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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その四の二 [趣味・カルチャー]

      第四章「隠れた事情を突き止めるために」(二)


        為政者の課題・「皇室費用削減は真剣か」


弘仁六年(八一五)のことです。


 既に前回で話題に取り上げましたが、昨年五月八日の朝議が行われた時、平城(へいぜい)太上天皇時代から受けついたことの負担があった上に、地震という予期せぬ天災の影響があり、時には旱魃(かんばつ)のために命を失う者も多く、その処置が行き届かないことから、使者を葬ることも出来ずに発生する疫病との戦いにも、神経を尖らせなくてはなりませんでした。


国の財政状態が極めて困難な状態になってきているのを知った天皇は、その財政負担に宮廷維持費がかなりかかわっているということを知って、近親の公卿たちも予想しない決断を発表いたしました。天皇のお子様たちを臣籍降下するという申し出をされたのです。


前回第四章「隠れたっ場を突き止めるために」「その四-一」「財政悪化で臣籍降下」という閑談でそのきっかけについての説明をいたしましたが、あまりにも突然の発表で、一瞬公卿たちも信じられないという様子でしたが、天皇はその決心がただの思いつきではないということを伝えた後で、その決断を直ちに実行するとおっしゃいました。公卿たちの中には、天皇が新たな派閥を作るのではないかという、疑念を抱かせたほど、大胆な決断でびっくりさせました。しかし天皇の御子にかかる維持費だけでも、その数が多かった分だけかなり膨大になるのです。国の財政の危機から脱出させるためには、かなり助かる決断でした。


発生した問題と


 天皇の決断が決行されることになった結果、親王・皇女たちであったお子様たちは、これから貴族として存在しつづけることにはなりましたが、暮らしは自らの工夫で、かかる費用を生み出さなくてはならなくなったのです。


 確かに親王と姫君の数だけでも、祖霊の桓武天皇を越える数です。それを維持するには、平穏な自然に恵まれた状態で、収穫が確実に満たされている時は、国の財政譲許を圧迫させてしまうということもないまま過ごせるのですが、この数年の情況を考えると、とても容易な数ではありません。しかしそれでも自らの身を斬る形でひっ迫する財政問題を解消しようということを実践したことは公卿たちも驚愕いたしましたが、恐らく現代ではただ更に国債を上乗せして発行して、借金を積み上げていくだけでしょう。とても自らの身を斬るなどということは、聞いたこともありません。


 よく国会の議論の中では、提出した議案を実行するには身を切るような思いでこれまで提出していた議案を引き下げるというようなことを言ったりしますが、口先では歯切れのいいことを言っても、結局それを断行して見せるというようなことは一度もありませんでした。


 その点では、嵯峨天皇の決断は、かなり思い切った決断をしたことになります。しかしそれが間違いなく実行されるかどうかは、周辺の者にとっても関心事ではありました。


あれから一年が経過しました。


 国の財政は極めて苦しいことになったのに対して、天皇は、御子たちの臣籍降下という、思いきった決断を強行されたのですが、これまで御子に支払われて来た莫大な予算を断ち切って、本当に国を危機から救うことになったのでしょうか。公卿たちの関心事は、天皇の決断が本当に行われることになったのかということでした。


為政者・嵯峨天皇


弘仁六年(八一五)六月十九日のこと


発生した問題とは


 現代でもよくあることですが、一見して大改革が行われるような態勢を見せるのですが、やがてはまったくそれは行われないままになってしまっていたことがかなりあります。果たして天皇の権力が絶対的な時代であった頃の決断です。旱魃の広がりで財政が逼迫していく中で、それからの脱出に苦慮している最中の決断でしたが、臣籍降下という大胆な決断は、本当に実行されたのだろうか・・・。かなりの関心事でした。


しかし公卿たちの杞憂は払拭されてしまいます。


天皇は臣籍降下させた親王、内親王を左京に移して、民との接触を容易にして、暮らしの道を拓くように仕向けていたのです。


(まこと)(ひろむ)(ときわ)(あきら)という親王の四皇子と、(さだ)姫、(きよ)姫、(うつ)姫、(よし)姫の四皇女を、左京に移しました。


決めたことをきちんと行い実証していかれたのです。


この年六月には、(ひろし)(さだむ)(しずむ)、生、澄、安、清、融、勤、勝,敬、賢、継という十三皇子。(さら)姫、(わか)姫、(かみ)姫、(みつ)姫、(こえ)姫、(よう)姫、(はし)姫、()姫、(みつ)姫、(よし)姫、(とし)姫などという皇女を、前述のように、左京へ移すという決定をされました。


前年の八人と今回の十三人を加えると実に三十二人という皇子、内親王を臣籍降下しただけでなく、臣民の中に入って生計を立てるようにという、厳しい思いからの臣籍降下であったのでした。


 政庁は天皇の身を削るという、思いがけない決断をきっかけにして、さまざまなことに注目して点検を行い、(ただ)すべきことはきちんと糺して整理と改革を進めていきました。


為政者はどう対処した 


 天皇が改革に真剣になっているのを知ったからでしょうか、その機運に便乗する形で、右大臣の藤原園人から、先祖の功封の返還をしてほしいと、次のような文書が提出されたのです。


 「私たちの高祖である大織冠(たいしょくかん)内大臣鎌子(かまこ)(鎌足)は、皇極天皇の時代に天下を統一して(ただ)し治めた功績により、封一万五千戸を賜り、嗣子正一位太上大臣不比等などは父を継承して大臣を排出する家風を立て、これにより慶雲四年に勅により封五千戸を賜りました。不比等大臣が固辞しましたため、天皇はその願を許し、二千戸に減定して、子孫に伝えることになりました。天平神護元年に従一位右大臣豊成が上表して返還しましたが、宝亀元年に勅により返賜され大同三年に正三位守右大臣内麻呂が上奏して返還を申しましたが、許しを得られませんでした。伏して格別の封戸支給の理由考えますと、先祖の功労によると思いますが、いま私たちは陛下のますますの寵愛を受けながら、僅かな功績もなく、御恩を被りながら深い山中に姿を隠すように責務を果たしていません。それなのに重ねて格別の恩寵を貪り、久しく年月を経て、転地に俯仰して恥じ恐れるばかりです。これでは満ちれば欠けるという天の戒めに背き、必ずや大臣としての任に堪え得ないことになりましょう。伏して、伝えられてきた功封を返還してわずかでも国の経費を補い、少しでも職責を果たさず禄を貪るという事態をなくすことを請願致します。よく考慮され、私たちの心からの願いを許して下さい。これにより私たち一門の幸いが永続し、世の批判も止むことでしょう。真心に迫られるままに、謹んで表を奉呈してお願いいたします」(日本後紀 


 天皇はそれを許しませんでした。


 右大臣の申し出たことは、時の改革気分に便乗しようという意図がはっきりしすぎています。


現在はとてもそういったことまで許すような余裕はまったくありません。さまざまなことで改革していこうとしていらっしゃったのです。やるとなったら中途半端ではいけません。正に現代的な問題でもあります。


 為政者には決然とした思いがなくては、真の思いは達成することができません。その時の都合で、途中で中断したままになっている公共事業も沢山あるのではありませんか。必要であればきちんと素早く行うべきであり、切り捨てるべきものは、容赦なく切り捨てるべきです。しかし功績のあった人のことはもちろん現在生きている人の功績も、政庁の財政を補助するために、犠牲にするという好意を受け付けることは出来ません。それは天皇が行おうとした決意とは違った問題となってしまいます。


 天皇は大臣の申し出を拒否しましたが、極めて本質的なことを大事にしようとしているのだということがはっきりとして、拍手したい気持ちになりました。


 天皇をはじめ政庁の責任者であるものが、雰囲気に便乗して個人的な思いを遂げるようなことは許されるものではありません 


温故知新(up・to・date)でひと言


 古代も現代もありません。大事なのは問題処理をきちんとしなくては意味がありません。ただ決まったことだからという、投げやりな姿勢でいることは許されません。やると決めたことについては、それなりの責任を持たなくてはならないということです。四字熟語にはこういう者があります。「後顧之憂(こうここれうい)というものです。言行一致で後に気がかりなことが残ってしまっては意味がありません。今回の改革の始まりは臣籍降下でしたが、世の中には男と女の問題の狭間で苦闘することに、生き甲斐を感じるなどと格好をつけていう、キザな人もいるにはいますが、そういった方は論外としておきましょう。今後のためにも、「銘肌鏤骨(めいきるこつ)です。肌に刻み付け、骨に彫り込み、深く心に銘記して忘れないようにしておかなくてはなりません。二度とその深みに落ち込まないようにして、「不言実行(ふげんじっこう)いたしましょう。理屈や釈明をせずに、黙って実行することです。したい放題をして後は知らんという、横着なことは絶対に許されるものではありません。けじめをきっちりとつけたいものです。


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