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告知と放談の部屋☆ 放40「次の飛躍のために」 [テレビ]

  

事務所へ出かけて行った私に、西崎氏はいきなり思いがけないことを話し出しました。「宇宙戦艦ヤマトⅠ」(さらばヤマト)の総集編映画は完成させる作業に入っているのだから、もう次のことを考えて欲しいというのです。つまり総集編映画が完成するのに合わせて、次はそれを基礎にした完結編となる作品を制作したいというのです。しかもそのために、その原案を映画「トラトラトラ」を手がけた舛田利雄氏に依頼したというのです。やがてそれを映画化する時のために監督としても協力して貰うということになったということです。その日の話は、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のテレビ版作品の脚本を書くことと、いて「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の完結編ともいえる「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の映画版作品の脚本も書いて欲しいというものだったのです。これまで映像作品を制作するために協力し合いながら、やっと「宇宙戦艦ヤマト」という作品を世に問うことになったのですから、彼の意図については反対のしようもありません。むしろ西崎氏の積極性については評価したいくらいでした。「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の制作中は、はじめての本格的な動画作品の制作ということもあって、筆舌では尽くし難い作業をしてきたのですが、それにつづけて、更に完結編が作りたいというのです。私はただ彼の説明に頷いているだけで聞いていました。そして間もなく脳裡に浮かび上がったのは、数日前の緊張した口調でかかってきた電話のことです。

今回ドラマの映画で実績のある舛田監督を引っ張り出したのは、松本零士氏との問題を回避するためなのではないかということです。著作権上では原案というは著作権の権利主張はできないことになっていますから、ある程度のギャランテイを支払って著作権問題の回避したに違いありません。先日の引きつったような電話で私に後押しを頼んできた背後には、松本零士氏との間で、かなり深刻なやり取りがあったのではないかと想像しました。やがて西崎氏は「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の映画にかかる前に、読売テレビとの契約が決まったので、舛田原案に基づいてテレビのための脚本にかかって欲しいというのです。素早い西崎氏の動きには感心しましたが、それでもいきなり映画の製作まで持ち出されたことで、私は一寸返答をためらいました。かつて私は若い頃木下恵介監督の「日本の悲劇」という作品や、今井正監督の「また逢う日まで」という映画を観て刺激を受けて、思わず脚本家の水木洋子さんにファンレターを書いてしまったくらいだったのですが、テレビもない時代でしたから雑誌「シナリオ」「ラジオドラマ」の他に「文学界」を愛読する文学青年でもあったのです。楽しみといえば何といっても映画を観に行くことしかありませんでした。しかしまだどの方向に進むなどということには関係のない時代でしたから、映画のシナリオを書くということに興味はあっても実際に書いたことはありませんでしたから、いくら慣れた作品ではあったものの、まだまったく経験のない映画の話を受ける自信はありませんでした。率直に仕事に参加することは避けたいといって断りました。しかしそんなことで引っ込む西崎氏ではありませんでした。数時間のやり取りをするうちに彼が行ったのは、これまで「宇宙戦艦ヤマト」を引っ張ってきた私にとって、今回の「宇宙戦艦ヤマトⅡ」は、その総仕上げになるものだというのです。それを言われては断る理由も見つかりません。しかもその結果いわゆる総集編としてではなく、映画として完成したいのだからという説得だったのです。しかも西崎氏は私の持ち出すさまざまな問題に対する答えも用意してありました。脚本をアシストするために、東映映画畑で書いている若手の館俊介氏をつけるからということでした。これまでのような過密な作業になることを避けるために配慮したということです。更に舛田監督が動画に対する知識がほとんどないということから、すでに東映動画の勝間田具治氏をその補佐に用意していましたし、映画を制作するということに対する不安を解消させようと、東映映画で映画作品を書いている館俊介氏に補佐させるというのです。

ついに私はその時になって、次の仕事へのツテップストンにできればと考えるようになりました。この機会に映画畑の人の仕事の仕方についての知識を得る機会にもなると考えたのです。脚本家としての飛躍を図る絶好の機会となるに違いないと決心して、作業に加わるということを承諾したのでした。兎に角すでに放送の日時も決まっているようなので、直ぐにも脚本を書かなくては制作準備ができなくなってしまいます。私はその原案ができたところから、シリーズの構成にかかって欲しいということになったのでした。一週間後に舛田監督の原案が届けられて、直ちに26話の構成をすると館氏と手分けをして早速脚本執筆にかかりました。

スタッフに関しても、これまでの「宇宙戦艦ヤマトⅠ」で貢献した人たちから選ばれた人たちが、次の「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のメンバーとして組み込まれたようですが、その他のスタッフについては、現在総集編映画の制作中だということもあるので、どうなるかまだ考えてはいないというのです。西崎氏が仕事の内容が変わるのだからメンバーを一新するのもいいのではないかとさらっと言い切ったのが気になることでした。

何といってもこういった時には、実際に資金を投下して制作をする人の意向は無視できません。

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ある程度脚本の作業も進んできたこともあって、そんなある日のこと私は改めて目下総集編映画の作業を行っているスタッフを、今回の「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のスタッフとしても採用して欲しいという訴えをしてみました。しかし残念ながらそうした温情論はまったく通じませんでした。彼のシビアな一面を知らされた出来事です。松本氏も普段から作業上スタッフと接触する機会があったこともあることから、かなり強く訴えたということですが、それでも西崎氏からはいい返答はなかったようです。西崎氏にとっては、末端のスタッフなども今となっては目障りになってきていたのかもしれません。つまり彼が業界では無名であることや、どこから流れ始めたのか判りませんが、あまりよくない噂が囁かれるようになっていて、そんなことを知っている「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の原点から制作にかかわってきたスタッフについては、できれば早く視界から消えて貰いたいと考え始めたのではないだろうかと思いました。現在松本氏とは著作権上のことでぎくしゃくしているところでもあり、彼に親しいスタッフなどは、この際去らせることにしようと考えているのかもしれません。

私と松本氏の交渉は不発のままで終わってしまったのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放39「ある日突然謎の電話が・・・」 [テレビ]

 

 ブログ休載の釈明に使わさせて頂いた、日記風に書かれた1976年から1982年までの記録を、もう一度ご覧下さい。

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 もうお判りになったと思うのですが、これは丁度「宇宙戦艦ヤマトⅢ」(ヤマトよ永遠に)の作業が始まる頃からの記録です。その前の「宇宙戦艦ヤマトⅠ」(さらばヤマト)の作業が行われた1954年の記録はもちろん「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のテレビ版の脚本執筆はもちろん、時をおかずに行われた「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の映画版である「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の脚本執筆作業が行われたはずの1975年の記録がまったくないところから、どうして作業の記録が書き留めておかなかったのだろうかと不信に思って、ブログの休載をさせて頂いて、残されている資料の点検をすることにしたのです。その結果、今回は記録の存在がなかった1955年3月30日の「宇宙戦艦Ⅰ」のテレビ放送が終わった日から、それほど日も経ないある日のことからお話をさせて頂くことにいたしました。

これまで忙しない仕事中心で、ほとんど遊んでもやれなかった子供たちのために、何かいい楽しみを与えてやりたいと思っていたある日の早朝のことでした。午前六時という早い時間に電話がかかったのです。その主がなんと西崎義展氏でした。朝とはいってもあまりにも早すぎです。よほどの緊急の要件でも起こったのでしょうか。私は徹夜作業の末に寝たばかりだったのです。まだ意識ははっきりとしていません。しかし西崎氏もやたらに緊張していて強張っていました。いつもの平静な口ぶりではありません。いきなりかなり張り詰めた調子で訴えてきたのです。

 「先生。お願いですから私を男にして下さい」

 一体何が起ったのでしょうか。

 しかもこんな早朝に敢えて電話をしてこなくてはならないような事が起こったのだろうかと、戸惑った私は、

「どうしたのですか急に・・・。あなたはプロデウサーなのですから、男になるのは当たり前じゃありませんか。私は脚本家という立場が守れればいいのですから・・・それ以上のことは考えていませんよ」

あっさりと答えたのです。すると彼はほっとしたのでしょうか。直ぐに感激したような口調になって、

「有難うございます。それではまた事務所でお会いしますので、よろしくお願いいたします」

丁重に挨拶して電話は切れたのでした。

それにしても何があったのだろうかと思いました。

ようやく眠気から覚めて、何を慌てて確認してきたのだろかと、彼の行為の訳を推測してみたのですが、どうも解せないままで終わってしまいました。しかしあの電話にはかなり込み入った問題が秘められていたようです。それが判ったのは数日後に事務所へ出かけて行った時に、スタッフから漏れてきたある問題について、西崎氏は私の援護射撃が欲しかったからだということがはっきりとしました。

 当初「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の企画書を制作する中で、松本零士氏が加わってきたばかりの頃は、かなりの文書に原作西崎義展・藤川桂介・山本暎一と書かれていたのですが、

あの電話を受けた後からは、まったく詮索する気もなったので無関心状態でいたところ、スタッフの一人から聞かされたのは、企画書の原作者名から藤川桂介の名前が省かれていますねという情報でした。どうやら「私を男にしてくれ」といってきた西崎氏の真意には、今回の作業では彼に主導権を認めて欲しいということがいいたかったのでしょう。だから私は彼の訴えに対して何のわだかまりもなく、

「私は脚本家としての立場は守らせてもらえればいいのですから」

と答えたのです。

しかしそれが西崎氏の判断のきっかけになったのでしょう。恐らく私に電話をする前に、山本氏にも連絡をして許可をもらっていたに違いありません。それで私の名も消え去ったのでしょう。ちょっと腹立たしい気持ちにはなりましたが、少なくとも脚本家としての権利主張はしてあったので、それ以上の権利主張はしないことにしたのです

それで原作者は西崎義展氏一人ということになったわけですが、彼があのように切羽詰まったような口調で訴えてきたのは、恐らくその背景にそれなりの理由があったからであったことに違いありません。イラストを担当してきた松本零士氏は、あの頃から設定の作成などについて、仕事がかなり煩雑になってきていましたから、原作者としての立場を認めて著作権についての要求が出てきたに違いありません。西崎氏の狼狽ぶりの背景にはそんな事情が隠されていたに違いありません。しかし私にとっては画期的な作業にかかわっているということに意味があったこともありましたから、直ぐにわだかまりはなくなってしまいましたが、それにしても西崎氏の普通ではない緊張ぶりであった

、早朝の不可解な電話の真相がはっきりとしました。確かにその後の仕事については、何かにつけて話がぎくしゃくすることが多くなりましたが、松本氏も作品については気に入っているということがあったのでしょう。一応作業を拒否するようなことはないものの、当初のような気分ではなくなってしまったように思えます。

その後「宇宙戦艦ヤマトⅠ」のテレビの総集編映画の作業については、松本零士氏の要求どおり総監督という立場に立つという要求を認め、実作業としては動画のチーフディレクターに石黒昇氏を当てて任せることになって進行し始めたようでした。しかしその後松本氏との打ち合わせをした時に、かなり西崎氏の要求に対しては不満があるようで、肝心の著作権に関しては決着がついていないように思えたのでした。

その頃から西崎氏の周辺にはこれまでとは違った業界の人々の出入りがあって、彼と一気に仕事の範囲を広げ始めているように思えました。事務所も九段、練馬の他に赤坂にも作られて、手広く仕事をするために必要な秘書も数名ついていましたが、仕事の範囲によってスケジュウルを調整する者、番組の作品を制作するためのプロデウサー補ともいえる若手も数名加わって、総集編映画の進行を進めるために動きまわり始めていました。私は総集編映画の打ち合わせも済ませて、久しぶりにほっとしているところだったのですが、そんなところへかかったのがあの謎めいた電話だったのです。

それから数日後のことでした。西崎氏から改めて落ち着いた声で呼び出しがあったのです。


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告知と放談の部屋☆ 告4「ブログ休載の背景 Ⅱ」 [テレビ]

  

前回でまったくマイペースで仕事を進める西崎氏の指揮ぶりについてお話しましたが

、作業を煩雑、複雑なものにしてしまったのは、更に別の要因があったからだとお話しました。それは西崎義展氏の特異な仕事へののめり方だけでなく、彼の私生活の影響までが、作業の進行上にかぶさってくるようになったからでした。そのために過密で煩雑な仕事をせざるを得なくなってしまったのです。つまり私たちの作業は謎めいた西崎義展氏の実生活の影響で翻弄されるようになってしまったのです。関係のある女性たちについての付き合いのスケジュールを担当するTという男性秘書が存在していたことで想像がつくでしょうが、彼の勝手な私生活の影響が、必死に仕事の運びを進めているスタッフの作業にも、多かれ少なかれ支障を及ぼしてきてくるようになっていったということなのです。時には秘書として採用した女性との間に裁判沙汰になるような事件も起こったりしました。青春時代のいい思い出として忘れたくない作品である「宇宙戦艦ヤマト」なのですが、その激務の様子について書こうとすると、どうしても西崎氏の知られざる生活ぶりを書かなくてはならなくなってしまうということにぶつかってしまいます。時を追うに従って作業が煩雑になった上に複雑なことが多くなって、困ったと思っていたのは私だけではなかったと思います。彼がまだ業界に認知されなくて雌伏していた時代から付き合うことになった私には、その変化が敏感に感じられるようになってきていました。これまで書いてきたブログで私は、何度か西崎氏の真摯な作品作りに対して、その熱意に応えてやろうという気持ちで付き合ってきたと書いてきましたが、そんな気持ちが色あせてしまうようなことになりつつあったのです。

はじめて「サンダーマスク」という番組の打ち合わせをしていた私に、逢いたいといって現れた彼は、まだ仕事のきっかけを掴もうとしている時代であったこともあって、何かと相談事を持って現れたりもしましたからつき合いはつづくことになっていたのですが、時には当時彼がつきあっていた女性についても紹介したいといって、一緒にマンションまで会いに行ったりしたこともありました。その頃はごく当たり前の若い男女の交際風景だと思って好感していましたから、彼女との間に子供ができた時には、お祝いとして遊具を贈ったりもしたものです。私たちはごく当たり前の若い二人としての付き合いを重ねていたわけです。その後番組を制作する上での多少の強引な運び方をされても、それは制作者としての立場上止むを得ないことなのだと受け止めていたのですが、「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の作業に入ってからは、彼の必死な思いに負けまいとして、私も必死に無理な作業でもこなしていたくらいです。まさに私の場合は家庭放棄という状態であったように思います。前回で紹介したように、スケジュウル表を作るような余裕はまったくありませんでした。しかし「宇宙戦艦ヤマト」に対するファンの興味が次第に高まってきて、「さらば宇宙戦艦ヤマトⅡ」の作業に入る頃になると、「宇宙戦艦ヤマト1」の頃とは比べ物にならない姿に変わっていったのです。これまでの作業とは比べようもない仕事の進め方をし始めるのです。想像のつかないほど煩雑で複雑な状態になっていきました。その結果狂気とも思えるようなスケジュウルで仕事を処理していかなくなってしまったのです。西崎氏の仕事の進め方には、これまでとは違った強引さが加わってきたためです。個人的な生活にのめり込み、その時の気分次第で気ままに会議を招集するような生活をするようになったからです。この頃からが彼との付き合いはもちろんですが、いろいろなことについて考える機会になっていきました。

やがて番組が決まり、松本零士氏という個性あふれるイラストレーターが加わるようになると、さまざまな映像関係のスタッフとの交流も盛んになると、これまでの精力的な好青年というよりもかなり世慣れた姿を見せることが多くなっていったのです。それまでの付き合いで植え付けられていた好印象に、戸惑いを感じさせられることが多くなってきていました。彼はこれまで交際を告白していた女性だけではない、さまざまな存在がいるということまで知ることになりました。かつて私を信頼して私生活をかなりさらしてきていた彼だったのですが、次第に極秘の動き方をするようになるし、接触するマスコミとの取材にはもっぱら自分のアピールが中心となって、かかわる人への配慮はほとんどなくなっていきました。しかし作業が煩雑になるに従って無理なスケジュウルの作業を遠慮なく強引にねじ込んでくるようにもなってきました。やがては時を経るに従ってわがままな要求となっていきましたので、抗議をしたことがありましたが、スタッフを集めた会議では、突然スタッフたちに一寸部屋から出てくれといって、私と二人きりになると、突然会議室で土下座をして誤ったりするのです。あまりの豹変ぶりなので、そんなことは止めろといって、彼のわがままぶりを赦したことがありましたが、彼はやがて部屋の外で待機しているスタッフを再び会議室へ呼び戻すと、如何にも私を説得したというような態度になって、話を進行していくのです。あれ以来彼に対する印象は、これまでと大きく変わってしまいました。その時によっては、あのように態度を豹変することさえもできるということに驚愕してしまいました。

私はそれに必死で応えてやろうと思い、迷惑を迷惑と思わずにこなしていたのですが、それにも限度があります。仕事が厳しい状況の中で必死に取り組んでいる最中だというのに、彼はこれまで私に見せていた西崎像とはまったく違った西崎像を見せるようになってきたのです。必死で過酷な厳しい仕事に立ち向かっているスタッフたちをよそに、個人的な生活を重視するために、彼の適当な時間を選んで仕事の会議を招集するようになっていったのです。ある時は平気で女性を伴って打ち合わせの場へ現れたりするようになったために、舛田監督が激怒して打ち合わせも中止されたこともありました。そんな彼を見るにつけて、私のこれまで見つめてきた姿から次第に同志としての姿が消えていくようになっていったのでした。私にとっては作家としての生命を賭けた戦いは、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」(さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち)で完結するという思いが色濃くなってきていました。前回紹介したようなスケジュウル表も作れないほどの忙しない作業に没頭した二年間は終わったように思います。これから紹介するさまざまなお話は、こういったことを背景にして起こったのだということを知っておいて下さい。

お互いに必死で生きていた西崎義展との青春時代だけを大事にしておきたいと思えば思うほど、作品が評判になればなるほど嫌な話を書かざるを得なくなります。刻々と美しい夢から遠ざかっていく姿を見るようになってしまいましたので、ある時が来ましたらブログでのお話は止めることになると思います。あまりにもいろいろなことを知りすぎた結果です。ただ今回紹介したスケジュウル表が、思いがけず西崎・松本の対立抗争に決着をつけることに役立つことになるのですが、それはまたその時に発表することにしたいと思います。兎に角「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の放送が終わった後、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のテレビ版も「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」という映画も、さまざまな西崎義展氏のありようの変化と共に苦労しながら完成したもので、これから紹介するブログの背景には、こうした悲喜こもごもの生活があったのだということをご理解下されば幸いです。


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告知と放談の部屋☆ 告3「ブログ休載の背景 Ⅰ」 [テレビ]

  

 ブログを勝手にお休みさせて頂いてしまったのは、決して私の体調が変化したわけではありません。あくまでも私自身の足跡を辿る作業をしているつもりでしたが、ここまできたところで、自分でも気が付いていなかったことがあったことに気づいたからなのです。もしあのまま予定した通りにブログを書いていると、あっという間に「宇宙戦艦ヤマトⅠ」が終わった後、あっという間に「宇宙戦艦Ⅱ」に当る「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の映画の公開の話になってしまって、その間にどんなことがあったのかということが、まったく語られないまま進んでしまうことになりそうだと気が付いたからなのです。どう考えてもそう簡単に作業が進んだはずはなかったはずなのに、どうしてあの大変な激務に追われていた鮮烈な記憶が残っているというのに、なぜかその作業の記録がほとんど残されていないのです。西崎義展氏のオフィスアカデミー以外の動画制作会社や映画会社から依頼された仕事については、家内の日記風の記録に書き留められていてはっきりとしているのですが、なぜか中心的な仕事をしているはずの「宇宙戦艦ヤマト」の作業の記録がないのです。結論から申し上げると、実は「宇宙戦艦ヤマトⅠ」が終わった後で、時を置かずに二つの作品の作業が進行することになってしまったからです。つまりテレビ版「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の脚本執筆が終わると同時に、それを基本にした「宇宙戦艦ヤマト1」(さらばヤマト)の完結編となる映画のための作業が、ほとんど間を置かずに進行してしまったのです。少なくとも「宇宙戦艦ヤマト」の作品化ということに、脚本家としての存在を賭けて勝負に出たのですから、それの完結編を仕上げるのだという意気込みでいた私は、すべての時間をつぎ込んで脚本執筆に向かっていったことは間違いありません。しかしとても常識では考えられない予定を聞かされても、当時の気持ちからするとまったく引き下がるような弱気はありませんでした。兎に角どんなことが起こるかなどということはまったく考えることもなく作業にかかったはずなのです。ところがそのへんの事情をすっかり忘れてしまっていたために、当時の記録を引っぱり出せばブログは書けるという計算があって、ブログを構成していたのですが、いよいよ「宇宙戦艦ヤマト1」の放送終了後から「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の作業にかかる話を書こうとした時に、保存してある資料を探し始めたところ、何と台本やグッズなどがあるだけで、当時の記録がまったくないのに気がついたのです。どうしてそのようなことが起こっているのか・・・几帳面な私にしては、考えもしない手抜かりです。その訳が知りたくなって、敢えて四月はお休みにして頂くことにしたのです。

ところが間もなく、作業記録のない空白の時間を埋める作業をしているうちに、残されているある記録を発見したことで、その謎が推測できると考えたからでした。1978年(昭和53年)の「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開が終わった後の、「宇宙戦艦ヤマトⅢ」の記録から1982年(昭和57年)までの仕事に関するスケジュウルが日記のように書かれた記録です。「さらばヤマト愛の戦士たち」が終わった後からは実に克明な記録が書かれているのです。

                                                     「ヤマト・スケジュール表」1.jpg

    

      (スケジュウル表)

 これはそれまでの狂気に満ちた作業をした結果、その反省として作られたものなのだということです。

これはひとえに西崎義展という狂気ともいえるような熱っぽい人物と付き合った結果であることがはっきりとしたからです。作業が始まると良くいえば熱心ということになるのですが、スタッフの個人的な予定は一切無視になってしまって、一気に西崎ペースで運ばれていってしまいます。他の制作会社の仕事とはまったく違ったせわしなさに見舞われるようになっていきました。

思い出したようにスタッフの招集がかかって、時間無視で希望を押し付けてきたり、これまでの仕事についての注文を出したり引っ込めたりすることもありますから、それぞれ予定していた仕事の処理を大幅に変更しなくてはなりません。自分のペースでは生活のスケジュウルは組み立てることなどできるはずはありません。しかし彼はそんなことにはまったくお構いなしで、まるで趣味であるかのように、延々会議に時間を取るのです。そのために私をはじめ現場の制作スタッフは、予定していた作業が進められなかった分を、なんとか工夫して限られた時間でこなさなくてはならなくなるということがしばしば起こりました。呼び出しのあった後の彼の要望によっては、これまで書いてきた話を大幅に変更しなくてはならなくなって、また話の組み立て直しをしなくてはならなくなるということもありますから、そんなマイペース作業を強いることが激しくなるに従って、設定作業の注文が集まる松本零士氏には、予想外なしわ寄せが集まるようになってしまうので、たびたび西崎氏との間には亀裂が走ることも起こります。松本氏には「宇宙戦艦ヤマトⅠ」が始まると同時にコミック誌の連載も殺到し始めたので、スケジュウルの消化が難しくなってしまって、番組の進行に責任を持たされているスタッフにそのしわ寄せがあって困らせていました。しかしそんな状況にあっても、西崎氏は自分勝手なペースで一寸したことでもスタッフを招集するので、私もまったく自分のペースで作業を進めることができないままです。兎に角きて欲しいという要求に応えていかなくてはなりません。これでは自分でスケジュールを組んで、作業の仕上げの予定を組みたてるなどということはまったくできません。兎に角その日その日に必要な作業をこなしておかなくては、すべての作業が停滞してしまうという状態になってしまいます。徹夜作業は当たり前でした。

 彼と出会わない頃の仕事の処理の仕方としては、その予定をカレンダーに書き込んでおくか、家内の家計簿風の日記に書き込まれていく、作業の依頼とそれに対する支払いの記録などを頼りに探れば、ほとんど間違いなく仕事の様子について確認できたのですが、「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の作業が始まる頃から、すっかり通常の作業の仕方ではこなせない状態になってしまったのでした。それでもようやく地獄の作業から解放されてほっとする間もなく、またまたせわしない作業にかかるような指示が飛び込んできたのです。多少でも前の経験もありましたから、彼の仕事はまた地獄を覚悟しなければならないと決心してかかることにしたのですが、それのすべての情況を克明に描くことはとてもできません。兎に角私の場合は付き合いの始まりからの関係もあって、何につけても来てくれといってくる気安さもあったことから、脚本家の日常などということはまったく理解しないまま、自分のやりたいことを思いついたらそのまま進めようとするのです。しかし作業を更に煩雑で複雑なものにしてしまったのは、まったく別の要因が加わってしまったからなのだったのです。


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告知と放談の部屋☆ 告2「ブログ再開のお知らせです!」 [テレビ]

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 ご心配頂きましたが、どうやらブログの再開ができそうですのでお知らせすることにいたしました。コロナウイルスがなかなか終息する気配を見せませんが、いかがお暮しでしょうか。実は五月にはいったら山荘へ籠ってゆっくり連休を過ごそうと思っていたのですが、そんなところへ軽井沢町からもすべてのイベント・コンサートも中止と、不要不急の外出を控えるようにという号外が送られてきました。いろいろ大変な様子がわかりましたので、今回は東京でstay homeとしました。

資料を整理しながらゆとりを持って更にお休みすることになりますので、ブログ休載のきっかけとなった、仕事の記録のない二年間の謎を何度も点検したり、かなり予定していた話題の組み換えをしてみたりしてみました。仕事の記録を失っていた1974年から1975年の、二年間にわたる「宇宙戦艦ヤマト」にかかわっていた、想像を越えるスケジュウルの過密状態の原因が何であったのか、多少でもご理解頂けたらと思っています。あの二年間は私にとっても必死な青春時代でしたが、思い出に残る青春時代でもありました。

あっという間に一か月という休載期間が過ぎますが、あと二年。大雑把に足跡を辿るブログ執筆作業は、無事に完結できますように頑張りたいと思います。

 

本来のブログ開始はこれまでどおり五月三日の日曜日にすべきでしたが、今回はちょっと早めの四月二十九日から再開しようと決めました。丁度一日から連休も始まると思いますので、十日の分も同時に公開しておくことにいたしました。その間ずっと楽しんで頂けたらと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

                              藤 川 桂 介

 

令和二年四月二十六日

 


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告知と放談の部屋☆ 告知1「四月のブログお休みの告知です」 [テレビ]

                                                     「若菜等イラスト・藤川」1.jpg

 

 いつもブログをご覧頂き有難うございます。

 ところが急遽今月いっぱいお休みをさせて頂かなくてはなりました。

 一気に書ききろうと思っていたのですが、「宇宙戦艦ヤマト」にかかわっている時代でも、特に他の番組のかかわりもあって、仕事がより複雑になってしまいましたので、予定していたお話をかなり整理しておかなくてはならなくなってしまったのです。かなり資料を整理してお話しないと判らなくなってしまいそうなので、勝手ですが今月のブログはお休みにさせて頂いて、思い切って整理をさせて頂きます。

 また五月から再開したいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 コロナウイルスの影響もあって憂鬱な時代ですが、健康を害せずに元気でお過ごし下さい。

私は極力書斎に籠って頑張るつもりです。

それでは暫くさようなら!

 

                               藤川桂介


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