第一章 「卓越した指導者であるために」(四)


        為政者の課題・「息抜きに射幸心を楽しむ」


 今回は弘仁七年(八一六)。嵯峨天皇は即位されてから七年を経過しておられた頃の話です。


これまで天皇は、日常のルーテインはもちろんですが、生き方の姿勢についても変えるようなことをされたことはありません。すべてのことについて、端正な暮らしぶりを貫いていらっしゃいます。


 為政に関しては、これまでの朝廷がことごとくその対処に苦慮してきた蝦夷(えみし)対策も、ただ権力を振りかざして押さえつけようとするのではなく、少しでも彼らを理解してみようという、文人政治家らしい発想で対処し始めていらっしゃったのです。


周辺の方たちも、これまでとはかなり違ったものが感じられるようにはなってきていたのではないでしょうか。


 ところがそんなある日のことです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁七年(八一六)三月二十七日のこと


発生した問題とは


宮中武徳殿(ぶとくでん)では賭射などといわれる、矢を射る者の優劣を競わせて、その勝者を当てたりするのを楽しむという遊びも行われていたのです。もちろん為政の最高責任者である天皇が、そんなことを主宰されるわけはありません。企画したのは宮中に勤める官人たちなのですが、何とその日は、天皇もそれに便乗してその催しを楽しまれたのです。


これまでの暮らしのあり方を糾してこられた天皇の姿勢を思うと、あまりにも違ったお姿を拝見することになりました。


史実の「日本後記」によりますと、民部(みんぶ)宮内(くない)という両省の者が合同で、三百貫という銭を奉献(天皇・太上天皇に対して臣下が飲酒、飲食の宴席を設け、贅を尽くした飲食以下の費用を負担する)して、宴会を終日楽しんだことがあったのです。


ところがその勢いで彼らは、左右近衛の者たちを呼んで(じゃ)(弓を射ること)を競わせようということになったのです。


当時の武人は走る馬に騎乗して弓を射る騎射(きしゃ)と、あるところへ立って的を射る歩射の技術を身に付けることは、大変大事なことでありましたし、魔除けのためにも弓を使いますから、天皇は慣例としてほとんど毎日、豊楽殿や馬埒殿(ばらちでん)へ出向かれて、射の様子、騎射の様子をご覧になるのが常だったのです。


宮中を守るという務めを果たし、儀式の際に威儀を正すために参列したり、天皇に供奉(ぐぶ)することも行う左右近衛の者たちなどにとっては、武術の優劣は無視できません。


民部・宮内両省の者はそんな彼らに宴の楽しみとして、射を競わせようとしたのでしょう。もし見事に的を射て勝った者にはその度に酒を振る舞い、銭を与えられたのです。


ちなみにこのころの銭の単位ですが、穴あき銭だと一千文で一貫になるのですが、三百貫というのはかなりの額になります。(江戸時代は九六〇文、明治時代は一〇銭で一貫)


射をやらせる者、射に挑む者、それを見つめる者、みなすっかり寛いでいました。いうまでもありませんが、常にこうした楽しみ方をしているわけではありません。まだ年が明けて間もない三月のことですから、天皇も武人たちの楽しみに乗って楽しまれたのでしょう。


 天皇は宮中という厳しい規範の求められるところで、賭弓(のりゆみ)などということが行われたということで、官衙ではみなびっくりさせられました。


日常は清冽な姿勢を保っていらっしゃる天皇が、なぜそのようなことをさせたのでしょうか。


政庁には処理しなくてはならない問題がいくつもありました。


当時の日本には朝廷の抱える問題として、政庁に随うことになった夷俘(いふ)(朝廷の支配下に入って、一般農民の生活に同化した蝦夷(えみし))といわれる者たちのことや、風雨が不順で農作業が思うようにならない状況がありますし、官人の(ろく)(給料)問題も処理したりしなくてはなりませんでした。そんなところへ、平安京の象徴でもある羅城門(らじょうもん)が倒壊するなどということが、起こったりもしていたのです。


とても賭弓などを楽しむ余裕などはないはずなのですが、官人たちの申し出に、なぜ天皇は乗ったのでしょうか。もちろん。ただいたずらに臣下の遊びに便乗したわけではありません。政庁には解決をしなければならない問題がいくつもあるのです。その処理については、的確な指示をしていかなくてはなりません。心身ともに疲れるはずです。


天皇はそんなご自分の状態に、一寸緊張感を解放しようとされたに違いありません。


為政者はどう対処したのか


 限られた世界でのことですから、宮中で賭弓が楽しまれたという噂が、官衙の中で広がらない訳がありません。


天皇は宮中のことがどう広がっているのかを知ろうとして、数日後に禁苑である神泉苑(しんせんえん)へ行幸されたのです。


案の定、今度は左右の馬寮(まりょう)の者が銭を四百貫集めて献納して、左右近衛の者に射を競わせて楽しむのに遭遇するのです。


噂の広がり方が、尋常ではなかったのを実感されました。


これなどは正に現代的な問題ということにもなるのではないでしょうか。政治を司る宮中はもちろん政治の中心である内閣府で賭け事が楽しまれたということが判ったら大問題になってしまうでしょう。


まさに今回のような問題は、時代の違いとしか言いようがありません。


内閣総理大臣以下肝心たちは、国民のさまざまな問題解決に腐心しなくてはなりません。その疲れが蓄積していくでしょうが、それをどうやって息抜きをしていくかは、それぞれ責任を持たされている分だけ、負担が蓄積されていくことでしょう。その重圧感を適度に解放しながら、どう政務の激務にかかわっていくか、現代を生きる者の課題でしょう。最近はいささか下火になっていますが、所謂IR法案・・・つまりカジノを含む統合型リゾート施設というものですが、設置されるということの是非について審議されている最中は、ギャンブル依存症ということも浮上して、かなり世間でも騒がしくなっていたことがありましたが、その後副大臣クラスの議員がその拠点を決めることに関して、異国からの働きかけにのって、便宜を図ろうとして摘発されてしまいました。その為もあって、まだ法案は棚上げになってしまっていているようです。平安時代のように、朝廷という規律の厳しいところで暮らす役人たちの息抜きのために、厳しい姿勢を保たれていらっしゃる天皇が、理解をしたということに意味があったと思うのですが、その頃官衙に勤める者の規律が守られないという問題が浮上している頃であったということを考えると、天皇もかなり思い切ったことに理解を示したことになります。


もちろんそれが日常になってしまったら大変ですが・・・現代ではあくまでもギャンブルとそれが行われる地域の経済ということでは、かなり難しい問題がありそうですね。ギャンブル依存症という問題とはまったく別次元のお話になってしまっています。


すでに政府は形を変えて、勝負に金品を掛けるということも公に行っています。射幸心ということでは身近なパチンコをはじめとして、競馬、競輪は言うまでもなく公に認められたものは、それに賭けて利益を得るのを楽しみにできます。つまり楽しみの範囲で許されていることです。しかし現代ではそれを行うことで得る利益を、国家予算にまで組み込んで運営しようということで、大掛かりな賭博場であるカジノを開こうという企画が注目されることになったのですが、これは気分転換という範囲を超えたものになります。息抜きということは判っていても、その勝ち負けの刺激で知らないうちに熱し過ぎてしまって、度を過ぎてしまうことが多々あるのがギャンブルの特徴です。


そのために平穏無事であった日常生活を破綻させてしまうことにもなります。正に古代も現代もない問題です。


度を過ぎると必ず大きな問題に発展してしまいます。


温故知新(up・to・date)でひと言


兎に角賭け事というものは、一度はまってしまうとなかなかきっぱりと区切りをつけることが困難なもののようです。


平安京の政庁の方々は大極殿や朝堂院へ戻れば、為政の責任者として、大小さまざまな社会問題に対して、その処理を速やかに行わなくてはなりません。けじめはつけていたはずです。古くからある四字熟語には、「内憂外患(ないゆうがいかん)といった言葉があります。国の内外に心配事が沢山あるということです。仮に賭け事に熱中することがあっても、それはひと時の楽しみであって、決してけじめのつかない状態にはならないように気を付けなくてはなりません。「隠忍自重(いんにんじちょう)という言葉のとおりです。いつまでも浮かれて軽々しい行動などをしないように、慎重に事の処理を行って、すべて臨機応変に処理をしていかなくてはなりません。「融通無碍(ゆうずうむげ)という言葉のように、その時の政庁の都合で為政をやってはいけません。


それをさせないように、政治の向かう方向を平静に見つめる我々の視点が必要です。それができるかどうか、敢えて賭け事を取り上げましたが、あくまでもそれは作業を円滑に進めるための気晴らしであって、決してはまり込んで度を過ごしてしまってはならないという、自覚を持つ必要があるように思います。