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嵯峨天皇現代を斬る その九の五 [趣味・カルチャー]

       第九章「人間関係をうまくやるために」(五)


         為政者の課題・「上を削り下を優遇する」


弘仁十一年(八二〇)嵯峨天皇にとっては、大変気持ちの良い新年をお迎えになられました。


この年は新年早々大極殿へ出御された天皇は、臣下からお祝いのご挨拶を受けられると、その後政庁を支える侍臣と豊楽殿で宴を催されました。


そこで天皇は、これまでとは一寸気分の違った挨拶を行いました。


「周では公旦(こうたん)が周朝の基礎固めを褒賞されて、その子孫が七枝族に分かれて栄え、漢では蕭何(しょうが)が功績をあげて礼遇され、一門から十人もの諸侯が出ている。藤原氏の先祖(鎌足)は、朝廷から悪人を追い払った。(大化改新で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺したこと)(略)これにより歴代絶えることなく褒賞の封戸を支給され、総計一万五千戸となっている。(略)藤原氏の者は白丁(はくちょう)となった以降も五世までは課税を免除し、これを代々の例とよ」(日本後紀)


その後は踏歌を行い、群臣、渤海国の使節と共に宴を催した。


その時公卿が次のようなことを申し出ました。


掃部(かにもり)内掃部(うちのかにもり)二司は異なる役所ですが、所掌(しょしょう)は共に座席の設営場度です。しかし公会や臨時に座席を設ける時に、両者がお互いに譲り合って、ややもすると、事がなされないしまつです。それだけでなく、所掌が少ないのに官司が多いのは穏やかではありません。私たちが検討しますに、優れた過去の王者は政治を簡素化する手本を示し、昔の賢者は時勢に合わせた改革を重視しました。伏して、両者を合わせて一司西掃部寮として、宮内省の被官とし、職務を遂行させ無駄を省くことを要望します。掃部寮の官員は主殿寮(とものりょう)と同じにしたいと思います。伏して、陛下の祭壇を仰ぎます」(日本後紀)


これは現代の話ではありません。平安時代のことですが、前年とはいささか違った気分で迎えた新年の行事が行わている最中で、天皇の気分も高揚している時を計って、公卿は官人の改革を訴えました。


今年は天皇も去年の収穫がよかったことから、大変気持ちが高揚しております。公卿たちの訴えも、それを許可いたしました。


正月早々に渤海国からの使節も迎えています。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)四月七日のこと


発生した問題とは


天皇は「上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないとなる」という大胆な発想を生み出したのです。


 神仏への信仰心の篤い天皇は、いつでも天に恥じない姿勢を保とうとしていらっしゃいます。宮中ではそれでなくとも、行わなくてはならない儀式がたくさんあります。その年の始まりの二月には、こんなことをおっしゃいました。


「朕が大小の神事を行ったり、十二月に諸陵へ荷前(のざき)奉幣(ほうべい)をするときは、帛衣(はくい)(帛で作った祭服)を着用しよう正月にと思う。朝賀を受ける時は袞冕(こんべん)十二章(天皇の礼服)を着用しようと思う。月の一日の視告朔(こううさく)・日々の聴政・外国使節の接受・奉幣および大小の会式には、黄櫨染衣(こうろぜんのい)を着用しようと思う。皇后は天皇の行う神事を補佐するときは帛衣を着し、□衣を朝賀の時の服とし、大小の会式では鈿釵(でんさい)礼衣(らいい)(飾りのついた礼服)を着用せよ。皇太子は天皇の神事に従う時と正月朝賀の際には袞冕九章(こんべんきゅうしょう)(皇太子の礼服)を着用するがよい。毎月一日と十五日の参内や元日に群臣や宮臣(きゅうしん)の朝賀を受ける時、および大小の会式では黄丹色(おおにのい)を着用せよ。日常の服制は本日の決定に拘束されなくてよい」(日本後紀)


為政に対して真摯な取り組みの姿勢は、このようなところにもあるのではないかと思われるのですが、兎に角民のために尽くそうという気持ちは、如何なる時にも発揮されるようでした。


 「遠江(とおとうみ)駿河(するが)両国に移配した新羅人(しらぎじん)七百人が反乱を起こし、人民を殺害して屋舎を焼いた。両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧することができなかった。属は伊豆国の穀を盗み、船に乗って海上に出たが、相模(さがみ)武蔵など七国が兵士を動員して力を併せて追悼した結果、全員が降伏した。


 若いのに唐国の歴史にも通じる、教養の深さと才気を発揮されて、思わぬ発想をされる文人政治家である天皇は、気分も新たになった四月の朝議の折には、このようなことをおっしゃったのです。


 「上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないとなる。恩徳を施して自らを責めるのは、王者の政治が重視するところである。ところで、最近天候が調和せず、穀物が実らず、家々に貯えがなく、人民は栄養不足で顔色の悪い状態である。一日の飢えは秋三月の飢えに相当する。顧みてこれを思うと、心中深く憐みの気持ちを抱く」(日本後紀)


そして七道諸国の介(すけ)をもって、夷俘(いふ)のことを担当する専当官としたのです。天皇はさまざまな税の免除を指示されるのでした。


 これには政庁の公卿たちもびっくりしたようです。


為政者はどう対処したのか


 天皇は更にこうおっしゃいました。


弘仁八年、九年には水害・旱害があり、穀物が稔らず、官の倉庫もしだいに空尽化してしまった。公卿の議奏により、しばらくの間五位以上の者の俸禄の四分の一を割き、公用に充てることにしたが、現在、五穀がよく稔り、国の支出を支えることが可能である。封禄等の数を旧例に戻すべきである。


この話は第九章「人間関係をうまくやるために」「その四」「心の持ち方で人生が決まる」の閑談の中に詳しく触れていますのでご覧いただきたいと思います。


 それに対して公卿たちが申し上げました。


 「臣らが議定して削減した封禄を、みな恩旨により旧例に復することになりました。伏して、陛下の御前も同様に常例に復しますことを要望いたします」(日本後紀)


 豊作であった年は豊作であったことに相応しい施策をしようと考えられたのでしょう。天皇は次のようなことを提案されました。


 「針生五人を置き、『新修 本草経』『明同堂経』『劉涓子鬼方』各一部に、『少公』『集験』『千金』『広洛方』等の病気や傷の治療法について学習させ四。特に月料を支給して、学業が成就するようにせよ」(日本後紀)


「百歳以上の者に斛四斛、九十歳以上の者に三斛、八十歳以上の者に二斛、七十歳以上の者に一斛を賜うべきである。国司の次官以上が村々を巡行して親しくみずから与えよ」(日本後紀 


 兎に角、今、稲穂が垂れ下がり、豊年になろうとしている。風水害により、被害の出ることが心配なので、秋稼ぎ


が心配なので、秋稼を祈願して名神に奉幣すべきである。


 山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となった。『倉庫の貯えが尽き、恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は(しん)(ごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ』(日本後紀)


 確かに追い込まれるといい知恵も出なくなってしまうことがよくいわれます。どうもこんな時は古代も現代もないように思われます。


 収穫に期待できる時には、施策にもいい知恵がひらめくことのなるのかも知れません。


 事情はそれぞれ違った場合があると思うのですが、追い込まれた時ほど落ち着いて、じっくり打開策を考えるべきですが、その前にそこまで追い込まれないような策を考えておかなくてはなりません。それにしても組織を統括する者は、嵯峨天皇のような思い切った策を決断できるかどうかということは考えておかなくてはならないでしょう。人の考えないことに挑んで行く勇気が必要です。


温故知新(up・to・date)でひと言


 人の頂点に立つ器量を持っている人だったら、「目食耳視(もくしょくじし)といって、見栄えのする御馳走を並べて目を喜ばせ、衣裳を着飾って美しく装い、人の評判を耳にして楽しむようなことを控えて、「一視同仁(いっしどうじん)つまりだれかれの区別をせずにみな平等に愛し扱おうという姿勢であることが大事です。きっとそういう姿勢を貫こうとする人には、「股肱之臣(ここうのしん)といって、主君の手足となって働く家来。つまり行動、運動の根幹をなす手となり、足となる臣下が集まってくるはずです。真に苦しむ者を救うために尽そうとする姿勢が見えれば、それに共感してついて来る同志も沢山集まってくるはずです。



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