閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の三 [趣味・カルチャー]
第八章「説得力のある訴えをするために」(三)
為政者の課題・「貧すれば鈍する」
今回は四字熟語のお話をするわけではありません。
良く日常の中でかわされる人生訓とでもいう言葉で、どんな事情があったにしても、暮らしのレベルが通常のレベルを越えて低下してしまうと、いつか品性を疑ってしまうような言動を発してしまうことがあるということです。
現代の人々にとっては、品性とか、品格なということはまったく無関心化も知れませんが、私には決して無視できないことのように思えます。
それは後で触れることにして、取り敢えず弘仁十年(八一九)の年明けを迎えたという時代です。
為政者は嵯峨天皇です。
思い出すだけでも身震いさせてしまう朝廷の中での殺人事件があったり、疫病の襲撃で死者が増え、生活困窮のためにその始末が出来ないで路上に放置するということが行われていた先年の極めて困難困難な時代の中で、天皇は僧侶の空海が勧める写経を行うことにしたのです。
天皇は持仏堂に籠って写経を始められました。
金粉を使って、一字、一字を慎重に、丁寧に心経を写していかれたのです。
伝え聞くところによれば、一字書く度に三拝するという敬虔な姿勢で、二六二文字を書いていかれ、皇后はその端に薬師三尊を描き、それを空海に供養させました。まさに国難というべき事態を、帝の必死な思いと、空海の修業の力によって、乗り越えていこうとされたのです。
(その時の様子について、「古今著聞集」には、「時の御経、彼御記、嵯峨大覚寺にいまだありなん」と書き留められています)
天皇は三日間持仏堂に参籠されて、食事は素食に徹して、衣服も粗末なものになさって、もっぱら精進して仁王経を転読されたといいます。
ようやく切羽詰った状態から抜け出された天皇は、九月には、疫病の除去を祈願するために伊勢神宮に奉幣しましたが、日照りによる旱魃、地震、洪水による疫病の広がりを、天の下した罰であると受け止められ、ただひたすらに自らの不徳を責めていらっしゃいました。
余談になりますが、この時の天皇の思いを共にするために、六十年に一度巡って来る戊戌の年・・・平成三十年に大覚寺心経殿に収められている天皇宸筆の写経が、勅封が解かれて公開されました。
この年の暮れ近くに、右大臣藤原園人、中納言藤原葛野麻呂が相次いで亡くなり、帝は直ちに大納言藤原冬嗣、中納言藤原緒嗣、文室綿麻呂、参議の良峯安世、藤原三守、秋篠安人、紀広浜、多治比今麻呂に為政の運営を託されました。
時を同じくして、京のすべてを浄めるかのように大雪が降り地震が襲いました。そんな中で天皇は、すべてが無事であって欲しいと祈願されながら、寺の打ち鳴らす梵鐘の音を、しみじみと聞いていらっしゃいました。
そして国難ともいえる疫病の広がりを鎮まらせるための苦闘をされた結果、ようやく弘仁十年(八一八)の新年を迎えたのでした。
しかし困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます
「年来不作で、百姓が飢饉になっております。官の倉は空洞化して、恵みを施すに物がありません。困窮した民は上に迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収穫時に返済させることを要望いたします。こうすれば、冨者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命を全うする喜びを持つことが出来るでしょう」(日本後紀)
それには天皇も直ぐに納得されるのですが、その日任官のあった者に対しては、次のような詔をされました。
「山城・美濃・若狭・能登・出雲の国が飢饉となった。『倉庫の貯えが尽き、恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は賑給(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ』(日本後紀)
なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまっていたのでした。
新年を迎えたというのに、天災による困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます。
それには天皇も直ぐに納得されて許可を出しましたが、ふと昨年のことを思い出していたのです。
天皇は鬱積しがちな気分を開放しようと嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達にこんなことをおっしゃいました。
「亀卜と筮竹で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時天平年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が困しんでいれば、いったい誰と共に君たり得ようか。密かに考え考えてみるに、仏教の教えは奥深く、慈悲を先として、教理は優れ、あらゆるもの矜み、協議は深淵ですべてを救済することを目指している。また疫病の災いを祓除することは、前代の書物に記されている。そこで天下の諸国に指示して、斎食を設けて僧侶を喚び、金光明寺(国分寺)で五日間『金剛般若波羅密教』を転読し、併せて禊を行い、災難を除去すべきである。また、畿内・七道諸国が言上してきた弘仁八年以前の租税の未納は、すべて聴衆を止めよ。左右京の民の昨年以前の未納の田租は、言上・不言上を問わず免除せよ。願わくは、仏の力があたりを照らし、災難が発生する前に抑え込み、神の力が福をもたらし、疫病を根こそぎにすることを。もし咎が朕にのみかかってくれば、人が天寿を遂げず死亡することはなくなるであろう。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後記)
為政者・嵯峨天皇
弘仁十年(八一九)二月二十日のこと
発生した問題とは
天皇は心休まる状態にはなりません。
その日任官のあった者に対しては、次のような詔をされました。ところがそれから間もなく霧のかかった天空には、凶兆といわれる白虹が現れたりするのです。それから間もなくのことです。山城・美濃・若狭・能登・出雲の国が飢饉となったという知らせがあったのです。天皇は直ちに
「倉庫の貯えが尽き恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。
賑給(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ」(日本後紀)
なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。
一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまうのです。それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響がつづいているのです。
為政者はどう対処したか
天皇はそんなある日のこと、水生野で狩猟を行うのですが、夕刻になって河陽宮へ入り、水生村の窮乏の者に身分に応じて米を賜った。しかし飢饉の状態はひきつづいています。なぜこうまで辛い日々がつづくのだろうかと心労が続くのですが、その脳裏に思い出されることがあったのです。
「朕に思うところがあり、故皇子伊予と夫人藤原吉子らの本位・本号を復せ」(日本後紀)
突然命じられたのです。
天皇がまだ神野親王と呼ばれていた時代の政庁で実力を発揮していた伊予親王が、突然平城天皇を呪詛したという訴えがあって、不孝にも逮捕されて飛鳥の河原寺へ送られ、祖霊桓武天皇に愛されていた母の吉子と共に自決してしまったのです。その後この事件については藤原氏による誣告(事実を偽って告げること)ではないかということが秘かに囁かれるようになっていたことから、二人の名誉を回復して、その怨念を鎮めようとなさったのです。それほど飢饉の広がりは深刻だったのです。しかし今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということです。
暮らしに追われるようになってしまうと、その日、その時をどう生きられるかと動くだけで、現状がどう回避できるのかと、知恵を働かせることも、そのための努力をしてみる余裕もなくなってしまいます。ただただ為政者の施しが少ないと言って、不満を言うだけでまったく現状打破という希望が生まれる糸口も生まれません。我々に必要なのは、貧した時にこそ、なぜそうなのかということを考えて、その状態から抜け出るには、何が欠けているのかを突き止めて、それを払拭するための努力をしてみなければ、明日に続く希望は何も見つからないでしょう。古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。
温故知新(up・to・date)
古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。貧する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。これも「南橘北枳」といって、風土によって人の気質が違うということもあります。「酔生夢死」といって、酒に酔い、夢を見ているような心地で、無為に一生を過ごしながら、それに気が付かないでいるような人もいます。今何が起こっているのかをしっかりと知って、そのために何をしなければならないのかということを、真剣に考えなくてはなりません。つまり「実事求是」という言葉を頭に叩き込んでおくことが大事です。
コメント 0