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嵯峨天皇現代を斬る その十の一 [趣味・カルチャー]

      第十章 「いい人生を生き抜くために」()


課題「薄らぐ人間関係」


 昨今は人間関係が大変難しくなりました。


 心を許してお付き合いできる人がどれだけいるのでしょうか。


 お友達が欲しいと思えばさまざまな方法で探すことができますが、ほんとに信用してもいいのか不安になります。


 昔は時間をかけてお付き合いがつづいているということが多く、お互いに相手を知る機会がありましたが、昨今の場合はたやすく友人ができますが、それだけ人間観察が充分に行われたとは言えない場合が多いのではないでしょうか。


 出会いもあっさりですが別れもあっさりしています。


 お互いに深くお付き合いを続けているという関係は、大変少なくなっているように思えます。


 今回のお話は、平安時代という、現代とははるかに時をさかのぼった時代のことですが、時代の変遷に従がって、人情が変化してしまう。つまりかつて世話になったり、親しく付き合っていた人なのに、亡くなった後は知らん顔ということもあったようです。


嵯峨天皇が即位して四年たった頃のことです。


 農業が不作となった年は、土着の民も移住してきた俘囚もみなその被災者となるが、物を与えるに当たっては俘囚は対象からはずされている。飢饉の苦しみは一様のはずであるから、恩恵が土着民と俘囚をさべつして施されるのはどんなものであろうか今後は、俘囚にも公民準じて恵みを与えよ。ただし、勲位を帯びたり、村長その他特別に粮枚支給に与っている俘囚は支給する限りではない。


 政庁ではそのような制定したところです。


 肥前国では新羅人が小近島などに着岸して島民たちと闘争となってしまったことが報告されてきましたので従う者と引き返すものとを仕分けして何とか穏便に処理いたしましたが、何もかも安穏にしていられる状態にはありません。


 天皇は皇太子(大伴親王)の南池(なんち)(淳和院)に行幸しました。


 国内に問題がある時には、外部からどんな問題が持ち込まれるか判らないので、結束が必要であるという気持になられたことがありました。


 同行の文人たちに命じて詩を作らせた。右大臣藤原園人も天皇の求めに従って、和歌を献上いたしました。


 


今日の日の池のほとりにほととぎす平は千代と鳴くは聴きつや


(京、池の辺でほとぎすが平安京が千代に栄えると鳴くのを、お聴きになりましたでしょうか)


この歌に天皇が応じて和歌を詠まれました。


ほととぎす鳴く声聴けば歌主と共に千代にと我も聴きたり


(ホトトギスが鳴くのを和歌に詠んだ園人とともに、朕も平安京が千代に栄えると聴いた)


大臣は歓びと感謝を示す舞踏を行い、雅楽寮が音楽を奏して、五位以上の者に衣被、諸王藤原氏の六位以下の者ならびに文人たちに身分に応じて綿を下賜した。


身近な者との結束を確認された天皇は、現在農作業に不作がつづく現実と向かい合うのでした。


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)六月一日


発生した問題とは


為政に責任を持っていらっしゃる天皇は、その施策の根本についてこのような思いを述べられました。


 「治国の要諦は民を富裕にすることであり、民に蓄えがあれば、凶年であっても防ぐことが可能である。この故に中国古代の聖帝禹は九年間治水につとめ、人民が飢えることがなくなり、殷の湯王の時代に七年間、旱害が続いたが、民は生業を失わなかったのである。ところで、現今の諸国司らは天皇の委任に背き、不適切な時期に百姓を労役に動員して農繁期に妨害をなし、侵奪のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを持っていない。このため、人民は生業を失い、自ずと飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が飢えているとの報告がなされえいるのである。このためマイ土地賑給(しんごう)(恵み与えること)を行い、倉庫はほとんど空尽となってしまった。ここで災害が起れば、どうしても(すく)うことができようか。悪しき政治の弊害として、こうなってしまったのである。今後は農業が被損したり疾疫以外で朝廷に対し安易に賑給を請願してはならない」(日本後紀)


 それに関して右大臣の藤原園人が申し上げました。


 「付き合いのあった者を忘れず、苦労した者に報いるのは、優れた賢人の教えであります。生命を重んじ大切にする点で、貴賤の間に相違はありません。いま、天下に僕隷を有する人がいますが、常日ごろ使役しながら、病患となると、道端に遺棄し、看護する人がなく餓死する仕儀となっています。この弊害は言い尽くせません。フジて、京職・畿内諸国に命令して、速やかに禁止することを要望いたします。願わくば、路傍に無残な死体の放棄されることがなく、天下の多くの人が天寿を終えることができますように」(日本後紀)


 それに天皇はこうお答えになられました。


 「病患の僕隷の遺棄を禁止せよ。なお、違反する者がいれば、五位以上の者は名前を記録して報告し、六位以下の者は(おん)(しょく)(財物を納入して実刑を贖う)の恩典の有無を論ぜず、杖打(じょうう)ち百とせよ。弾正台(だんじょうだい)京職(きょうしょく)・諸国が犯を知りながら罪を科さず、条令(坊令)・坊長(京内の役人)・国郡・隣保(りんぽ)が隠して告訴しない場合は、みな同罪とせよ。今後は繰り返し禁断し、主な道路に木札を立て、はっきりと告知せよ」(日本後紀)


為政者はどう対処したのか


 岩見・安芸両国で洪水が発生したので、田租を(ゆる)した。


 大隅・薩摩両国で蝗害が発生したので未納となっている正税(公出挙(くすいこ))を免除した。


 各国からの訴えを処理しながら、辺境地の警備についての指示をいたします。


 「辺境ではと都からの侵略を防ぎ、不慮への備えでは食料がじゅうようである。禁煙、辺境では大軍が頻繁に動員されて、軍粮を費やし尽してしまったが、なお、侵犯事件はあり、何が起るか予測しがたい状況である。軍粮の貯えがなければ、突発事件にどうして対処できようか。そこで、陸奥・出羽両国の官人らへの俸禄の財源である公廨稲は正税に混合し、替わりに毎年、信濃・越後両国で仏・出羽国司および鎮守府官人の俸禄を支給することにせよ。ただし、不作で正税に混合すべき分を確保できず、陸奥・出羽両国官人が公廨(俸禄)を得られないときは、実情に従って信濃・越後両国のいずれかで、相換えて負担させるべきである。この改定は臨時の者であり、停止については、後勅によれ」(日本後紀)


筑後・肥前・豊前・薩摩・大隅五国に大風が吹いたので、民の租調を免除した。


 出雲国意宇(おう)・出雲・神門(かんど)三郡の未納の稲十六万束を免除した。俘囚の乱が発生したことによる。


 様々の情況を考えますと、かなり困難な時代であることが判りますが、人民の困難に目配せしながら、国を取り囲む不安にとりくまなければなりません。こんな状況は、現代でもまったく無関係ではありません。


 何といっても現代とはさまざまな点で生活環境が違いますから、古代では止むを得ないことでしたが、果たして古代のような悲劇はないのだろうかと考えると、決してそうではないように思えます。それはマスコミの報道で知ることが、増えているように思えてなりません。


勿論生活環境の違いということもあるのですが、路上に死者が転がっていても手のつけようもないというような状況はありません。しかし新聞・テレビの報道の中に、生活苦や高齢化のために、同じ老齢者の面倒が見られなくなったという人が、手続きをして処理することを諦めて、密かに遺体を隠したまま処理をして知らん顔をしていたことが、思わぬ事情が発生したり、事件が発生したりして、その隠していた問題が明らかにされるというようなことが、どうもこのところ増えてきているように思われるのです。古代と違って、現代では社会保障が行き届かないということもあるでしょうが、当事者の生き方の問題もかなりあるように思われます。


温故知新(up・to・date)でひと言


こんな時に先人たちは、こんなことを言っていたことがあったなという、ヒントになるようなことを四字熟語に託して発言している人がいました。何といっても世相というものです。「雲翻雨覆(うんほんうふく)といって世の人の態度や人柄が、軽薄にめまぐるしく変わること。世の人情の移ろいやすいたとえですが、昨今は本当に人間関係が希薄になってきました。そんな中で孤を大事にするという風潮が大事にされ過ぎ、「澆季末世(ぎょうきまっせ)ということが言われています。つまり人情が薄くなり、風俗が乱れて時代にゆとりを失った様子が窺えます。昨今は時代の変化が激しいので、先人は「狡兎良狗(こうとりょうく)というような表現をしていました。功績のあった幹部や部下でも、利用価値がなくなると捨てられるようなことが、当たり前のように言われたり行われたりしています。しかしそんな中で生き抜くためには、「歯亡舌存(しぼうぜっそん)がヒントになるかも知れません。歯のように強くて堅いものが亡びやすく、舌のように柔軟なものがかえって存続するということのたとえですが、目立つことが大事な時代とは言いますが、地道にやり抜くことがあるということを知っておきたいですね。


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