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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の一 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した為政者であるために」()


         為政者の課題・「災難の受け止め方」


 今回のブログのシリーズは、弘仁(こうにん)元年(八〇九)から天(ちょう)承和(じょうわ)十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代を扱う、閑談のための素材です。


為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。


 そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。


本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思うのですが、ブログでは取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためです。取り上げた素材に秘められている問題に、現代を考えて頂きながら楽しんで頂こうという試みが秘められているためです。一話一話をその頃の現実の姿として受け止めて下さい。


 そのような訳で今回は、大同三年(八〇八)の、平城天皇の時代で、嵯峨天皇はまだ神野親王(かみのしんのう)と言っていた皇太子の頃のお話として始めます。


為政者・平城(へいぜい)天皇


大同三年(八〇八)五月五日のことです 


発生した問題とは


 平安京を作られた桓武天皇がほぼ十年で崩御されて、その子安殿(あて)親王が践祚(せんそ)して平城天皇となられたのですが、即位間もないこともあって、ひたむきな気持ちで民を率いていこうとしていらっしゃいましたが、お気の毒なことに、そのころ日本全土には疫病が広がっていて、そのために様々な問題が広がっていたのです。


 現代の日本では、飢饉(ききん)などという異常事態はほとんど起こりませんし、それによって生まれる死者が放置されるといようなこともありませんが、しかし平安時代の初期では、それが更に疫病を広げてしまう引き金になってしまうのでした。・・・。


平城(へいぜい)天皇は毎朝行なう、朝廷の大事な行事である馬を使って矢を射る、いわゆる騎射を停止しました。


どうも天下に疫病がはやっているためだというのですが、天皇には他にも情報が入っていたのです。


「大同元年に洪水が起きて、その被害から普及しないうちに先年来疫病が流行して、非業の死を遂げる者が多いというのです。人民の困難を顧みると、深く憐れみの思いが生ずるので、恩沢を施して彼らを慰めようと思う。そこで大同元年に七分以上の田が水害により被損したした者が借り入れている、正税稲(せいぜいとう)の未納はすべて免除せよ」(日本後紀)


このような指示が行われたところでした。


情報通りこの頃平安京では、朝廷の力ではどうにもならない飢饉が発生していて、そのために命を落とす者が増えていたのです。その亡くなってしまった人の処理が思うようにできなかったために、疫病が蔓延してしまって死者を増やすという結果になっていたのです。


朝廷内の行事を取りやめて、天皇は今起っている事態に対処しようとなさっていたのです。


子供の頃から、癇癖(かんぺき)とか風病(ふうびょう)いわれる精神的に不安定であっ天皇は、自らの体調の変化に悩みながら、必死で社会的な困難と戦っていたのですが、まず飢饉から暮らしを守るために税の軽減を行い、疫病による若者の死を食い止めたいという気持ちから、神仏の神秘の力に頼りました。こんな時の天皇の受け止め方としては、あくまでも自らの生き方に対して、天帝が叱責してきたのだという謙虚な受け止め方をされたようです。


為政者はどう対処したのか


天皇は十日の朝議の折に、こんなことをおっしゃいました。


 「朕が皇位に就いて以来災いの兆しが出現しており、近ごろ天下の諸国に飢饉が起き、疫病がはやり若死にする者が多い事態になっている。これは朕の不徳によるところであり、災いが人民にまで及んでいる。政治に当たり反省し悩むばかりである。政令や刑罰が本来のものでなく、上は天の心とは違い、だらしなく煩雑な政治を行い、人民に災難をもたらす結果になっているのではないかと恐れている。これらはいずれも朕の過ちである。


人民に何の罪があろうか。


詩経(しきょう)では『人民が疲弊した時は少し租税(そぜい)を軽減すべきである』といっている。そこで、畿内・七道の飢饉を言上してきた国の今年の調はすべて免除せよ。そして国司(こくし)自ら村々を巡行し、医薬を施し、併せて国分二寺(僧寺、尼寺)で七日間大乗仏教の経典を転読させよ。願わくはこの善行の効果が表れて、困窮した者が食料を得、徳を修めることが無駄にならず、さまよっている死者の霊魂も本来の居所である泰山(たいざん)(死者の集まる山)へ戻れるよう朕の意に()うようにせよ」(日本後紀)


 人為ではどうすることもできない天災であっても、わが身の至らなさと受け止めて、為政に向かおうとする姿勢が窺がえます。


ところが同じ十九日には山陽道観察使(かんさつし)の藤原園人(そのひと)が次のような報告を致します。


「山陽道の播磨(はりま)備中(びっちゅう)備後(びんご)安芸(あき)周防(すおう)の五か国は、去る延暦四年以降、二十四年以前の(よう)(ざっ)穀等の未進(みしん)が少なくありません。これは何年も不作がつづき、人民が疲弊したためです。しかしこれらを本来の課税品目のまま追徴するとなると、追徴のことに当たるべき未進発生当時の国司の中には死亡したり交替している者がいて実施することが困難です。人民は病や飢えで京まで貢納物を運び進めることができません。そこで伏して、未進はすべて頴稲(えいとう)で収納し、正税(しょうぜい)に混合することを要望します。こうすることにより、公にとり損失はなく、民においては好都合となります。ただし観察使設置以降の未進分については従来通りの庸品目や雑穀で収納したいと思います」(日本後紀)


天皇はそれに対して直ちに許可されたのですが、このようなことに直面したとしたら、現代の我々はどう対処するだろうか。


災害の連続で苦しみ、そのために発生する疫病のために命を失う者が多いというのです。少なくとも現代ではそこまで追い込まれることがないように対処するでしょう。自衛隊にも出動して貰って、様々な災害による被害を乗り越えています。その救済はかなり行き届いているとはいっても、様々な点での不公平問題があります。先ず、どんな人から救わなくてはならないかということで、多くの国民に理解して貰う必要があるかもしれません。


政庁にかかわる人々は、真に同情すべき人はどういう状況にあるのかということを、真摯に見つめて判断する必要がありますが、行う時には政党間の党利党略を排除して、厳然とそれを行うという決心が必要です。


古代の天皇ですから、予期せぬ災害に備えよなどおっしゃっても、そんなことが簡単にできるはずはありません。もしこういったことが参考資料として出されてきた時には、現代を生きる者としては、どう活かすかということを考えることが肝心です。


古代の天皇はそれらの災害がすべて、自らの至らなさを天帝が責めてこられたのだと受け止められて、真摯に果たすべき務めに励もうとされていらっしゃいました。


そんなことを現代の政治家に問いかけたら、組織と科学を動員して立ち向かうと答えるしかないでしょう。自己責任と感じて立ち向かうようなことはないと思います。


 


ほとんど答えにはならないということです。仮に旱魃(かんばつ)が起ったり、そのためで疫病が発生しても、それらは科学的な予知が不可能であったと釈明するだけで終わってしまうでしょう。絶対に自分は精一杯努力しているとしか答えないでしょう。とても天帝が咎めてきたなどとは言わないはずです。しかしこうした歴史の資料を読んだ時には、現代に生きる者として、その現象の中から何を学んでおくべきかということを考える必要があります。


温故知新(up・to・date)でひと 


 


先人は四字熟語でこのようなことを言っています。「曲突徙薪(きょくとつししん)といって、災害を予防することについてこうは、薪を煙突のそばから離れたところへ移すということです。つまり天災は防ぎようもありませんが、せめて自分の不注意から引き起こすことのないようにということです。心構えとしては確かにその通りなのですが、いつ起こるか判らない天災に関しては防ぎようもありません。何らかの疫病で亡くなってしまった死者について、それが広がらないようにするために、素早く火葬なり、土葬などをして処理をするということも考えられますが、しかしそれも生活にある程度の余裕がなければ、速やかに始末することもできません。多くの場合何か問題が発生した時になって、やっと大騒ぎをするということを繰り返しています。それは現代のコロナ騒ぎでも同じでしょう。「亡羊補牢(ぼうようほろう)という言葉の指摘することが心に響きます。逃げられてしまってから囲いを修理しても遅いという指摘です。事前に危険を感じることでもあったら、病魔の発生しないように事前に用心をしておく必要があります。危機を察知したら、兎に角素早く処置をしておくべきです。


 兎に角天災のような予期せぬ災害に出くわしてしまった時には、「抜本塞源(ばっぽんそくげん)という言葉があります。兎に角その根本の原因を突き止める努力をして、正しい処置をするということです。せめて現代を生きる人は、ただ狼狽しているのではなく、そのくらいの知恵は働かせなくてはならないでしょう。



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