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嵯峨天皇現代を斬る その九の六 [趣味・カルチャー]

      第九章「人間関係をうまくやるために」(六)

        為政者の課題・「約束違反でも、礼には礼を以て応えよ」

 国と国との付き合い方ということでは、大変難しいことがありそうですが、礼を重んじてやって来た客人に対しては、礼を持って応えるというのが、淳和天皇の姿勢でした。

淳和天皇は嵯峨天皇から為政を託されたばかりです。

 本来は弘仁十五年(八二四)正月でしたが、天皇は新年早々に年号を「天長」とすると宣言されました。

早速ですが親交を重ねている渤海国からは、国家間の儀礼として使いを派遣してきましたので、淳和帝は大極殿にお出でになられて、使節をはじめ朝廷の高官たちの祝福を受けられ、紫宸殿では宴が催され、宮中の武徳殿では、祝いの賭弓(賭けで弓技を競う)まで行われたほどで、右近衛、右兵衛が勝利したということです。いよいよ先帝の時代から、新たな治世に受け継がれたのだという、清新な気分が漂うなかでの年明けでした。それでも天皇は使節に対して、

「使人らは荒波を越え寒風を忘れて到来した。これまでの慣例に従い接遇しようと思うのであるが、年来諸国が稔らず百姓も疲弊している上に疾疫も発生した。これからようやく農時に入ろうとしており、送迎の百姓が苦しむことになるので、今回は京へ召さないことにした」(日本後紀)

為政者・淳和天皇

弘仁十五年(八二四)・天長元年正月のこと

発生した問題とは

 美濃国が「百姓が飢え病んでいます」と訴えてきましたので、天皇は物を恵み与える様に指示されました。そしてやがて、この湯女ことをお話になられました。

「朕は天助を得ず、幼児に母を失い、母の教導を受けることができず、慈しみを被っていない。年月は経ち、消息を通じようにも不可能である。天皇位に当る北極星を見ては心が挫け、白雲に亡母を懐い悲しみ倒れ伏す思いである。親の弔いに関し礼に定めがあるが、母を偲ぶ気持ちが胸中から消えることがない。五月四日は贈皇太后(旅子)の忌日である。どうして忌日の翌日に五月五日節を実施できようか。五月五日節は停廃素べきである。しかし皇位を狙う悪巧みを絶つのは、理として武備であり、悪しきものを防ぐのはまことに軍備である。軍事は国の大事であり、欠くことができない。従前の五月五日節と同様に舎人・兵士らを閲覧したいと思う。これは安定した状況下で乱事に思いを致すことである。公卿らは、舎人・兵士らの閲覧について審議し、奏聞せよ」(日本後紀)

それに公卿は応じてこのように答えました。

「天が育てる万物のなかで、人がもっともすぐれています。皇位に即いた陛下の十分な聖徳に孝を加えることがありましょうか。伏して思いますね、皇帝陛下は人を思う気持ちが深く、親の死を切実に受け止め、恩沢をもたらす南風が吹くと親の恩を思いだし、親孝行の子が褒められた寒泉を見て絶えず母を慕っておられます。母后の忌月である五月に行われる五日節を停廃するという陛下のお気持ちにすべても臣下が堪えられない悲痛な思いをしております。しかし騎射はもっとも大切な武備であり、北方の良馬であっても調教いなければ馭しがたく、山西の優れた武人も修練により持ち前の能力が発揮されるものです。すばらしいことに、九月九日はいわゆる重陽の節で、盛大な縁を催し、古の王者は、多くこの日に騎射を見たものです。伏して、この良き節日に射宮に出御されますことを請願いたします。私たちは詔を奉り、諸官司へ指示して施行することをお願いいたします」(日本後紀)

 安芸国が「灌漑と疾病が同時に発生し、多数の夭死者が出ています」と訴えてきました

 そんな間に平城太上天皇が崩御されました。

 「偉大なるかな。譲位して平城宮にいらっしゃった天皇のおくり名のことを謹んで申し上げます。臣(なにがし)(淳和天皇)は、偉大な天皇の、天地と共に長く、日月とともに遠方にまで伝わるおくり名として、日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおすくにたかひこのみこと)と称え申し上げます、と謹んで(しの)び申し上げます。臣末」(日本後記紀)

 「最近、天が災いを下し、平城太上天皇が死去した。太政天皇の霊は白雲に乗り遠く去り、太上天皇を慕うにも関わらず遥か彼方へ行ってしまった。朕は不徳ながら皇位を守っているが、太上天皇の死を悲しみ、永く哀慕の気持ちを抱いている。服喪の制は古くからいまに至るまで行われ、霊の本意に適うものであり、悲しみを抑え喪を説くことは出来ない。国政に支障が生ずることを恐れるからである。礼制に見る朕の服喪は一月を超えないことになっている。太上天皇の喪に服する必要はないとの遺命には背きがたく、このため悲しみを抑えて、公卿の要請に従おうと思う。広く内外に告げて、朕の意を知らせよ」(日本後紀)

穏やかな所へ移ってもらって、いい風が吹くのを待って帰るようにと心遣いを表されます。しかし元はといえば、百姓たちが疲れ切っていることに対しての配慮の結果でした。しかしその思い遣りの配慮には、もう一つの民に対する配慮がありました。民との苦しみを共有するという、嵯峨太上天皇の思いに共感する天皇の気持ちがよく表れています。もともと大変穏やかな人で学究的なところもある方でしたから、嵯峨太上天皇とは大変ウマが合い、真摯に弘仁の為政を引き継いで行こうとしている姿勢を明確にしていらっしゃいます。

為政者はどう対応したのか

 ところがそれから三年たった天長三年(八二六)三月一日のことでした。その新年早々に朝廷は一寸困った問題に直面してしまいます。

古くから交流がある渤海国が、十二年に一度という来朝の約束を破って、突然使節がやって来たのです。右大臣藤原緒嗣がこう進言してきました。

 「私は接遇せずに帰国させるべきだという意見書を提出したのですが、それについてある人が反論して、『嵯峨天皇から淳和天皇への今回の譲位の素晴らしさは、堯、舜の間の禅譲以上である。これを日本国内に留めて外国使節に告知しなければ、この喜ばしい話題をいかにして海外に広めることができようか』といっております。しかし渤海使節はすでに決められた入朝期限に反して到来していますので、彼らのもたらした信書を受け入れれば、国家の原則に反することになります。それに彼らの実体は商人であって、外国使節ではありません。商人を使節とするのは、国家にとり損失であり、政治の大本に適いません」(日本後紀)

 現在わが国では年来の干害、疫病があって、人、物ともに払底してしまっています。恵みを与えることもできなくなっている上に、もう農繁期になっていて使節の面倒を見ることはできないというのです。

 「天下は一人のものでなく、万人のものです。若し、いま民を損なえば、後代の賢人に対して不徳を恥じることになりましょう。伏して、使節の入京を停止することを要請いたします。私緒嗣は永らく病床に伏し、精神が迷い正しい判断ができない状態ですが、陛下の御恩は忘れません。心中の思いを述べざるを得ず、謹んで重ねて表を奉呈して申し上げます」(日本後紀

 堅実な廷臣として知られる人でしたが、結局その進言は受け入れられませんでした。

国家の威厳を保つべきなのか、永い付き合いのある国に対して、多少の規則違反はあっても礼を尽くすべきなのかと迷うのですが、結局渤海国は大海を隔てているのに、わざわざ新たな政庁の誕生を祝いに来てくれたのだから、その誠意に応えようという、天皇の思いから使節の受け入れを認めることになったのでした。

これは嵯峨太上天皇時代から受け継がれている外交の基本姿勢です。海外との接触が盛んな現代では、こうしたことはごく日常的に行われることでしょうが、まだそれほど海外との交流のなかった時代では、なかなか賢明な判断であったように思えます。

淳和天皇は個人定期なことではかなりきちんと決まったことを実践する方でしたが、国と国との関係を維持していくためには、こうした配慮も欠かせることは出来ないと判断されたのでしょう。

人間関係が薄れている()の時代の現代だからこそ、こんな問題を取り上げる意味があるのではないかと思うのです。現代は確かに人間関係が大変淡白になってきています。できるだけ個人の生活を尊重して、外部との接触によって自由な時間を侵されないようなことを考えなくてはなりませんが、いい人間関係を築くためには、どんな関係を気付いて行く必要があるのでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

 やはり「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)といって煩雑な規則や虚礼に近い礼儀作法のことや、手続きなどが面倒で形式的なことは、極力省いていく必要がありそうです。それでも「肝胆相照(かんたんそうしょう)ということを極力心がけなくてはいけないでしょう。お互いに心の奥底まで判り合って、心から親しく付き合うことが根底になければならないでしょう。ひとたび出合った時などは、心の底まで打ち明けられて深く理解し合える関係でいたいと思いませんか。それには先ず「先義後(せんぎこう)()ということは忘れないようにしていきましょう。先ず第一に筋道、道理をよく考えて、利害打算はその後にするという気持ちが必要です。数は少なくてもいいから、いい出会いをしましょう。時間がかかるかもしれませんが、根気よくそんな人と出合えるように努力しましょう。


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