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告知と放談の部屋☆ 放28「思いがけない期待感」 [テレビ]

 

 

 

 「マジンガーZ」は、兎に角快調に作業が進んでいましたし、横山プロデウサーも次々と執筆予定を伝えてくれましたので、それをこなすことに必死でしたが、そんな中でも数か月前に知り合った西崎義展氏との情報交換をする機会が多くなっていたのです。「ワンサくん」から引き継いた「青い鳥」の進行状態の報告を聞いたり、その後彼なりに新しい作品作りを模索しているらしくて、その途中経過を報告しながらどんな反応があるかと探りたくて連絡してくるのです。大体赤坂にあった事務所へ呼び出されるのですが、年末に近くなると打ち合わせに使われていた部屋はもちろん、他の空いていた部屋にも、日本アニメが制作する童話の名作シリーズを素材にしたカレンダーが、うず高く積まれていて、その中に埋もれるようにしていたのが西崎義展氏でした。彼はこれまでこういうものを制作して販売しているのだと告白して、一刻も早くそんな作業から脱出したいと考えているといいます。

 

 どうやらこのところさまざまなコネを使って大衆作品を書く高垣眸氏などと接触していたようで、私にも彼と会いませんかと誘ってきましたが、まったく畑違いであったこともあって、あまり乗り気にはなりませんでした。どうやら彼は大衆的な作品でも大人向けのものができないかと模索していたように思えました。「マジンガーZ」が快調に人気を獲得して進んで行くのを横目で見つめながら、ネコ族と対決しながら母を探して旅するワンサくんの物語を、ワンクールで完結した西崎義展さんは、虫プロから引っ張り出してきた監督の山本暎一さんの案もあって、同じワンサくんというキャラクターを使って、これまでの母子で観る家庭漫画という番組から、ツウクール目はがらりと雰囲気の違った大人向きのミュージカル作品として制作しましたが、その頃彼を刺激していたのは、何といっても人気を独占してしまっていた「マジンガーZ」の人気です。西崎氏にとって特撮作品をテレビ化するという当初の目標が崩れてから、未だに目的を叶えるということにはほど遠い状態がつづいていたのです。心中穏やかであるはずはありません。「ワンサくん」をこれまでのホームドラマから、一気に大人っぽいミュージカル作品に切り替えて制作したものの、兎に角思いに叶う作品にはなっていません。どんなものに焦点を合わせて企画をすればいいのか、その方向付けが定まらないままの状態でした。しかしそんな中で私が西崎氏にちょっと注目していたのは、現在制作してきた「ワンサくん」の制作で彼が見せた製作者としての姿勢に、これまで私が出会ってきたタイプのプロデウサーとは一味違ったものがあるのを感じたからでした。前作の「ワンサくん」では話を書く時に、ヒントになるのではないかというので動物学者で大学教授であるO氏を呼んで、スタッフに動物の習性についての講義を行わせたりしたり、犬と猫の日常生活についてのエピソードなどを話づくりの中に取り込んだりして、かなり実録的な説得力を持った作品作りを目指そうとしました。そうした姿勢はその後の「青い鳥」の制作途中でも発揮されました。王宮でのパーテイのシーンのラッシュを見た途端に、宮廷でのパーテイのテーブルには、あまりにもそこに書かれている料理がお粗末で、私もびっくりしたのですが、西崎氏は直ちに宴会シーンを作り直せと指示しました。

 

                                                          「青い鳥・1」1.jpg 

 

 

 

現代ではそんなことなどあり得ませんが、かつてはまだまだ動画の世界は旧態依然といった状態で、とてもスタッフが余裕のある生活環境ではありませんでしたから、脚本に豪華な料理と書いてあっても、お皿に目指しが数匹書かれているほどのことしか書けません。果物も彼らの暮らしの範囲で思いつくものが書かれていただけで、あまりにも貧しく情けないものでした。宮殿でのパーテイということを考えて書いているのだろうかと、私も呆れてしまいましたが、どうもその頃の動画界には3Kなどという悪口が広がっている状態でしたから、それにかかわっているスタッフも貧困状態でありながら、好きだから動画制作にかかわっているという状態であったのです。彼らには贅沢な料理とはどんなものなのかということなど、ほとんど目にしたこともない状態だったのです。作画のスタッフも王宮のパーテイなどというものが想像できないのは当然醸しませんでした。夢のある世界を描かなくてはならない仕事をしながら、暮らしの実際は貧困状態でイメージすらも寂しい状態であったのです。「豪華」という暮らしのレベルを、想像することすらできない状態だったのです。時には都会の最先端の町へ流行の姿を探りに行く余裕もありません。確かに業界の末端で働く若者たちに接した時には、暮らしの貧困と睡眠不足のためにで、動き回るうちに事故を起こしてしまう者がかなりいました。そうした「動画」の世界の実情を知るにつけて、業界全体のレベルアップができないと、誰もが認めるジャンルにはならないということを考えさせられたのでした。確かにスタッフの処遇ということまでには及びませんでしたが、いいものを作ろうとする意欲は充分に伝わってきました。今回は大人の鑑賞に堪え得るようなミュウジカルにしようということで、作詞家に著名な人、日劇のショウの演出家などを招聘したり、犬や猫のダンスシーンなどを構成する時などは、ハリウッドなどでよく行われるという方法で、犬や猫の踊るところを、人間に演じさせてそれを作画のスタッフに見せて絵作りをさせたりしました。今回は大人の鑑賞に堪え得るようなミュウジカルにしようということで、作詞家に著名な人、日劇のショウの演出家などを招聘したり、犬や猫のダンスシーンなどを構成する時などは、ハリウッドなどでよく行われるという方法で、犬や猫の踊るところを、人間に演じさせてそれを作画のスタッフに見せて絵作りをさせたりするのです。作ろうとする意欲は充分に伝わってきました。西崎氏の日常生活についてはまったく知りませんでしたが、彼の自己紹介によるとかなりいい家庭で育ってきたのではないかと思われる雰囲気がありました。はじめて出会った時からそれほど絶えず出会うことはありませんでしたが、彼の今後については大変興味深いものがありました。

 

そんな中で時代は刻々と変化していました。

 

列島改革で膨らみ切っていたものが、次第に社会的に問題を併発し始めていたのですが、それを巡って政界では権力闘争が激しくなっていたのです。

 

 


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告知と放談の部屋☆ 放27「不動から不動へ移転」 [テレビ]

 

  私たちが赤坂から移転した昭和48年5月・・・1973年の頃の世田谷区深沢というところは、東京オリンピックを開くことになった時から俄かに開発が進められたところで、それまでは多くを農地で占められたところで、まだまだ田園地帯から抜け出してはいない素朴さが残っているところでした。赤坂のように現代の先端をいく流行・情報の飛び交うところとは一変して、全体にのどかな雰囲気が残っているところで、交通機関もバスしかなく、近代都市を思わせると頃としては、駒沢競技場関係の施設だけといった状態でした。オリンピックがあったということで開発が進んだとはいっても、まだまだ未開発なところが多く、農村時代の大地主がかなり定着していて、拙宅前にしても販売するための松が育てられていて、まさに借景となる松林でありました。

               「駒沢公園五重塔」1.jpg 「駒沢競技場前」1.jpg

 

近くには駒沢大学を中心に、学芸大学付属中学・小学校を中心に、区立の小学・中学校がありましたので、ここは学園都市なのかと思わせるようなところでした。そのためか、一寸気分転換しようとしても近くにはパチンコ屋もないし、飲み屋といえる店も見つかりませんし、気の利いた喫茶店もあまり見当たりませんでした。しかし遊ぶところもなかった赤坂とはまったく違った環境の町で、まだまだ小さかった子供を育てるには最適なところを手に入れたと思いましたし、連日来客で賑わっていた家にも、暫くは気楽にやって来る仲間も遠慮がちで、私もその分仕事には集中できる環境が整いました。

暫くして近くを散策する余裕ができたところで、近くの交差点で実に不思議なことに気がつきました。その交差点の道路標識は「深沢不動前」で、目の前には不動尊が存在していたのです。これまで暮らしていたところは赤坂不動尊の境内で、墓の目の前にあるマンション風のアパートで暮らしていたのですが、ここは深沢不動尊が存在していたのです。ちょっと足を延ばすと等々力不動尊があります。そのようなものを目指してきたわけではないのですが、なぜか不動尊から不動尊の鎮座しているところへ移転してきてしまったようです。お不動さんに招かれたのでしょうか。結果的に不可思議なめぐり逢いをしてしまったわけです。出会いの縁というものですね。

                                    「深沢不動交差点」1.jpg

                                        (深沢不動・交差点)

 

移転から落ち着くまでには数か月かかりましたが、お陰様で自動車の免許証も持ちましたので、この頃からはどこへでも出て行きました。気分も変わって仕事にも活力が溢れていましたから、一刻でも早くローンの返済が終わるように頑張り始めました。気持ちが前向きになるのは、やはり脚本執筆中の「マジンガーZ」が快調に進められていたからですが、そんな中で私は、円谷プロダクション時代の付き合いから依頼を受けた特撮作品、「レッドバロン」を書いています。久しぶりの特撮作品でしたが、これから自分の周辺に起こりそうなことに、これまでとは違った世界が開けそうな期待感が高まりつつあった中での作業でした。

                                「レッドバロン」1.jpg 「キュウテイハニー」1.jpg

 

 

その秋ごろになると同じ東映動画の制作になる、永井豪氏の原作となる「キュウテイハニー」という番組からも声がかかりました。主力の仕事は「マジンガーz」ですから、あまり他の作品にはかかわれませんでしたので、数本の作品の執筆でお付き合いさせて頂きましたが、その間に特撮作品を作りたいといって私に接触を求めてきた西崎義展氏とも、「ワンサくん」「青い鳥」などという作品でのつながりがあって、次に何をやろうかと模索していた彼は、兎に角真剣な姿勢を持ちつづけていて、何か画期的な作品を生みたいといって、大変真摯な気持ちを持ちつづけていました。時々彼がやっているカレンダー制作の事務所へ呼び出されて、雑談を兼ねた話をしに行きましたが、やはり現在は「マジンガーZ」のヒットが気になっていたようでしたが、しかし彼はその人気の高さには羨望があったものの、自分は大人にも見て貰える番組が作りたいのだという率直な気持ちを訴えてきたのです。

 

 「大人向きの作品を作りたい」

 

 西崎氏の意図には大変惹かれるものがありました。

 

この頃はまだ「動画」は幼児のものという認識が一般的で、「マジンガーZ」でようやくもう一寸年齢層に広がりが出てきてはいたのですが、確かに若年用でしかないということは間違いありません。悪口で「ジャリ番組」などといわれている動画の世界を、所謂ドラマ番組と対等に扱われるものにしたいという気持ちを持ちつづけていた私にとって、「大人向きの作品を作りたい」という西崎氏の告白には、大変惹きつけられるものがあったものです。そして彼は、近々SF作家たちを呼んで何か面白そうな企画のアイデアがないか探ってみたいというのです。私は彼の積極的な姿勢に賛成して別れましたが、その時から私の脳裏には彼が漏らした言葉が住み着いて、なぜか離れてはいきませんでした。

 

 「彼のいう大人に向けた動画とはどんなものなのだろうか」

 

 そんな興味が新たな興味が次の出会いを楽しみにしていたのでした。

 

 移転したばかりで慌ただしい日々でしたが、深沢での生活はようやく落ち着いてきていました。

 

 

 


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告知と放談の部屋☆ 放26「赤坂を去る思い」 [テレビ]

  

    令和二年のスタートです。

 今年もよろしくお願いいたします。

 長い赤坂暮らしからいよいよ転居することになった頃のお話から始めることにいたします。放送で勢いづいている「マジンガーZ」は、快調でしたが、その脚本執筆については三日に一本の脚本を書き、プロヂュウサーとの打ち合わせをして、訂正があればその翌日には決定稿を渡すという、実に慌ただしい状態で発注をこなしていましたが、その間にも広がった仕事の依頼を次々と処理をしていました。

 ところが番組の制作が始まって間もなくでした。東映動画にストライキが発生して、組合の監視が厳しくてこれまで使ったところではアフレコもできないという状態になってしまったのです。すでに番組はスタートしてしまっているのです。番組に穴はあけられないということから、秘密のスタジオで作業をつづけなくてはならなくなってしまったのでした。部長のA氏も担当プロデユサーの横山氏も大変緊張した中で制作をつづけたことがありました。お陰様ですとはそう長期なものとならないで解決して、作業はこれまで通りに進められるようになり、私の脚本執筆も順調に進められていきました。

 子供の成長もあって、赤坂暮らしは狭いアバートでは困難を極めるところから、兎に角現状から脱出するためには資金を作り出さなくてはなりませんが、兎に角脚本家という収入が安定しない仕事をする者は、銀行も簡単に融資はしてくれないという現実に直面した経験から、兎に角一生懸命に働いて、貯金をして、銀行に信用されなくては希望も叶得られないということを知った私は、兎に角夢中で仕事をするようになっていました。しかしこの頃になるとあまり同時にやることが多くなったために、それを書き留めることは困難ですので、目立ったことを列挙しながらお話していかなくてはなりません。

 実は交際の範囲が広がるのに合わせて、さまざまな仕事を依頼されるようになるのですが、兎に角締め切りを何日も遅らすようなことはしたくない私は、マンションの片隅の机に予定された作業のタイトルを書いた表紙の原稿を、締め切り順に置いてあったのですが、その中でも「マジンガーZ」の原稿は次々と執筆が決まりましたから、三日に一作は書いて打ち合わせができるようにしなくてはなりません。どうしても深夜の作業になってしまいます。そんな中でやっと朝までに書き上げて打ち合わせに持っていくのですが、そんなある日のこと横山プロデウサーは原稿を読んでいるうちに、ぴたっと手を止めて原稿を見つめているのです。何があったのかと私は注視したのですが、間もなく彼は苦笑いしながら原稿を私に差し出しながら、「藤川さん、ここで眠りましたね」

というのです。愕然として原稿を見つめると、何とそこには顔を押し付けるようにいて寝込んでしまった痕跡・・・つまり脂汗がしっかりしみついていたのでした。「しまった」と思いながらも、かなり真剣に読んでいる横山氏には、感心するのと同時に、確かに原稿には目を通してくれているという信頼感を持ったのでした。

 彼の仕事に対する姿勢に共感した私と、必死で原稿を書いてきた私の姿を垣間見てくれた横山氏は、こんなことがきっかけで作業の進行に大変いい環境が揃ったように思います。こんなことを積み重ねながら、貯金も次第に積み立てられるようになっていたこともあって、銀行も住宅の建設という目的に大変協力的になりましたので、兎に角わずかでも時間がある時を狙って土地探しを始めたのですが、直ぐに理想の土地が見つかるわけはありません。新聞に掲載される売地の広告を目指して、実際に出かけて行って検討をしましたし、建売の家を点検に出かけたりしましたが、なかなか思い通りにはなりません。それから更に時間を経過した結果、やっと新聞に出た不動産会社の広告に注目してその土地を見に出かけました。しかし広告に出た世田谷区の上野毛は思い通りのところではなかったことから諦めるといったのですが、「それではもう一か所見てみませんか」といって連れて行かれたのが現在の深沢だったのでした。さてそれからが実際にその土地を手に入れるための、実作業をしなくてはなりません。銀行へローンの申し込みをして承諾して貰わなくてはなりませんでしたが、兎に角窮屈な生活から脱出するために家内も必至で銀行へ通い、何とか貯金の実績を積んだこともあって承諾して貰えました。いよいよ窮屈なアパートから脱出できる機会が訪れたのでした。

                        「赤坂旧拙宅不動尊入り口」1.JPG 「拙宅末広荘へ向かう赤坂不動尊入り口」1.jpg 

 赤坂時代の写真がほとんど残っていませんが、これが当時の我が「末広荘」の姿が映っている赤坂不動の入り口の貴重な写真ですが、門の奥に見えているマンション風のビルの二階が拙宅でした。目の前には墓がありましたが、現在は入り口も大きく変わってしまいました。


 赤坂時代はどこへ行くにしても、電車、バスを利用していましたが、世田谷の新住所となるところは、周辺はかつて農地であったところで、東京オリンピックを機会に、近くに駒沢競技場があるところから一気に開発が進んだところでしたが、この辺りの大きな地主であった人の決断で、渋谷へ通じる電車は通さないということとなり、閑静な住宅地として守ったということが言われていましたが、その分これから仕事をこなしていくためには、交通機関に頼ってのんびりとスケジュールをこなしていくことは困難ということになってしまいました。そこでついに自動車の免許を取る決心をすることになるのですが、当時はその教習所も現在のように整備されていませんでしたし、その教官といわれる者も、あまり質の良くないものが多く、私の言った晴海あたりにあったところでは、親しかった者もみな腹を立てて止めてしまうという状態で、私もあまりにも不誠実な教官に我慢できずに、教習所を止めて、個人教授に切り替えました。新たな教官の情報によると、作家の井上ひさし氏も受け持っているということでしたが、これからの数か月は簡単に書くことができないくらいに苦労しました。試験場が最も厳しいという鮫洲の本拠地だったこともあって、仮免許を取るまでに十数回も落とされるという厳しさでした。それでも何とか我慢して受験に通い、ようやく運転免許証を手に入れたのでした。今回はとても設計の打ち合わせにはかかわることができませんので、建築に関しては実家の親しい棟梁にお願いしてすべてお任せで新居を建設して貰い、何とか独身時代との決別をして、真に新たな生活が始める態勢になったのでした。

 


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アニメと音楽の部屋☆ ア16「父子で歌いながら銭湯へ」 [テレビ]

 

お陰様で「マジンガーZ」に関しては、大変順調な作業がつづきました。

 視聴率も大変調子のいい状態で、私と東映動画の横山プロデユウサーとの間についてもまったく問題はなく、実に自由な創作環境の中での作業がつづけられました。

 そんな中で巨大ロボットのマジンガーZを駆使してドクター・ヘルの繰りだす悪の集団と闘う兜甲兒の活躍ぶりは、視聴者をワクワクさせるのに充分でした。ただ必死で主人公である兜甲兒に張り合おうとしているガキ大将のボスの願いは、そう簡単に叶うわけにはいきません。何度も失敗を重ねるのですが、とても反省するなどという理屈はまったく通じないのがボスらしいところです。ボスはムチャ、ヌケを動員して、兜甲兒に対抗して自分たちの巨大ロボットを制作すると、それからの活躍ぶりは思い込みのみの参戦で、マジンガーZの奮闘を邪魔するばかりです。まったく魔獣との戦いに奮闘する甲兒を援護するどころか、むしろ邪魔になるばかりでしかありませんでした。もちろん町の人の絶賛を浴びることはあり得ません。それでもボスにはそれを改めようという気持ちはまったくありません。魔獣との格闘に苦心する甲兒に張り合って、少しでも援護射撃をしようという、向こう見ずな友情から発した思い込みで奮闘していきます。役立っているのか邪魔をしているに過ぎないのか、反省などする気持ちのないボスグループは、意気軒昂で踏ん張りつづけるのでした。

 

                                  「マジンガーZ」1.jpg 「マジンガーZ」(ボスボロット)1.jpg


 

   脚本を書いている者としては、視聴者の反応というものは、大変気になるものです。

 そんなある日のことでした。

 私が原稿を執筆している書斎から見える道路から、洗面道具を持った親子が、テレビの「マジンガーZ」の主題歌を歌いながら、近くの銭湯へ向かうところでした。

 私は思わず原稿の執筆を止めて、立ちあがり楽しそうに歌いながら歩く親子の姿を見ていたのでした。番組の効果が視聴率ということでは判っていたのですが、視聴者にどのような反応があるのか判らないでいた私にとっては、この上ない形で喜びを受け取ることができた風景でした。これまでどんな作品を書いたにしても、それを観ている視聴者が、どんな反応をしているのかということは、脚本家が見届けることはできません。精々、視聴率の調査の結果で判断するしかないのですが、この日ははじめて「マジンガーZ」という作品の発しているものが、視聴者にどんな形で受け取られているのだろうかということを、現実の姿として見届けることができたのです。きっとお父さんも子供も一緒になって、活力あふれる活躍ぶりを楽しんでくれているのでしょう。私ははじめて脚本執筆をしつづけることについての歓びを感じたのでした。

                                       「マジンガーZ・書斎から見える道」1.jpg

 

 

 

数年前に原作のテレビ化という幸運を得た「さすらいの太陽」においては、必死で生き抜こうとする真摯な少女の生活を描きましたが、それはあくまでも少女の心に秘めた思いを形にして表現するという、「静」を表現する作品でしたから視聴者の心の内には何か共鳴し合うものがあったに違いありませんでしたが、それはあくまでも、それぞれの心の中に感動の波紋を引き起こしたことで終わりました。しかし「マジンガーZ」のように少年の心の内から前に向かって突進しようという活力を爆発させて表現するという

 

、「動」の連鎖を引き起こさせるようなものとはなりませんでした。「マジンガーZ」は正に列島改造論を押し進めている時代の気分にマッチした作品となったのでした。

 

 

 何かに向かっていこうという気持ちが、もっとも素朴な形で表現されていったわけです。巨大ロボットの活動によって表現される力感が、観る人々に活力の発揮を促していったのかもしれません。しかもその訴求力は、テレビという否応なく家庭に入っていくメデイアで浸透していきました。大人も子供ものめっていく姿を見ることになった私は、脚本家としてこうした反応を、どう受け止めていくべきなのかということを真剣に考えることになったのでした。これまでさまざまな作品を書く機会を得ながら、自分の思うような作品作りが満足にはならなかったことが多いままであったことを思うと、自分の進んで行く道筋がこれでいいのかという問題を考え直してみなくてはならないのではないかと思うようになっていたのでした。しかし「さすらい太陽」を出した時から、この「マジンガーZ」と巡り合ったことによって、脚本家としての向かっていく方向と、何を目標にして進んで行くべきなのかという問題と、多くの人の感動を得ていくということのためには、何を心掛けていかなければならないのかということを、真剣に探っていかなくてはならないと心に秘めたのでした。しかしそうした目標は、そう簡単に見つかるわけがありません。これから暫くは孤独な模索の日々がつづくのでした。

 

 たかが子供番組です。されど子供番組です。

 

私の心の内には、大きな課題が課せられたような気がしてきたように思えるのでした。

 

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いよいよ今日で今年最後のブログとなりました。また来年の五日が始まりですが、翌週は連休になりますので、12日も同時に更新いたします。

 

ブログをお楽しみ下さっていらっしゃる方から、メールを頂いております。有難うございました。また来年も元気でご活躍下さい。それでは令和元年の年末を、来年につながるいい年となりますように、充分に用心してお暮し下さい。

 

来年もよろしくお願いいたします。

 

今年を振り返った思いについては大晦日にフェイスブックで書きたいと思います。よろしく。

 

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告知と放談の部屋☆ 放25「青森で成田亨展シンポ」 [テレビ]

  令和元年の最期のブログとなります。

  今回は「ウルトラマン」人気を支えてくれたキャラクターの創造者である成田亨さんについての思い出を書きます。2002年2月26日、多くのファンの方に愛されていた彼は、現世から天上へと旅立ってしまいました。

私にとっても忘れられない存在でしたが、それから一年後のことです。奥様の働きかけということもあったのでしょうか、本来の彫刻家としての成田氏の創作作品が、すべて故郷である青森美術館へ収納されることになったのです。そして2003年10月5日に、それを記念にして青森県七戸の美術館で「成田亨さんの残したもの」というテーマでシンポジュウムが行なわれることになったのです。その時成田夫人からイベントのパネラーとして参加して貰いたいという依頼がありました。

成田氏の呼びかけに賛同して制作した「突撃ヒューマン」というご縁であったのですが、彼が円谷から去ってしまったことについては、ほとんどその詳細には知らされていなかったのですが、さまざまなことで円谷、TBSと対立することがあってのことであったことが、はじめて奥さんから聞かされたのですが、それから間もなく成田氏は日本テレビと特撮作品を制作する話を進めていたようです。詳しいことは判りませんでしたが、たまたま「ウルトラマン」時代から縁のあった私に協力依頼をしてきたわけです。どうやら成田氏にとっては、円谷プロに対するリベンジという気持ちもあったのかもしれませんが、そんな対場に同情した私は、少しでも彼の無念を晴らせるようにしてあげたいという気持ちから、番組制作に協力することになったという忘れ難い作品であり、成田亨さんとなったのでした。しかし残念ながら、結果として番組を成功させることはできないままに終わってしまうことになってしまいました。

   すでにご存じの方は多いと思いますが、仮想現実作品を舞台で行うということは想像以上に困難がつきまとうもので、結果的にワンクールを維持することが精一杯で終了することになってしまったわけです。そんな最中にたまたま特撮作品を制作したいという西崎義展氏が私に協力を依頼してきていましたので、私は、「突撃ヒューマン」の無念な思いを取り返すことができるのではないかという配慮から、西崎氏の協力依頼に応えるということで、成田氏を私の企画する仮想現実作品のヒーローとなる存在のキャラクターデザインを、成田氏に依頼するように西崎氏に推薦したのです。勿論私は直ちに成田氏に連絡を入れて、西崎氏の特撮についての意欲を伝えて協力をお願いいたしました。

西崎氏も直ちに成田氏と接触して作業を依頼したように思います。それ以後のキャラクターデザインに関しては、お二人の打ち合わせに任せることにして、その間に私はその作品の企画を更に決め込むための原稿を執筆することになったわけです。ところがそれから数週間後のことです。

 成田デザインを持ってテレビ化のためのスポンサー候補としていたR製菓と交渉していた結果が、思うようには進まなくなったという結果が報告されたのです。原因については詳しい報告がありませんでしたが、結局テレビ化という夢は果たせないままになってしまったのです。それから十年という年月を経たある日のこと、成田氏の死後一年後でしたが、思いがけず「突撃ヒュウマン」について語る機会が用意されたのでした。

   

          「突撃ヒュウマン・成田展会場前」.jpg 「突撃ヒュウマン・七戸美術館でのシンポ」1.jpg

 

          「突撃ヒュウマンと藤川」1.jpg                 

 (ヒューマンの原画と共に撮った記念です) 

平成15年10月5日のこと、青森県七戸の野辺地にある鷹山宇一美術館でス。成田亨さんの残したものというテーマでシンポジュウムが行なわれることになったのです。


  実はこの時は家内を伴った陸奥の旅ということになり、大変いい機会になりました。

 美術館は特に土曜・日曜日は入館者が多いというので、シンポジュウムはその日に設定されていましたので、予定通り三十代の方を中心にしてかなりの方が参加してくれたように思いました。中にはわざわざ東京からやって来た人が何人もいてびっくりしてしまいましたが、所謂特撮テレビの「ウルトラマン」シリーズ、「突撃ヒューマン」での、成田氏のデザインが決定的な力を発揮していたことは、ファンがよく知っていたということでしょう。会期中の入場者数もかなりのものでしたが、その最終日であるトークの日も九百人を越える熱心な入館者があり、会場はかなり熱気に包まれました。 


私は「ウルトラマン」の放送中は、成田さんはデザイン室にこもって作業をしていましたし、怪獣のデザインについて打ち合わせをするのはほとんど監督の受け持ちになっていましたから、実際にはあまり出会うことがありませんでしたが、回は成田氏からのお声かかりで、テレビでは最初で最後の大冒険をすることになった、「突撃ヒューマン」という特撮作品で親しく出会うことになったのだという話をしました。しかし本来は映像作品であるものを舞台でやるというのですから、もともとかなり無理を覚悟の企画で、放送前から厄介なことの発生が次々と起こりましたし、放送中には予想もしないようなことが起ったりして混乱しました。その度にさまざまな苦心はもちろんのこと、失敗がいろいろとありましたので、その時の私と成田氏の狼狽ぶりを含めてお話をしたように思います。青森会場へ来た人でも東京から駆けつけて来た人も、もうほとんど舞台裏を知っている人はいませんし、辛うじて幼少の頃生で番組を見た記憶があるといった程度の人達だったように思います。恐らく現地の青森の方では、放送のあった頃テレビでは見た記憶があっても、会場へ来て舞台のヒューマンを見た方は皆無であったと思います。公開録画の会場はいつも都心に近いところに限られていましたから、とても青森までやって来て放送する余裕は、予算的にも時間的にも無理なことで実現するわけはありませんでした。

しかし郷土出身の成田亨氏の業績に興味のある若者たちでいっぱいでした。パネラーは特撮監督の樋口真嗣氏、美術評家の椹木野衣氏とわたしの三人で、生前の成田さんについて語り、最後に質問コーナーもあって、参加者との間に質疑応答もあって、かなり熱っぽいイベントになりました。それにしても、「ウルトラマン」や「突撃ヒューマン」は、こうして多くの方の記憶に残り、更にそのお子さんに受け継がれて愛されつづけることになるのでしょう。今は亡きデザイナー成田亨氏も「ウルトラマン」「突撃ヒューマン」と共に天国で喜んでいてくれることでしょう。

晩秋と言うこともあって、日暮れは早いということからファンのみなさんとの別れを惜しむ時間もそこそこに、館員の用意して下さった車で十和田湖畔へ向かったのでした。

  思い出に残る人が去ってしまうのは、とても残念ですが、令和時代になると次々と親しくおつきしていた人々が、早々と現世を去って旅立って行ってしまいます。



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言霊謎解きの部屋☆ 言11「ひとくち言霊」(東西) [テレビ]

                                                                                                               「若菜等イラスト・藤川」1.jpg 

年が明けると、直ぐに大相撲の初場所が始まりますが、今回お話をしようとしているのは、相撲道で使われる東西とはちょっと違うようです。相撲の世界で東西という仕分け方をするようになったのは18世紀以後のことで、それほど古いものではありません。

今回お話するのは、歴史的にかなり古い時代の東西というラインの意味ということなのです。

日本歴史の中で活躍された人々の中でもよく知られている人々の墓が、なぜ聖徳太子の墓は大阪府の太子町にあり、その周辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もあるのです。当時の政治の中心には飛鳥にありましたから、政治の行われる朝廷から考えると、コレラの墓は金剛山の向こう側である飛鳥から西に墓が作られたことになります。

この頃は簡単に言えば東は日輪の昇るところであり、西は日輪が沈むところです。もうちょっと違った言い方をしますと、東は生命が誕生するところであり、疲れた生命が西へ沈んで鎮まるところであり、その生命が再び甦ってくるのが東であったということだったからです。

そういうことでは、東西というラインは極めて大事なラインであったはずなのです。そのために古代においては、この東西というラインが大事にされていたのですが、ところが時代を経ると道教という思想が入ってくると、今度は南北のラインが尊重されるようになります。それ以後は宮廷を建設するにも、「天子南面す」の指示通り、天皇は南に向かって輝かしい姿として臣下と対面するようになっておりました。ところが藤原京などは、わずか十数年で平城京に遷都してしまうことになってしまいます。その理由というのは持統天皇の高御座のある位置が、臣下の座るところよりも低くなってしまう土地であったということからです。この南北尊重という思想のために、天皇の御陵も南北のラインに作られて行くようになっていきましたので、やがてその土地を探すことが困難になってしまうことになり、兎に角広大な土地を確保することが困難になってしまったのです。その結果考えられたのが火葬という方法でした。

相撲の東西には現実的な要求によって使われた事情がありましたが、東西というラインの意味付けを考えるとすると、仏教の考え方が入って来てからになるようです。東は現世であり西は来世という受け止め方をするようになったからでしょうね。

天皇陵の場を考えると、その頃の大事にしていた方向が、東西なのか南北なのかがよく判ります。

 

                                                                                                                  イラスト・若菜等

 

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告知と放談の部屋☆ 放24「探し求めた創作環境か!」 [テレビ]

 

私にとっての、いろいろな意味で運命を決定づけられた、「マジンガーZ」との出会いでした。東映動画のプロデウサーは横山賢二氏、旭通信社の担当プロデウサーは春日東山東氏ということで、すでに脚本づくりは東映との関係で高久進氏がスタート脚本を執筆しているということで、私はその後からつづけて貰いたいということになったのでした。

 兎に角動画の制作会社も東映というところで、スタッフのみなさんともまったく初対面の方々でしたが、兎に角企画書を読んだ上で脚本づくりにかかったのでした。

                                     「マジンガーZ・3話」1.jpg 「マジンガーZ・4話」 1.jpg

 

これが私の「マジンガーZ」のスタート台本でした。

 これから「グレートマジンガーZ」まで、大雑把に考えても120作もの脚本を書いてきましたが、実に驚異的な数になると思うのですが、当時連続して書くことになっていたことに関して、異常に思うことはまったくありませんでした。担当プロデウサーからの依頼があって、それに応えるという状態であったはずです。その時には一切の制約もありませんでした。今思うと「さすらいの太陽」のテレビ化を実現した後、「ミラーマン」「突撃ヒューマン」と、作家としてはなにか吹っ切れないものが残ってしまう日々がつづいていたところだったので、いろいろな意味で気持ちが解放されたのかもしれません。夢中で書きつづけていったのでした。一時は西崎義展氏の特撮作品が行き詰まりの突破口となるかと期待していたのですが、残念なことにそれは諦めるしかなくなり、取り敢えず彼の持ち込んできた「ワンサくん」「青い鳥」でお付き合いをいているところに、「ミラーマン」での不満を解消して貰おうという配慮があって、旭通信社から「マジンガーZ」のレギュラーへの参加という依頼があったことが、思わぬ突破口となってくれたのでした。私と永井豪氏とのはじめて出会った時の様子については、日本文芸社刊の「激マン!」の「マジンガーZ」編2巻の103・104頁に紹介されていますので、機会がありましたら、是非覗いてみて下さい。

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話が横道にそれてしまいましたが、その間に時代も大きく変化してきていて、長期政権であった佐藤栄作内閣を引き継いで登場したのが、これまでの管理社会という窮屈な時代から、いきなり日本列島改造論という大胆な時代の改革を促すような構想をぶち上げた、精力的に活動する田中角栄総理大臣が注目されるようになっていた時になっています。時代は大変活気づき始めていました。番組はそんな時代の欲求に応えるかのように登場したのかもしれません。これまでテレビに登場してきたロボットものとは意識を一新してしまう巨大ロボットの斬新なデザインの「マジンガーZ」の登場です。

 「鉄腕アトム」でもなく「鉄人28号」でもない斬新な時代の空気にフィットしたデザインに、動画ファンは愕然としながらその斬新な姿に魅了されて、番組の冒頭から大変注目される作品になりました。作品にはこれまでにない原作から送り出される、地球制覇の野心に燃えるドクター・ヘルの指揮の忠実な部下である男女合体したアシュラ男爵という個性的で異色のキャラクターたちが実に魅力的であったこともあって、番組は一作ごとに人気を獲得していったのです。何といってもこの新たな仕事に誘って下さった、旭通信社のE氏には感謝しなくてはならないと思いました。兎に角今回の仕事の世界は、私の求めていた創作の条件として環境が整っていたからでした。

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基本的な設定の条件については、横山氏と出会って説明を受けましたが、その後は登場する魔獣のデザインが永井豪さんのダイナミックプロから届けられて、そのキャラクターを活かした話を創作していくという作業に関しては、まったくどこからも干渉されることがありません。兎に角思うことを思うように書くことができたのでした。

 一作ごとに出会って脚本のチェックをする横山氏からは、実際に制作をする下請けプロダクションやそのスタッフの情況の説明もあって、次第に番組の進行状況についての問題になるところについて、作家としての立場から積極的にアイデアを出していける状況にまでになっていたのでした。出会いと同時にちょっと激突したプロデウサー横山氏との関係も、仕事の進行に従って実にスムースなものとなり、二人連携プレーもうまく行われるようになりましたし、代理店の担当である春日氏の番組の広報としての協力もあって、スポンサーからの苦情もまったくありませんでした。私は久しぶりに心を煩わせることのない環境で、作業をしつづけていけるようになっていたのでした。私はその作業をつづける中で、マジンガーZを操縦する主人公の兜甲兒の遊び仲間である、ボス、ヌケ、チャメ、という悪ガキの存在に興味が起こりました。当然なことですが、永井氏はそれほど彼らをスターとして扱う気持ちはなさそうです。彼らはまじんがーZを操縦して活躍する兜甲児に、街の人気が集まるのにいい気持でではいられない遊び仲間のボスたちです。そんなことから私は密かに、彼らを兜甲兒にも負けない存在感を与えてやりたいと考え始めたのです。勿論、番組としては近代的な斬新なデザインであるマジンガーZの魅力を、兜甲兒を中心にした活動の中で活かしていかなくてはなりません。しかしいちいちヒーローに絡んでくるサブキャラクターとしてのボス・グループに、存在感を与えようとしたのでした。そういった創作の試みについて、原作者からのクレームがきそうでいささか心配したのですが、永井豪氏からのクレームはまったくありませんでしたし、むしろ毎回キャラクターを届けてくれるアシスタントから、永井氏の私に対する伝言が届けられたのです。甲児に張り合って動くボスたちの存在が、大変面白いといってくれているというのです。こんな原作者からのちょっとした伝言が、私を更に活気づけることになったことは間違いがありません。時代はイケイケのムードが充満していましたから、番組は日を追うたびに人気が高まっていったのでした。


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アニメと音楽の部屋☆ ア15「マジンガーZ登場へ」 [テレビ]

 

 「ワンサくん」というキャラクターを使った話を作ることになって、私は彼とお母さんがめぐり逢うまでのシリーズを考えて話を展開していきました。脚本は私と弟子の田村丸君とで、実に平穏な状況で作業を進めていきましたが、家庭での評判は爆発的なものになりませんでしたが、いわゆる幼児向けの番組としてはかなりいい評判は受けていました。しかし西崎氏には幼児向けの番組を制作するという考えはありませんでした。そんなところから、放送中の「ワンサくん」がワンクール・・・つまり13回で修了するところから、西崎氏が虫プロの監督で知られた山本英治氏を相談役として呼んだ結果、残りのワンクールを彼の発案で、本格的にアニメーションの制作にかかりだしたのです。これまでの物語はいわゆるホームドラマであったのとはまるで違った、犬社会で起こる話を風刺して描くという、一寸大人っぽい話として描かれることになったのでした。つまり犬社会を舞台にした、ミュージカルをやろうというのです。舞台のショウを構成するという構想を打ち出してきたのです。毎週の脚本は私の弟子である田村丸が担当することになりましたが、彼が劇団フジの主催者で、脚本演出も担当していたことから、今回の狙いの作品作りにはぴったりはまったようで、どちらかというと私よりも彼が中心になって脚本を執筆するようになり、作詞者には山上路夫氏と日劇のショウの演出をしている日高仁氏が起用されてかなり本格的な「動画」の制作を始めたのです。出会った頃の西崎氏の目指していた特撮ドラマとは、まるで違った趣の仕事へ向かい始めたといってもいいかもしれません。これはどうやら山本監督の影響なのかもしれません。

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新たな方向で制作されるようになった「ワンサくん」なのですが、番組の途中でちょっと思いがけない問題にぶつかってしまいました。

 劇中で犬たちが集まって楽しむ時などに流れた、「ピンコラ音頭」という歌が放送倫理コードに引っかかってしまったというので、折角レコード化されたというのに、公には使えなくなってしまったのです。勿論作詞は私ですが、作曲は宮川泰さんで、実に調子のいい音頭曲だったのですが、その運命には残念というしかありませんでした。そんなことがあったこともあってか、西崎氏は新たな作品作りを模索し始めたようです。私はその頃ちょっと作品の雰囲気がこれまでとまったく違ってしまったので、見当が狂いましたので、間もなくその制作からは距離を取り始めていたのです。それに気が付いた西崎氏は、何かと相談事を持ち掛けてくるようになってきました。勿論、このところ参加して来た優秀な各界の作家からの、さまざまな意見も情報として収集していたのかもしれません。しかしそれにしてもミュージカル「ワンサくん」も所詮家庭へ送る番組としては異色過ぎて、受け入れられるはずはありません。ワンクールは家庭向きホームドラマ、ワンクールは異色のミュウジカルということで、同じ「ワンサくん」というキャラクターを使った二種類の作品ができてしまったのでした。

(このワンサくんのテレビ化に関して、かなり後になって手塚治虫さんと西崎氏の間で大きな問題になりましたが、番海制作中ではまったく表面化することもありませんでしたから、私にはまったく知らされはしない出来事でした)

「ワンサくん」の終了と同時に、西崎氏はメーテルリンク原作の「青い鳥」を制作するということを発表いたしました。私もそれについては特別食指が動きませんのでしたし、彼にしても企画を模索するための時間稼ぎをしたかったのでしょう。私は実績作りということも考慮して、これまで脚本執筆ということでアシストしてくれていた田村氏に「青い鳥」のすべてを託すことにいたしました。

丁度その頃のことなのですが、私が「ワンサくん」という仕事にかかった頃、「ミラーマン」を扱った代理店の脚旭通信社の部長であるE氏から連絡が入って、至急逢いたいというのです。早速赤坂の東急ホテルでお会いすることになりました。

「ミラーマン」では大変辛い思いをさせてしまったので、今回は東映動画に制作を依頼している、若手漫画家の永井豪氏の原作なのですが、「マジンガーZ」という作品を受け持ってもらえないかという依頼だったのです。私にとっていろいろな意味で、脚本家としての運命を決定づけられることになった作品との出会いでした。

東映動画のプロデウサーは横山賢二氏、旭通信社の担当プロデウサーは春日東山東氏ということで、すでに脚本づくりは東映との関係で高久進氏がスタート脚本を執筆しているということで、私はその後からつづけて貰いたいということになったのでした。

これで新しい仕事場での仕事をさせて貰うことになりましたが、兎に角その仕事場の雰囲気もしれませんし、人についての知識もまったくありませんから、緊張感はこまでとは違ったものがあります。

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いよいよ作業にかかろうとしていたところ、夜大分遅くなった時間に担当の東映プロデウサーである横山氏から電話をもらいましたが、どうもその日の彼はかなり酒をたしなんだようで、その勢いでいきなり挑戦的な発言をしてきました。はじめて仕事をする作家に対しての挑戦状であると受け止めた私も、それに対してかなり激しい言葉で受けて返すということになりました。果たしてこれからうまくやって行けるのかという心配がありましたが、お陰様でそれ以来二度とぶつかるようなこともなく、長い長いお付き合いがつづくことになったのでした。


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ドラマと特撮の部屋☆ ド35「西崎義展氏特撮作品断念!」 [テレビ]

 

いよいよ「突撃ヒューマン」も作業的には終盤に近付いてきていました。その収録には立ち会うこともしなくていい状態になっていましたので、十話の「英雄ヒューマンの最期!!」十一話の「帰って来たヒューマン!」十三話の最終話である「さよならヒューマン」を書き上げていきました。

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私は早速「突撃ヒューマン」の作業が終る頃でもありましたので、どちらかというと

舞台のSF作品では満足な結果が出なかったのではないかと考えた私は、その成田氏に本来の作業ができるようにしてあげたいという気持ちが働いて、特撮作品をやりたいといってきた西崎氏に、特撮作品がやりたいのであればそのヒーローとなるキャラクターのデザインが決定的な意味を持つことになると話をして、「ウルトラマン」で実績のある成田氏にその設計を依頼するように勧めました。

勿論私があらかじめ成田氏に電話をして、承知して頂いていました。それから後の話は西崎氏と成田氏の直接な話し合いで決めて頂くことにして、私は本来の「サンダーマスク」の話づくりに入っていったのです。「死の汽笛だデーゴンH」「氷づめの東京を救え!」などを書いていたのですが、その間に西崎義展氏は、成田氏のデザインができたようで、その実現のために動き出したようです。

相手はどうやらR製菓であったようでした。

私はその成果を期待して待っているだけという状態で、その他のさまざまな仕事をこなしながら、新しい特撮番組が誕生するのを楽しみにして待っていました。ところがそれから間もなくのこと、

「あの企画は駄目になりましたので、また連絡をしますので暫く時間を下さい」

西崎氏から、そんな電話連絡があったのです。

 事情については詳しいことは話してくれませんでしたが、成田氏のデザインが気にいらなかったのか、それ以外のまずいことがあったのか、私は交渉の現場にいたわけではありませんでしたから詳しいことは判りません。西崎氏の本気度を感じるようになっていましたので、期待していた分今回の報告についてはがっかりさせられてしまいました。

西崎氏もその詳しい事情についてはそれ以上何も説明してくれませんし、成田氏からもそのことについては何の連絡もないままになってしまいましたが、きっと次の仕事を決めるために動き始めているのかもしれません。もうしばらくの間は西崎氏からの連絡もなくなるだろうと思っていました。

このところの目まぐるしいほどの生活環境の変化を思い返しながら、その始まりが 「ミラーマン」という番組と相性が良くなかったために、ほとんど成果を出せないまま番組から去るということになってしまったことから始まったのだということを考えました。確かにそれをきっかけにして、私の身辺にはさまざまな変化が起こり始めました。

あれは明らかに「さすらいの太陽」という作品の原作者になったことによる影響だったに違いありません。その後持ち込まれる作品には、どれも私の好きな発想や、独創的な作業が許される作品が多く、あまり気分的に不満を感じることがなくなったような気がしていました。私自身の活力も甦っていましたし、お陰様で生活も徐々に安定してきましたので、相性の悪かった「ミラーマン」問題はきっぱりと忘れることにして、新たな作品を考える機会としようと思い始めていました。ところがR製菓との交渉が不調に終わってからそれほど時を置いたわけではないというのに、西崎氏から逢って欲しいという連絡が入ったのです。

久しぶりに出会った彼は、簡単に特撮番組が不成立であったということを報告したあとで、申し訳なさそうな表情になると、

 「先生。「動画」を書いてくれませんか?」

 と申し出てきたのです。

 もうすでにその素材も持っているというのです。

 きっと暫く連絡が途絶えていたのは、そのために動いていたためだったのでしょう。

 それが手塚治虫氏の原作である、「ワンサくん」というキャラクターを使った作品をテレビ化するという話だったのです。

 かつて「サンダーマスク」を依頼された時に、そのプロデウサーH氏から西崎氏も虫プロにいたということは知っていましたので、きっと手塚さんともいろいろ関係があって、こうした手塚治虫氏のデザインしたキャラクターを使うことも、許されているのだろうと考えましたので、そのテレビ化のための構成案をまとめて、直ちにシリーズの脚本化を始めたのです。

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西崎氏はすでに、これを制作するために監督以下スタッフもかなり集めているようでしたのでした。私は新たな世界で挑戦する彼に興味もあって、直ちに作業に入って番組をスタートさせたのでした。

 (ここでお断りしておかなくてはならないことがあります。これから後西崎氏との付き合いが始まるのですが、この時点で彼についての経歴については、虫プロにいたということ以外では親族にタレントの西崎みどりがいること、三和銀行の重役がいるという自己申告してくれたこと以外には何も知りませんでした。尚更虫プロで何をしていたのかも知りません。兎に角動画制作会社から出て特撮ドラマを作ろうとして、「サンダーマスク」の制作をする同志のH氏に私を紹介させたというのが付き合いの始まりだったのです。それ以上に彼についての情報はまったくありませんでした。これまでの私の活動範囲はほとんどドラマ関係であったこともあって、動画関係者からの情報はほとんど入ってきてはいませんでしたから、はじめに出会った時の自己紹介がすべてで、その他のことについてはまったく知りませんでした。これから彼との付き合いが始まる前に、是非知っておいて頂きたいと思って書いておくことにいたしました)



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告知と放談の部屋☆ 放23「大混雑・仕事の依頼・・・」 [テレビ]

 慌ただしい作業でしたが、兎に角「突撃ヒューマン」の脚本執筆にかかりながら、「サンダーマスク」の話も書かなくてはなりません。こちらの番組もスタート時点で必要だというので、それに間に合わせなくてはなりません。慌ただしさは普通ではなくなってしまいました。

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「サンダーマスク」がきっかけとなった、西崎氏による企画も考えなくてはなりませんが、先ず成田氏から聞かされた企画の全体像に従って、SF特撮作品のスタート脚本を纏めなくてはなりません。ところがそれから暫くして、日本テレビのチーフプロデウサーの白井氏から、ヒーローの体操のお兄ちゃんを演ずる夏友介氏の相手になる、新聞記者の女性をオーデションで決めたいという話があって、当時結成されたばかりで一気に人気グループとなった、キャンデイズという三人娘のコーラスグループに逢うために、日比谷の渡辺プロダクションへ向かいました。役割は下町の活気のある女の子で、ヒーローの体操のお兄ちゃんが活躍する姿を取材する記者という設定にしたいといってありましたので、兎に角蘭ちゃん、美樹ちゃん、スーちゃんと、次々と面接をした結果、設定に一番近い親しみやすい感じの下町の女性にぴったりである、田中好子さん・・・通称スーちゃんを起用することに決定したのでした。彼女はまだ高校生であるということもあって、授業に差し支えない範囲での収録に参加できるということになりました。

時間ができたところで、「サンダーマスク」の脚本の仕上げを急ぎました。上原正三氏の一・二話につづいて、三・四話となる「火を噴く魔獣」「魔王冷凍作戦」という二話を書きあげましたが、その間西崎氏は特撮作品を作るのに必要な代理店を探し始めたようで、その候補となる会社の担当者との対面には、私が出て行って企画書の制作についての説明をしなくてはなりませんでした。

そんな数週間たったある日のことです。

日本テレビから送られてきた「突撃ヒューマン」の台本が起られてきたのですが、それを見たところ愕然としてしまったのです。成田氏からレクチャーを受けて執筆したSF特撮アクションは、私の想像していた姿を変えていたのです。つまりそれは映像を制作する脚本ではなく、舞台で行うショウのための台本にアレンジされていたのです。話を頂いて時からこれまで円谷プロで執筆してきたSF特撮物であると思いこんでいたので、愕然としてしまいましたが、勝手に映像作品であると思いこんで作業を進めてきた私の迂闊なためか、話のきっかけになった成田氏も日テレの白井氏からも、これが舞台で行う「ウルトラマン」であるということはまったく聞かされないまま、思い込みで作業に入ってしまったことが原因であるということに、ようやく気が付くという迂闊さの結果でした。どうも原稿を渡してからプリントされた台本がなかなか来ないと思っていたのですが、それは渡された原稿をショウの台本にアレンジしていたためだったのが原因だったようです。

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                              「突撃ヒュウマン台本第一話キャスト表」1.jpg 「突撃ヒュウマン・登場キャラクター」 (1).JPG 「突撃ヒュウマン・登場キャラクター」 (2).JPG

 

話がデザイナーの成田氏からのものだったことから、てっきりこれまでやって来たフィルムで作る作品のための台本であると受け止めてしまった私の迂闊さが原因です。

この大きな変更は、直ちに依頼した作家のみなさんに説明して了解して頂かなくてはなりませんでした。フィルムのSFアクションではなく舞台に移して行おうという、きわめて実験的な試みを行おうという番組の意図はいいとして、脚本家たちには大変申し訳ないことになってしまいました。兎に角原稿は予定通りフィルム用に書いて貰い、舞台用にアレンジするのは日本テレビに任せるということで承知して貰うしかありませんでした。

 こんなことが起こるとは思ってもいなかった私はその間に「サンダーマスク」の脚本を執筆していたのですが、舞台で行うショウの要素を持った作品にしなくてはならないということを考えると、直ぐに頭に浮かんだのは現在TBSで放送されているドリフターズが演ずる「八時だよ、全員集合!」でした。兎に角あの番組はお化け番組といわれるほど高視聴率を誇る圧倒的な人気を誇る作品です。私はそれに対抗するための手立てを考えなくてはならないと考えて、直ちにある秘策を胸に秘めて小学館の学年誌の部長であったI氏を尋ねることにしたのでした。兎に角観客の子供たちが熱狂する状況を作らなくてはなりません。テレビの収録を見に来ている子供たちを、番組の協力者として話の中へ取り込んでしまおうというのが私の願いでしたから・・・。

放送日がどんどん迫ってきています。

放送の収録をする市民ホールでのリハーサルにも参加いたしました。

そこではこれまで予想もしない問題が次々と起こりましたが、何とかそれを克服していくしかありません。「突撃ヒューマン」の収録が近づき、私もその様子を見るために染みんホールへ出かけることにいたしました。


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