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ドラマと特撮の部屋☆ ド33「ああ、突撃ヒューマン」 [テレビ]

 

何か意欲的になれる企画が来ないものかと願っているところだったのですが、「ウルトラマン」のデザイナー、成田亨氏からの電話が入ったのです。新しい番組企画があるので会いたいというのです。これまでの番組を制作する仕事を担当する放送局の制作部からの企画であるとか、作品の制作をするプロダクションの企画担当からの話ではなく、円谷プロダクションでデザイナーであった人が、独自の企画についての協力を要請してきたのです。デザイナーの彼が考える番組というのはどんなものなのか、大変興味深いものを感じました。それが日本テレビでの「突撃ヒューマン」の始まりだったのです。

実は成田さんが円谷プロでの仕事を辞めて、今では伊勢丹百貨店のデザイナーとして活躍していたということは、まったく知りませんでしたので、ちょっとびっくりしてしまいましたが、いつの頃からかTBS・円谷プロダクションに対して、彼のデザインするものに対する印税を求めたことから話がこじれてしまったことが原因で、円谷プロダクションから作業を退いてしまったということでした。しかし私自身も中心とする仕事を、「怪奇大作戦」の仕事を最後にして、円谷プロでの仕事から遠ざかっていましたために、成田さんから話がきた時には、兎に角親近感もあって、彼の依頼には応えて上げたいという気持ちになっていました。

彼は現在伊勢丹デパートのデザイナーとして、ショウウインドウのデザインをしているというのですが、日本テレビの白井壮也デイレクターと知り合いであったことから、怪獣を使った番組制作を相談されたことから話が進められていたのでしょう。

これまでかかわったことのない人間関係の中から生まれてきた話だったこともあって、何ができるのかという興味から彼の誘いに乗ってみることにいたしたのでした。

 私に話があった頃には、もう日本テレビの中では番組としての準備が進んでいたようで、打ち合わせにでかけて、成田氏と白井壮也さんとで大雑把な話を聞きましたが、兎に角「ウルトラマン」のようなものを行うということで、ヒーローとなる人物と、彼が変身して活躍するキャラクターと、その敵となるキャラクターなどは決まっていました。それから後は私が作品の全体像を決めていくということになり、大変忙しないスケジュウルの中での作業でした。

 大雑把に生身の登場人物の役割、怪獣たちの登場してくる理由などを決めたあとで、直ぐに必要になるのは脚本家です。たまたまこの頃はさまざまな仕事が舞い込んできていましたので、とても一人で請け負うことはできませんので、先ずは脚本家を決めなくてはなりませんが、先ずは特撮を経験している上原正三氏を決めた後、是非参加して貰いたいとかねてから頭にあった雪室俊一氏を決めた後、更に私の一番弟子であった田村丸氏を参加させて、取り敢えず大雑把に基本的な設定の説明をして準備を終えて執筆準備にかかりました。

 ところがそんなところへ、「ひろみプロダクション」というあまり聞かない名のプロダクションから、「サンダーマスク」という日本テレビで放送を予定している特撮作品を書いて欲しいという依頼が来たのです。19872年という年は本当に仕事が複雑に絡んでくる年でした。慌ただしい作業がつづく中で「突撃ヒューマン」の準備を始めたところだというのに、仕事の依頼です。それにはすでに上原正三氏も参加するということでしたので、一応承諾して近々出会いましょうということにしたのでした。

そのプロデウサーのH氏は、暫く前まで書いていた、「新ムーミン」の制作会社である虫プロに所属していた人であったということでしたので、わりに親しみを持って出会うことにいたしました。私は多忙な状態でしたので、打ち合わせに遠くへ出て行くことができないために、赤坂の拙宅に近いところにあった、「ルノアール」という喫茶店を指定しました。下の写真は最近のもので当時のものではありませんが、当時とまったく変わらないところに建っています。

                         「赤坂ルノアール」1.JPG  「赤坂ルノアール」2.JPG                 

 

目的は「サンダーマスク」の打ち合わせということだったのですが、ところがそれがその後の私の進路を決定的にした人との出会いとなるのです。つまり初対面の挨拶を終えると、H氏は同行して来たらしい大柄の男性を紹介いたしました。

それが西崎義展氏だったのです。

すると彼は大変緊張した目つきで挨拶をすると、

 「そちらの話が終わりましたら、是非私の話を聞いて下さい」

 そういって、隣のソファーへ移って控えていました。

私はそれから「サンダーマスク」本来の、脚本執筆の話になったのですが、もうすでに上原正三氏を脚本家として決めているということを聞きましたので、私はそれほど気負ったところもなく、適当なところで何話かをおつき合いすればいいというくらいの気持ちで出かけたのですが、実際はそういうわけにはいきませんでした。スタートの上原氏が書く一話・二話につづいて、三話・四話を受け持って欲しいということになったのです。

これはもともと手塚治虫さんの漫画を実写作品として企画していたものらしいのですが、虫プロが倒産してしまったために、そのスタッフの一部の者が設立したひろみプロダクションが、東洋エージェンシーと共同制作ということで始めるというものだったのだという説明を受けましたが、もうすでに本多猪四郎監督が中心となって進行するということやスタッフなどが決まっていて、直ぐに執筆にかかって欲しいということになったのでした。間もなくH氏は早々にアシスタントを引き連れて引き上げることになり、ようやく初対面の西崎氏との話になりました。そこで彼は簡単に自己紹介をしてきました。当時の人気歌手であった西崎みどりが一族であるということとか、親族が経済界でかなり活躍しているという話をしたあとで、その日の要件について話し出したのです。大雑把にお話すると、「ウルトラマン」のような特撮作品が制作したいので、力を貸して欲しいということだったのです。その件についてはまったく問題がありませんでしたから、協力をしてあげることにいたしました。しかしこれが私と西崎義展氏の運命的な付き合いの始まりになるとは、考えもしていませんでした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド32「なぜ企画にはまらないのか」 [テレビ]

 

「ミラーマン」では久しぶりに特撮作品を書く機会に巡り合ったのですが、さまざまなことで気持ちが乗ってこなくて困りました。しかし今回は昔のようにそれで苦しむことはありませんでした。ある程度やったところで、どうしても気持ちが乗ってこない時には、いつまでもそれに加わっていては、却っていい結果にならないということがこれまでの経験からはっきりとしているからです。とにかく悶着を起こさずに番組の作業から去らせて頂くことにいたしました。勿論、後悔はまったくありません。やはり三十代も半ばともなると、ある程度執筆に自信がついてきていることと、自分の向かいたい方向とまったく違った方向へ向かったり、自分の思いとまったく違った主張に従ったり、同調することができなくなっていたからです。脚本家として放送界へ飛び込んだ二十代の頃は、否応なく与えられた企画に沿ってどう脚本を書けばいいのかということで苦闘してきました。どうしても与えられた企画書で書かれている基本的な約束事の範囲内で、器用に話をまとめるということができなかったのです。日常生活の中ではかなり器用に困難を工夫して超えることができるのですが、時を経るに従って人の作った企画にはめてものを書くということが実に不器用なのだと思うようになっていました。そのために長いこと苦しんできたのですが、とうとうそういった障害を乗り越えるきっかけとなったのは、あの「さすらいの太陽」という原作を実現させるということであったのだなと、改めて自己分析をすることになったのでした。

 制作会社の作った企画・・・つまり人の作った枠組みの中では、私独自の発想で勝負するということができないということがはっきりとしたので、却って作家としての進むべき道筋がはっきりとしてきました。

制作会社の作った企画・・・つまり人が作った企画に参加する場合と、自分で作った企画で作品作りをする場合という、二つの道を使い分けていくということです。ただこの数年間克服したいと苦闘していた知名度の低さという問題は、自分の原作がテレビ化されることで、自然に解消できるということがはっきりとしました。しかしここまで達成できても、その時にはその時の問題として、これまでに感じなかった空気というものが発生していることに気づきました。業界内での孤独感は覚悟しなくてはならなくなりました。どこか煙たいと思われるようになったためなのでしょうか。この時から私は、荒野独行を覚悟しなくてはならないということを心に刻みました。更に飛躍していくためには、どうしても通らなくてはならない通過儀礼だと考えるようになったのです。ある種の疎外感は感じるものの、一度はこういう時を越えていかなくてはならないということです。荒野独行も今ではそれほど苦痛ではなくなっていました。

気持ちの整理が進む中で、舞い込んできたのが「緊急指令 1041010」という特撮作品の依頼がありました。恐らくこれは円谷プロからの仕事だったと思いますが、本来は電通の企画で、円谷プロダクションが制作した、NET(日本教育テレビ・・・現テレビ朝日)というもので、記録によると「妖怪泥人間」「宇宙から来た暗殺者」「怪鳥ラゴンの襲撃」という三本の作品が記録されています。しかし「ミラーマン」と同じように、台本が一部しか保存されていません。恐らくあまり深くは入り込んでいなかったのではないかと思われます。

その一番の原因は、時代の先端を行く市民バンドという通信技術というものについての知識が、ほとんどなかったこともあって、話を展開する自信がなかったからです。

                                                          「緊急指令1041010」1.jpg

 

しかし私はこの時、思いがけない人との対面をすることになったのです。

「天才バカボン」で一緒になった後、「さすらいの太陽」で脚本を担当してくれている雪室俊一氏でした。

彼は脚本陣の中には入っていなかったのですが、実はこの企画で中心的な要素として使われるCB(通称市民バンド・通称警察無線)というものを、日常的に楽しんでやっているというので、わざわざ私に教えに来てくれたのでした。私にはまったく知らない世界のことでしたので、彼の愛車であるボルボに乗せて貰って、その無線機がどのように使われているのかを、実際にやってみてくれたのです。番組自体にはそれほど興味を持ったわけではありませんでしたが、この頃の先進的な機種であるCBを使いこなして、海外とも更新して楽しんでいる彼に大変感動いたしました。恐らくこのようなことに興味を持っていた人は、同じ業界ではいなかったのではなかったのではないかと思うのです。私はそうしていち早く先進文化に興味を持って取り入れている彼に、他の動画作家とは違った興味を持ったのでした。時代の流れを感じ取られながら、その先端にある文化を摂取しようとしている姿勢に共感するところがありました。どこかに私と同じような世界を持っている人ではないのかという興味が生まれていました。

なぜか慌ただしい日々になっていましたが、そんな中で一応「妖怪どろ人間」「宇宙から来た暗殺者」「怪鳥ラゴンの襲撃!」などという作品を書いていますが、その間にはTBS系列で放送になっていた円谷プロダクション制作の「トリプルファイター」という番組も、おお付き合いで書いているのです。

                                                    「トリプルファイター」1.jpg

記録では「ファイター脱出せよ」「催眠銃AZ作戦」がありますが、これは番組のスタート時点の作品を書いただけでその後は抜けてしまっています。兎に角この他にもラジオの仕事もつづいていましたので、仕事の交通整理が大変でしたが、その内容がどうであれこれまで出会った会社や人からの相談や協力要請に、必死で応えていたのです。ところがそんなところへ、またまた大変な仕事が飛び込んできたのでした。


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言霊謎解きの部屋☆ 言10「ひとくち言霊」(転生(てんせい)) [テレビ]

                                                                                                                        「若菜等イラスト・藤川」1.jpg

宗教界、特に仏教の世界でいわれる言葉に、「転生」ということが言われます。

それでいうとしたら、私たちの暮らす社会・・・つまり現世は、苦界(くがい)ということが言われています。言うまでもなく、楽しく、嬉しい、幸せを感じる時間よりも、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、厳しいこと等々、他得られないようなことを味わうことが多い世界です。

私たちは次の世界・・・つまり何の苦しみもない安穏な暮らしの出来る世界で生きられるような時がきますように、苦界で修業しているのです。だからこそその辛さに耐えられずに、やけを起こしたり、無茶苦茶をやったりしてしまうというようなことをしてしまうと、苦界から別の世界へ移って、別の命として生きることは出来なくなってしまうのです。

「転生」というのは、別の世界で、別の命を貰って生きつづけるということです。

時には別の姿、別の命となって生きて行くということです。苦界での徳の積み方に寄りますが、歴史上の人物たちも、現代に転生して、別の姿で生きているということも出来るのですが、時には人間でないかもしれません。昆虫に転生することもあるかもしれません。兎に角、理想の世界へ転生するには、この苦界である現世で、どう生きて行くかが大事なようです。

一生懸命に生きて行きましょう。結果を考えないで、真っ直ぐに生きて行きましょう。そんなことが出来難い世の中ですが、それを貫くことが大事なのです。果たして、あなたはどんな世界、どんな命として「転生」することが出来るのでしょうか。

 

                                      イラスト・若菜等


 

 

  

 

                                      イラスト・若菜等


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ドラマと特撮の部屋☆ ド31「ミラーマン不調の理由(わけ)」 [テレビ]

 

人生には不可思議な波が寄せてくることがあります。勿論常にそんなことを感じるような波は、そうたびたびあるものではありません。そのきっかけとなったのは、何といっても「さすらいの太陽」の成功がきっかけでした。周囲の雰囲気も一変してきていましたが、兎に角脚本家の原作がテレビ化されるという画期的なことが起ったのですから、この頃の常識では考えられないことです。

私もこれまで「アンデルセン童話」をきっかけに、「動画」という世界へ首を突っ込んだことがきっかけで、若手の動画作家の置かれている現状を聞かされたことがきっかけで、脚本家の存在を確立するためには、知名度を上げて存在感を高めなくては駄目だという気持ちを、秘めるようになっていたのですが、それが多少でも叶えられるきっかけになるのではないかと思ったりするようになっていたところです。私自身の仕事に対する意欲も、これまでとはかなり違ったものが生まれていました。自分の目指そうとする世界で、自分の意図する方向に向かって勝負をすることが仕事の基本にならないと、自分のいい点は発揮できないということを考えるようになっていたのです。それが「ミラーマン」の作業にかかわって、改めて実感した教訓でした。「さすらいの太陽」にも原作者としての立場という新たな境遇の受け止め方に戸惑いがあったために、多少の混乱がありましたが、それは兎に角初体験による経験だと納得して解消しましたが、番組が始まると同時に、さまざまなグッズが制作発売されたハンカチーフ、弁当箱などなどのお陰で、思いがけない印税を得ることができたりしましたので、生活にも多少ゆとりが生まれたことは間違いがありません。

                               「さすらいの太陽」(ハンカチ)1.jpg  「さすらいの太陽」(弁当箱)1.jpg

 

 

 

思わず数年前に、転居のために住宅資金を銀行から融資して貰おうとしたところ、作家という不安定な職業ゆえにまったく相手にして貰えないという、大変悔しい思いをしたことがありましたが、社会人として生きていく基本的な心掛けとして、多少大きなことをするためには、資金が不可欠であるということを体験しましたので、多少余裕が生まれたからといいても、決して生活の基本は変えないことにいたしました。その分余裕のできた収入はせっせと貯金することにしたのです。新たな土地へ移るためには、兎に角多少でも自己資金を獲得しておかなくては勝負になりません。兎に角一生懸命に働こうという意欲も生まれていました。

 

 そんな時に「部長刑事」「天才バカボン」と、これまでとは違ったスタッフとの出会いがあったり、異色の作家たちとの出会いがあったりと、非常に気持ちが活性化するような刺戟を得ることにも恵まれるようになっていたのですが、そこへ久しぶりに円谷プロダクションから特撮作品の執筆依頼が入ったのでした。はじめてのお付き合いとなる代理店の旭通信社が取り扱うという、フジテレビで放送するという「ミラーマン」という作品でした。

「ミラーマン」1.jpg

 

 

                                                           「ミラーマン」1.jpg 

 担当のプロデウサーのD氏は、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などを手がけたスタッフとかなり親しい人のようで、それを知った時からこれまで味わわされた不快な過去がよぎったりして、多少不安があったのですが兎に角出会ってみようという気持ちで、企画について説明を受けたのですが、かつてあれほどのめり込もうとした特撮番組だというのに、なぜか前のように気持ちが乗ってくるような状態にはならないのです。

 

どうしてなのだろうかと考えるのですが、間もなくあることに気がつきました。さまざまな苦闘をした結果、「さすらいの太陽」という自分の描こうとした世界を企画にして、テレビ化に成功したという充実感を味わっている最中のことです。人の作った企画に合わせて書くという、つまり人の作り出した世界から生まれた企画というものに、自分をはめ込んで書くということに拒否感を持つようになっていたのです。自分の発想する世界で自分の目指すものに向かっていく、ひたむきさを追っていく青春物語を実現した充実感のためかもしれません。その波及効果のためでしょうか、その後声をかけて頂いた不慣れな刑事物の「部長刑事」にしても、異色の「天才バカボン」にしても、これまでの企画のあり方とは違って、基本的な約束事は守るものの依頼されたそれぞれの、作家の世界で、作家の自由な発想で、自由に勝負ができたのです。自分の発想で、自分の世界で勝負するということの、自由で生き生きとした気分を味わってしまった私には、これが作家としての生きる道なのだと考えるようになっていたところだったのです。

 

久しぶりに特撮番組の依頼を受けたことと、関係の深い円谷プロダクションが制作に乗り出すということもあって、現在の何にでも挑戦してみようという前向きな気持ちになって取り掛かってみようとするのですが、打ち合わせを重ねるうちに自分の世界では成立しないということが、次第に障害となりつつあるのを感じるようになったのです。企画の意図に沿うようにプロットを考えようと思っても、どうしても気持ちが乗ってきません。かつてのプロデウサーの流れを尊重している人々ですから、根本的に狙おうとする方向と感覚がすれ違ってしまうようになっていたのです。いつかの嫌な予感から抜け出せなくなっていたのでした。苦心して「コバルト60の恐怖」を書きましたが、どうも気持ちが乗ってきません。もう人の作った企画の枠の中で、独自の発想を生かすということができなくなっていたのです。「凧に乗って来たマルチ」「人形怪獣キンダーを追え」「深海の用心棒」「侵略者劇は計画」とかなり間をおいて書きましたが、どうしても作品の目指す世界が違うという違和感だけは解消しません。このところのいろいろな作業で気持ちが大変高揚していたところでしたので、そんないい流れを途絶えさせてしまうのではないかという心配が生まれてきてしまいましたので、どうしても気持ちが乗ってこない時は、潔く退くべきだという決心をすることになりました。

あとで判ったことですが、どうやら番組自体の評判が良くなかったということがはっきりとしました。視聴者にも乗り切れないものがあったのでしょう。

 


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アニメと音楽の部屋☆ ア14「非難を浴びる天才バカボン」 [テレビ]

 

「さすらいの太陽」の成功ということもあって、気分的にはかなり前向きになっていた時代に、「部長刑事」という東京を離れたところでの空気を味わったこともあって、何かこれまでとは違った動きが起こってきそうなものを感じながら作業をしているうちに、東京ムービー新社から、「天才バカボン」というギャグ漫画のテレビ化に協力して欲しいという勧誘を頂きました。作品はこれまで私がかかわったジャンルのものとはまったく違った、ギャグ漫画であったことから、なぜか拒否感はなく挑戦してみようかといった気持ちで参加することにいたしました。しかしこれがテレビへ登場した時には、たちまち思いがけない反応が巻き起こってしまったのです。

これまで「動画」は、手塚治虫さんの描く「鉄腕アトム」をはじめとした、品のいい子供のための娯楽作品が中心でしたし、最近では日本中の男の子を熱狂させたスポーツ根性もの・・・つまりスポコン物の代表である「巨人の星」という熱血作品などが中心でしたが、その後番組として企画されたものだったのです。しかしそれがあまりにもこれまでと雰囲気の違った「天才バカボン」だったのです。番組の冒頭に流れる主題曲といいこれまでのイメージをぶち壊すような浪曲風な雰囲気で始まった上に、登場人物のあまりにも破天荒なキャラクターぶりで、そこに扱われる内容はこれまでの日常生活の常識をひっくり返してしまう、革新的な狙いを持ったバカボン一家の物語でありました。あまりにも前作の真摯に野球の頂点を目指す選手の青春を描くひたむきさとは違った番組の登場で、スタートと同時に、あまりにも毒の多い作品にびっくりして抗議が集中してきました。

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日本PTA全国協議会というものが中心になって、兎に角主題曲も下品すぎるということがやり玉に挙がってしまったのです。しかもその内容がバカボン一家の通常の常識を無視して暴走するものですから、このような作品に拍手喝采する者は一部の若者以外にはありません。品よく楽しい作品、真剣な生き方を追うような作品に慣れてきている視聴者にとっては、晴天の霹靂といった作品の登場だったのでしょう。これまでにない挑戦的な作品の意図に大変魅力を感じて、私も大変乗り気でいたのですが、この頃困ったことにぶつかってしまいました。娘が小学校へ入学したために、父兄会へ出席した家内が聞かされたのが、「天才バカボン」に対する抗議の渦だったのです。子供の父親がその作品の一翼を担っている脚本家であるということは誰も知りませんでしたが、あまりの評判の悪さで、家内は大変辛い気持ちになってしまったと訴えられました。仕事ではあったのですが、残念ながらこの作品からは遠ざからなくてはならなくなると覚悟せざるを得なくなってしまっていたのでした。

それにしてもこういった作品を、思いきって企画したのが東京ムービー新社(現TMS)でしたが、それに乗ったスポンサーも大塚製薬でしたし、それも一社による提供という力の入れようでした。ムービー新社の文芸担当部長であったのが、かつて人形劇にかかわっていたという大変温厚な印象のI氏でしたが、内面的にはかなり革新的で大胆な人でした。それにしても業界というものは狭いもので、かつて私が電通から頼まれて「ムーミン」の企画を書いている最中に、井上ひさし、山本護久氏に脚本を書かせて、番組をスタートした時の担当者であったのです。「動画」にかかわるものとしての巡り合わせというものです。

しかし温厚でおとなしそうである彼は、ななか大胆なところもあるようで、集めた脚本家も実に異色なものでした。人気番組であった前作品の「巨人の星」を担当した脚本家たちとは違った、「新ムーミン」を書くY氏と特撮作品も書いてきた私。映画の脚本家であるS氏、演劇界の演出家であるO氏という、これまでとは一寸変わった異色のメンバーでした。スポンサーとの打ち合わせ会は大塚製薬の会議室で行われましたが、いつもテーブルの上にはオロナミンCが一本置いてあり、提出してあるプロットがコピーされた台本を前にして、大塚製薬の熟年の女性とその娘といわれる若い女性が、目を通した結果について厳しい判断をしてきます。一人で数本ずつ提出しているプロットなのですが、兎に角不採用と宣告されるものが多く、作品の真意を説明して説得しようとするのですが、二人の女性は絶対にそれに納得することはありませんでした。残念としかいいようがありません。その後脚本家たちが東京ムービー新社の文芸部へやって来た時には、なぜか文芸担当のI氏が考えたのでしょう。グラフ用紙が壁に貼られていて、担当する脚本家のボツになった数を棒線グラフで描いてあったのです。いうまでもなくそれは脚本家に対する非難ではなく、むしろ脚本家の意図するものを理解しないで、プロットをあっさりボツにするスポンサーの横暴さを非難するかのように、それを笑い飛ばしてしまいましょうという気持ちだったのでしょう。

脚本家たちにも積み重なっていくボツになった数を誇らしく思って、笑い飛ばしてしまったのでした。

今考えると時代が次第に変わりつつあったのでしょう。これまでの常識と思われているものが、次第に変化してきていたのです。つまり価値観というものが変化しつつあった時代だったのです。「天才バカボン」はその転換期に飛び出してきた作品でした。私にとっては大変刺戟的で、「動画」の世界で扱われてきたこれまでの作品とはまるで違った、時代や常識に挑戦的なところに魅力を感じていたのですが、それにしても小学校での評判の悪さにはまいりました。その結果子供が直接被害を受けたわけではありませんでしたが、私がその作品の脚本家であるということを、公にできないままで父兄会へ参加している家内の心情も考えて、次第に番組作りから遠ざかることになってしまったのでした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド30「部長刑事へ」 [テレビ]

 

 「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」では、あまり出会う機会がなかった若槻文三さんでしたが、円谷プロダクションの危機的な状況を救うために出会ったのがきっかけで、これまでの作業中の苦労話をしている最中に、共通の問題がかなりあって、思わず共感しあったのがきっかけでした。

 「チビラくん」を執筆中に、そのうち大阪へ書きに来ませんかというお誘いを頂くようになっていたのですが、東京を離れて異郷でドラマを書くということは、大変緊張するものですが、若槻さんがホロウしてくれるというので、ついに出かけることにしたのでした。しかし関西というと、実は今回が初めてというわけではなかったのです。かつて関西テレビで、宝塚の研究生のために「長靴下のピッピ」という連続ドラマを書いたことはすでに書きましたが、あの時はほとんど仕事をこなしただけで帰京してしまいましたので、ほとんど関西の雰囲気を楽しむ余裕はありませんでした。ところがその大分前のことですが、私には大阪・神戸を中心にして関西とは親しんだ頃があったのです。それは1957年・・昭和33年に大学を卒業したものの、大変就職の厳しい時代で求人が極端に少ない状態の中で、東宝映画の文芸部、出版の新潮社を受験したものの不合格となり、最後に劇作家の飯沢匡さんの勧めで放送作家として生きる決心をした時のことでした。たまたま大阪の読売テレビの演出部へ就職した、友人のS氏が阪急電車の夙川というところにある下宿に住んで出勤することになったという連絡をしてくれたことから、まだ脚本家としてスタートしたばかりの私は、気楽に彼を尋ねて出かけて行ったことがあるのです。ところがそれが一日や二日などという簡単なものではなく、S氏に誘われるがまま一か月ほど滞在するということになってしまったのです。彼もまだ入社したばかりでさほど重要な仕事がないというので、出勤するとすぐに取材と称して神戸の港町へ繰りだして町を歩いたり、喫茶店でおしゃべりしたり、バーで更にこれからのことで夢を語り合ったりしていました。時には会社の同僚である報道部のY氏と有名なストリップ劇場を見学したり、魔の地帯といって、麻薬などの闇の取引があるといわれていたところを探検したりするようなこともありました。兎に角毎日あちこちと彼が案内してくれるがまま、難波の町を気ままに探訪してくれたこともありましたので、かなり大阪、神戸を中心にした関西の雰囲気は味わうことがあったのです。兎に角ほとんど一か月という間、S氏は私につきっ切りで楽しませてくれました。彼はかつて一緒にやっていた同人雑誌「天馬」を紹介した時に、学校は違うけれども学習院放送研究会の論客で、大変息の合う友人であったこともあったので、ついつい気楽な長期滞在をしてしまったということがあったのです。新人脚本家として気楽に楽しんだあの頃から考えると、もう十数年もたっているのです。私も真剣に勝負をしなくてはならない年齢に達していましたし、家庭もあり子供も二人いるという、思い責任を感じる立場になっていました。

 緊張して若槻さんに連れられて、彼を育ててくれたという、巨匠と呼ばれている関西のテレビ関係では知らない人がいないという、演出家の中西武夫さんをはじめ、彼を補佐する若手の演出家杉本宏さんも紹介されて、拙作の一本目を巨匠が、二本目を杉本氏が担当してくれるということになったのでした。

その日は局の目の前にあるホテルの一室に入って、二週間という余裕を頂いて執筆にかかりましたが、若槻さんは流石にここを拠点にしているだけあって、実に生き生きと動いていました。実に心強い同志でした。夜になると遊びに行こうと、大阪の北にある三寺町という歓楽街へ誘い出してくれて、精一杯楽しい気晴らしをしてくれました。

結局中西さんが担当する「禁断の罠」は本来の路線に沿った刑事が活躍する話として、若い演出家の杉本さんの担当する「漫画・まんが・マンガ」は、あの頃俄かに脚光を浴びるようになっていた、コミックの世界を取り上げた刑事ものにしたように思います。

                             「部長刑事」1.jpg  「部長刑事」2.jpg

 

 

 

一応東京にいる頃から準備をしていた話でしたが、決められた締め切り日までに何とかまとめて提出することができましたが、その録画が終了した後に東京では味わえないようなスタッフと出演者との交流を体験しました。この「部長刑事」の場合はみな揃って夜の町へ繰りだして、疲れを発散させます。飲み屋街を歩いたり、有名な遊郭のあった町を冷かしながら歩いたりしながら、やがて行きつけの酒場で「お疲れさん」をして解散したりしたものです。

 

 東京での乾いた空気の中で葛藤している私にとって、若槻さんはこれまでとは大分違った空気を味わわせてくれたのでした。残念ながらその若槻さんも、すでにこの世から立ち去ってしまいました。

 

 ご冥福を祈るのみです。

 

 


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