚屋の雰囲気にはなっていなかったのだが、数年もするとすっかり威勢のいい魚屋の奥さんとして働いている)姿を見て、

 「あそこの魚屋の女将もすっかりいたについたね」

 お得意さんたちからそんな言葉が飛び出すほどになったりします。

そうだ国会でも何度も大臣の経験を積んでいくうちには、

「最近は質問されても、すっかり答弁も板についてきたね」

などといわれるような人もいますね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の三 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えをするために」(三)


        為政者の課題・「貧すれば鈍する」


今回は四字熟語のお話をするわけではありません。


良く日常の中でかわされる人生訓とでもいう言葉で、どんな事情があったにしても、暮らしのレベルが通常のレベルを越えて低下してしまうと、いつか品性を疑ってしまうような言動を発してしまうことがあるということです。


現代の人々にとっては、品性とか、品格なということはまったく無関心化も知れませんが、私には決して無視できないことのように思えます。


 それは後で触れることにして、取り敢えず弘仁十年(八一九)の年明けを迎えたという時代です。


為政者は嵯峨天皇です。


思い出すだけでも身震いさせてしまう朝廷の中での殺人事件があったり、疫病の襲撃で死者が増え、生活困窮のためにその始末が出来ないで路上に放置するということが行われていた先年の極めて困難困難な時代の中で、天皇は僧侶の空海が勧める写経を行うことにしたのです。


天皇は持仏堂に籠って写経を始められました。


金粉を使って、一字、一字を慎重に、丁寧に心経を写していかれたのです。


伝え聞くところによれば、一字書く度に三拝するという敬虔な姿勢で、二六二文字を書いていかれ、皇后はその端に薬師三尊を描き、それを空海に供養させました。まさに国難というべき事態を、帝の必死な思いと、空海の修業の力によって、乗り越えていこうとされたのです。


(その時の様子について、「古今著聞集」には、「時の御経、彼御記、嵯峨大覚寺にいまだありなん」と書き留められています)


天皇は三日間持仏堂に参籠されて、食事は素食に徹して、衣服も粗末なものになさって、もっぱら精進して仁王経を転読されたといいます。


ようやく切羽詰った状態から抜け出された天皇は、九月には、疫病の除去を祈願するために伊勢神宮に奉幣しましたが、日照りによる旱魃、地震、洪水による疫病の広がりを、天の下した罰であると受け止められ、ただひたすらに自らの不徳を責めていらっしゃいました。


余談になりますが、この時の天皇の思いを共にするために、六十年に一度巡って来る(つちのえ)(いぬ)の年・・・平成三十年に大覚寺心経殿に収められている天皇宸筆の写経が、勅封が解かれて公開されました。


この年の暮れ近くに、右大臣藤原園人、中納言藤原葛野麻呂が相次いで亡くなり、帝は直ちに大納言藤原冬嗣、中納言藤原緒嗣、文室綿麻呂、参議の良峯安世、藤原三守、秋篠安人、紀広浜、多治比今麻呂に為政の運営を託されました。


時を同じくして、京のすべてを浄めるかのように大雪が降り地震が襲いました。そんな中で天皇は、すべてが無事であって欲しいと祈願されながら、寺の打ち鳴らす梵鐘の音を、しみじみと聞いていらっしゃいました。


そして国難ともいえる疫病の広がりを鎮まらせるための苦闘をされた結果、ようやく弘仁十年(八一八)の新年を迎えたのでした。


しかし困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます 


「年来不作で、百姓が飢饉になっております。官の倉は空洞化して、恵みを施すに物がありません。困窮した民は上に迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収穫時に返済させることを要望いたします。こうすれば、冨者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命を全うする喜びを持つことが出来るでしょう」(日本後紀)


それには天皇も直ぐに納得されるのですが、その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。


「山城・美濃・若狭・能登・出雲の国が飢饉となった。『倉庫の貯えが尽き、恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は賑給(しんごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ』(日本後紀)


なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまっていたのでした。


 新年を迎えたというのに、天災による困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます。


 それには天皇も直ぐに納得されて許可を出しましたが、ふと昨年のことを思い出していたのです。


 天皇は鬱積しがちな気分を開放しようと嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達にこんなことをおっしゃいました。


 亀卜(きぼく)筮竹(ぜいちく)で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時天平年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が(くる)しんでいれば、いったい誰と共に君たり得ようか。密かに考え考えてみるに、仏教の教えは奥深く、慈悲を先として、教理は優れ、あらゆるもの(あわれ)み、協議は深淵ですべてを救済することを目指している。また疫病の災いを祓除(ふつじょ)することは、前代の書物に記されている。そこで天下の諸国に指示して、斎食(さいじき)を設けて僧侶を()び、金光明寺(国分寺)で五日間『金剛般若波羅密教』を転読し、併せて禊を行い、災難を除去すべきである。また、畿内・七道諸国が言上してきた弘仁八年以前の租税の未納は、すべて聴衆を止めよ。左右京の民の昨年以前の未納の田租は、言上・不言上を問わず免除せよ。願わくは、仏の力があたりを照らし、災難が発生する前に抑え込み、神の力が福をもたらし、疫病を根こそぎにすることを。もし咎が朕にのみかかってくれば、人が天寿を遂げず死亡することはなくなるであろう。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王(ぶんおう)は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後記)


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)二月二十日のこと


発生した問題とは


 天皇は心休まる状態にはなりません。


その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。ところがそれから間もなく霧のかかった天空には、凶兆といわれる白虹が現れたりするのです。それから間もなくのことです。山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となったという知らせがあったのです。天皇は直ちに


「倉庫の貯えが尽き恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。


賑給(しんごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ」(日本後紀)


 なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。


一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまうのです。それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響がつづいているのです。


為政者はどう対処したか


天皇はそんなある日のこと、水生野(みなせの)で狩猟を行うのですが、夕刻になって河陽宮(かやのみや)へ入り、水生村の窮乏の者に身分に応じて米を賜った。しかし飢饉の状態はひきつづいています。なぜこうまで辛い日々がつづくのだろうかと心労が続くのですが、その脳裏に思い出されることがあったのです。


「朕に思うところがあり、故皇子伊予と夫人藤原吉子らの本位・本号を復せ」(日本後紀)


突然命じられたのです。


天皇がまだ神野親王と呼ばれていた時代の政庁で実力を発揮していた伊予親王が、突然平城天皇を呪詛したという訴えがあって、不孝にも逮捕されて飛鳥の河原寺へ送られ、祖霊桓武天皇に愛されていた母の吉子と共に自決してしまったのです。その後この事件については藤原氏による誣告(ぶこく)(事実を偽って告げること)ではないかということが秘かに囁かれるようになっていたことから、二人の名誉を回復して、その怨念を鎮めようとなさったのです。それほど飢饉の広がりは深刻だったのです。しかし今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということです。


暮らしに追われるようになってしまうと、その日、その時をどう生きられるかと動くだけで、現状がどう回避できるのかと、知恵を働かせることも、そのための努力をしてみる余裕もなくなってしまいます。ただただ為政者の施しが少ないと言って、不満を言うだけでまったく現状打破という希望が生まれる糸口も生まれません。我々に必要なのは、貧した時にこそ、なぜそうなのかということを考えて、その状態から抜け出るには、何が欠けているのかを突き止めて、それを払拭するための努力をしてみなければ、明日に続く希望は何も見つからないでしょう。古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。


温故知新(up・to・date)


 古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。貧する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。これも「南橘北枳(なんきつほくき)」といって、風土によって人の気質が違うということもあります。「酔生夢死(すいせいむし)」といって、酒に酔い、夢を見ているような心地で、無為に一生を過ごしながら、それに気が付かないでいるような人もいます。今何が起こっているのかをしっかりと知って、そのために何をしなければならないのかということを、真剣に考えなくてはなりません。つまり「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉を頭に叩き込んでおくことが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言23 [趣味・カルチャー]

「二枚目」

 

最近はすっかり死語となってしまったように使われなくなってしまいました。

今は「イケメン」などという言葉が勢いづいているのではないでしょうか。ちょっと前までは美男とか色男などと呼ばれる男性がいた者です。これは本来歌舞伎の劇場などで、上演している役者さんの名前を書いた看板が掲げられたことが始まりのようですね。ところで今回の写真は京都南座の「招き」といわれる看板ですが、歌舞伎の宣伝をするわけではありません。

     「南座招き」1.jpg

        「京都南座の招き」

これは新年の興行で行われる出し物の紹介と役者が紹介されていますが、こういう看板で二枚目にかかる役者はおおむねいい男の役者が演ずることになっているいい男なのです。そのためにいつからかいい男のことを、二枚目というようになったのです。

 やはりこうした劇場にかかると、やはりイケメンという表現で呼ばれる現代の役者では、どうもぴったりとしませんね。

 やはり「二枚目」しょう。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の二 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えをするために」(二 


        為政者の課題・「天下を治めるには内助が必要」


 嵯峨天皇にとっては、政庁での生活には慣れてきましたが、しかし同時に困難にも遭遇するようになります。


 前年の七月のことです。天皇はこんなことをおっしゃいました。


 「畿内・近江・丹波等の諸国では、年来旱害が頻発して、稼苗が損害を被っている。他方、国司は漫然として何もせず、百姓の被害が大きくなっている。中国では孝婦が無実の罪で処刑されたあと旱魃に悩まされ能吏の百里崇(ひゃくりすう)が干天の徐州(じょしゅう)刺史(しし)(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降った徒伝えられている。これにより禍福は必ず国司によることが判る。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、()(けが)すことのないようにせよ。もし効果がない時は言上せよ」(日本後紀)


 そして更に、年の暮れでしたが、天皇は雪の降る外を眺めながら、こんなこともおっしゃいました。


 「帰順した夷俘は前後でかなりな員数になっている。そこで、適宜各地に居住させているが、官司・百姓は彼らの姓名を称さず、常に夷俘と号している。すでに内国の風習に慣れているので、それを恥じている。速やかに告知して、


夷俘と号するのを止めるべきである。今後は官位により称するようにせよ。もし官位がなければ、声明を称せ」(日本後紀)


 天皇は彼らを戦う対象とは考えていないことを、更に進めていこうとしていらっしゃるようです。


 政庁の姿勢をこれまでのそれとはかなり違った方向へ進めようとしていらっしゃるようです。


 天皇は外国から挨拶に来てくれる使節に対しての対応についても、これまでとは違ったきちんとした決まりを徹底するように指示されます。


 「外国使節はおりおりに日本へやって来る。客館(鴻臚館)の施設は常にしっかりしたものにしておかなくてはならない。近頃、病人が客館で寝泊まりしたり、喪に服している人が謹慎生活のための隠所としていることがある。建物と垣根を壊し、庭を汚しているので弾正台と京職が取り締まれ」(日本後紀)


 情報を手に入れるためには必要な外国の施設の来朝ですが、ただそれが有難いと言って歓迎するあまりに、彼らの無頓着についてはきちんと処理しないと、却って国を乱れさせてしまうということもお考えのようです。


 「軍用では馬がもっとも重要である。いま聞くと頃によると、『権門貴族や富豪の者たちが辺境に使いを遣わして、夷狄(いてき)から馬を求め、そのため辺境では騒動が持ちあがり、兵馬が不足している』という。延暦六年正月に基づき、陸奥・出羽での馬の買い入れは禁止すべきである。 違反者は、厳科に処し、馬は没収せよ。ただし、騎馬に適さない駄馬は禁止する必要がない」(日本後紀)


 天皇は気の付くことを的確に指示していかれます。


 天皇には前からこのような考え方をおっしゃることがありました。


 「朕は慎んで皇位に就き、天皇として事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。見は宮中にあっても心は広く人民のことを思っている。七政(七つの政治の拠所(よりどころ)を整えて水干の災害がなく、九農(中国古代の農業に関する九つの官職。ただしここでは国司)を励まして、仁壽(じんじゅ)(仁徳と長寿)の喜びが得られることを願ってきた。そして年来春耕が始まり、開花の時期を待って有り難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて収穫しきれず、畝間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修繕をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい贈物を得たことで方策を喜んで神々に真心を捧げ、天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、鰥・寡・孤・独で自活不能者に等級をつけて物を施窮せよ。あまねく支給することに心がけよ」(日本後紀)


その思いを民に浸透させるように心がけていらっしゃったのです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁六年(八一五)七月十三日


発生した問題とは


 嵯峨天皇のように、意識の上で極めて現代的な思いで皇后を迎えようとされたことは、実に革新的ではないかと思うのですが・・・。更に思いを進めるためには、国の財政の状態が安泰でなくてはならないという現実にぶつかってしまいます。


嵯峨天皇はそれを実践するためには、自らの暮しについても考えなくてはならないものがあるのではないかと考えられるようになったのです。皇子、内親王の数が多く、そのために彼らの暮しを維持するのに、かなりの費用を要することを知っていらっしゃいます。この年自らそれを改革するために、臣籍降下という決断をされました。


 その詳細については、第四章「隠れた事情を突き止めるために」「その四の一」の「「財政悪化で臣籍降下」に紹介されていますのでご覧下さい。



 天皇は思いきったことをされましたが、それにはこんな思いが隠されていたのです。


為政者はどう対処したのか


天皇がこのように多くの皇子、内親王を持つにいたった経緯を考えると、それなりに納得できる理由がありました。つまり母性への憧れが女性への憧れとなっていたのでしょう。まだ天皇が神野親王といわれていた五歳の頃、思慕する母の乙牟漏(おとむろ)を失い、後年最も愛していた妹の高志(たかし)内親王を二十歳というという若さで亡くなられてしまったことが原因であったということが云われています。


しかしてんのうはそうした経験をもとにして考えた結果、為政をきちんと行うためには、身辺を整えるということもあって、これまで夫人(ぶにん)という立場であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)を皇后とする決心を固められて、皇后として迎えることに決めたのです。


その日の平安京は激しい雷雨となってしまって、儀場の庭に雨水が溢れてしまったといいます。


嘉智子はその数日前に、仏が身に着けるといわれる宝飾で作った瓔珞(ようらく)(インド貴族の装身具)を着る夢を見たそうですが、後に仏教信仰の篤さを物語る話として伝えられています。兎に角この日は大変印象的な立后の日となりました。宮内卿の藤原朝臣緒嗣(おつぐ)は承明門の前に進み出ると、宣命(天皇の命令)を読み上げました。


「天皇の仰せになるお言葉を、親王たち、臣たち、百官たち、天下の公民ら皆の者聞きなさい。天皇が天下を治める政は一人で行うべきものでなく、必ず内助が必要であり、古来、皇后を定めて行うものと聞いている。そこで従三位橘夫人を皇后に定めた」(日本後紀)


昔から「内助の功」ということはよく言われていましたが、あの平安時代に、しかも絶対的な存在である天皇が、はっきりと皇后の存在を認めて皇后として迎えたことは驚異的ではありませんか。それまでの天皇が皇后を迎えても、その存在感は絶対的なものであって、現代社会のように人間的に対等な存在として認められたのは、驚異的な事だったのではないでしょうか。それほど嘉智子皇后は若いころから天皇を支えてこられました。天皇が天皇として君臨していられるために、皇后はさり気なくそれを支えていかれたのです。主人が会社へ出勤した後で、夫人は子育て、保育園、幼稚園への送り迎え、ご近所との交流と、男には判らない働きがあります。


天皇は伴侶を得て、為政に取り組み始めたのでした。


 「天が人民を生じ、役人を置いて」収めるのは、財物を豊かにして役立たせ、天下に教化を達成するためである。そこで、朕は人民の落ちぶれた受胎を救おうと思い、夜明けに至るまでつとめ、農民が豊作を歓び、婦女が憂えなく機織できる方策を考えている。しかし、去る五月から洪水が続き、田畑は耕作できなくなっている。いったい百姓が


足らないようであれば、君主は誰と共に足るということがあろうか。そこで、左右経と畿内の今年の田租は中止する。百姓にいつくしみを施すことにつとめ、朕の意に副うようにせよ」(日本後紀)


現代でもいえることです。夫婦は一体で協力し合いながら生活の維持をしていきますが、それと同じような関係で、為政者と非為政者との間に亀裂があっては、いい結果は現れません。お互いにそれぞれの暮らしを守りながら、協力し合うということが大事です。


 温故知新(up・to・date)でひと言


 まさに「同甘共苦(どうかんきょうく)です。共に楽しみ共に苦しむということです。過程を維持する同志でもあります「悪婦破家(あくふはか)と言われますが、まさにその通りです。悪妻は夫の一生を台無しにしてしまいます。皇后橘嘉智子は生涯天皇を支え続けましたが、最後にこんな言葉があるのを紹介しておくことにしておきましょう。「朝雲暮雨(ちょううんぼう)というものです。これはある日愛する男性に、女性が次のようなことを言ったと言います。私は巫山(ふざん)の峯に住み、朝には漂う雲となり、夕べには降る雨なって、毎朝毎晩陽台の下に降ります


翌朝見ると、果たして峯には雲が渦巻き、漂っていたというのですが、この美女は巫山の女神であったということでした。この四字熟語は男女の深い仲を著す言葉ですが、彼女が女神であったということを考えると、家庭での女性の存在は女神としての存在に当たるのかもしれません。その存在をはっきりと見読めて、宣言をしていらっしゃる嵯峨天皇の優しさや、女性の存在感を認めようとする先進性を、改めて感じますが、どうでしょうか。



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閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑23 [趣味・カルチャー]

「烏の行水」

 一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。

かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。

つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。

私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、

「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」

あっさり宣告をしてこられたのでした。

私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。

それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の一 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えのために」()


        課題「税金のあり方」


 税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものですが・・・。


為政者・桓武天皇


延暦四年(七八四)七月二十四日のこと


発生した問題とは


 前年の十一月に平城京から長岡宮に移ったばかりでしたが、天皇は厳しい財政事情をよく知っておりました。


 「そもそも正税とは国家の資本であり、水害や旱魃への備えである。しかし近年、国司の中には一時逃れに利潤を貪って、正税を消費し用いる者が多い。官物が減少して米蔵が満たない主な原因である。今後は厳しく禁止せよ。国司の中で、もし一人でも正税を犯し用いる者があれば、その他の国司も同様に罪に問い、共に現職を解任して長く任用してはならない。罪を犯して不正に得た物品もともに返納させよ。死罪を放免したり、恩赦を受ける範囲に入れてはならない。国司たちは相互に検察し、違反を起こしてはならない。また郡司が国司に同調して許すのも、国司と同罪にする」(続日本紀)


 天皇は即位してから五年にもなり、環境も人間関係もそこで暮らすには、さまざまなしがらみがあって住みにくいことから、決心して長岡京へ遷都してきたのです。


 「諸国が納めることになっている庸や調、その他年間に計画を立てて納めることになっている物品はいつも未納があつて、いずれも国家の用途に不足をきたしている。その弊害はすでに深刻である。これは国司や郡司が互いに職務を怠っているのが原因である。ついには物資を民間に横流しし、そのために官の倉は欠乏しているという。また、民を治めることに関しても、多くは朝廷の委任した趣旨に背いている。私欲なくて公平で職務に適う者は百人に一人もいない。その者の行状を調べ、事柄に応じて降位させたり辞めさせたりせよ。担当の者は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するようにせよ」


 税をまともに払わない者がいる上に、職務を怠って徴収することを怠っている者がいるというのです。


為政者はどう対処したのか                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                


 こんなことをおっしゃったのには理由があるのです。


長岡京への遷都はしたものの、為政者として現実の問題と取りくまなくてはなりません。先帝は延暦四年(785)五月に詔を発して、臣民の気持ちを引き締めたことを思い出したのです。


「この度遠江国から進上された調・庸は、品質が悪く、汚れていて、官用に堪えられなかった。およそ近年の諸国の貢進物は粗悪で、多くは使用に当たらない。その状況を他に比べ量って、法律により罪を科すべきである。今後このようなことがあれば、担当の国司の現職を解任し、永く任用しないことにする。その他の官司は等級をつけて罪を科せ。またその国の郡司も処罰して、現職を解任して、その系譜を断絶せよ」


しかしその命令がきちんと行われていないのではないかという心配が出て来たのです。天皇はそうした先の指示に付け加えて、


 「その政務が評判になり、執務態度が悪くならない者は、


はっきり記録してほまれある地位に抜擢せよ。担当の宮司は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するように」


 と命じたのでした。


 そこで太政官たちは為政の上での目標を決めた上で、次のような者が出たら、直ちにその役職を外すという厳しい九か条の厳しい規律を打ち出したのでした。


 つい最近土佐国から貢納された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪であった。


 天皇は五年の二月には厳しい指示をいたしました。


一つ、官職にあって欲が深く心が汚れ、事を処理するのに公平でない。 


一つ、ほしいままに悪賢いことを行って、名誉を求める。


一つ、狩の遊びに限度がなく、人民の生活を見出し騒がせる。


一つ、酒を好んで溺れ、公務を怠る。


一つ、公務に節度があるという評判がなく、ひそかに私門を訪れる人の頼みごとをうける不正が日ごとに多くなる。


一つ、子弟をわがままにさせ、邪な人のもってくる勝手な請託を公然と受け付ける。


一つ、逃亡して失踪する者の数が多く、捕えた人数が少ない。


一つ、兵隊の統率法を誤り、守備兵が命令に違反する。


(続日本紀)


 こんな話題を現代の問題として取り上げたのは、それなりに大事な提起になると考えたからでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。その国を動かすための原資となる税をきちんと自発的に収めないことも困るのですが、それを守るように指導する立場の者には、それなりの責任があるはずです。仕事に力を尽くし、勢力を傾注して励むという姿勢が大事です。も貸しから「精励恪勤(せいれいかっきん)という言葉があります。職務に忠実であって欲しいのですが、被支配者に対して過酷な指示をするばかりでは、目的を果たすことは難しいでしょう。そのために現代の問題としていわれる、燃え尽き症候群などにはならないで欲しいものです。もちろん国民のほうの心得としてもこんな言葉があります。「量入制出(りょうにゅうせいしゅつ)といって、収入を計算して、それから支出を計上する健全財政の心構えが必要です。きちんと税金が払えるように心がけましょう。大盤振る舞いが好きだと言っても「贈遺(いんえんぞうい)という、人を接待して振る舞ったり、物を贈ったりすることには、分相応なようにするべきです。酒食をご馳走したり贈り物をしたりするのは、収入に見合った状態に留めておいて下さい。





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