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告知と放談の部屋☆ 放82「いのまたむつみさんの危機!」 [趣味・カルチャー]

  

 わずか一、二か月の間のことでしたが、やがてイラストの入った表紙の見本が届けられて、いよいよ戦闘の火ぶたが切られる準備が整ったと思いました。


私の書いたあの原稿から、いのまたむつみさんも出版界という不慣れな世界への参入をすることになったのです。しかし今回のような思いを表紙のイラストとして新書版を飾ることは、業界でも異色のことであったに違いありません。


私はこの表紙にまったく不満はありませんでした。


これまでの彼女の仕事といえば、テレビの「プロレス3四郎」と「ウインダリア」での仕事だけですから、現代的なタッチで描かれた作品ばかりですから、日本の古代史の中に登場して活躍する少年や、その仲間となる人物たちを書き分けられるだろうかと、多少心配になることもあるにはあったのですが、私はこの表紙にまったく不満はありませんでしたし、恐らくこれからの時代ではきっとこうした若い人の繰り出すイラストの世界が中心になるという思いでいました。


カナメプロの社長から聞いた、いのまたむつみさんがアニメーションの世界から引退したいという思いは消えてきたかも知れません。私も彼女がもっと活躍する場が広げられるのではないかと満足感を覚えていたのでした。しかしそれはあくまでも長いこと映像の世界で仕事をしてきた者の感想であって、まったく出版界の空気を無視した勝手な感想であったのでした。それだけに「宇宙皇子」は無事に出版されることになるのかどうか、まだ大変不安な状態ではあったのです。


                      「プラレス3四郎・DVD1」1.jpg 「ウインダリアビデオ」1.jpg 「宇宙皇子・新書1」1.jpg


それは間もなく角川書店の内部から始まったのですが、私が作品のイラストレイターに起用したいと推薦した、いのまたむつみさんのイラストについてある部署からくすぶり始めた問題があったのです。恐らく出版の戦略を協議する会議の中で、成人を対象にした新書版を発売してきた角川書店です。スタートの森村誠一氏の「人間の証明」は映画の公開と同時であったということもあって、大変な評判になって好調な売れ行きを示しましたが、それらの表紙を飾っていたのは、当時の第一人者と言わるイラストレーターであったのです。角川から発売されてきた新書版の小説の表紙は、殆どその人が書いているイラストが使われていたのです。新書版の表紙のイラストは当時の一流の方の描く表紙絵で埋まっていたといってもいいでしょう。そんなところへ突然アニメーション畑のいのまたむつみさんのイラストが、「宇宙皇子」の表紙を飾ることになったのです。それはこれまでの雰囲気とあまりにも違いすぎます。出版の準備が進められていくうちに、どこかの部署から持ち上がってきた野でしょう。


 「こんな絵でいいのか」


 恐らく拒否反応を示したのは、営業担当からであったかも知れません。さまざまな書店周りをして営業展開に動き出したところ、これまでの新書版のあまりにも雰囲気と違い過ぎて、書店からでも疑問に近い言葉が投げかけられたのかもしれません。確かにまだいのまたむつみさんは無名に近い存在です。同じころに小説のイラストを描くといっても、アニメーターの描く表紙絵はかなり格下の本の表紙に限られていました。営業に走り回る者にとってはかなり面倒な本を売ることになるわけで、当然ですが会議の席上で問題提起をしてきたに違いありません。そんなところへ予想もしないいのまたさんのイラストが登場したのです。びっくりするのも当然です。というよりは拒絶反応を起こしてしまったのかもしれません。成人読者を狙って作った新書という判型なのに、これまでやってきた販売足品に水を注すことにならないかということです。一気にこれは問題だということになって、彼女は外されてしまうことになりそう出合ったのです。少なくとも私は、彼女の実力を評価したからこそ自分の記念すべき角川書店での勝負作品に、登場して貰うことにしたのです。簡単に社内の空気が否定的だとはいっても、そんな空気に圧されて彼女をひっこめるようなことはできません。


 「今にこうしたイラストが、読者から歓迎される時代が来るはずです」


 必死で編集の上層部に、営業の上層部に訴えていったのです。


 角川春樹社長の現在行っている戦略から、かなり革新的なものを感じていた私は、それに期待して、いのまたむつみさんの援護を訴えたのでした。


 その頃のいのまたむつみさんが、プロダクションの中でどんな立場にあったのかということについては殆ど知りませんでしたが、「プラレス3四郎」から「ウインダリア」の作画で一生懸命に協力してくれていましたので、私は兎に角「宇宙皇子」で一気に彼女がスタートなってくれるのを願いつづけていましたが、有難かったのは、その時私を後押ししてくれたのが若い新人編集者たちでした。


 私は時代の空気がきっとこうしたイラストを受け入れる状態になりつつあると判断していましたので、遠慮もなく自説を強引に訴えていったのです。もしそれが叶わないような事態になってしまったら、作家として角川書店での仕事をすることは出来なくなるでしょう。何日か前に社長と大変いい出会いをしたところでしたが、思わずイラスト問題で、大変緊張させられることになってしまったのでした。


原稿を渡してから発売予定の6月まで三か月しかないというわずかな時間の流れの中で、さまざまな体験をしたものです。確かに角川書店は、これまで作家としての地位を確立していらっしゃる実力者たちの小説を出版してきたところです。恐らくそうした編集部あたりからくすぶり始めた問題だったのかも知れません。それまではそれらの問題提起に対しては編集担当の編集長A氏が、立ち向かっていたのですがついにそれだけではすまない勢いになってきてしまい、私も動員されて営業担当の部長を始め上層部に対して、いのまたむつみを起用した意味について、思うことを力説することになったのでした。まだまだこの世界ではまったくの新人でしかない私は、まるで実績を誇る作家のような自信で訴え続けました。時代はこうしたイラストを求めてきていることに気付かずにいる編集部に危険を感じると、これまでテレビの最前線戦で掴んでいた、時代の要求している感性ということについての感想を訴えつづけたのでした。


「これからは絶対にこうした感性のイラストが尊重される時代になるはずです」


私はかなり自信を持って説明したつもりですが、かなり大胆で、危険を伴う発言をしていたものです。しかしその日の会議から、ようやくイラストについての疑問をいう社員はみあたらなくなりました。会議の様子について新人の編集者で、「宇宙皇子」の担当として決まったS君、Y君、T君といった若者たちは、私の力説したことについて賛同してくれ、上層部の考える時代の捉え方とはまったく違った発想をする私についてきてくれるようになったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放81「角川社長と対面」 [趣味・カルチャー]

  

このところの話は、宇宙皇子の一巻目である「はるかに遠き都よ」の原稿を渡してから発売されるまでの三か月間のお話です。結構新しい生活が始まったために、一日一日細かなことで、何が、いつ起こったのかきちんと仕分けしてお話することがでそうもありません。みなさんには大体その頃こんなことがあったのだなと思って読んで頂ければ有難いと思います。


長い映像の世界での生活から、これまで遠くからしか見ていなかった小説という異世界へ、ある日突然飛び込むことになってしまったので、多少は準備をしつつあったとはいっても、いよいよ正式に仕掛かることになると、これまでとは大分違ったことを体験しなくてはならなくなりました。しかし実際に仕掛かったあたりからは、やはり原稿用紙に向かう気持から変わってきていました。大体これまで使っていた200字詰めの原稿用紙から400字詰めのものに変わりましたので、それと向き合う気分も変わりました。当初はあまり落ち着いた気分にはなれないでいましたが、一枚一枚執筆しつづけていくうちにかなり落ち着いた雰囲気に慣れていきました。


そんなある日のことです。A編集長から社長が会いたいといっているという連絡が入りました。世間的にはその評価はいろいろでしたが、このところ角川春樹社長の独特な生き方がさまざまなメデイアで取り上げられています。一度はお会いしたいと思う青年社長はありました。小説の発売と同時にそれを映画化したものを公開して、その相乗効果でかなりの成果を上げています。森村誠一氏の「人間の証明」という小説の営業展開がかなり派手であったことから、何かにつけて注目を浴びていらっしゃる存在でした。私はこの機会に、「宇宙皇子」という作品で何がしたいのかということを説明して、理解して頂こうと考えました。


目下社長が取り組んでいる作品はかなり現代的なものが中心になってはいるのですが、一方では日本の古代文化への関心も高くて、わざわざ古代の葦船のようなものを作って、同志たちと共に韓国を目指して九州から漕ぎ渡ろうとしていることがマスコミで騒がれていたりしていましたから、いつかで会ってみたいと思っていたところでした。


本社の編集室の奥にある社長室へ案内されましたが、精悍な姿の社長は大変気持ちよく迎えて下さると、特別気張ったところもなく実に気さくに話しかけられたのでした。


多少緊張気味であった私もすっかり解放されて対坐することができたのでした。


 どうやら社長はすでに私の原稿に目を通していらっしゃったようで、いきなり古代という時代についての興味を示されてこられたので、私もすっかり気を許して話し始めました。前述しましたが、当時社長は話題の多い方で古代に関しての関心があるということはさまざまな雑誌で紹介されていましたから、「宇宙皇子」に関してはどんな反応をされるのかとかなり緊張しておりましたが、初対面にしては珍しいくらいに通い合うものを感じる安心感が生まれました。実に通常の対話をするような雰囲気で、気持ちの交歓をすることができたのでした。


私は出版を前にして、「宇宙皇子」の発想の原点となったのはどんなことは始まりであったのかということについて話し始めました。日本の古典である「今昔物語」と西欧のダンテが書いた「神曲」という音楽劇三冊の話です。


             「日本古典文学大系・今昔物語」1.jpg 「神曲・煉獄編」1.jpg 「神曲・地獄編」1.jpg 「神曲・天国編」1.jpg


神の子として生まれた少年が、壬申の乱に駆り出されて戦死してしまった父に代わって、悲惨な暮らしに耐えながら暮らしている農民たちのために、権力を振るって支配する高貴な人々への挑戦を始めるのですが、小子辺(ちいさこべ)・・・宇宙皇子今昔物語に描かれている超能力者である役行者を師として仰ぎ、やがて不動明王に化身して苦界の現世から極楽浄土の来世までのさまざ異世界を経験しながら再び苦界の地上へ戻ってきて、庶民のために活躍するという、長年温めていた構想熱っぽく説明したのです。


 「神曲」では煉獄に生きる者の姿、地獄に生きる者の姿を描きながら、最後に楽園である天国に生きる者の至上の姿を描いて終わるのですが、私はこれとは違った構想を組み立てているのだと説明をしたのです。つまり苦悩する農民のために、宇宙皇子自身が不動明王の化身となって苦界といわれる現世から旅立ち、地獄・煉獄を知りながらやがて楽園である極楽浄土の天国へたどり着くのですが、人間にとって至上の世界を知ったところで再び苦界の地上へ突き落され、庶民のために働くようになるという話になるのですと説明したのです。


社長は笑顔で頷きながら大変乗って下さいましたが、「それでは大変な数の本を書かなくてはなりませんよ」とおっしゃるのです。


私はかつて集英社と出版の話をした時、すべて三冊で終わって欲しいといわれた経験があったことから、多少遠慮しながら「それぞれ異世界を辿るので10巻は必要になりそうなのです」と答えたのです。


ところがそれに対して社長は、「そんな数にこだわる必要はありません。書きたいだけ書けばいいんです」とおっしゃるのです。


あまりにも鷹揚な受け止めかをされたのでびっくりしましたが、あまりの嬉しさに私は、「ひょっとすると50巻ぐらいになるかも知れません」


思わず考えていた勝手な構想を、ぶちまけてしまったのでした。


すると社長は直ぐに、「もし50巻を一巻でも超えることがあったら、100巻ですよ」


釘をさすようにおっしゃるのです。ところが社長はとても冗談とはいえない真顔になって答えられたのでした。


 初対面で確認し合うべきことがすべて話し合えたことも満足しましたが、兎に角どんな話になっても、「頑張って下さい」と励まして下さって、初対面を終えたのでした。


 少なくとも社長とは気持ちの交流が生まれたように思いましたし、今回の出版にはかなり興味を持って下さったように思えました。


 兎に角遠慮気味に言った出版の冊数に対しても、そんなことにこだわらずに書きたいだけ書いて下さいという、思いがけない返答をされたのにはびっくりいたしましたが、


かつて集英社と出版の話になった時に、売れ残りを出さないようにという慎重さで、原則的には三冊で簡潔して下さいという姿勢を崩しませんでした。それで結局「宇宙皇子」の企画は排除されてしまったのでした。しかし集英社はこうした堅実な方針を貫いて会社を守っていたのでしょう。それにしても角川書店の鷹揚な受け止め方には、これから勝負をしたいと思っている作家にとっては、期待と意欲を一気に掻き立てられる体質を持った会社であったと思いました。私はこの日の対面によってますます執筆の意欲に点火されましたが、私のやりたい世界に興味を持って下さったのか、この日を境に社長とは思いがけない親交が始まったのでした。


私はいよいよこれから先は執筆をつづけていくことが保証されたという安心感で、作品世界に没頭していけるようになったのでした。


 


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思い出作品の部屋☆ 思7 「出版までの一歩一歩」 [趣味・カルチャー]

  

出版界での作業のあり方にまったく不慣れであったことから、いろいろと困惑することが多いのですが、これまでとは違った異世界での作業です。これからも暫くは恥ずかしながら失敗を重ねることがあろうかとも思います。思えば初めて集英社で「青い鳥」を書いた時のことです。すでにかなり前にブログで紹介したことがあったと思うのですが、「宇宙戦艦ヤマト」であまりにも無理をした作業をさせられていたために、それから時を経ずに書き出したことが原因で、脱稿間近にして胃潰瘍になってしまったことがあったのです。あと100枚というところで激しい腹痛に悩まされてまったく書けなくなってしまい、慌てて出版を延期にして欲しいと申し出たのですが、懇願する私に編集長は「苦しいでしょうが何とか書き上げてくれませんか」といって、延期を懇願する私の申し入れを承諾してくれません。もう原稿が上ると判断して、その後の作業をさまざまな担当の部署に手配をすませてしまっているというのです。もしここで出版が延期となった時は、かなり多くの人の作業がなくなってしまうばかりか作業費を受け取ることもできなくなってしまうというのです。とうとう編集長の必死な懇願に負けて、近くの病院で特殊な治療薬を注射しながら、何とかそのピンチを乗り越えたことがありました。ひょっとするとあの時のことも、実は編集長のお芝居であったのかもしれません。どうも恥ずかしい第一歩のお話をすることになりました。


 お話を本来の予定に戻します。


 1980年を過ぎる頃からは、それまであまり宇宙を舞台にした所謂SFアクションといえる作品が作られ過ぎたために、脚本を書いていた私ですら少々食傷気味になってしまっていたくらいで、何か毛色の変わった作品と巡り合いたいと思い始めた頃のことでした。それで「宇宙皇子(うつのみこ)」の原点となる発想をし始めたのです。テレビ界全体が勢いを失ってしまって、新たな転機を模索している時のことですが、それに拍車をかけたのは「脚本家も四十歳を越えた人はいらない」などと、かなり挑戦的なことを発言した某局のプロデウサーが現われたこともありました。時代の変化が進みつつあることを実感させられたのですが、彼はさまざまな映像関係者から非難されて、現場の視界からは見えないところへ移されてしまいました。ちょうどこの頃問題の四十代を迎えていた私は、彼の発言に反発を感じながらも、物書きとして生き残っていくために何をしなければならないかということを考えるようになったのです。その結果若い頃夢に見たこともあった、将来は作家となって作業をしつづける時が来たのではないかと思い始めたのです。かつてドラマからアニメーションへと転身した時もそうでしたが、時代の流れが私をその方向へと押しやったといっていいでしょう。放送界の流れが大きく変わっていく流れが、今度は私を活字の方向へと押し流し始めていたのです。


 「宇宙戦艦ヤマト」の超ヒットの影響で、テレビのアニメーションはほとんど宇宙ものになってしまったために、脚本を書く者にとっても楽しみがなくなってしまいましたし、それを見る視聴者も不満が蓄積していったのでしょう。アニメーションだけでなく放送という事業そのものが危機的な状況になっていってしまったのです。時代が転換を求めてきていたのでしょう。それに応えようとして生み出したのが「六神合体ゴッドマーズ」という作品だったのです。番組は大変人気を得たのですが、実は私が次第に小説の「宇宙皇子」執筆に傾いていったのもその頃からのことだったのです。幸いなことにこれまでの脚本家としての実績を積み重ねてきましたし、ヒット作品もかなりありましたので、私を支えて下さるファンの存在も後押ししてくれました。大変不安はありましたが、いよいよ小説で勝負する時がやってきたのかも知れません。しかしそう思ったからと言ってすぐに転身できるわけがありません。それが具体的に小説として出版されることになったのは実に八年後のことだったのです。その間に新聞で絵物語として毎日曜日に連載という話があったりしましたが、それでは私の考えている物語のスケールではとても書ききれません。一回で書ける分量ではとても一年間の52回という回数では書ききれそうもないと判断しましたので、残念ながらそのお話はお断りせざるを得なくなってしまいました。その後には集英社からも企画の依頼があった野ですが、「宇宙皇子」とSFファンタジー作品の二つの作品の企画を持って行ったところ、結局選ばれたのはSF作品の方で「宇宙皇子」は採用に至りませんでした。間もなく誕生したのは「新銀河創世記伝」の「聖戦士キリー」という作品でした。やってみようという本人の希望は、さまざまな理由で採用されずに、あまり希望してはいない方向へ向かわされてしまうのでした。多少の救いといえば、この時は異色のイラストレイターである若菜等氏との出会いがあったことぐらいだったでしょうか。その後も小説や絵物語を書くお話はあちこちからあったものの、その度になぜかいろいろな条件が揃わなくて実現しませんでした。


もう「宇宙皇子」を実現することはできないのではないかと、絶望的な気分になりかかっていったのですが、しかしそれでもなぜか諦めきることは出来ずに、思いつくアイデアや、歴史的な発見などを書き止めていくようにはしていました。例えば役小角などはかなり年配者でありましたから、若い人に読んで貰う作品としてはちょっと問題になりそうでしたので、物語の中心人物としては若者を設定しておく必要があるということを決めたりして、その作品の方向付けについての研究をしたりしながら、作品に血肉をつけていくのに費やしました。そしてその企画が取り上げて貰える時を、根気よく待ちつづける状態になっていたのです。


もう駄目かと諦めかかっていた時のことでした。


きっかけを持って来てくれたのが少年画報社の編集者で、「銀河鉄道999」などを担当していたS氏でした。私とも雑誌の原稿執筆でかなり関係があったのですが、たまたま打ち合わせをしているうちに、彼が角川書店のアニメーションにも関係していたことから小説の話になり、すでにブログで紹介した通り「角川で書いてみませんか」という話に発展したのです。


思わぬことで私はA編集長と出会うことになったのでした。


直ちに長年温めていた「宇宙皇子」の企画を出してみたのです。まさに縁というものですね。これまであれこれと事情があって実現しないものが、とんとん拍子で話が進み、会社での会議でも編集長の努力のお陰で何とか出版に向って走り出せたのです。


兎に角私はこれまで映像の世界に長く留まっていたこともあって、ほとんど出版界での暮らし方ということについては、その実像についてはほとんど知らないといっていい状態です。私が原稿を渡した時から、これまでまったく知らない人々があの本にかかわって動き出していて、その分予想もしないことが持ち上り始めたのでした。


 アニメーションなどという、まったく異世界から参入してくる者への拒否感があったのかも知れませんが、時代の変化ということもあったのかも知れません。新たな物を求める流れは、じょじょに出版にも浸透し始めていたに違いありません。しかしこれまで映画界と同じで長い歴史を積み上げてきている出版界です。かなり変化しつつあるとはいっても、その態勢はかなりの岩盤が存在しています。どうやら私はまたそういった流れからははじかれそうになりながら、頑張らなくてはならないと決心していたのでした。


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思い出作品の部屋☆ 思6「締切りとの挌闘!」 [趣味・カルチャー]

  

 1984年3月24日・異次元童話 宇宙皇子巻1「はるかに遠い都よ」脱稿。400字詰めの原稿用紙で480枚という大作でした。これまではテレビでの30分番組の脚本を、殆ど200字詰め原稿用紙で50枚か60枚前後で一話を書き上げてきましたが、流石に400字詰め原稿用紙で480枚を超えるというと、その重量感は格別の感慨があるものです。


 私はこれまで何度か宣言してきた通り、それをきちんと守って、約束通り月末あたりという期日よりも前に原稿を脱稿いたしました。


 最後のページを書き終わった時には、


 「書き上った!」


 誰に言うということもなく声を上げて吐き出すと、もう次の瞬間には、机の下から毛布を引っぱり出して体にかけると、そのまま爆睡してしまったのでした。


目覚めたのは翌朝昼近かったのではなかったかと思います。


今から考えるともう40年近くも前のことですから、その時のことはすべての記憶がおぼろになってしまっていて正確なことはお伝えすることができません。特に特徴的なことだけが甦ってくるのですが、中でも筆記用具での円鉛筆は一本や二本という限られた鉛筆では、絶えず削らなくてはなりませんから、かなり無駄な時間つぶしをすることになってしまうので、私はその無駄な時間つぶしをしないために、気持ちが乗ってきた時にはそれを途切れさせないために、少しでもその手を休めないで書き通すために、三菱鉛筆の多少芯が柔らかくて手に負担がかからない「B」と決めて書きました。その数は200本くらいだったと思います。


はじめは著名な会社が制作した万年筆がその時のために何本も保存してあったのですが、結局テレビ時代の習性もあって鉛筆での執筆にしました。俄かに使い慣れていないもので挑戦することにすると、結局思うようにはならずに、余計な時間を潰すことになってしまうと考えたからです。やはりこれまで慣れている鉛筆で書こうと決めましたのでした。200本くらいの鉛筆をすべて削っておいて集中的に使い、書けなくなったら直ぐに新しいものと変えていきますが、200本も削ってあればそう短時間で削らなくてはならなくなるということもないでしょう。執筆の途中でいちいち削ったりするために、乗っている気持ちを途切れさせるようなことにはならないと思います。


それに・・・これまで文芸誌などで読んでいますと、ほとんどの作家は原稿を万年筆で書いているために、その途中で気がつくところがあれば何度も同じところに書き入れてしまうことになるようです。如何に精魂込めて書いたかということは推測できるのですが、気になるところの訂正箇所があまり多くなると後で読み返す時には却って読みづらい原稿になってしまって、修正箇所を確認するだけでもかなり神経を使うことになってしまいます。そこで私は兎に角最後まで綺麗な原稿で脱稿しようと決めたのです。書き直したくなった時にはそのページの原稿はすべて放棄してまた同じところをはじめから書き直しました。出版社に渡った時にはすべてのセクションの人が、これまでにない綺麗な原稿だと思って見てくれたに違いありません。当時は角川書店で書いている作家の中にも悪筆の作家がかなりいて、その作家の原稿を読む人は専門の担当がいたほどです。そんな中で私の原稿は異色であったことでしょう。


作業中に例のS氏が時々調子はどうかと電話をかけてくれましたが、原稿の進行状況は直ぐに編集長に報告されていたに違いありません。A氏からは原稿執筆の依頼を頂いてから、その後はまったく催促がましい電話がかからなかったのは、ひとえにS氏のお陰だっただろうと思います。お陰様で私はまったく自分のペースで執筆に集中することができたように思います。記念すべき小説の第一作は二十数日で書き終えてしまいました。これまで出版社と作家の間にはほとんどの場合、その締切りの期日を守らせようとする出版社と、少しでも思いのまま書きたいという作家の引き伸ばし作戦がぶつかり合って、大変な舌戦が繰り広げられるのだと聞かせられていたのですが、私はテレビ時代に締め切りをきちんと守る事を心掛けてきましたので、少なくともそんなことでは迷惑を掛けないで済ませることができました。


          「宇宙皇子・はるかに遠き都よ・タイトル」1.jpg 「宇宙皇子・はるかに遠き都よ・生原稿」1.jpg


翌日の午後目覚めてから、改めて机上に置かれた480枚という分厚い原稿を見た時の感動は格別のものだったと思います。現在保存してある分厚い原稿を改めて眺めていると我ながら圧倒されてしまうのですが、それと同時に、はじめて本格的な小説に挑むという当時の思いが甦ってきてしまいます。


25日の午後に高揚する気分で角川書店のA編集長に連絡を入れると、彼は「上がりましたか」とびっくりした口調で言うと、「ご苦労様でした」と労を労ってくれると、近々取りに伺いますといって電話は切れたのでした。きっと愛車を駆ってすっ飛んでくるだろうと思って待ち構えていたのですが、それからが問題だったのです。


それから何日待ってもA氏がやって来る気配はありません。一週間近くたったところで、依然として姿を表さないばかりかまったく連絡がなくなってしまったのです。兎に角三月末までという締め切りを決めた以上、絶対にそれを破らないという固い決心で作業にかかった私は、日常生活で無駄な時間を費やさないために環境を整えて集中してきたのです。編集長の喜ぶ姿が見られると内心ワクワクとして待っていたのですが、まるまる一週間も連絡がないままだったのです。


 脱稿の興奮で張り詰めていた気持ちが、日一日と冷めていき始めましたが、それがついに怒りに変わっていってしまったのでした。連絡があるまで待ちきれなくなった私は、はじめてのおつき合いであるということも忘れて、電話を掛けてしまいました。ところが悪いことにたまたまA編集長が出てしまったのです。


「編集長の言った締め切りを守って原稿を仕上げたというのに、一週間も音沙汰なしというのはどういうことなのですか」


詰め寄ってしまったのです。ところが編集長はまったく慌てた様子もなく笑いながら、「すみませんでした」と応じてきたのです。もうこれを読んでいらっしゃる方は、大方見当をつけていらっしゃるでしょうが、実はほとんどの作家が念を押されても「わかった」と言いながら、ほとんど締め切りを守らないのが常だったのでしょう。そんなことから編集長は、多少脱稿が送れるのを計算に入れて三月下旬といったのです。つまり「サバを読んで締め切りを伝えて帰ったのでした。流石にこの結末には、拳を振り上げてしまった私の負けでした。兎に角締切り厳守ということを基本に作業を進めてきていた習慣が、すっかり身に染みていたことから出版界も同じような世界だと思い込んで抗議してしまった、キャリヤのわりに初心(うぶ)な姿を露呈してしまったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放80「意地悪な自問の襲来」 [趣味・カルチャー]

  

脚本家としての作業から離れて活字の世界に没頭していると、時々休息している時などに気になるのは放送界のことです。これまで長いこと夢中で番組の好不調に気遣いながら、必死で脚本を書いつづけて来たのですから、その思い出多い世界での作業の記憶を、一切払拭してしまうということが出来るわけはありません。しかしそんな記憶をある日から突然断ち切って、活字の世界という不慣れな成果での一歩を踏みしめて歩き始めたところなのです。活字に集中している日常から神経を止めて休息することにすると、つい先ごろまで活動していた世界の空気が流れ込んでくるのです。


「超獣機神ダンクーガ」のスタート原案構成脚本は協力できたものの、それから後はすべて総監督就任した奥田氏にお任せして、若い脚本家の弟子に任せきりにしました。一人は「宇宙戦艦ヤマト」制作の末端で働いていた関係から弟子入りを志願してきた若者で、のちにゲームの「ファイナルファンタジー」でヒットした寺田憲史。もう一人はその後輩で「プラレス3四郎」から弟子となった、のちの「ポケモン」でヒットした武上純希です。何とか私の期待に応えて、それぞれ頑張ってくれていると思うのですが、それまで何度も名称を変えることになっていた番組のタイトルも、どうやら「超獣機神ダンクーガ」ということに決まったようでした。二人の新人脚本家を相手に総監督の奥田誠治氏は頑張ってくれているようですが、葦プロの担当であるK氏と旭通のK氏も何とか時代の要求に応えて、何とか目立つ番組にしたいと努力してくれていたようです。


そのお陰で私は「宇宙皇子」の執筆に精を出すことができたのですが、そんな間にも、番組関係者から作業の進行が判るようにという資料が送られてきます。


          「獣戦機ダイガン・スタッフ」1.jpg 「獣戦機ダイガン・構成表」1.JPG 「超獣機神ダンクーガ」1.jpg


しかしそれを改めて眺めていると、テレビの仕事を断って小説を書くために没頭していることについて、思わず斬鬼の念に駆られてしまいます。もう番組のことであれこれと口を出すことはなくなりましたが、それだけにこうした束の間の休憩時間には、ふとこれまで夢中で作業をこなしていた頃のことを、思い出してしまうことがありました。


テレビの仕事を本格的に書き始めた「宇宙戦艦ヤマト」の頃などは、ほとんど家庭生活などというものには気を使えない無茶苦茶なスケジュウルで仕事をこなしましたが、それが終わった頃からは時代の変化もあって、次第に会社の経営にも変化があり、その社員の働き方も変化がありました。忙しいとはいっても土曜日から日曜日などは、放送局をはじめ映像関係会社も休みを取るようになってきましたので、私に連絡してきたり打ち合わせをしに来たりする担当者もお休みということになって、そのお陰で完全に自由な時間を使って拘束を感じないままで脚本を書くことができました。精神的に大変リラックスした状態で作業を進めることができたのです。これまであまり触れあってやれなかった二人の娘を連れて、自宅の周辺の散策や、美術館・博物館・レジャー施設・公園などへ出かけることもできるようになりました。しかし映像時代での基本的な仕事である脚本書きについてはすべて家庭で行ない、原稿ができるとテレビ局の制作部、アニメーションの制作プロダクションの文芸室、特撮制作の文芸室・アフレコのダビング所などへ出かけてツメの作業をすることになるのです。土日を除いてはほとんど家族との楽しめる時間は取れませんでした。


ところがそんな中で1984年の二月からは、同じように自宅での原稿執筆が中心で、放送時代のような毎日忙しなく出かけるということはなくなりました。しかしこれまでとはまったく内容の違った作業になりましたので、その分今回は活字との必死の挌闘をするようになってしまいましたから、またまた家族とゆっくり楽しめる時間などは取れなくなってしまいました。自由にふらふらとしていたら締め切りに間に合わなくなってしまいます。そんなことにならないためには、かなり集中的に書かなくてはなりません。かねてから文芸誌などで知られている作家の生活ぶりは、かなり自分流の生活のリズムを守るために、家族ですらその作家の時間を邪魔することは許されませんでしたし、原稿の締め切りにしてもあってないようなもので、書けないとなれば出版社と激しくやり合いながら、あくまでも自分のペースでやり通していたようです。しかしそんなことが許されたのは戦前の作家のことで、戦後のしかもかなり時を経た昭和、平成時代ともなると、だんだんそういうことでは許されなくなってきています。ある程度はきちんと守らないと出版社からは嫌われてしまうことになってきています。私は映像の世界でも時間の制約の多いテレビの仕事をしていたこともあって、ほとんど決められた時間を外すようなことはしませんでした。私は性格的に几帳面なところがありましたので、人に迷惑をかけることは極力避けたいという気持がありました。そのためにほとんど九割以上きちんと締め切りを守っていたつもりです。そんなわけですから仕事の世界は変わっても締め切りを守ろうとする気持ちはまったく変りません。兎に角三月いっぱいまでには、きちんと編集長に渡したいと思っているのです。


数か月前に身辺に変化が訪れたために、ふと小説を書こうと思っているという心境をS氏に打ち明けたのがきっかけで、その話が次第に急テンポで進み出してしまい、こうして小説の原稿を書くようになったのですが、兎に角慣れない分野での仕事ですから、気を散らしていることもできませんから、これまで生活の基盤であった映像の世界に関してどうしようとするのかということなど、まったく考えてもいませんでした。


しかし冷静になって考えてみると、もし今回の試みが成功しない場合には、また映像の世界・・・つまり放送界へ戻らざるを得なくなってしまうのですが、簡単に復活することができるのだろうか・・・かなり不安な自問の声に襲われてしまったのです。勿論今回小説を書くことについて、わざわざそれを発表してこれまでの映像界にさよならをしたわけではありません。それでも私の動きについては、もう噂として広がってしまっているでしょう。そんな状態になってしまった中で、もし小説への挑戦に失敗してしまったら、「やっぱり古巣へ戻ってきました」などと言って、平気で復帰するなどということができる訳はありません。私自身のプライドもあります。現実にはそんなことがすんなりとできる訳はないのです。それでも現実に放送が予定されている番組を降りたりもしているのです。そのことについては、自然に業界に広がっていくでしょう。活字の世界への転身を試みている以上、やがては出処進退についてはけじめをつけなくてはならなくなると思うようになったのでした。ふと原稿を書く休息時間というその心の隙に分け入ってきた、予想もしない自問のお陰で、やがてはそれにはきちんと応えなくてはならなくなるなと言い聞かせたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放79「アニメでは成功したが・・・」 [趣味・カルチャー]

  

既に前にお話したことがありましたが、かつて電通へ就職した大学の後輩から、アクション番組である「月曜日の男」というドラマや特撮の「ウルトラマン」などを書いていた新人脚本家の私に、「北欧に「ムーミン」という作品のテレビ化という話があるのですが、やってみる気はありませんか。もしその気がありましたら、担当部長に逢ってくれませんか」という話があったことから、早速M部長に面接を申し出たのですが、彼は「ウルトラマン」が書けるなら「動画」も書けるでしょうと、大変軽い受け止め方をされて、新しい番組の企画を執筆するように依頼されたのです。そんなことで私はまったく未知の世界へ足を踏み入れることになったのでした。


その頃はまだ「動画」の世界は一般的にあまり高い評価を得ているということもありませんでした。いわゆる子供のための番組といった程度の受け止められ方だったと思います。しかし漫画家の手塚治虫氏が設立した「虫プロ」がその中心で、手塚氏を師として仰ぐアーテイストが集まって作業をしているプロダクションが、一寸は目立った存在であったくらいだったと思います。どうしても作業の中心はあくまでも漫画家が雑誌に書いた作品が中心で、それを映像化するために必要な脚本を書くという作業などは殆ど問題にされない状態だったはずです。そのころはドラマという世界で脚本を書いていた私にとっては、「動画」という世界はまったく未知でしたが、兎に角ドラマの作家とはいっても、少しでも稼げる世界という気持が旺盛な新人作家でもありましたから、興味本位の気持ちで参加してみる気持ちになっていたのでした。電通の指示もあったのでしょうか、「アンデルセン童話」の「親指姫」を素材にした作品を書いてみて下さいといって、虫プロの新人脚本家S氏とH氏がやってきたのです。


仕事の依頼を済ませた後での雑談になると、彼らは「動画」の世界の現状がどういう状態であるのかという話をしてくれたのですが、それはいつからかドラマ作家である私に対する訴えに変わっていったのです。兎に角漫画家が中心になって作られている集団ですから、まだ脚本家という仕事をする人などへの配慮などというものはほとんどなかったようで、脚本家が大事にされるドラマの世界で仕事をしている私に現状を訴えてきたのです。私は二人の冷遇される動画界の脚本家の立場に同情して、現状打破のきっかけを作りたいという気持が高まってしまって、その日から「動画界」で活動をしてみようという気追った気持ちでその一員となったのでした。


やがて数年後には出版社の小学館で、漫画の原作を書くきっかけを与えられた私は、幸運にも「さすらいの太陽」という歌手を目指す少女の生活を描いて大ヒットさせて、やがてテレビ化されることになったのです。私はその原作者として俄かに注目されるようになったのですが、それでこれまでの動画界の差別感を一掃できたかというと飛んでもありませんでした。まだまだそんな状態になるわけではありません。いろいろと紆余曲折あって苦闘しながら、「動画界」という世界に馴染んでそれなりの作品が書けるようになったこともあって、その後「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「ウルトラセブン」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」という超ヒット作品と巡り合い、視聴者の支持も獲得することになりました。それらを書いていった脚本家としても注目されるようになりましたが、その後「動画界」自体も時代の進展と同時に「アニメーション」などというハイカラな名称に変わって、今日の隆盛を誇る世界にまでになっていきました。そして脚本家という存在感も、それなりに認識して貰えるようになったのです。それでも放送界へ足を踏み入れた1958年にラジオ番組に参加してから、30年弱という年月を経ると、その主戦場として活躍したアニメーション界での仕事も、じょじょに減ってき始めたところから、新たな活動の場を求めて活字の世界の開拓を始めたのでした。


そんな機会に、幸いにも「宇宙皇子(うつのみこ)」という古代の歴史ロマン作品を執筆することになったのです。しかしこれまで映像の世界で成功したような、実績を上げられるかどかはまったく判りません。かつて「ドラマ」の世界から「動画」界へ転身した時と同じように、まったく未知の世界を切り開いていなくてはならないという、まったく不安な状態に身を置くことになったのです。うまくいくかいかないかはまったく見当もつきません。兎に角「宇宙皇子」という作品をもって活字の世界へ足を踏み入れたのでした。物書きという作業のうち映像の分野では、脚本家としてかなり実績も積み上げてこられましたが、いよいよ初めて本格的に活字の世界へ足を踏み入れたところで、作家としてはどんなことが起こるか判りません。これまで書いてきている何冊かの小説は、こうした世界へ足を踏み込むための習作だったように思います。しかし仕事の世界を変えようとするきっかけのような時ですから、果たしてそれを知った映像のファンたちは私の新天地への転身に興味を持ってくれるのか、それとも拒否の反応になってしまうのか判りません。大変不安になり始めたある日のことです。


 代理店の旭通から連絡があり、新番組の企画に参加して欲しいという依頼がありました。実はようやく活字の世界という新天地に、活躍の場を求めて活動し始めたところだったのに、何と久しぶりにテレビ番組への企画です。気持ちとしては直ぐには承知できませんでした。しかもその内容はどうやらロボット物のような作品にしたいようです。これから挑もうとしている活字の世界とは真逆の世界の話です。


予定では1985年4月に始める予定だということで、もうあまり時間的な余裕はありません。切羽詰まったのは私だけではありませんでした。代理店の旭通の担当である「プラレス3四郎」以来付き合いのあるK氏はもちろんのこと、制作会社も葦プロという新興会社です。総監督に決まっていた奥田誠治氏も早く番組の制作ができる状態にしないと春の放送に間に合わなくなってしまいます。企画書には、「獣戦機ダイカン(仮題)」と書かれていました。


                                            「獣戦機ダイガン企画」1.jpg


 ついこの間まで日本の古代という時代を背景にして、戦乱のために父親を失った農民の子が、権力者への戦いに立ち向かい始めるという話を書いていたところです。そのための緊張感を失いたくありませんでした。これから先の展開にかかわることになる、一巻目の原稿を書くためにすべての生活をそのために没入していたところです。ここでいきなりロボット物に頭を切り替えて、未来向けのSF作品に気持ちを切り替えることは無理であることは明らかです。いくら器用に書きこなす能力を持っているといっても、兎に角気分を古代からいきなり超未来の戦闘物に気持ちを切り替えることは困難です。


 私は現状の状態を説明して引き去ろうとしましたが、これまでの付き合いから、とにかくはじめだけでもかかわって貰いたいという旭通のK氏の懇願もあって、総監督に決まっている奥田誠二氏と共に企画の原案となるものをある程度固めた上で、スタートだけでも脚本をまとめることにしたのでした。それでも何とかスタート台本をまとめたところで、全体的な構成をまとめると同時に、私の弟子となっている若手脚本家に進行を任せることを、K氏にも承知して貰い、私は番組の制作からは暫く退かせて頂いたのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言28「ひとくち言霊」(赤飯) [趣味・カルチャー]

                                                                                                                         「若菜イラスト」.JPG

  

昔は・・・もちろん今でもないとは言えませんが、お祝い事があると、大抵の家ではお赤飯を炊いて祝ったものです。


ちょっと高齢の方であったら、ほとんど抵抗感もなくそういうものなのだと思っているはずですし、おめでたいことでもあれば、自分から今日はお赤飯にしようなどと指示してしまうはずです。そのくらい一般的に浸透している生活習慣だったのですが、昨今はどうして祝う時にお赤飯なのかといった理屈が判らない人も多くなってしまっているためか、それを祝い事がある時に用意するという習慣も次第に過去の遺物となってきてしまっています。高齢者にはちょっと残念な気がして仕方がないいでしょう。生活習慣が変わって、米飯からパン食になったこともあるでしょうね。今日はこの赤飯の原点が、赤米(あかまい)というものだったということをお話したいと思っているのです。


まだ米が、今のように豊かに取れる時代ではなかった古代のことですが、一般的には五穀・・・麦、粟(あわ)、豆、黍(きび)、または稗(ひえ)を常食としていた時代のことです。所謂、米というものはとても庶民の口には入らない貴重品でした。しかし、仮に古代という昔々ではあったとしても、何か喜び事があった時それを素直に表現したいと思ったり、表現してあげようと思ったりしたはずです。そうかといって、特別贅沢などというものが出来るはずはありません。ほとんどの人が農民でしたから、苦心して祝い事をするとしたら、農作業にかかわりのあるものでしかありません。そこで登場してくるのが赤米というものです。


ちょっと話が飛びますが、京都には丹波(たんば)というところがありますね。あの丹波という名称は、丹()の波・・・つまり赤い色の波ということで、赤い稲穂が波打っていたことから起こったものなのです。これこそが赤米の原点なのですが、こんな米が誰にも自由に手にすることができるわけはありません。白米同様こうした貴重な赤米は、滅多なことでは手に入りません。それだからこそ貴重な食べ物だったのですが、農民たちはそれを、本当に祝いたいようなことがあった時のために、わずかに備蓄しておいて食べたというのです。つまり赤米はよほどのことがなかったら口に出来ない食べ物だったのです。そのようなことから一般に祝い事がある時には、大事な赤米を食べるという習慣が出来るようになっていったのです。


やがて農作業の技術進展で、米も作られるようになって、わざわざ赤米を生産しなくても、小豆(あずき)を使って米を赤く染めることも覚えました。そんなことから、祝い事がある時には、赤米ではなく小豆を使って赤くした所謂赤飯を出すことになったのです。赤米が滅多に口には入らない、貴重な食べ物であったことから、それに類似した赤飯を祝い事のある時に食することになったのですが、パン食が浸透してしまった昨今では、とにかく隅っこへ押しやられてしまったお赤飯ですが、せめてその原点の意味ぐらいは、知っておいて欲しいと思って書きました。


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告知と放談の部屋☆ 放78「新たな世界への挑戦」 [趣味・カルチャー]

  

時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくると、ものの考え方も変化してきます。ああいう「ベテランはいらない」などというような、無茶苦茶なことを言う者は仕事の世界から排除されてしまいましたが、これでいいという訳にはいきません。私はそういった時代の変化が激しくなってきていた時から、これまでアニメーションという世界で中心的な仕事をしてきましたが、年齢を重ねるに従って大変仕事の展開が難しくなるという予感が払拭することができなくなっていました。それでこれまでやりつづけてきたアニメーションの仕事を一旦お休みにして、活字の世界への道を探ろうとし始めたのです。


1984年は2月テレビの仕事から離れて、奈良県の飛鳥へ取材旅行へと出発したのでした。イラストを描くためのイメージを膨らませて貰うためにも、参考になればと思えるポイントを書き上げた資料を基にして、少しでもまとめて史跡を訪ねたいと思っていました。編集長のA氏・イラスト担当のいのまたむつみさん・話のきっかけを作ってくれたS氏と共に旅立ったのでした。


 新しい世界への第一歩をしるすことになる時の、緊張感と躍動感が知らず知らず湧き上がってきます。奈良へついた時にはすでにハイヤーが準備されていましたので、それを駆使して一日八時間も飛鳥古京の主だった史跡を転々と回って、必要な舞台をこの目で確認していったのでした。


                                    「飛鳥史跡歴訪」1.jpg


  


出版の準備としては、兎に角私の原稿が仕上がらないとすべてが動きません。その日から旧藤川家のあの部屋で、夢中になって執筆の作業に入りました。これまでのアニメーションの執筆とは違った作業の始まりで、この日から家族との日常生活は極めて窮屈になってしまいましたが、今思うとよくあの日から娘たちも良く我慢してくれたと思います。


しかし私も映像の仕事から変わる決心を秘めていましたから、気楽に書ける状態ではありません。一応構想は固めてはいたのですが、そのタイトルについても一巻一巻に特色を持たせたいと思って工夫しましたし、その内容についてもあれこれと試行錯誤しながらスタートの話について構想を固めていったのでした。予定では三月末までに脱稿するつもりで六月出版ということですから、兎に角私の執筆が順調に上がらなくてはイラストを描く準備もできなくなってしまいます。


兎に角何もかも忘れて原稿の執筆にかからなくてはなりません。


 時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくるとものの考え方も変化してきます。あの某局のプロデユウサーのように、如何にも新しがって暴言を吐く者も出てきたりして、世間の常識人たちをびっくりさせてしまったりします。しかし私は彼を笑って見過ごすだけで無視してしまえばいいとは思いませんでした。彼があのような遠慮のないことをいってしまうのにはそれなりに根拠があると思って、ああいう発言に至った背景を推理しながら、将来に向けた仕事の展開ということを考えると、決して安閑とはしていられない時代が来ているのだと思うようになっていたのです。これまでアニメーションの世界に中心的な仕事をしてきたということについても、かなり真剣に考えて見なくてはいけないと思うようになっていたのです。仲間の中には実力だけあれば心配はないということを言う勇者もいましたが、果たしてアニメーションの番組を書くことに安住したままでいられるのだろうか。つまりサブカルチャーは所詮サブカルチャーに過ぎないということなのです。日本を代表する文化としてしてはあくまでもサブでなくてはならない存在なのだということなのです。日本そのものであるという本質を追及していったものではないのです。その評価が文化の担い手として厳然と確立されてはいません。そろそろアニメーションは次代の時代の感性を掲げた旗手たちに任せて、前の時代の旗手たちは別のカルチャーへ挑戦することを余儀なくされる時がきていると思ったのです。幸いなことに年齢的にはまだまだ若かったこともありますから、新たな世界に挑戦するにしても、気力も体力も充分に立ち向かえるものがあるのです。


 私は四十歳を越えていますが、影像とは真逆の活字の世界へ挑戦し始めたのでした。


 机の下に毛布を潜ませておいて、疲れたらその毛布を退き釣り出して体にかけて休みますが、ほどほどに頭を休めるとまた執筆をつづけるという繰り返しをしながら書きつづけました。


 これまではじめて書き下ろした「さすらいの太陽」ははじめて小説らしい小説を書いた時は、今思いだすだけでも恥かしくなる経験をしましたが、その後はノベライズ作品を含めて、何冊かのSF作品を文庫で書いてきたお陰で、かなり活字作品を書くということが、脚本を書くということとは大分違った修練になっていたのだと思えました。大分気構えが違っていましたので、それが負担になって苦しくなるということはありませんでした。その分今回は版型も新書版という成人向きの作品になるということで、別に勢いづく気分を味わうようになっていました。


 もう余計なことは一切考えないことにして夢中で書きつづけました。


 ゆっくり階下の部屋で家族と一緒に食事をするということは諦めて、握り飯とみそ汁を運んで来てもらって、執筆の勢いを止めないようにしました。


 お陰様でこうした切羽詰まるような作業をしながら、締め切りをほとんど破った事無く大量の作品を書きこなしてきたこともありましたので、小説だからと言ってまったく進行のペースが崩れるということもありません。


 事件が壬申の乱で主人公の父親が戦死するところから始まるということもあって、さまざまな資料を机の周辺に置いて、直ぐに役立ちようにしておきましたが、かつて設定のイラストが次々と運ばれえきて、それに目をとしながら脚本を執筆していたことになれていましたので、特に面倒と思うようなこともなく過ぎていきます。こうした形での原稿の執筆は、テレビの脚本の執筆していた頃と変わりはありません。編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで作業はしつづけていたのでした。


 時々紹介者であったS氏はやって来て立つ団で気分転換をしてくれましたが、きっとそんなことをしながら私の筆に進み具合を探って、「火の鳥」の制作で関係のある編集長のA氏に報告をしているのかもしれません。時々他の作家たちはこんな風に締め切りを引き延ばすのですよなどと、強引にも約束通りに書かせようとする編集との攻防戦を面白おかしく話してくれたりして、私の緊張を解いてくれたりもしたのでした。


そんなことがあるので、編集長のA氏はまったく「調子はどうですか」などと様子を探るようなこともありませんでしたので、静かに書かせておいてくれたのでした。


来る日も来る日も書斎からほとんど離れずに、編集長と約束した締め切りは絶対にはずさないつもりで書きつづけたのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放77「変化を求める時代と戦えるか」 [テレビ]

  

私がいよいよ「宇宙皇子」の原稿を執筆し始める頃のことでしたが、テレビ界にはついに激震が走っていました。言うまでもなくあの某局のプロデユウサーによる暴言に対して、ついに大手の映画会社の現場から局に対して抗議が持ち込まれたからです。映画といえばベテランのアーテイストが大活躍している世界です。それを否定するかのようなあの発言は絶対に許されるものではありません。ベテランが存在することで、映画界では新人ではとても達成出来ない作品を生み出せてきましたし、新たな担い手を育てることにも貢献している存在です。


「四十過ぎたら現場には必要がない」というあの発言は、許せるわけはありません。


今後某局との付き合いも断たざるを得なくなるという申入れがあったのでしょう。ついに「GUGUガンモ」の担当で登場した部長は、その役職からも離れることになってしまったのでした。しかし私は彼があのような発言をする前から、その頃の時代の激しい変化の様子を見つめながら、その背景にあるものは何なのか、そしてその変化によってこれまで必死で歩いてきた脚本を書くという世界が、これまで通りでいられるのかそれともかなり変化していってしまうのだろうかとかなり不安になっていたのです。あのプロデユウサーの暴言の背後には、時代が秘めている問題が込められているのではないかとも思うようになっていたのです。彼は彼なりに時代についての受け止め方に対する根拠があったに違いないとありません。しかしそれにしても「これからは四十を過ぎたベテランは必要ない」などという暴言は、あまりにも不用意に公言したとしか言いようがありません。たまたまあの頃私が四十歳を越えていたこともあって大変気になったのですが、現実的にこれから先まで仕事をしつづけることが可能であるという保証は得られそうもありません。今のままでは脚本家として生きつづけられそうもないと考えました。業界ではより活力に満ちた、若い人の感性が求められるようになってきています。年齢が高くなるのにつれて、仕事もこれまで通りにやりつづけられなくなると考えるようになっていたのです。年齢を重ねても核という仕事がしつづけられる世界を開拓するつもりもあって努力をしている最中でしたが、そんな時にあの暴言に出くわしてしまったのです。仲間たちはあの暴言を聞いてどう思っていたのだろうかと、訊いてみたかったのです。そしてあのような発言の背景にはどんな問題があるのだろうかと推測していたのです。


 そんなある日のこと、私が小説を書き始めたという噂を聞きつけた同業の友人が電話をかけてきました。やはり昨今のテレビ局の様子や、仕事についての変化についての話に及んだのですが、若い人を対象にした番組がかなり変わろうとしていることから、これからの仕事の組み立てについては、かなり考えないと苦しくなるのではないかと進言したのです。しかし彼は意外にも時代の変化にはまった無関心で、


「実力さえあれば心配ありませんよ」


私の心配に対して自信たっぷりな口調で一蹴してきたのです。


どうやら彼はドラマ界の人との付き合いがあって、その世界の空気に影響を受けているようで、現在彼が頑張っている世界は、時代の要求を一番受けやすい若年用の世界です。結局私の心配は杞憂であるということで終わってしまい、逆に私は励まされて終わりました。しかし私はそれからも某局プロデユウサーの発言の背景には、時代の要求という問題が潜んでいたのではないかと思うのです。果たして彼は変化を求める時代の勢いと戦い抜けると思っているのだろうか・・・どうも彼の楽天主義には同調できませんでした。そして暫く前に、彼の奥さんから受けた相談について思い出していたのです。どうも彼はあまり仕事に夢中になる性格ではないらしく、いつも暮らしに支障を生じるぎりぎりで頑張っているのを誇りに思っている問いのです。時代の変化に敏感な奥さんは、それに備えてもう一寸真剣になって貰いたいので、何とか彼にアドバイスして欲しいと頼まれていたことがあったのです。しかしどうしても彼のプライドが邪魔をして、時代の変化にはほとんど気にする様子がありませんでした。実は同じようなことで相談をしてきた奥さんが別にもあったのです。しかし私は仕事の展開について、今のうちに将来の設計をしておかないと仕事がし難くなりそうだから用心しておくようにと念を押しておいたことがありました。きっと彼らは私のことをかなり心配性であるという風に思ったでしょうね。それにしても同じようにアニメーションの番組にかかわっている脚本家たちは、仕事についての変化が表れてきているという現実をどのような気持ちで受け止めているのだろうか・・・。時代の要求を無視てこのままつき進もうと思っているのだろうか・・・。少なくともベテランといわれる人は、もっと広い範囲の視聴者と勝負できる世界に活路を見つけ出しておかないと、これまで通りのアニメーションの仕事をつづけるのはかなり困難な時代がやって来そうに思えるのですが・・・。


そんな不安もあって、私はカナメプロからの相談があった時、映画への挑戦をしてみないかと提案して、今までよりも広い世代の人を対象にした作品作りをしようとして、「ウインダリア」という映画の素材の開発にかかったのでした。


どうもここまでくると、同業の脚本家でも四十代を越える人には三つのタイプがあって、はじめから実力があればどんな状態に世の中は変わっても、仕事は切れないと言い張っている人がいるかと思うと、大手の番組制作会社と縁が深くなっているという関係があって、たとえ社会の変化が訪れても最低の支援はして貰えると思っている人、そしてもう一つは私のように、まったく自分の判断で新たな進路を決めようとする人ということになるのですが、何といっても若い人を対象にした特撮、アニメーションにかかわって実績を積んできた人にとっては、いろいろな点で窮屈な思いをし始める人があって、出版部門への活路を求めようとして相談してくる人もありました。しかし俄かに転身しようとしても一朝一夕にはその道が開けるわけはありません。兎に角小説として書くための素材を真剣に開発しておく必要があると、アドバイスしてあげるのが精一杯でした。思えば私が「宇宙皇子」の発想をしたのは、テレビ界全体が勢いを失ってしまって新たな転換を模索し始めた頃からのことで、もう八年も前のことなのです。脚本家についても四十歳を越えた人はいらないなどとかなり挑戦的なことを言われ始めた時、私はふたたび彼の発言に反発を感じながらも、物書きとして生き残っていくために、何をしなければならないかということを真摯に考えてみようとし始めたのでした。


「宇宙皇子」はまずそのための第一歩でした。


時代が目まぐるしく変わり、生活もさまざまなことで変化してくると、ものの考え方も変化してきます。将来に向けた仕事の展開ということを考えると、決して安閑とはしていられない時代が来ているのだと思うようになっていたのです。


「実力さえあれば・・・」


そんな自信とプライドに問題はないだろうか。


 時代の変化に敏感過ぎるのも問題ですが、まったく無頓着なのも問題だとつくづく思ったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア54「もうベテランはいらない」 [テレビ]

   

 1983年も秋になると、来年春にスタートする番組がどうなるかが決まる秋の番組の編成が決まる時期がきました。これまでかかわってきたアニメーションの世界も、かなり変化が表れてきたようです。番組の様子が変わるのももっともですが、それを支えてきていた視聴者も時を経るに従って大替わりしてきていました。


 どうやら「ゴットマーズ」を愛してくれていた視聴者も、新しい時代に向った番組からは遠ざかって、その次代を担う世代の若い人たちにアニメーションを後押しする主力として存在するようになってきたようです。そういうことに敏感なそれぞれの放送局は、すでにそうした傾向をキャッチしているのか、発表される番組の素材などを見回してもこれまでのものとはかなり雰囲気の違ったものが多くなってきています。そしてそれと同時に、それらの番組を執筆する脚本家も、男性に交じって女性脚本家がかなり参加してくるようにもなっています。つまりこれまで世の中の流れの中心となってきていた人たちに変わって、次代の若者が担い始めてきていたのです。それにつれて視聴者もこれまでの世代の人たちから次の世代の若者たちに変わってきていました。そうなれば彼らの好みも前の人たちとはかなり違ったものなってきていますし、その楽しみ方も変わってくるものです。そんな空気がまん延する中でした。ついにテレビの某局で部長に昇進したプロデュウサーのO氏は、怖いもの知らずといった調子で大胆不敵な発言をしてしまったのです。


「もう四十歳を越えたアーテストはいらない」


 随分思いきった発言をしたものです。


 このころ局内でも変化があったのでしょうか。これまで私たちもお付き合いがあった番組の制作にかかわってきたプロデウサーたちが、前面から姿を消していったのです。局内での勢力関係に大きな変化があったのでしょうか。


それにしてもあまり無遠慮な発言をしてしまったようです。放送関係者は直接関係がありすぎるために、多少及び腰になっていていたようですが、多少その関係に距離のある映像関係者にはその波紋が広がり始めました。映画の世界ではテレビとは比較にならない長い歴史を経ていますし、そこではさまざまな分野でかなり得意な力を発揮しているベテランが、かなり頑張っているのです。たちまし映画のスタッフから反発に火勝ちたようです。


ところがそんな最中のことでした。東映動画のYプロデウサーから私のところへアニメーション番組の制作に力を貸して欲しいという連絡が入ったのです。しかし私はこれまで経験している作業とは違った本格的な仕事として、「宇宙皇子」という小説の作業にかかろうとしているところなのです。何とかしてこのところの仕事の停滞ぶりから脱出するために、ついに八年間という年月を経て実現する機会を得たところだったのです。それを書き出す前に、確認しておきたいこともありましたのでその準備をし始めていたのです。気持ちが完全に出版の方へむき出しているところだというのに、東映動画からもたらされたのは、何と映像関係者から反発がくすぶり始めている、あの発言をした主である某テレビ局の、しかもあのプロデユウサーが担当する「GUGUガンモ」という作品だったのです。


ひょっとするとO氏の極端な発言は、Y氏が脚本を担当するメインとして私を推薦したことから飛び出した本音であったのではないかと推測したほどです。勿論そこまで考えるのは勘繰りすぎるかも知れませんが、兎に角私のようなベテランが番組制作にかみこんでくることにはかなり抵抗感があったに違いありません。しかし時代の変化ということで言えば、私もかなり前からそのことには実感していることもあって、なるべく番組の制作にはかかわらないでいようと考えていたところです。そんなところへたまたま紹介する人がいて、角川書店で小説を書くことになるところだったのです。


私は先日の発言には反発しているので、親しいY氏の依頼ではあるのですが、受け入れたくないと率直に答えたのです。ところがY氏は腹立たしい思いは理解するけれども、何とかスタートだけでもやって貰いたいといって引き下がらないのです。同じような問答を何度か繰り返しましたが、兎に角スタートの脚本をまとめてくれたら、誰か若手の脚本家に変わって貰ってもいいとまでいってくれるのです。どうやら彼もあまり番組には首を突っ込みたくない様子であることが判りました。問題のプロデユウサーも実績のある私が出て行けば、O氏もそう突っかかることもできないだろうという計算が合ったのかもしれません。兎に角穏便に番組をスタートさせたいという意図がよみとれます。ついにY氏の熱意にほだされた私は、兎に角一回だけは付き合いますということで、仕事を承知しました。


間もなく企画書がファックスで送られてきましたが、細野不二雄原作の「GUGUガンモ」という作品でした。かなり軽いギャグ漫画というもののようです。やはりあえて私がやらなくてもよさそうな原作です。恐らくOプロデユウサーも、これまでの実績から考えてこの番組には向かないと判断して、私の起用には反対していたのかもしれません。私は私で、「動画」と言われる幼児の楽しむサブカルチャーであったものを、成人たちが楽しめるカルチャーとして認めざるを得なくなった「宇宙戦艦ヤマト」で、アニメーションとしてはやり尽くしたという思いがあったのです。そろそろ別の世界での活路を開こうという意気込みに燃え始めていた時のことでした。しばらく前に「プラレス3四郎」で、カナメプロの社長と代理店の旭通の担当であったK氏からも、カナメには新人脚本家がいるので面倒を見てやってくれませんかという依頼があったのを思い出しました。それから彼の力量でこなせる話を書かせながら指導してきたところでしたので、彼を私の弟子として参加させることにしようということを考えたのです。この機会に一人立ちできればいいという思惑もありました。そこで新人脚本家のTを伴って打ち合わせに向うことにしたのでした。


確かな記憶が薄れてしまいましたが、局の狭い会議室のようなところでTを連れて対面しましたが、業界から反発が起こり始めているのを気にしない風に装いながら、実に事務的な打ち合わせをしてきましたが、私はもう二度と会うことはないつもりで、簡単に挨拶すると、それからはほとんど言葉も交わさずに、彼の要求を訊いているだけにしていたのです。すでにTには彼の要求をきちんと聞いておくようにと言ってありましたので、私はほとんどキャラクターにメモを書いたりして真剣には聞いていませんでした。


O氏もかなり私の手前おおへいな口の利き方はできないと思ったのでしょう。脚本の執筆については、いろいろな註文をつけてきましたが、ただ「はい。はい」と聞いていてるだけにして、弟子のTにすべてを託すことにしたのでした。O氏も私が乗っていないのを感じたに違いありません。そのまま簡単に打ち合わせを済ませると、弟子のTに次の脚本を書くように指示を始めたのでした。


実に白けたような雰囲気の打合せはそれで終わりました。


                                            「guguガンモ」1.jpg


約束通りスタートの台本を書きましたので、それからは新たな目標に向かった準備にかかることができるようになりました。いよいよ私自身の進路がかかっている「宇宙皇子」の取材のために、古都飛鳥へ旅立つことにもなりました。


しばらくはテレビの番組とはさよならです。


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告知と放談の部屋☆ 放76「古代作品が受け入れられるか」 [趣味・カルチャー]

  

これまで映像の世界では、視聴者という見えない相手に向って頑張ってきたのですが、結局今回もまた読者という姿の見えない相手を目指して戦わなくてはならなくなりません。すべては角川書店があの企画を承諾してくれるかどうかです。


 テレビの企画では、時代が要求しているものを敏感に察知して、楽しみながら何か心に残してもらえる話にするのが脚本家です。出版という分野では、これまでの経験がほとんどありませんから、改めて読者がどんなものを待っているのかということを考えても、これで絶対なのだという自信を持つことができません。大雑把にどんなものをやろうとするのかということについては、ある程度充分に編集長には伝えましたが、やがて開かれる最初の編集会議で、A氏がどのようにプレゼンテーションしてくれるのかまったく判りません。もうこの段階からは「宇宙皇子」という作品はA氏の努力次第でどうなるかまったく判りません。もう、私があれこれと想像していたところでどうなるものでもありません。A氏が編集会議で他の担当者たちに、あの企画を納得させることができるかどうかにかかっているのです。どのような結果がもたらされるか判りません。


どちらにしても近々まずS氏に報告されるのを待つしかありません。


 S氏の説明によると、角川書店ではA氏は雑誌部門を担当する編集長ではあるのですが、毎月さまざまな部門の編集長・編集者によって開かれる会議において、それぞれの編集部から来月出版する企画を持った者がやって来て、出版する候補を大雑把に選考して、更に上部の者によって開かれる営業部門の責任者、編集長による会議で生き残らなくてはなりません。しかもその企画の出版が決まるまでには、社長を中心とした重役による会議での選考で決定が確認されなくてはならないというのです。


 それにしてもそれぞれの出版社でも同じような選考が何度も開かれて、その月の数点の出版物が決まっていくのだということを知って、これまでの世界では春と秋にそれぞれの放送局において行われる大きな番組の編成会議に提出された企画が提出されて、番組が編成されることになり、その結果がそれぞれその作品の制作会社に連絡があって、ようやく脚本家には原稿執筆の依頼が来ることになるのですが、かかわり方という点では、今回の出版における場合とは比較にならないものがあるということを実感しました。はじめからその中継経過まで、出版の場合は「あとはお任せ」という訳にはいきません。作家と編集者との連携プレイがどう機能するかがすべてを決するようです。あのA氏はなかなかの頑張り屋ではあるということですが、何度も開かれる編集会議の審査でその難関を突破してくれるだろうか・・・今となっては、素材が古代であるということが、変化しつづける時代の要求に逆行するのではないかという心配があるのですが、敢えてそんな時代を描こうとしている私の企画意図を、会議に参加した関係者が理解してくれるだろうか。暫くはそのことが気がかりではありました。


1983年は本当にさまざまな動きが錯綜していた時代でした。私自身がそのスケジュール表をみると、とても普通の作業ではやりきれないと思うような過密スケジュールになっていました。


       「旧藤川家」1.jpg 「書斎1」1.jpg 「書斎2」1.jpg


当時の旧藤川家の書斎あたりはこんなものでしたが、この書斎で机の下に毛布を置いておいて、眠くなったらそれを引っぱり出してかぶり、目が覚めたらそのまま起き上がって書きつづけるといった状態だったのです。


布団にネル時間はほとんどありませんでした。


 その間に映画の制作に入ったカナメプロのみなさんは、着々と制作を進めていたのでした。私の制作はスタッフがみな若手とはいってもかなりの実力者が揃っていましたし、それにさらに他からも実力者が参加してくれたので、それをどうまとめていくかは、ほとんど監督の湯山邦彦氏に託してあります。「ウインダリア」の制作は順調に進められているようでした。


                                          「ウインダリア設定」1.jpg


 こんな最中に、どういうプロセスがあってそういった結論に達したかはまたあとでお話をするとして、我が宇宙皇子」は編集会議の最期の難関といわれる社長・副社長、各セクションの局長が加わった会議にも、社長の決済が出て出版の許可が出たという知らせがありました。もうこれで「宇宙皇子」の出版は決定的になったようです。


1983年の年末近くのこと、私は狂喜してA編集長の報告を聞きました。


 予定は来年の六月の私の誕生日を目指して作業を行うということになったのでした。


 私は兎に角話の舞台になる飛鳥の地を取材したいという提案をしてあったのですが、この段階になって正式に許可が出て、角川書店にあるトラベルの担当者が私の取材したい史跡のリストに基づいてスケジュウルを決めて手配しておいてくれました。来年の二月に出発するということになりました。「プラレス3四郎」以来の付き合いになったカナメプロの社長から、兎に角いのまたむつみがアニメ界から去らないようにしたいので、何か仕事を与えて貰えないでしょうかというかなり真剣な相談を受けていたこともあって、彼女を「宇宙皇子」のイラストレイターとして使いたいという申入れをしたのです。まだ業界ではほとんど無名に近い彼女でしたが、私はその感性が時代の要求に合うと考えたので、すでに編集長には申し入れて許可を貰っていましたが、彼女を紹介するいい機会になると思って、取材には彼女も同行して貰うことにしました。


 いよいよこれまで温めてきた「宇宙皇子」という作品の企画は動き出したのです。数えてみると、やがてこんな話を書こうかと考えた時から、さまざまな紆余曲折を経験しながら何と八年近くも経過していたのですが、ようやく長い年月を経て念願の小説を書くという状態になったのです。


 これで年末はじっくりと話の展開を含めて考え直してみようという余裕さえも生まれました。ところがそんなところへ、一寸気になる話が飛び込んできたのです。


 秋の番組の編成期に、春スタートになる番組が審議される頃のことですが、某テレビ局の部長が、「新たな時代の到来に向けて、もう四十歳を過ぎたアーティストは作業からは退くべきだ」などと、遠慮のない激しい口調で公言してきたというのです。


 激しい時代の変化を背景にして、思いきったことをいったつもりなのでしょうが、あまりにも配慮のない暴言です。たちまちさまざま文化関係の業界界から、その発言についての抗議の声がくすぶり始めたようです。


 私にとっても四十歳を過ぎた頃のことです。


 時代が大きく変化していこうとしていることは間違いないけれども、時の変化に便乗してかなり勝手なことをいう奴だなと、激しい苛立ちを感じていたところでした。


そんなところへ東映動画のYプロデユウサーから久しぶりに電話があって、春から始まる番組に力を貸してもらいたいという依頼があったのです。それが何ということか、このところ問題発言の原点となっているあの某局の番組だったのです。


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告知と放談の部屋☆ 放75「編集長きたる」 [趣味・カルチャー]

  

これまでテレビでは、確かにテレビではあまりSFファンタジー作品を発表しつづけてきてしまいましたから、視聴者は食傷気味になっていたのでしょう。すっかり飽きられてきています。それに楽しめる作品に熱狂してくれる世代もこれまでとは変わってきているのです。みなそっぽを向き始めているのかも知れません。そんな風潮を敏感に感じていましたので、私は現代のSFにも通じるような役行者という超能力者を使って、これまでの歴史上の人物としての捉え方とは違った人物として登場させて、その行者を師として仰ぐ少年を設定することにしました。しかも彼は時代の転換期であった壬申の乱の戦乱によって父を失うという厳しい運命を背負った子です。つまり時代の荒波に揺さぶられている少年を設定したのです。現代という時代の波に揺さぶられている、若者が体感しているような感覚に通じる体験していくようにしておきました。しかしそれでも新しいものに興味を抱く若い人にとってはあまりにも違う世界が舞台です。果たしてそんな作品を角川書店は受けつけてくれるでしょうか。久しぶりに不安がこみ上げてくるのでした。


 さまざまな推測をしているうちに、意外にも早く角川から編集長がやって来るという連絡が入りました。しかしこれまでまったくお付き合いがない出版社です。しかもあの頃は、かなり作品の展開に大胆なことをするということも話題があって、社長の角川春樹氏の意欲的な事業展開にも話題があって注目されていました。発売する小説を素材にして映画化することで、その宣伝も兼ねて書籍も販売促進をするという、他の出版社ではやらない手法で営業をしていました。その最中のことだったのですが、S氏に話をしてから一週間もたたないうちに編集長がやってくるというのです。動きも早いのだなと思ったりもしました。「宇宙皇子」についてはどんな受け止め方をしてくるのだろうかと、多少緊張して待ち構えているとこへ、編集長のA氏は自動車を運転してやって来たのでした。勿論その日はS氏が付き添ってきたのですが、いきなり自己紹介をして落ち着いたところで、乗用車の助手席に乗っていたS氏は、その車内には様々な日用品の小物が雑多に放り込まれているので、それをどけながら座るのに苦労したなどと冗談風に話し出したので、編集長も思わず苦笑してしまい、それをきっかけにしてたちまち砕けた雰囲気になってしまいました。A氏もS氏の冗談めかした社内の机の上の混乱を否定もせずに自ら認めて話す気さくさで、所謂編集として構えたようなところもありませんでした。用心していた私はそんな彼の雰囲気にすっかり緊張感を失っていました。勿論私についてはS氏からレクチャーも済んでいましたので、その日はまずA氏の作業についての説明に大分時間を割くことになりましたが、どうやら現在担当しているのは所謂角川書店でもさまざまなエンターテイメントの雑誌やアニメーションなどを扱う分野が中心で、いわゆる通常の小説が中心ではなく、会社ではどちらかというと傍系の作業になるかもしれません。勿論、小説も出してはいるのですが、あまり世間的に評判になる作品ではないようです。そんなところであの「宇宙皇子」はどういう小説として受け止めて貰えるのだろうかと、多少不安も含めて興味を持っていました。私の希望としてはいわゆる文庫ではなく、親書版という新たに成人向きに起こした判型を狙っていたのです。これまでどうしても若い人を中心とするということで考えると文庫で気安く買える廉価なものが中心となってしまうので、今回はもう一寸大人の人に読んで貰いたいという気持が会って、敢えて判型についての申し入れをしたのです。


 A氏はそれに対して、特別拒否をするようなことがなく、「そうですか。わかりました」といって聞いていてくれました。あらかじめ用意していた「宇宙皇子」の構成表を出して、その内容について、どんな内容のものを、どう展開していきたいのかということを説明していきました。


                            「宇宙皇子構成1」1.jpg 「宇宙皇子構成2」1.jpg


   日本の古代史を背景にした面白さを説明していったのですが、編集長は興味深そうに頷きながら特にそれに対しての反論もなく、私の狙っている世界の魅力というものを聞き止めていこうという様子で、時々感心しように「ああ」とか「ほう」とかという相槌で応じてくれていました。構想についてかなり詳しく説明したように思うのですが、流石に現代の先端をいくような分野の雑誌や、趣味を楽しみ人のための雑誌を手がけているA氏です。本当のところはどうなのでしょうね。かなり興味深く聞いてはくれてはましたが、どこまで理解して訊いてくれていたのか一寸不安になります。やがてA氏は「検討してみます」という返答を残して帰ることになったのでした。


 後に残ったS氏と私はそれから暫くの間、A氏の反応についての分析をしていました。結局どう推理をしたところで、何度も開かれる編集会議であの企画が承諾されなくては、出版という手はずには到達できないという結論になって、その日の話はそれで終わることにしたのでした。A氏との会見の手はずを整えてくれたS氏とは、それまでほとんどお付き合いのあった人ではなかったのですが、なぜかこの日を境にして不思議な連帯感が生まれたような気がしてきたのでした。


 A氏はかなり営業を担当する社長の弟さんの副社長に近い人で、かなり積極的にさまざまな仕事にかかわって頑張っているというので、認められているということなのですが、彼の日常についての噂はかなり常識を超えたものがあるようです。兎に角自家用車を駆使して走り回っているので、いつ自宅へ戻るのかもはっきりとしないほどだといいます。それを証明するように、自動車のトランクにはそのまま車で寝てし待ってもいいように、日用品をすべて積み込んでいるという名物編集長です。


 考えてみると、影像の世界にもそれに近いプロデュウサーがいました。


 東映本社の特撮作品の原作者としても名を知られているH氏で、彼も愛車のトランクに日用品をすべて積み込んで走りまわっていたようです。この頃最前線で仕事をしていた人たちは、みな同じように大変な思いで動きまわっていたのです。しかし今回例に挙げたA氏とHはやはり異例の人として書き止めておいてもいいのではないかと思って書きました。


余談になってしまいましたが、A氏は特に私の説明を聞いて感動したとか、納得したとかいう反応もせずに、「判りました。そのうちお返事いたします」そう言って帰っていったのです。そんな彼の反応の様子から、S氏にはそれほど悪いものではなかったと受け止めたようです。兎に角「宇宙皇子」の運命はA氏に託したのです。結果はどうであろうと、そのうちS氏を通して返答があるはずです。


半分楽しみ、半分心配の気持ちで、その日はS氏とも別れたのでした。 


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告知と放談の部屋☆ 放74「企画に無理がないか・・・」 [テレビ]

  

「もしその気があるのであったら、角川で書きませんか」


「少年画報社」の編集をするS氏が、現在かかわっている角川書店で製作しているアニメーション映画の「火の鳥」の制作の責任者となっているA氏は、出版部門の編集長でもあるのだというのです。S氏は早速私の意志をA氏に伝えますということになってしまったのでした。


まったく思いがけないことで、小説を書くきっかけが訪れることになってしまいました。しかしこんな話がそのまま通じる訳もないという気持だったので、すべてはS氏に託した話はどういうことになって返ってくるか、あまり期待しないで待つことにしたのでした。恐らく彼は現在関係しているアニメーションの監督がりんたろう氏であったこともあったので、かつて私が「ワンサくん」などの脚本を執筆中には、山本暎一氏のアシストとして働いていたこともあって、まったく知らない関係ではありませんでしたから、アニメーション作品で一緒に仕事をしないかという誘いをするためにやってきたのかも知れません。しかもりんたろう氏は東映動画で仕事をするようになっていたということも会ったのです。私にアニメーション作品で一緒に仕事をしないかという誘いをするためにやってきたのかも知れません。ところが一寸前からですが、現在の仕事を離れて活字の世界への転身ということに考えているところだったのです。つまり私は彼の申し出とはまったく真逆になるような思いがあるということを正直に打ち明けたのです。最近あちこちから小説を書かないかという話が持ち込まれて、企画を書いたのですがいろいろな事情がって実現していないと正直に告白したのです。そろそろ時代の変革期でもあることから、アニメーションから別の世界への転身も考えなくてはならないということも率直に打ち明けたのでした。すると間もなくS氏は、わりに気楽な様子で、「もしその気があるのであったら、角川で書きませんか」ということになってしまったのでした。


希望がそのまま実現するとは考えられませんが、現在森村誠一氏の作品の映画化で、巷間大変話題づくりで評判になっている角川書店です。どんな風の吹き回しで話に乗ってくるかもしれないのです。どういう返事が来ても慌てるようなことはないと思える余裕を持っていることにしていました。兎に角現在は「ウインダリア」の映画化に向かった作業をしていたのです。


                                    「ウインダリア」1.jpg 「ウインダリア・AR台本」1.jpg


これは正確に言いますと「ウイリンダリア」というもので、オーストラリアでは知られている市民に愛されつづけている有名な樹の名なのですが、やがて故郷のその木の名をつけた遊覧船を作って、裕福な資産家がフランスのセーヌ川から運河づたいにオランダまで観光しながら旅をするという生活をしている若い青年と恋人がいるという話を、ある有名な家庭雑誌で読んだことがあったことがあって知りました。それを判りやすいタイトルに変えて「ウインダリア」としたものでした。


                                       「ウインダリア・決定稿」1.jpg 「ウインダリア・小説」1.jpg


世の中は大変変化に富んでいて、落ち着かない雰囲気がありました。


 これまで突き進んできた脚本家としての生活も、このまま安閑としてはいられません。


特にアニメーションに関して考えると、やはりこの世界ではその時その時の若い感性が絶対に必要で、ドラマの世界のように年季をつんだ脚本家の奥深さで見せきれるものとは違って、アニメーションでは時代の感性を描ききれるかどうかが生命であると考えるようになっていたのです。そろそろ年齢的なことを考えると、にこのままやっていていいのだろうかという気持にもなってきます。勿論、いくつになっても若い感性を持ちつづけていらっしゃる方はかなりいらっしゃいますから、一律に言えることではありませんが、私についてはここまで夢中でやって来たものの、ある時から活字への誘いが来るようになってから、つい立ち止まって考え込んでしまうようになっていたのです。


 たまたま若い頃・・・中学・高校生時代から文学青年であった父の影響を受けていたせいで、私もいつか「文学界」「群像」「小説新潮」などを読むようになっていたこともあったのですが、その後さまざまな遍歴があって映像の世界の人となっていたのですが、とうとう三十数年を経て気持ちが先祖がえりをし始めたのでしょうか、時代の変化が急を告げるようになってからは、一層その気持ちが強くなってきていたのです。かつてドラマからアニメーションへと転身した時もそうでいたが、時代の流れが私をその方向へと押しやったといっていいでしょう。放送界の流れが大きく変わっていく流れが、今度は私を活字の方向へと押し流し始めていたのです。


 「宇宙戦艦ヤマト」の超ヒットの影響で、テレビのアニメーションはほとんど宇宙ものになってしまって、脚本を書く者にとっても楽しみがなくなってしまいましたが、視聴者にも不満が蓄積していったのでしょう。アニメだけでなく放送界事態に危機的な状況が広がってきています。時代が転換を求めていたのでしょう。これまでとは違った感性で話を展開するものに興味が集まり出していました。実は私が次第に小説の「宇宙皇子」執筆に傾いていったのもその頃のことだったのです。幸いなことにこれまでの脚本家としての実績も積み重ねてきましたし、ヒット作品もかなりありましたので、私を支えて下さるファンの存在も後押ししてくれました。大変不安はありましたが、いよいよ小説で勝負したいと考えたのです。しかしそう思ったからといって、すぐに転身できるわけがありません。


 「少年画報社」のS氏の提案がきっかけとなって、角川への橋渡しを頼みましたが、兎に角あの企画は古代が舞台にしてあるのです。この変化の激しい時代に、果たしてあのような世界を持ち出して、若い人地は興味を持ってくれるのだろうかということが、心配になりはじめたのです。


 企画についての点検を始めていました。


 これまで小説で大事な存在になるであろう「役行者」を書いた人がいるかということを調べました。ところがあまりにも得意な存在であったことからか、明治の作家である坪内逍遥しかいませんでした。それだけに今回はそんな人物を、現代だからこそ描ける形にしてみたいと思いました。しかし物語の背景は古代であることに変わりはありませんから、現在の時代の革新気分には逆行するといってもいいかも知れないのです。よほど考えて出さないと失敗してしまうかもしれません。


 さまざまな不安を抱えることになってしまったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放73「角川で書きませんか」 [テレビ]

  

兎に角1983年という年は、いろいろな点で時代の変化に伴って、世の中が何かにつけて落ち着かない時代でした。これまで脚本家として思いきり仕事をしてきましたが、放送界の様子もじょじょに変化してきていていましたが、特にその中でもアニメ―ションという世界は時代の変化に敏感ですから、取り上げられる素材も変化してきています。そんな中で作業をしつづけて行かなくてはならないのですから、果たしてこれまでのような状態で仕事をしつづけられるのかと考えると大変不安が頭をよぎります。とてもこれまで通りという訳にはいかないような気がしてくるのです。そんなことから、そろそろ活字の世界への転身ということも考えておかなくてはならないのではないかと思い始めていたのですが、どうも自分の目指す新しい試みが依頼人の目指している思いとはなかなかぴったりといかない事態になり、新しい時代の流れに沿った作品として自作の企画を認めて貰うためには、かなり時を要するということを考えさせられました。兎に角焦っても不可能であるということを思い知らされたことをきっかけにして、暫くはあまり思いつめてしまわないようにしようと考えて、現在進行中の仕事のことに神経を集中させるようにしました。丁度カナメプロダクションから依頼のあった映画の素材について、どんなことを取りあげようかということで、スタッフが揃って拙宅へ集まった時のことなのですが、私は昨今の新聞を読んでいて一寸気になることが記事になっていると話したことがあったのです。それは若い女性の間で語られていることだそうですが、どうも友人同士、知人同士の間で約束をしたことを簡単に放棄してしまうようなことがあって、不快な思いにさせてしまうということがかなり起こっているというのです。約束事をきちんと守らずに、自分の都合で反故にしてしまうようなことが行なわれるというのです。兎に角友人同士、社会的な関係の人たちを含めて、一旦約束したことを簡単に破ってしまうことが、平気で行なわれるようになっているというのです。私はこの問題を知った時、江戸時代の作家であった上田秋成という人が、戦国時代を背景にして貧しい若い夫婦が生きていく話を書いているのを思い出しました。「雨月物語」という作品です。


                       「雨月物語・上田秋成集」1.jpg 「雨月物語・序」1.jpg 「雨月物語」1.jpg


若い夫は貧しい暮らしから抜け出すために、出世の機会を求めて戦乱の中へ出て行くというのです。勿論妻は反対するのですが、夫はきっと出世して戻るといって家を出て行くのです。妻はあなたが帰るまで、何があっても待っていますと約束して見送るのですが、やがて戦乱の火の手はその村にまで広がってきます。そして・・・それから数年後に出世も叶わずボロボロになった夫がやっと自宅へ戻ってきた時、愛する妻は戦火の中で命を落としてしまったのです。しかしそれでも彼女は、夫と約束した何があってもあなたの帰りを待っていますという約束を果たすために、霊となっても待っていたという話です。


私はそれを下敷きにした話をアニメーション映画にして、若い女性たちに見て貰ったらどうかという話をしました。時代の良くない風潮にも一矢報いることが出来たらいいのではないかという提案をしたのです。これまでかかわってきたアニメーション作品とは、まったく違ったトーンのものに挑んでみたいという気持がありました。若いカナメプロダクションのスタッフも、その試みには大賛成をしてくれたことは間違いがありません。一同の意気が上がったところで、誰からともなく制作に入る前に、物語の世界をハンチングするつもりで、伊豆高原へでも旅行しようということになったのでした。


 兎に角この頃は佐藤、中曽根内閣の政権が長期にわたっていますので、ほとんど第一次オイルショック・第二次オイルショックの影響のために、目まぐるしく変化していかざるを得ませんでしたので、世相にも様々な変化が起こったり、現象が発生したりしていました。パソコン世代・ロリコン・ネクラ・ネアカ・引き締めと抵抗・若者喫茶店離れ・軽薄短小・女性雑誌続々創刊・全国で校内暴力多発・おしん始まる・中流思考・働く主婦半数以上・中高年女性の麻薬汚染・一人暮らし老人100万人突破・小中学でいじめ流行・やらせ・パフォーマンス・ファミコンブーム・新人類時代・反原発運動・プッツン・都心地価高騰・三原山爆発・バブル世代・世界株大暴落・国鉄民営化・花キン・朝シャン・個性重視といった目立った社会現象として飛び出してきていたのです。そうした空気はさまざまな形で映画やテレビ番組に反映させた作品が現れていました。


1970年から1980年代の10年間は、忘れることはできない興味深い時代です。


テレビ・映画・・・「鎌田行進曲」「積み木くずし」「科学要塞マクロス」「陽当たり良好」「徳川家康」「欽ドコ」「金曜日の妻たちへ」「プラレス3四郎」「キャッツアイ」「スクールウオーズ」「宮本武蔵」「真田太平記」「タッチ」「ゲゲゲの鬼太郎」などが次々と発表されていきます。私がテレビへ送り出していったアニメーション作品も、こうした時代の若い人々の心理的な世界を反映させていたことは間違いありません。しかし今回はそれらとも違う狙いで、「ウインダリア」という物語を書いたのでした。


                                    「ウインダリア原作」1.jpg  


  混沌とした時の流の中で、映画の準備をしながら私は竹宮恵子さんの「地球テラへ」の映画の公開が発表されるのに合わせて、1980年の12月には朝日ソノラマ社から依頼を受けていたノベライズ作品が発売されていたのをきっかけにして、これまでお付き合いがなかった「少年画報社」のS記者から、その主題歌を歌ったダ・カーポとの対談をして欲しいという申し出があったのです。彼らとはもう大分前からコンサートなどの構成をしたりしていたことがあったので、私は彼らと赤坂の東急ホテルでの対談を行うことにしたりしました。ところがそれが縁となってS記者からは改めて会いたいという依頼を受けることになったのです。丁度その頃彼は、角川書店が制作している手塚治虫原作によるアニメーションの「火の鳥」の制作の話を掲載するために、監督のりんたろう氏にいろいろなことで協力をしているのだというのです。すると彼は話が弾んできたところでそのうちアニメ作品を角川書店で書きませんかというのです。ところが私はその時、


「お話は有難いのですが、私はそろそろ活字の世界を開拓してみたいと考えるようになっているところなんです」


現状の気分を正直に告白したのです。


するとS氏はどんな計算が合ったのか判りませんが、突然話の方向を変えて、


「もしその気があるのであったら、角川で書きませんか」


気安く誘ってきたのでした。 


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告知と放談の部屋☆ 放72 「運・不運に耐える辛抱」 [テレビ]

  お陰様で映像の世界で何とか目立つ存在になってきましたが、その三十数年という年数の間には思いがけないような経験をするようになるものです。つまりある時から、突然こうしたいという思いがまったく受け入れられないということが起こり始めるのです。つまり不運に見舞われてしまうのです。新人のころはそんな状況に見舞われると、顔には出さないものの大変焦ったり、苛立ってしまったりしてしまうのですが、そんな時にはどうもがいても運の悪さは解消できません。兎に角我慢強くさまざまな状況が好転してくるのをじっと待つしかありません。しかしある程度実績も積み、仕事もつづいて順調にこなしてきていると、別にこれといって大きなミスをしたということもなく、これまでと同じように努力をしているというのに、どうして突然目の前の道が塞がってしまっていて勧めなくなってしまうのです。あなただったらこんな時どうしますか。

普通はお酒などを飲んで憂さ晴らしなどをするのでしょうが、私のように酒があまり飲めない質の人にとっては、大変厄介な巡り合わせとしか言いようがありません。とに角こんな時に焦って事を起こしてしまったら、そのために却って行き詰ってしまうということになってしまうものです。


 今回はそんな運気の流が突然停滞していまい始めた時の話なのです。


 前述しましたが、これまでテレビでの作業が順調すぎるくらいのペースで進んできていたのですが、時代もじょじょに変わりつつあり、それにつれて世情の傾向も変化していくようになると、次第に自分を取り巻く環境も変わっていくものです。これまではほとんどこうすれば時代の要求に応えられると提案すれば、依頼してきた人もおおむねその意図するところを理解してくれましたし、一寸疑問に思うようなところもあっても、その企画を拒否したりするようなことはありませんでしたが、ある頃からこちらがかなり考えて作り出した企画であっても、どう企画の意図を力説しても、気持ちよく受け止めて貰えないことが起こり始めてしまうのです。例えば過日お話しましたが、集英社の文庫の企画を依頼された時のように、結局こちらの準備不足もあったのですが、これまでの傾向から離れた世界を扱った作品で勝負をしようと思って、「宇宙皇子(うつのみこ)」の原点になるであろうと思っていた企画を出したのですが、残念ながら受け入れては頂けませんでしたし、結局その頃の安定した読者の好みであったSFファンタジー「銀河創世紀伝」を書くことになってしまいました。時代の変化に先駆けて、挑戦しようと意気込んでいた企画は、そのまま受け入れて貰えずに、結局これまで読者の受け入れ易い傾向の作品を書くことになってしまいましたし、つい最近の話であった某新聞社の連載に関する企画集英社へ出したものよりも内容を精査した「宇宙皇子」の企画を出したのですが、その狙いに関しては先方もかなり乗り気にはなって頂いたのですが、話を進めていくうちに、その連載一年間の週一という連載で52回という回数でまとめなくてはならないという問題にぶつかってしまったのです。これではこちらの考えているスケールの分量はこなしきれません。完全に実現不可能ということです。今回は自分の予定する構想に合わないということになって、連載を諦めざるを得なくなってしまったということです。


時代の変化に伴った新分野の開拓というつもりの挑戦的な試みだったのですが、いずれも目的を果たすことができませんでした。これまでの実績に乗って考え出した企画ではあっても、それがそのまま受け入れて貰えるとは限らないことになってしまうのです。こんな時には本当に残念な気持ちを味わうことになってしまいます。一度ならず、二度も依頼を貰いながら、実現できないまま終わってしまったのです。ひょっとして自分は運がないのかなどと、一寸悲観的になったこともありましたが、それと同時に新たな時代の流れを読むことに、ズレが生じ始めてきていたのかも知れません。特に「宇宙皇子」の原点になる話の時代は古代ということですから、時代の先端を走り始めている空気とは逆行しているのではないかと思ったりもしました。そんな企画を押し出そうとするのですから、拒否反応に出くわしてしまうのももっともなのかもしれません。兎に角これまであまり順調に仕事が進められてきていたということもあって、かなりショックでした。しかし多少前に進もうという気持は削がれていたものの、何とか気持ちを立て直して、もう一度時代の研究をし直して企画を練ってみようという気持になって、しばらくそれは仕舞っておくことにしたのでした。


気持ちを落ち着かせて、これまでの自分の奇跡を振り返ったりもしました。若い時に時代の変化に伴った文化への関心が揺れて、活字文化にこだわるか新たな映像文化への関心を深めていくかと思い悩んだことがありました画、これまでのラジオという電波による表現の場から、テレビという新たな表現の場に興味を惹かれながら、時代の求める変化ということに揺さぶられつづけてきた結果、さまざまな事情を経過して私は映像の世界に活路を求めてテレビの世界へ飛び込んでいきたのです。それでも活字への興味は捨てきれてはいませんでしたので、兎に角暫くは思い当たるようなことがあれば、雑記帳にメモを取っておくというくらいに留めていくようにしていました。


時代はさまざまな世界の流に翻弄されながら、放送界もこれまでのように順調に発展していくとは思えない停滞期になっているようで、どうも昨今は活気を失ってしまっているとしか思えません。それだからこそ挑み出した新企画ですから気持ちとしては、その試みは止めるわけにはいきません。気持ちが落ち着くのを待って、焦らずにその内容について検討し直してみる気持ちになりました。その内容の目指す方向について更なる魅力を付け加える余裕を持てましたし、思いがけないつくものアイデアを付け加えることもできました。どこへ持ち込もうかなどということもまったく考えずに、当面の仕事に集中していったのでした。不思議なことで気持ちの整理ができると、少しでも早く実現しようとする焦りもなくなっていったのでした。ひょっとすると、これは企画のまま現実化できないままで終わるかもしれないと思ったりもしながら、何が企画としての弱点になったのかということについてゆっくり考える余裕も生まれました。


こんな状態で、何かにつけて不運としか言いようのない状況と葛藤しなくてはならないことと向き合わなくてはならないこともあるのですが、そんな時もいつかいい運が巡る時もあるのだからと思って、その時がくるのをじっと我慢して待つことが出来なくてはなりません。それを実証するようなお話はやがて発表できることになるのですが、それはもう一寸お待ちいただかなくてはなりません。兎に角すべてが順調に進んでいた時でも、ある日突然気が付かない内に時代の気まぐれによって、新たに試みようとした企画も無視されることがあるものです。もしその企画をどうしても実現したい時には、焦らずにじっと我慢して時を待ちましょう。時間をかけてその内容をじっくり検討して充実させていきましょう。いつかその内容が活かされる時がやって来るものです。その間の我慢がしきれないとすべてが潰れてしまいます。


 私は二つの体験をしたことで、運気が整わない時の過ごし方を学びました。


自信のある企画でしたら、その企画が間違いないかを検討し直してみる機会を持ちましょう。どうかそれまでは、順調に進んできたのになぜ急に支障が起こり出すのだろうと焦ったり諦めたりしないで、じっと気持ちを抑えて我慢しましょう。いつかあなたの思いが、純粋で熱意に満ちた魅力的な企画であったら、きっといつか取りあげられる機会は巡ってきます。 

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思い出作品の部屋☆ 思5「小説への誘い多し」 [テレビ]

  

「マジンガーZ」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「六神合体ゴットマーズ」とヒット作品の執筆がつづくうちに、その頑張りが浸透したということでしょうか、テレビだけでなく雑誌で何か書きませんかという話が増えてきましたが、小説についてもあちこちから執筆依頼があって、さまざまな仕事の合間を縫ってそれらについても考えておかなくてはならなくなっていました。そんなある日のこと、アニメーション雑誌として人気のある「アニメージユ」で、若い人に起こっているさまざまな問題について、どう受け止めるべきかを提言して欲しいという希望が持ち込まれたので、これまでとは違った世界を開拓するつもりで引き受けました。その結果、間もなく「明日にドライブ!」という人生相談記事を連載することになったのです。友達との関係や好きな人との問題などという、如何にも青春時代にありそうな問題についてお答えしているうちに、ある女子高生からの投書があってびっくりしました。極道の世界に身を置く父親を持っている女子高生からの相談で、同じ極道の世界に身を置く弟分と婚約をさせられそうになっているというのです。どうしたらそれを断れるのかという切羽詰まった相談でした。流石にこんな時には、ただ人生経験だけでは、簡単に答えることもできませんから、私は兎に角学校の担任の先生に相談して、問題の解決には校長先生にも協力して貰うことを勧めました。その後特別新たな事態が発生したという連絡もないので、いい方向で解決したのではないかと思いましたが、青春時代にありがちな友人関係、恋愛問題ということだけではない問題が持ち込まれるので、大変難ししい分野の仕事であるということも実感することになりましたが、私としてはテレビでの作業と同じで、どうせ書けるようになるのであれば、物語が書けないかなと思っていました。勿論、こういうことで雑誌に場を持つのが願いではありませんでしたが、かつて朝日ソノラマから頼まれた「さすらいの太陽」の小説が、意識しすぎということもあってなかなか仕上がらずに苦労したことがありますので、物語を伴った原稿に関してはまだ自分から積極的に書かせてもらおうという気持もありませんでした。


しかし高校生であった頃から、一度は小説を書くようになりたいと考えていたこともあったくらいですから、テレビの仕事にある程度の成果を上げた状態になると、ふと小説を書くとしたらどんなものかなという気持になって、時間のある時にはメモ帳などにさまざまな思いつきを書き止めておくようにしていたのです。そのうちに、もし小説を書くようなことが起こったら、こんな話を素材にしてもいいかなと考えるようになったのが、古典の「今昔物語」を読んだことがきっかけでした。いわゆるテレビ化してもいいようなネタ探しという意味もあったのですが、やがて何か小説を書く時の素材のヒントになるものはないだろうかと気楽に読んでいたのですが、それには日本各地で起こる変わった話が集められていましたので、そんな中から役行者という修験者が、大変神秘的な雰囲気を発散させながらきわめてSF的な能力を発揮して、庶民の苦難を克服してしまうようなことを行ったり、時には権力者にあっと驚くような能力を発揮してするのを知って、大変興味深くなっていったことがありました。そんなことがきっかけとなって、彼の身辺についての調査をしてはメモに取っていくようになっていきました。


そしてやがてこれまでにこの役行者という人間を主人公にした作家はいるだろうかと考えて調べてみたのですが、やはりかなり現実とは言い切れないものがあるためか、明治の作家坪内逍遥以外には誰も正面から取り組んだ作品はないということが判ったのです。私はその時から、彼を使いながら、まったく違った物語を書いてみたくなりましたが、私は彼をそのまま書いても面白くならないと判断して、もし物語を書くのであれば、彼を師として仰ぎ、蝶能力者として能力を身に着けようとする少年を設定してみようと思うようになっていました。しかしそれからも映像の作業を進めながらですから、活字の作業に没頭するということにはならずに、テレビの作業を進めていくあいた時間を見つけたり、テレビの作業をしながら気分転換に物語の素材を集めたり、資料の整理をしたりするのにとどまっていたのです。それでもその時その時に書き止めてあったメモがかなり集まってきていました。役行者についての調査が進むのに合わせて、新たに作り出そうという少年についてのイメージ作りも進めていったのです。


そんなことをはじめてから暫くして、ある新聞社から新聞で連載をしてみませんかという申し出がありました。兎に角話を聞いてみようという気持になりましたので、担当の編集者と会うことになりましたが、やって来た編集担当が持ってきたのは新聞一面に連載されている絵物語で、日曜日に特別に企画された絵物語だといいます。一ページにイラストとそこに物語が簡単に書かれているものだったのです。これを毎週日曜日に連載という形でやりたいので、その企画をお願いしたいということでした。つまりその計画で言いますと54週で修了するというものです。しかし絵物語ですから物語を展開するには限度があって、とてもその時考えていた役行者とその弟子と慕う少年との物語を展開することは、絶対に師と弟子の関係やその活動について書いていくことは無理であると判断しました。新聞連載という大変有難い企画ではあったのですが、考えていたスケールをではとても収容できないと判断して、申し出に関しては残念ながら考えていることを執筆することには無理を生ずるということを説明して、お断りすることになってしまったのでした。


ふと思い出すのは集英社からの文庫作品の企画依頼のことでした。あの時もSF作品と同時に、その頃までに集めてあった古典を下敷きにした古代小説・・・つまり「宇宙皇子」の原点となる話を持っていったのですが、結局それは採用にならず「銀河創世紀伝」というSF作品になってしまったのでした。どうやら私が興味を惹かれる古代を舞台にした話は、現代では取り上げられないかも知れないのだなと思ったりしたものです。


思い出すのは高校時代の部活で参加していた頃に、「渦」という高校の同人誌に「地蔵」という短編を発表した時のことです。


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当時国語の教師をしていた、筆名中島河太郎・・・中島馨先生からが指導していた「将来の芥川作家だ」などと大変な評価をして下さったことが、担任の先生に伝えられたことがあったものですから、私はいつか小説を書きたいと思うようになったのでした。しかしその後放送文化に変化が起こりだします。これまでと違ったテレビという新たな盛会が切り開かれるという動きが始まりました。それでも活字の世界を捨てることはありませんでしたが、新しい放送文化への興味についても無関心という状態にはならないでいたのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言27「ひとくち言霊」(睨まれる) [テレビ]

                                        「若菜イラスト」.JPG

 「上司に睨まれちゃってね」

「先生に睨まれちゃった」


「親父に睨まれちゃった」


とにかく睨むということが、よく使われます。


あまりいい意味で使われることはありません。


大抵の場合は、こちらにいけないところがあって、それを咎める意味で相手が睨んでくるわけですが、どうもこれは、日本古来からの大変重要な習俗であった、「見る」という効力を発揮させることの延長だと思うのですが、同じ睨むでも大いに歓迎されていた「睨む」があったのをご存じでしょうか。


江戸時代の市民は正月になると、今日は「睨まれて来よう」などと言って、浮き浮きして家を後にしていったというのです。それはそうです。実は歌舞伎見物に出かけて行ったのです。しかもこれは大抵お正月のことだったのです。江戸時代の歌舞伎の人気俳優と言えば市川団十郎ですが、彼は正月の出し物の一つに「睨み」というものがあって、それを必ず演じたのです。


別に芝居ではありませんから、台詞もなければ演技があるわけでもないのです。


彼は観客を上手から下手に向かって睨みつけて行くのです。


市民が嬉しそうに、「団十郎に睨まれてこよう」といって、いそいそと芝居小屋へ出かけて行ったのは、そのことだったのですが、一体、そうされることで、どれだけご利益があるというのでしょうか。


実は団十郎の信仰にあったのです。


代々市川家は成田山新勝寺のお不動様を信仰していたのですが、その威力を受けた彼が睨むことで、病魔も退散させることができるということが広がっていったのです。今でも団十郎は、節分の時の豆まきの時には、必ず招かれていますが、そうした理由によるのです。


まぁ現代のように理屈っぽくない、おおらかで、信仰心の旺盛な時代のことですから、団十郎に睨まれればその年は息災に生活できるという噂が広がって、正月は必ずその「睨み」という出し物があったのです。


つい最近も歌舞伎座において、それは演じられるようですが、それがいわゆる出し物として定着していくと、当時の風俗を知る上でも出し物としても面白いのではないかと思うのですがどうでしょうか。 

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アニメと音楽の部屋☆ ア53「プライムローズ放映前後」 [テレビ]

  

大分前のブログですでにお話しましたが、1983年という年はさまざまな作品が発表された年でした。それはほとんど二年前から準備されてきたもので、それらの発表がたまたま1983年になったということなのです。「宇宙戦艦ヤマトⅢ」の公開につづいて小説「銀河創世紀伝」の一巻目である「聖戦士キリー」二巻目の「シャングリラの星」が発売になったり、つづいてテレビでは「プラレス3四郎」のシリーズが始まると、更に時を置かずに「キャッツアイ」のシリーズが始まると、それにつづいて8月21日には、日本テレビの「愛は地球を救う」の中で「プライムローズ」が放送されることになったのでした。


二年前の1981年では東映動画の「1000年女王」の映画化に向けた打ち合わせを重ねている最中でしたし、東京ムービー(現TMS)の「マーズ」の企画が持ち込まれていたところでしたが、そんな最中に私にとっては大きな出来事がありました。「宇宙戦艦ヤマト」に関係したために、西崎義展氏に協力する者として私は手塚治虫先生の怒りの対象になってしまっていたようで、「新鉄腕アトム」の脚本執筆を日本テレビがメインライターとして執筆の依頼をしてくれたのですが、手塚先生から「西崎に協力する者には書いてもらいたくありません」ということで、かかわることを拒否されてしまったのです。番組に関係するさまざまな関係者は、何とか先生を説得しようと努めたのですが、先生の姿勢はまったく変わりません。それからも多くの人々が私の番組への執筆が可能になるようにと、時間をかけて努力して下さったお陰で、ついにその年の5月1日に先生との関係を修復する機会を作って下さったのでした。


高田馬場のレストランでの会食をしながら話し合うということになったのです。


ようやく先生と対面を果たしたのですが、兎に角私はどんな思いで青少年に向けたテレビの番組作りをしてきたのかという、作家としての姿勢についてお話しましたし、西崎氏の経歴についてはまったく知らずに付き合ってきたので、彼の生き方について同調するものでもないということを説明して、虫プロ倒産ということについてもまったく知らずに、番組制作に協力していたのだということを説明して、最近の彼の人間性に疑問を持つようになったこともあって、すでに次の「ヤマトⅢ」の作業からは退いてしまっているということを真摯に説明いたしました。それで私の誠意が何とか先生に通じたのでしょうか、二時間余りの対話と食事の間に、先生のわだかまりも氷解して下さったようです。手塚先生は最後に、「今度私と一緒に仕事をして下さい」と優しい言葉をかけて下さって、その日の劇的な対面を終えてまた仕事場へ戻られたのでした。それをきっかけにして、今度は直ぐに「新鉄腕アトム」を書いて貰うという話になったのですが、ほとんど一年間は手塚先生の誤解が解けなくて執筆不可能な状態であったために、すべてが解決した時には、すでに番組の制作は終了間近に差しかかっていたのです。それでも一本だけは書くことができましたが、私の最初で最後の作品となった台本はついに私の手元には保存されていません。兎に角「新鉄腕アトム」という番組はその年の12月23日に終了してしまうのでした。それにしても私をかばいつづけて下さった皆様には、感謝のしようもありませんでした。


それから間もなく手塚治虫先生の「プライムローズ」は、秋田書店の「週刊少年チャンピオン」に連載が始まりました。そしてその年は「ゴットマーズ」の仕事に集中していることになったのですが、ようやく一本書いただけの「新鉄腕アトム」は、翌年の1982年の12月までつづいた番組は、ついにそれで修了することになってしまったのでした。その後からはすでに書きましたが、小説「ゴットマーズ十七歳の伝説」の執筆にかかり、その映像化の作業にかかったのです。しかしその間に「プライムローズ」の連載も進んでいて1983年6月30日で完結すると、手塚先生からこの作品を脚本化して下さいという話があって、直ちにその原作はこれまでの連載原稿がまとめて届けて下さいました。


私の純粋な気持ちを理解して下さった手塚先生が、和解の席で「今度は私と一緒に仕事をしましょう」といって下さった答えは、日本テレビのイベントである「愛は地球を救う」の中で放送されることを予定して書かれていた連載作品であったのです。


完結と同時に早速その映像化の準備となって、早速脚本にまとめて提出しましたが、決定稿は手塚先生の自宅でということになりました。


   「プライムローズ連載・第一回」1.jpg 「プライムローズ・胆原兄弟奮闘」1.jpg 「プライムローズ連載・第一部終了」1.jpg


原稿を持って自宅へ伺ったのですが、和室で原稿をチェックして頂きましたが、緊張して見つめている私に、先生は「ご苦労さまでした」と仰って、作業としてはそれで修了ということになったのですが、先生は原稿を持って立ち上がると、「藤川さん。一寸待っていて下さい」そういい残して奥の部屋へ入っていかれたのでした。


引き留められた意味が分からずに待っていたのですが、ようやくあることを思い出しました。先生と和解の話が行菜われた時に、プロダクションの社長のM氏に先生のサインを記念に頂きたいとお願いしてあったことを思い出しました。


数分後に色紙を持って戻ってこられた先生は、


「色を付けていなくてごめんなさい」


とおっしゃりながらプレゼントして下さったのがこの色紙でした。


先日お願いしてあったことを、忘れてはいなかったのです。


               「手塚治虫氏」1.jpg


           「プライムローズ」(前編)1.jpg 「プライムローズ」(後編)1.jpg


その後は監督の出崎哲氏を中心としたスタッフの作業にお任せして、8月21日の「アイワ地球を救う」で「プライムローズ」は無事に放送を終えたのでした。


 


 私にとっては直接関係のないことではあったのですが、手塚治虫先生と西崎義展氏の間に起こったさまざまな問題が飛び火して、「宇宙戦艦ヤマト」に関係したために手塚先生の怒りが飛び火して大変な迷惑を被ってしまったのですが、兎に角すべて私に関しての誤解は解けたのですが、これで手塚治虫先生との縁は切れてしまうことになるかも知れないと思っていたのですが、それから一年後には感動の再開がありました。それはまたその時がきたらお話しようと思います。


 


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告知と放談の部屋☆ 放71放71 「女性重視時代」 [テレビ]

  

時代の進化によって人の暮らしの様子が変わっていくに従って、その人たちの感性も価値観も変わっていきます。ライフスタイルも変化していきます。かつてはそれが大事だと思っていたことも、むしろそういった感性は否定的になってしまうこともあります。じっくりと考えてから動く者はネグラなどといわれて差別されてしまうような時代です。遠慮がちであった自己表現も、パフォーマンスといわれるようになって気軽になっていきました。


「キャッツアイ」は正にそんな時代に登場してきたのですが、これまで絶対と思われてきたものが、思いがけないことで覆ったりもしてしまいます。そんなことが若い女性の三人組にしてやられてしまうのです。時代は価値観の変化を象徴していきます。そしてそれと同時に、社会での女性の立場がこれまでと大きく変わっていきました。溌溂として動いて、これまで絶対と思われてきたものの重量感が、あっさりと彼女たちの軽快な活動で覆されていく爽快感に拍手が起こります。「キャッツアイ」という女性だけの主人公が活躍するアニメーションに注目が集まるということは、時代の象徴的な現象です。


 そんな三姉妹を演じて下さるのが、眸・戸田恵子・愛・坂本千夏・泪・藤田叔子さんという声優さんたちでした。通常は彼女たちが熱演するダビングの場には、原稿執筆に追われているために出かけられないのですが、そんな私のために、番組の進行中に彼女


たちのサインの寄せ書きをプロデウサーに託して贈って下さったのでした。今では実にいい思い出の記録になりました。


                                           「キャッツアイ」(声優サイン)1.jpg


 (眸・戸田恵子・愛・坂本千夏・泪・藤田叔子)


  あまりせっせと書く状態にはならなくなりましたが、文芸担当のI氏からは、たびたび電話があっていい脚本家がいたら、是非紹介して欲しいという依頼がありましたが、番組センスに合うと思われる人はついに最後まで紹介することができませんでした。それにしても「キャッツアイ」という女性だけの主人公が活躍するアニメーションに注目が集まるということは、時代の象徴的な現象です。お陰様で番組は終了後にも、全話の入ったVDVが発売になりました。一寸窮屈なお話になってしまいましたが、どうしてもそうしたことをお話しておくべき時代が訪れてきたのです。


 


 あまりせっせと書く状態にはならなくなりましたが、文芸担当のI氏からは、たびたび電話があっていい脚本家がいたら、是非紹介して欲しいという依頼がありましたが、番組センスに合うと思われる人はついに最後まで紹介することができませんでした。それにしても「キャッツアイ」という女性だけの主人公が活躍するアニメーションに注目が集まるということは、時代の象徴的な現象です。お陰様で番組は終了後にも、全話の入ったVDVが発売になりました。一寸窮屈なお話になってしまいましたが、どうしてもそうしたことをお話しておくべき時代が訪れてきたのです。


                   「キャッツアイ・1」1.jpg 「キャッツアイ・1から5」1.jpg 「キャッツアイ・2」1.jpg 「キャッツアイ・6から9」1.jpg


  


時代の推移を見つめながら、多少「キャッツアイ」から解放された私は、「プラレス3四郎」という番組で親しくなった「カナメプロダクション」の社長からある相談を受けていたのです。


 つまり番組が終了すると、作画監督を務めていた(いのまたむつみ)さんが、アニメーションの世界から身を退いて洋画の勉強をしたいということを言い出しているというのです。社長はそれを引き留めようとして奔走していたようなのですが、そんなところへ助け舟として登場したのが、アニメーションのグッズを制作販売していた「・・・・」の社長であったO氏でした。彼はカナメプロに資金援助をするので、映画を作らないかという提案をされたというのです。カナメプロの社長がやってきたのは、その映画の原作を書いて貰えないかという依頼のためであったのです。


 いのまたむつみさんの作業を見届けているうちに、ここでいきなり辞めてしまうというのはよほどの決心です。折角のチャンスとして活かしもしないで止めてしまうというつもりになってしまったのは、よほどのことがあったに違いありません。


社長の説明によると,あまりにも若い年齢で作画監督などという重責を果たすことになったことに対する羨望が非難に変わったのでしょう。大分心の負担になるようなことが言われるようになって、かなりそれが心の負担になってしまっていたようでした。


 折角の逸材につまらない決心をさせてしまうということは、プロダクションにとっても損失になってしまいます。自社で作る映画で思う存分力を発揮させてやりたいという願があって、その原作を頼みたいということになったのでした。


 幸いなことにプロダクションにはグッズを制作販売している社長のO氏が、そのバックアップをすると申し出て来たということでした。


 そんなこともあって、丁度時代の転換期であると考えていた私は、これからどういう方向へ向かって行ったらいいのかと真剣に考えるようになっていったのです。その結果


私は、カナメプロからの依頼を受けて映画の原作脚本を書くという、新たな試みに立ち向かってみようという目標を立てたのでした。


 女性が大変尊重されるようになったこともあって、かなり自由奔放にふるまう女性が多くなっていたことがあって、それが日常の中で思いがけない性癖となって現れ、新聞などで取り上げられるようになっていたことがありました。つまり交際している友人との約束を平気で守らないいいということをしてしまう女性が出てきているというのです。


 私はその時、ふとある古典を思い出していたのです。


                       「雨月物語・上田秋成集」1.jpg 「雨月物語・序」1.jpg 「雨月物語」1.jpg


  


江戸時代の作家上田秋成の「雨月物語」という作品でした。


 戦国時代を生きるある夫婦ですが、金もうけを企んだ夫は戦乱の巷へ飛び込んでいくのですが、その時妻はどんなことがあってもあなたが帰ってくるのを待っていますと約束するのです。やがて何年かして、金持ちになっても戻るといって家を出て行った男は、思い叶わずに夢に破れてボロボロになって帰ってくるのですが、妻もその境遇は大きく変わってしまうのですが、それでも夫との「約束」を守って、昔の家で待っていたという話でした。約束を守らない女性が横行する現代女性に問題提起をしたくなったのです。わたしは「約束」ということをテーマにして映画のための原作を書いてみようと決心したのでした。


その話はその時にお話しようと思います。


時代が女性に焦点を合わせてきた時代ということで、拙著の「ウインダリヤ」の誕生のきっかけまで触れることになってしまいました。


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アニメと音楽の部屋☆ ア52「キャッツアイと女性」 [テレビ]

 

実に1983年という時はアニメ界にかなりの変化が表れてきた時代であったように思えます。これまで放送で取り上げられてきた作品のほとんどは、男性が中心になって活躍する作品でしたし、そういった作品の映像化ということではその脚本を担当する者もほとんど男性でした。しかし今回取り上げられた作品の原作は、北条司という男性であるものの活躍するのは眸・愛・泪という女性三人姉妹による怪盗物語です。


 これまではあくまでも男性のヒーローを支えるか、引き立てる役割を果すか、ヒーローが憧れる存在として描かれてきた女性でしたが、時代の価値観が変化していく中で、その存在感に変化が表れてきていました。


新しく社会で注目される存在になり始めていた女性を、無視することはできなくなってきていて、社会での女性を見る目が大分変わってきています。時代は次第にその存在感を無視できない存在になりつつあったのです。時代の変化には敏感であったテレビでは、早速1978年6月には大和和紀原作による「ハイカラさんが通る」という作品を登場させました。しかしまだそれは社会の現象としてはそれほど目立った現象にはなっていなかったこともあったことから、話題にはなりましたが一気に視聴者の注目を浴びる作品にはなりませんでした。新しいものには少しでも早く飛びつく放送界ですが、まだ社会現象になるほどの反応はなかったのです。矢張り変革の始まりという時代であったのかも知れません。それから三年後のことです。もうこの頃になると、世相はかなり前とは違ってきていて、ライフスタイルもどこかに和風を抑えて洋風が中心になってきていたこともあって、新しいもの好きなテレビのアニメーション番組には、「キャッツアイ」という女性が主役になった怪盗の物語が登場してきました。つまり数年前から時代はさまざまなことで変革が進められてくる中で、社会のリーダーも男性を押し分けるようにして飛び出して来る女性もいましたが、市民活動家であった市川房江さんなどが衆院議員に当選したりしてきたのです。


 前述の1978年代の「ハイカさんが通る」では、主人公は女性ではあるものの明治時代から大正時代に転換していく中での、時代の先端をいこうとする女性を中心にした話でしたが、男性の支配に対して精一杯抵抗して新しい時代の呼吸を発揮していこうとする姿を描き出していったのですが、時代の進化の速度は時と共にその変革の速度を早めてきていて、それから数年後の「キャッツアイ」では完全に女性の姉妹が中心となって、いうなればこれまでの男性社会に対して挑戦していくような・・・いわばこれまででは絶対に女性がやらないような、社会に対する挑戦をやってのける話です。


同じ東京ムービーでは、かつて「エースを狙え!」という女性を主人公にしたスポーツアニメーション番組がありましたが、主人公である岡ひろみという新人プレーヤーと、先輩の竜崎麗香・・・通称お蝶夫人という異称を持つ女性プレーヤーを話の中心に置いた作品でしたが、まだこの頃では、彼女たちの葛藤を描きながら、実は彼女たちにからんだ高校のテニス部に存在する、宗方仁という憧れのコーチが存在していたり、藤堂貴之という同じ部員で女性部員の憧れる期待の選手が設定されていて、一見女性を主役にしながら実はそれぞれに宗方と藤堂という男性が、二人の心理的な面で微妙に関係しているという青春時代の物語として組み立てられていました。次第に女性が進出してくる時代の作品ではあるのですが、まだ新たな時代への過渡期に登場した作品といった方がいいかも知れません。女性は完全に自立した存在とはなっていなくて、常に彼女たちの背後には宗方仁、藤堂貴之という男性の存在がいて支えられているという状態でした。ところが今回登場した「キャッツアイ」は、更に時代の進展によって、女性の社会進出が進んできていた時代を象徴している作品のように思えます。女性だけの三人姉妹によって繰り広げられる怪盗のものがたりです。幸いにも時代の変化が激しくなってきていたのですが、これまでの実績もあったことから東京ムービーは仕事を依頼してくれました。しかし今回だけは、ちょっと気持ちではためらうものがありました。自信を持ってシリーズを引っ張っていけるという覚悟が持てなかったのです。感性というものについては大変敏感であった私は、これまで数々のヒット作品にかかわってきた自信を持っていましたが、時代の進化の様子を敏感に感じてきていた私は、刻々と変化してきている感性や価値観というものについて、それをどのくらいうまく表現していけるだろうかということに、かなり不安を感じていたのです。番組のメインという立場でかかわるとしたら、やはりかなり責任を感じるものです。何とかヒット作品にしていかなくてはなりません。果たして時代の空気を掴まえて作品の中でそれを発揮させることができるのだろうかと考えると、一寸不安でもあったのです。既に今回の文芸担当となったI氏は、私を中心に置きながらKという若手女性脚本家を控えに配置してきたのです。作品を考えた結果ですが、昔だったらまだ番組のスタートに当って起用されることはなかったと思われる若い作家をメンバーの中心に入れてきたのです。I氏はそれから間もなく、若手女性脚本家と親しくしている中堅の男性脚本家T氏を配してきましたので、なかなかうまい発注の仕方をしたものだと思いました。


                    「キャツアイ」1.jpg


取り敢えず直ちにスタート台本は書き終えましたが、私を取り巻く環境は確かにこれまでのシリーズを書く時とは大分様子が違ってきています。文芸の責任者となったI氏は、私をホローするための準備を整え始めているのです。


原作をチェックしているうちに、男の感性であったら無視してもっと大胆に目標につき進んでいくだろうと思われるところでも、女性はいかにも女性らしい感性と繊細さを発揮しながら盗みに入るという能力を発揮していかなくてはなりませんし、その戦略についても女婿同士の感性というものがぶつかったり、判断があったり、危機突破のアイデアを発揮しなくてはなりません。私はスタート台本を書きながら、新たな文芸担当のI氏には、これは女性脚本家に任せた方がいいのではないかと率直に申し出ておきました。案の定それから間もなくI氏は、若手女性脚本家が最近結婚した男性脚本家のT氏を配してきました。なかなかうまい発注の仕方をしたものだと思いました。


 こんな経緯があって、私はその後に数本の作品は書きましたが、あまり深入りはせずに、時代の感性というものを上手く取り入れて書ける脚本家を選んでくれるように再度依頼して、じょじょに番組からは遠ざかるようにしていたのでした。


 こういう時代の変わり目はすでに経験してきましたが、時代の空気を読み取るということの重要性を学んできていましたから、決して戸惑って狼狽することはありませんでした。新たに起こってくると思われるこれまでとは違った時代の特性というものは、しっかりと考えておくべきだと思っていました。


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