「妖怪今昔物語」


 


 怪しい話というものは、いつの時代にも誕生するものです。


 平安時代で嵯峨天皇の息子で仁明(にんみょう)天皇の時ですが、世の中が落ち着かない時代だというのに、かつて盛んに表れたという怨霊ではなく物の怪という得体の知れないものが現われるということが話題になっていました


するとそんな噂を証明するように、承和四年(八三七)年正月の十六日のことです。


恒例によって皇太子を伴って紫宸殿へお出でになられた天皇が、踏歌をご覧になられると、翌日は豊楽殿で射礼(じゃらい)(六衛府から選ばれた者で行われる宮中の正月の儀式)を観覧されるのですが、その翌日も殿上に設けられた天皇の座の近づこうとした時、突然得体の知れない物の怪が出現したのです。


天皇は慌てて出席を諦めて大臣を遣わしたりいたしましたが、それにしてもなぜか仁明天皇が即位してから、ほとんど日常的に物の怪が現れるようになっているのです。


 同じ仁明天皇の為政者・仁明天皇の承和七年(八四〇)六月五日のことです。政庁は年明けの二月に、六衛府に対して、特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。


勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、世相のほうは乱れが気になっていたのです。


 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を捜索して身柄を捕え、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)


 このような指示をしたりしました。


 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。


 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて戒(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)


 為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのように、為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが現れるようになったのです。


時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。


それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。


 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりしました。


 時代に乱れがあると、そこに生きている民にとっては不安な気持ちが生じるのでしょう。これらは何といっても今から1100年以上も魔の話ですが、それから八百年ほどたった江戸幕府の五代将軍綱吉将軍の時の出来事はこうでした。或る夜のこと、何者か怪しいものが近づいてきたと思うと、御台所の寝殿まで来ると、緞帳を掲げ上げて中を覗いていたというのです。


御台所は気がつきましたが、少しも騒がずに、


「誰か私の枕元へきていたようだね。捕らえよ」


と言って平然としていらっしゃいました。


大騒ぎとなって、御台所は御広敷の方の役人に来てもらって、やっとその得体の知れない潜入者を捕らえたのですが、その怪物は何と葛西(かさい)の百であったといいます。


奥女中たちが化け物ではないかと怖がっているのを聞いて、「天狗か何かに誘われて飛んでいるうちにここへ落されてきたのだろう。こんな正気でないものが何もできるものではない」


と、平然と言われたということです。


 怪物とは言っても、時代については、実に現実的で、神秘性のかけらもない話になってしまいますね。


時代の差は歴然としています。