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言霊謎解きの部屋☆ 言19「ひとくち言霊」(護符) [テレビ]

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超自然のさまざまな威力に対して、あまりにも無力な人間は、とにかく何らかの力に寄りかかって、苦難から逃れようとします。勢いを得ようともします。

超科学時代である現代においても、なぜか襲いかかる不安から逃れようとして、さまざまな形のお守りを、密かに持っていたりしますね。別にその威力を目の当たりにした訳でもないのに、それを持っているから心強くもあり、勇気を持って生きていけたり、何かに挑戦していけたりするものです。

神社、寺院へ行けば、これでもかこれでもかと言わんばかりにお守りを販売していますが、21世紀の現代ですらこんな有様なのですから、まだまだ知識も進化していない時代である古代では、所謂迷信といえるものがかなりあって、それこそ身を守るために、いろいろな種類のお守りを持っていたのではないかと思います。古代では、魔性のものから身を守るには、女性の魔力を秘めた領巾(ひれ)などを腹に巻いて、旅に出るような男性もかなりいました。姉の忠告を聞かずに旅立ったヤマトタケルなどは、そのために妖魔に襲われて死んでしまったくらいです。

それでは危険から逃れるために、普通の人はどんなお呪いを唱えたのでしょうか。修験者から教わった、「臨兵闘者皆陣列在前」という呪文を唱えて護身をしたりしたが、ちょっとびっくりしたのは、「急急如律令」という呪文です。この律令というのは、古代の法律のようなもので、これを侵すということは、死に値することだったわけで、その厳しさは民にとっては実に恐ろしい存在であった訳です。そんな威力があったくらいですから、魔も寄りつかないに違いないと考えたに違いないのです。民が如何に律令というものを恐れていたかという証拠です。そんな畏怖する思いが、とうとう護符にまでしてしまったというわけでしょう。

こんなことを書いたお札を家の前に貼ったりして、魔が襲って来るのを撃退していたわけです。三島由紀夫の「潮騒」の舞台となった神島の民家は、全戸「急急如律令」の呪符を玄関に掲げているということで知られていますが、左の写真は、この注連縄の後ろに「急急如律令」と書かれるようです。しかもこの注連縄は一年中玄関前につけられているようです。奈良県田原本町では、「急急如律令」という呪文を彫った瓦を、屋根に載せるという風習があると聞いています。

沖縄の宮古島などには、「石敢当」などと、石に彫られたものが、家の角などに立てられているのを見ましたが、これは危険なものがぶつからないようにという、お呪いだそうです。これも故事に因んだものだそうで、つい最近、東京でも、近くの自由が丘というファッションの町の一角に、この石のお守りを置いている家を発見いたしました。しかし同じお守りでも、現代人が・・・特に若い女性が持ち歩いているようなものは、まだまだ夢があっていいかもしれません。一種のアクセサリーのようなものなのですから・・・。 しかし古代のそれは、生活に直結する切実なものだったのですから、決してないがしろには出来ないものだったのです。災いを払う方法がこれしかなかった時代なのですから、仕方がありません。果たして現代人は、本当にそれらの・・・護符(お守り)の存在を、まったく無視することができるのでしょうか。ふとそんなことを考えることがあります。


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告知と放談の部屋☆ 告5「連休になりますので」 [テレビ]

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 連休がやってきましたので、お知らせをいたします。本来は日曜日に更新する予定ですが、コロナで自粛する方もあるとおもいますので、26日の日曜日分を繰り上げて更新することにいたしました。

 それぞれゆっくりとお過ごしください。

 間もなく夏がやって来ますが、どうぞ健康になさってお過ごしください。

 

                                 藤川桂介


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アニメと音楽の部屋☆ ア31「ファンの涙に殉死」 [テレビ]

 

「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開が終わると、熱気が充満しているという中で、年を越えて間もなく読売テレビ・・・日本テレビで始まるテレビ作品の制作の打ち合わせがつづくことになりました。その年の10月14日から放送の予定になっているというので、直ぐに館俊介氏の協力を得て脚本を書いてくれというのです。

 西崎氏には映画に感動した雰囲気が、依然として残りつづけているという空気に乗って作業をすすめようというのですが、私にはそのまま彼の意向に従っていいのかという気持がありました。あの映画でファンに対して西崎氏は「さよなら」という挨拶をわざわざ文字として挨拶を送ったばかりです。私としてはこれでもう「ヤマト」は書かないと決めていたところでした。あのラストシーンに涙を流して劇場から立ち去っていくファンの様子を目撃していた私は、ファンの純粋な気持ちに応じて殉死する気持ちでいたのです。

 (もうヤマトは二度と書かない)

私はこれで「宇宙戦艦ヤマト」としての仕事は、すべてやり尽くしたという気持でいましたので、私にとってはファンの思いというものを大事にしてあげるという気持から、映画を観て訪ねて来るファンにも、「もう私もヤマトは書きません」と伝えていたところです。あれだけはっきりとファンに別れを告げた以上、それで涙を流しているファンを裏切ってはいけません。

「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の作業についてはかなり躊躇いがありましたが、しかしこの作品については「ヤマトよ永遠に」「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」に先駆けて、「宇

宙戦艦ヤマトⅠ」のテレビが終わった後で、読売テレビとの契約の話が進められていたもので、1978年10月14日から放送するという約束をしていたものだったのです。どうやら西崎氏はこんなこともあることを承知していて、事前に私への対応を準備していたように思えます。確かに「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の放送が終わった時、私は沖田艦長の死を持ってすべての物語は完結してしまったと思っていたのですが、その後その総集編の映画を作るというのですべての思いは果たすことができると考えていたのです。ところがそれか間もなくでした。いろいろとテレビ放送中は思いの果たし得なかったこともあったことがあったり、ついに最後まで「世界名作童話」の人気を凌駕できないで終わってしまったという無念な思いが残りつづけていたところでもあったので、西崎氏はそんな完結しない思いを果たすために、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」の執筆を要請してきたのです。すでにその原案は映画界の監督である舛田利雄氏に依頼しているというので、東映の若手作家の館俊介氏に協力して貰って脚本を書きました。西崎氏はその作業が終わる頃に、「宇宙戦艦ヤマトⅠ」ではやりきれなかったことを完結しようといって、「ヤマトよ永遠に」「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の二作を制作しようと申し出てきたのです。その時私に執筆の決心をさせたのが、

「今回は「宇宙戦艦ヤマトⅠ」の完結編なんです。それをやれるのはこれまで苦労してきた、あなたしかいないではありませんか!」

五月のブログで紹介しましたが、私の中にあったまだ不完全燃焼という思いに点火してきた言葉だったのでした。「ヤマトよ永遠に」「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の二作で、その思いは完全に果たすことができました。もう「ヤマト」は書かないという殉教者の思いでいたところでしたが、恐らく引っ込む私を説得してきた時の西崎氏も、当初は同じような気持ちであったことでしょう。

それだからこそ映画のラストであれだけ時間をかけて、ファンに別れの挨拶をしたのです。それを受け止めて涙を浮かべていた数々の観客を見ていた私にとっては、あの時のファンの純粋性を裏切れないという思いがずっとあったのです。

もう「ヤマト」は書かないとはいっても、確かに今回はかなり前に契約のあった仕事です。拒否するわけにはいきません。

ただこの頃になって前と違っていたのは、仕事の予定表を作る必要を感じたことでした。それがないと次々と西崎氏の思いつきで仕事を組み入れられてしまって混乱してしまうからです。新たな仕事にかかることもできなくなってしまいます。新たなスケジュウル表をみると、ほとんど連日にわたって「ヤマト」の打ち合わせで埋まっています。

既に脚本は仕上がっているとはいっても、局の意向もありますから、そういったことも配慮しながら作業を進めていかなくてはなりません。兎に角放送日に合わせて、私は第一話、四話、五話。第七話、八話、九話、十話、十一話(前編)、十二話(後編)。第十五話、十六話、十七話。第十九話、二十話、二十一話。第二十三話、二十四話を私が書き、館俊介氏は第二話、三話。第六話。第十八話。第二十五話、二十六話を書いていきました。

読売テレビは私がまだ放送作家としてデビュウする前に、就職もあきらめて自由気ままにしていた頃、大学時代の放送仲間であった学習院のS君が、読売テレビの制作部に就職していたこともあって、彼の夙川の下宿へ泊まり込んで一か月近くぶらぶらとしていたことがあって、若手の局員である仲間とも親しくなって、大阪、神戸付近のかなり危険な地帯の探訪にも誘って貰っていたことがあったのですが、今回東京の読売テレビの担当になったS氏は大阪の仲間とも親しい関係であったこともあって、大変助かったというおまけまでありました。

私は「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開が始まった頃から、周囲の熱気が一気に高まっていましたが、その充足感に浸りながら、もうやることはやり切ったので、これからは、戦闘物からは解放された作品がやりたいなと考えるようになっていたのです。

そんなある日のこと、東映動画から連絡があって、松本零士氏の「銀河鉄道999」のテレビシリーズをやるので、二話から入ってくれないかという話を貰いました。

「火星の赤い風」がそれでした。

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 これまでの事情を考えると、わざわざ声を掛けてきてくれたことに感謝して、打ち合わせに出かけたのでしたが、「マジンガーZ」以来の作業だったこともあって、プロデユウサー横山賢二氏とは久しぶりに落ち着いた状態で作業の進め方について話を進められました。しかし原作の「銀河鉄道999」というものを提示されて、私はいささか不思議な気分になりました。今青年層の憧れとなった戦記物の「宇宙戦艦ヤマト」とはまったく違ったメルヘンです。彼にもこれからは「ヤマト」とは違った物語が書きたいと思っていたのだろうか、暫くそんなことを考えたりしていたのでした。

 

 

 

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告知と放談の部屋☆ 放49「サイン本発売・代筆情報」 [テレビ]

 

「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の映画は観客動員400万人。興行収入43億円。配給収入21億2000万円というもので、1978年の日本映画の配給収入では「野性の証明」が21億5000億に次いで、第二位を記録するという驚異的な結果をあげたことから、西崎氏は勢いに乗ってテレビシリーズであった「宇宙戦艦ヤマト」の設定集を発売するというのです。営業に関することについては、私などはまったく関係外のことですから、何をどう販売するつもりで発売することになったのか、松本氏とはどんな話し合いをした上での決定なのか知りませんが、上・中・下巻という当時としては一万円という破格の高価な設定集を、一冊の豪華本として箱入りで出版することに賛成しました。勿論その企画には反対をするわけはありません。しかしその企画の立て方があまりにも大胆で強引なものだったので、私は正直なところこんなに高い本を買う人がいるのだろうかと率直に思いました。映画の予想もしなかった大ヒットという成績であったこともあって、まったくひるむ様子はありませんでした。西崎氏は胸を張ってキャンペーンを行い、予約を受け付ける働きかけをし始めていました。つまり予約した人の希望する人のサインを入れて送るという特典を付けたのです。申込書には、サイン希望の西崎義展、松本零士、藤川桂介のいずれかの名を書いておくことになっていました。実を言うと、マスコミの露出から考えれば、恐らく松本零士氏がダントツの人気を集めるだろうと思いましたが、つづいて西崎義展氏になるだろうと思っていましたが、ファンの反応を受け止めていた私としては、ひょっとすると西崎氏よりもむしろ脚本を担当する私に希望が集まるかもしれないと思ったりしていました。兎に角西崎氏の営業展開は実に素早く強引でまったく大胆で、こんな上質な物品は、他のアニメーション番組からは出てもいませんし、次々と発売されるグッズにしても、これまでの動画界ではお目にかからないようなものばかりです。

                                    「ヤマトⅠ全設定集・箱」1.jpg 「ヤマトⅠ全設定集・内容」1.jpg

                    「ヤマト1設定集上」1.jpg  「ヤマト1設定集中」1.jpg 「ヤマトⅠ・設定集下」1.jpg  

 

 


これで利益を上げられれば、動画制作者としては卓越した営業センスというものを持っていたのかもしれません。それにしても感心するのは、彼は兎に角駄ものは作らなかったということです。通常の他の動画作品では、かなり子供っぽいものを制作して販売していましたが、西崎氏はかなり質のよい大人っぽいグッズを次々と発売していくのです。これは彼が成長過程で身に着けてきた感覚かもしれません。育ちの所為かとも思いました。次々と制作して発売されるグッズは、かなり上質だが高いといわれながらも、そんな非難の声はまったく聞く耳を持ちませんでした。


 その豪華本の発売に当って、予約して購入してくれる人については、西崎義展・松本零士・藤川桂介の一人の希望を書いてくれたら、それぞれサイン本として送付するということをうたい文句にして宣伝しましたので申し込みは次々と集まってきます。


その様子は秘書から刻々と報告されました。もうすっかり記憶は薄れてしまいましたが、やがてそのサインの対象になる本が届けられましたが、私のサインを希望された方は300を超えていましたが、どうやら松本氏は400を超えたらしいのですが、西崎義展氏は100を超えるのがやっとという状態であることが判明しました。最終的に松本零士氏が一位、藤川桂介が第二位、それからかなり離れて西崎義展氏が第三位という結果が出たというのでした。それにしても今回の企画は三人の人気投票になってしまったようで、雑誌その他での露出がかなり多かった西崎氏は恐らく彼に対する人気は断トツでトップになるであろうと期待していたようなのです。しかしその結果はあまりにも期待した和人は違ったようです。本の著作権者も西崎義展・松本零士氏となっているくらいですから、そこに名前のない私は不利なはずであったのですが、意外にも多くのサイン希望者が出たことは、明らかに私の脚本家としての働きを評価してくれた結果であったと思って大変嬉しく思ったものです。


間もなく送られてきた本を和室へ運び入れてサインを書く態勢を整えたのですが、その数には圧倒されてしまいました。すると事務所からは、兎に角大変な仕事になりますから、誰かに頼んで書いて貰ってもいいですよという配慮の連絡がきました。当時は著名な人気俳優などのサインは、ほとんど東映などの社員が俳優に変わってサインを書いていたそうだったので、その手でやったらどうですかと勧められたのですが、律義な性格の私にはとてもそんないい加減なことはできません。高いお金を使って買ってくれた純粋なファンの気持ちは裏切れないと思っていましたし、第一私のサインは独特な筆法なので、とても他の者には代われるものではありません。あっさりお断りして、予定通りに執筆を進めたのでした。


 西崎氏は秘書に代筆を命じてせっせと予定した冊数を書かせることにしたようですが、松本零士氏はかなり忙しくなっていた頃ですが、精々時間をとってこなしていたようです。その現場はまったく見届けてはいませんから実情については不明です。ところがそれから暫くして、非公式ですが、びっくりするような購買者のサイン希望者数が発表されたのです。 第一位西崎氏500。第二位松本氏400。第三位藤川300というものでしたが、すでに秘書から実数を聞かされていたものですから唖然としてしまいまいました。私たちは実数を知らないと思っての処置なのでしょうが、松本氏と打ち合わせをした時にはその時のことが話題になって、思わず笑ってしまったのでした。


 「子供っぽい、目立ちたがりの奴だな」


 厳しい世の中の波をくぐり抜けてきたような、大人のようなふるまい方をするわりに、どこかに子供っぽく、負けず嫌い丸出しの男なのだなと笑い飛ばしたものでした。

 

 

 


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ドラマと特撮の部屋☆ ド38「緊急助っ人・いずこより」 [テレビ]

 

「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」の公開があって、沸きに沸いているという状況の中で、あっという間に年も変わって1978年になってしまいました。まだ「ヤマト」の熱気が漂っていて、いろいろなことで落ち着いた状態ではありませんでしたが、春を迎えたある日のこと、私の体が空いたというのを狙って、業界の大先輩から助っ人をして欲しいという依頼を受けたのだけれども、協力してくれないかという話を受けました。三船プロ制作の瀬戸内寂聴氏原作「いずこより」を書くことになったのです。

助っ人といえば、かつて私が赤坂へ住むようになって間もなくのことですが、はじめてレギュラーになったTBSの「月曜日の男」で脚本を執筆している最中に、某作家が原案を書いたまま行方不明となってしまって、原稿を書かないまま連絡ができなくなってしまったことがあったのです。原案通りセットも出来て後は放送の準備に入るばかりになっていたのに、その後の作業を放棄して作家が音信不通になってしまったのです。録画撮りの予定が迫っていることから、担当プロデウサーでありでイレクターであったI氏は、何とか前編を自分で書いて間に合わせたのですが、後編も書くという時間が無くなってしまったという事情から、それを私に書いてくれないかという依頼をしてこられたのです。しかもその日の夕刻始まる本読みに間に合うように仕上げて欲しいという、危機突破の作業をしたことがあったのです。あれから十六年もたったある日のこと、I氏は久しぶりに助っ人以来の電話を入れてきたのです。彼の親しいベテラン作家で、かつて新宿ムーランルージュという劇団で活躍した脚本家のK氏が、間もなく東京12チャンネル(現テレビ東京)でスタートする連ドラ・・・愛のドラマシリーズで、新しい生き方をしようとした、瀬戸内寂聴さんの自伝小説「いずこより」のスタジオドラマを三船プロから請け負っていたのですが、間もなく行われる本読みを間近にしてどうしても原稿が書けなくなってしまったので、誰かそのピンチを貰える作家はいないだろうかと相談をされたというのです。原稿は直ぐに印刷へ回さなくてはならないという状況です。しかしそんなピンチを急に訴えられても、それを簡単に受けて貰える脚本家が見つかるわけもありません。そんな時に、かつて番組の危機を救って貰った脚本家である私が思い浮かんだのでしょう。たまたま大学の先輩後輩という関係もありましたので、I氏にとっても先輩にあたるK氏なので、何とか救ってあげたいという気持ちから急遽連絡をしてきたのです。ちょうど私も「ヤマト」の公開も済んだと頃だったということもあって、何とかK氏のピンチを救ってあげてくれないだろうかというのです。私も先輩からの切羽詰まった願いは断れません。リハーサルも数日後に決まっているらしいのです。とうとうその依頼を受けることにしたのでした。

原作を読んだ上で、脚本家のK氏と番組の制作をする三船プロダクションの担当者と、赤坂のプリンスホテルでお会いして挨拶を交し合うと、直ぐにホテルの一室へ籠ることになったのでした。原作は時代に向かって新しい生き方をしようとした瀬戸内寂聴さんの自伝小説「いずこより」のドラマ化で、東京12チャンネル(現テレビ東京)で始まった愛のドラマシリーズの第二作目にあたる「いずこより」でした。

第一作は彼が書いていましたが、その二話がまったく手つかずといった状態でした。兎に角第一話につづけて話を組んで書いて欲しいということでした。なぜかどうしても気持ちが乗ってこなくなってしまったのだというのですが、同じ物書きとしてはそんなことも起こるようなことは理解できます。私はお気の毒になってしまって、気にしなくてもいいからといって、兎に角無駄話をしている時間はないのですからといって、「宇宙戦艦ヤマト1」の時のような切羽詰まった状態で執筆にかかる準備にかかりました。「ヤマト」の時と同じように、今回もそのよく緒に印刷屋が原稿を取りに来るというのです。私は早速話の構成を整理して、原稿をかく準備に入ったのです

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ところがびっくりしてしまったのは、それから後で起こったK氏の様子でした。

もうすべては私に任せたので安心したのでしょうか、彼はベテラン作家らしい余裕のある様子でお茶を飲みながらしばし雑談をしていましたが、間もなく部屋にセットされている電話から受話器を取ると、早速付き合いのある女性を呼び出して、寝転んだまま盛んに近々出会うこと約束させようと口説き始めたのです。何という身勝手なことを平気でやる人だなと思いましたが、私は兎に角約束を果たすために作業にかかったのでした。

 K氏は私がI氏の後輩であることも判っていた所為か、必死で書いている私に遠慮なく、あちこちにいる女性に電話をしては精一杯息抜きをして楽しんでいるのでした。

 夕食を摂るとまた同じようなペースで、また女性との他愛ない会話を楽しんでいましたが、わたしはまた直ぐにのこりの原稿を書きつづけたのでした。

 翌朝、多少早めに起きたK氏は、早速仕上がった私の原稿に目を通しながら、時折手直しをしていますが、それほど大きな問題もなくチェックを終えて朝食も済ませました。それからはようやくほっとして雑談などをしましたが、どうも彼は時代の流れで業界の流が大きく変わってきているということに、まったく気が付いていないようで、旧世代のペースで仕事をしようとするために、どうも出版社もだんだん相手にしてくれなくなっているようでした。しかし業界での大先輩です。下手な説教をしてはプライドを傷つけるだけです。兎に角刻々と仕事の世界には変化が襲ってきていて、これまでのような仕事の仕方をしようとすると、どうしても行き違いが起こってしまいますよと、ちょっぴりアドバイスをして窮屈な話にピリオドを打ったのでした。気ままにしたいことをして、好きなようにお金を使い、ファッション関係のお店を持っていた奥さんにおんぶして、精一杯気ままに生きてきたようですが、もうそんなことをしながらのんびり作家でいられる時代ではなくなっているのです。私にとっても同じ作家として生き抜くために、精一杯心掛けなくてはならない反面教師としての対話でした。

正午になると予定通りに印刷屋は原稿を取りにきました。

 「お疲れさん」と労われてお別れいたしましたが、その後仕事抜きで彼の葉山の小さな別荘へ呼ばれたりしましたが、流石にそこを買ってくれないかという話にはお応えできずに失礼いました。どうも彼は離婚して暫く独身を楽しんでいたようでしたが、そろそろ終活の準備にはいったようでした。

それからあまり時を経ずに、彼は孤独な状態で鬼籍へ入ってしまったという知らせがありました。海が好きな人であったことから、親しかったI氏は彼の遺言通り、彼の好きだった東南アジアの海に散骨してあげたということでした。たった一晩でしたが、旧世代の作家の生きざまのようなものを覗かして頂いて、私は改めて作家として生き抜くための葛藤を積み重ねなくては、とても彼のような自由気ままな境地には到達できないなと思うのでした。


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告知と放談の部屋☆ 放48「よかった!苦闘の到達点だ」 [テレビ]

 

 個人的な「宇宙戦艦ヤマト」に関する思いは、映画の大成功で完全に果たされることになりました。しかしそうした満足感に浸っていたのはごく数日間のことで、私を取り巻く環境は、これまでとはまるですっかり変わっていました。

 やってよかったと思いました。

映画の評判がよかったこともあって、来客が増えたことはもちろんでしたが、これまであまり接触はしない人たち・・・中学生、高校生、大学生がやって来るようになりましたが、どちらかというと男性よりも女性がはるかに積極的で、それぞれ興奮気味に感動を伝えにきてくれるようになりました。

 映画を観てくれた人たちが、率直な思いを伝えにきてくれるということは、これまでの動画番組ではあまりなかったのですが、「ヤマト」が発散した熱気によって、脚本家とファンの間にある壁を氷解させてしまったのかもしれません。仕切りを取り外してしまったのかもしれません。相手が若い人たちであったこともあって、遠慮がなくなってしまうということが、作家にどんな負担をかけることになってしまうかということには、ほとんど気遣いをすることがありませんでしたから、大変こちらにとっては迷惑な負担になることも多かったのですが、これも映画の成功の付録なのだと思うしかありません。そのうち平静さを取り戻してくれるだろうから、暫くの間は我慢かなと思ったりもしましました。兎に角それからは、その対応にかなり追われる状態がつづいたのですが、私にとっての感動はファンの反応に留まらなくなりました。たかが動画ではありますが、されど動画でありました。これまで動画ファンといえばほとんど低年齢層向けであると思われがちであったのですが、すでに中学、高校、大学生という、年齢層に広がりが出て来たということを実感し始めているところに、マスコミの報道によると、びっくりするような結果が報道されるようになったことです。いわゆるサラリーマンといわれる三十代の青年そうまでファンの層が広がったということです。

 なぜそんなことが起こるのか。

 さまざまな分析が行われるようになりましたが、この数年前から小説では山岡荘八氏の「徳川家康」が大ベストセラーとなっていたのですが、つまり家康が臣下たちをどのように管理して、300年という太平な幕府の管理運営を行うことができたのかという

ことが評判になっていたことで、会社の経営者はもちろんのこと、中間管理職といわれる人々は、こぞってその図書を購入して読んでいたのですが、「ヤマト」の登場によって、これまで管理、管理という状態で息がつまりそうだった若い勤め人たちは、広大な宇宙の海へ飛び出していって地球の危機を救う旅に出てくという壮大な物語のお陰で、日常の管理社会の閉塞状態であった精神状態を解放することができたことが、これまでにない青年層というファンを掘り起こしてしまったのです。これは実際に脚本を書いてきた私にとっても想像していなかった現象でした。確かに作品の内容も、これまでの動画界の中心であった幼児向けというものから抜け出して、大人が見ても満足できる動画という作品になっていたということです。「ヤマト」は時代の閉塞感から多くの人の気分を解放することに役立ったのでしょう。

 日本から始まった「ヤマト」の波動は、たちまち世界にも広がっていきました。

 それまで長いこと動画と呼ばれた世界は、とうとうアニメーションという名称で呼ばれるようになりましたし、そのファン層の広がりから一概にアニメーションだからといって、蔑視するような風潮も少なくなっていきました。ついにヤマトの広がりの拡大によって、サブキャラクターではあっても脇へ置かれる存在ではなくなってしまったように思います。

いつかきっと若年者にしか通じない動画作家では終わらない脚本家になりたいという思いも、ようやく達成できたような気がしてきました。

 暫くは「ヤマト」という作品にかかわりつづけながら、日本の動画史の中では、絶対にはずすことの出来ない作品にかかわったということで、さまざまな年齢層の方々のファンと巡り合い、接触する機会が多くなっていきましたが、少しづつ生活の環境も落ち着いていきました。そんな中で私は時代を掴むということの意味ということを考えるようになったのです。

時代の空気というものが持っている市民感情というものがどんなものなんかということを拾い上げていかなくては、大きなヒットは生まれないということを体感しました。脚本家としての仕事をしつづける以上、番組を通して視聴者にどんなことで通じ合っていくことが大事なのかということを、真剣に考えるようになりました。そしてそれと同時に、接触してくるファンとの接し方についても、今まで以上に配慮しておかなくてはいけないと思うようになったのです。相手が若い人たちであることから、一寸気を許していると、歯止めがかからなくなってこちらがどんな迷惑になっているのかということも忘れてしまうようなことがかなり起こります。そんな点は若い人の気持ちを傷つけないようにして注意してやらなくてはなりません。

これまでお付き合いをしてきた、壮年、熟年世代のとの付き合い方とは、かなり違った付き合い方が必要なのだということを知ったのでした。それは自分を支えてくれるエネルギー源でもあると受け止めておかなくてはならないと思うようになりました。

 時代とテレビ作品のかかわり方ということを考えるようになってから、私はあるファイルを作るようにして、さまざまな作品の登場の仕方について研究するようになったのでした。

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 テレビ作品と時代とのかかわり方というようなことは、その後かなり役立ったことは間違いありません。

 「ヤマト」にかかわることで、これまで気が付かないでいたことで、血肉になったと思えることがかなりあったように思えました。

 いろいろな問題が次々と起こって困らせることもかなりありましたが、それでも一つの作品を作りつづけてきたことは良かったと思えるようになったのでした。

 長年の目的を果たし終えたという気持ちがありましたので、これからどんなものを書くべきなのかということを考え始めていました。


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アニメと音楽の部屋☆ ア30「すべてはこの日のために」 [テレビ]

 ついに一つの目標とZするところまでに、到達したということを確認することになるその日がやってきました。ここまで到達するまでには、ほとんど説明をすることができない問題が山積みでしたが、兎に角これまでお付き合いした制作プロダクションではあり得ない作業の連続でしたが、よくそれに耐えながら付き合えたなとつくづく考えたほどです。しかしそんな無茶苦茶な仕事を押し付けてくる西崎氏とも、途中で我慢できないといって決別してしまわないできたのは、まったくかかわりのない私に、わざわざ面会を申し出てきてきた謙虚さに、何とか協力してやろうという同情がはじまりでした。私にとっても、こういう時にふんぞり返って協力してやるというようなことをいうのは一番苦手なタイプですから、真剣に協力を依頼してきた彼に、何とか役になってあげようという気持ちからついにここまで来てしまったのです。いつか大きな仕事になる時を実現しようという思いが、さまざまな我儘も勝手な動きにも目をつむって、兎に角我慢の限界まで彼にやる気が衰えない限り付き合ってやろうと思うようになれたからでした.

 

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 ようやくその努力の決術する時が来たと思うと感慨もひとしおでした。

 何回か前に紹介しましたが、この作品を完成するために、さまざまなエキスパートが必死で力を発揮して下さったことに、心から感謝したいと思いました。

 勿論、作品の公開前には事前に東京現像所の試写室で観ましたが、「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」のすべてのドラマが完結して、かかわったスタッフのみなさんの名が静かに流れていきます。そこでエンドマークとなるはずですが、西崎氏はプロデユウサーとして、制作会社の社長として、多くの「宇宙戦艦ヤマト」ファンのために、支援して下さったファンのために、思いをこめてかなり長時間にわたる別れの挨拶を綴って流しました。ファンを熱狂させつづけてきた「宇宙戦艦ヤマト」は、この日を持って彼らの前から去ると訴えることにしたようです。

 それを観た時、西崎氏も私と同じ思いで制作したということを確認したのでした。

 この挨拶を見て、ファンはどう受け取るのだろうか・・・ちょっと複雑な気持ちにはなりましたが、私がそうであったと同じように、西崎氏もこの作品で、多くの支持を集めた作品とも去るという決意を公にするつもりなのだと思って、彼との共同作品の結実で追われることに満足したのでした。もう一度制作にかかわって下さったみなさんを紹介して、感謝したいと思っています。

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しかしどうして台本のはじめのページに書かれる、三人の方の位置づけを明らかにするものを何度も書くようなことをしたのかというようなことをするのかというと、「宇宙戦艦ヤマト」の作業では、それだけ人間関係に厄介なものが存在していたからなのです。

今回もかなり苦心した結果の表記になったように思いました。

もうお察しのいい方ばかりだと思いますが、升田監督はあくまでも西崎氏が頼み込んで作業に加わって貰った方ですから、その金銭的な待遇や位置づけに関しては何とか納得して貰うことになったとしても、西崎氏が企画・原案・制作・総指揮となっているのに対して、松本氏が監督・総設定となっているのには、いささか引っかかるものがありました。ここまできても二人は、まだ角の付き合いのような状態にあったのだということを知りましたが、やがて両者の関係は裁判にまでもつれ込むことになりますが、西崎氏が勝利したものの、二度目の裁判では私が「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」のちょっと前から書きとどめ始めた作業の日誌が証拠となって、結局著作権については両者で分け合うということで決着したのでしょう。その時のことはまた改めて書くことにいたします。映画の制作にかかわったスタッフのみなさんにも、感謝しながら映画の公開に向かうことにいたしました。

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 こんな時には目立った動きをしても、咎められるようなことはないと思うのですが、この日は家族を引き連れていくということもあって、その日の最終回の上映の回を観ることにしました。


 渋谷の東急系の劇場の一番後ろの席に家族で座りましたが、劇場内はすでに満員状態です。熱気が劇場の中いっぱいに充満して暴発しそうなものが漂っていました。


脚本にかかわってきた者としては、いつでも映画の完成の時ともなれば、こうした興奮状態になるものでしょうが、私にとってはさまざまな支障を乗り越えて、ようやく目標としていた脚本家としての到達点へ達したという充足感が高まり切っていました。


劇場内に満ち溢れた熱気が、期待感をこれまで以上に高まって来ていました。


家族ともまったく話をすることもなく、たった一人の満足感に浸っていたのでした。

                                   「ヤマト・ヤマトⅡ封切り・入場券」1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 二時間三十分という時間は、登場人物と共に動き、叫び、戦い、歓び、大役を果たして地球へ帰還しました。まさに私にとっての夢の結実した二時間三十分でした。

 

 言葉もありませんでした。

 

 映画そのものは終わり、制作にかかわったスタッフのみなさんの紹介が済んだ後に、西崎氏の思いをこめたファンに向けた長い長い別れの言葉が流れていきました。劇場を埋めたファンはなかなか席を立とうとしません。スクリーンに流れていく別れの言葉を涙と共に噛みしめながら、立ち去りがたい思いを残して劇場から立ち去って行きます。そんな姿を見ながら、私は兎に角長いこと夢に見てきた光景を脳裡に焼き付けていきました。長いこと心に秘めてきた夢のような時間を、噛みしめながら帰宅したのでした。

 

 その日は久しぶりに、脚本家として勝負を挑んだことの充足感を味わいながら眠れたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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告知と放談の部屋☆ 放47「騒動!あの人のオールナイト」 [テレビ]

 

 1977年12月2日、午前1時ついに、「宇宙戦艦ヤマトⅡ」のオールナイト放送が始まりました。私の記録には12月1日と書かれていますが、すでに日付が変わる前から、本読みその他の準備が始まっていましたのでそうなっているのでしょう。

 これまでなかった催しであるといおうこともあって、丸の内のニッポン放送周辺には、ファンがかなり集まって来ていて、深夜に向けて興奮状態であったらしいのですが、私は昨夜のゴランドパレスでの格闘で疲れていましたので、二日の本読みが始まる夕刻頃に局へ出向きました。

 これまでほとんど仕事についてのスケジュールが記録されていないために、さまざまな困難を感じるようになっていたこともあったことから、私はこの頃からこうした作業の日誌的な記録を作ることにしたようです。下に出した日誌は、その日のことをきちんと書き留めています。

                                      「ヤマトⅡ・オールナイト記録」1.jpg 「ヤマト・オールナイトドラマ」1.jpg

 

もう局の内外には熱心なファンが、出演するゲストや声優の登場を待ち構えていましたが、局内はほとんどオールナイト放送の準備でヤマト一色でした。流石にここまでくれば私の仕事はほとんどありませんからロビーなどでスタッフたちと雑談をしたり声優さんと挨拶したりして、大変楽しみな時間を過ごすことができましたが、丁度午前零時を迎える頃になって、一寸スタッフの動きに慌ただしさが現れたのです。

 (何が起ったのか)

 咄嗟に異変を察知しましたが、どうやら西崎氏と松本零士氏に行き違いが起こって、放送の冒頭で挨拶をすることになっている松本氏がニッポン放送には行かないといってきたというのです。放送界でも異例のイベントだというのに、人気の松本氏が来ないと宣言してきたというのは一大事ですが、二人の間でどんなことが行なわれたのか、まったく不明ですが、もう大分前から西崎氏と松本氏との間には印税問題をはじめとして、さまざまな感情的な問題があることは知っていますが、それはあくまでもお二人の問題であって、私にはまったく関心がありませんから、どちらからそれについての不満を訴える話が合っても、なるべくその話については無視しているようにしていたのです。二人の間に確執が芽生え始めたのは、すでに「宇宙戦艦ヤマトⅠ」のテレビの番組の進行中から、出会う松本氏から西崎氏の強引なやり方についての訴えを聞かされるようになり、総集編映画の制作に入る頃から二人のぶつかりは次第にそのトーンをエスカレートしていきました。もうこの頃になると松本氏も業界ではかなり知名度も上がり、ファンも激増していましたので、発言力も強力になっていましたから何かにつけてぶつかることが多くなってきていたのです。

 しかし何といっても西崎氏にとってはイラストですっかり人気者になってしまったまつもとは外せませんし、松本氏にとってはご自身のイラストを魅力的に発揮する場としては得難い作品です。互いにその権利主張をエスカレートしながらも、完全に切り離してしまうことはできないままという、中途半端な関係を引きづってきているのです。

 ついに二人の行き違いが大がかりなイベントを前にして爆発してしまったようです。

 局へ向かって貰いたいというスタッフからの連絡に対して、松本氏は拒否の返事をしてきたというので、西崎氏の怒りも頂点に達していますが、そうかといってその日のメインゲストとしての、松本氏が欠席ということになってしまっては、画期的なイベントとしても、気が抜けたものになってしまいます。

腹立たしいことは当然ですが予期せぬ回答を受けて狼狽したのは西崎氏です。自ら出向いて説得しなくてはなりませんが、彼が出て行って引っぱり出せるとは思えません。

 こんな時きっと彼が私に助けを求めてくるのは判っています。

スタッフが知らせてくれたので咄嗟にトイレへ逃げて小用を足していたのです。

 もういいだろうと時間を見計らって出たところ、そこで待っていたのは西崎氏でした。

兎に角一緒に行って松本氏を説得してくれというのです。その時の西崎氏はすっかり狼狽しきっていて、とても大プロデユウサーの風格などはありませんでした。

兎に角一緒に行ってくれという、情けない頼みの一点張りです。

 本番にもそんなに余裕はありません。刻々と午前一時が迫ってきます。

 やむを得ず私は同行することを承知しました。西崎氏の運転する自家用車で、大泉の松本零士宅へ走りました。深夜ということもあって、現在のような道路状況とは大分違っていましたから、信号無視はお構いなしで深夜の街路を突っ走っていきました。

 現代ではとても許されないような暴走をして松本邸へ向かうのですが、その中で番組はスタートしてしまったのでした。カーラジオで興奮した調子でその内容などを放送している様子が流れてきています。そんな中を西崎氏は必死で車を飛ばして行きました。

 松本邸へ着くと足早に玄関へ向かい、飛び込んでいくと、迎えに出た奥さんのコミック作家の牧みやこさんが、すでに起こっている混乱を知っていらっしゃったので、出迎えて下さったのですが、兎に角松本氏は怒り狂っていて話に乗ってはくれないといいます。早速二階の仕事場にいると思われる松本氏に対して、呼びかけるのですがまったくそれに対しての反応する気配はありません。ついに西崎氏では通じないようです。

 牧さんとは小学館でのお付き合いがあったので旧知であったことから、私と目線が合った途端に、私に出て欲しいという合図を送ってきました。

そこで私が西崎氏の前に出たのです。

 「松本さん。藤川です。降りてきて下さい。松本さん」と、何度も繰り返して叫びましたが反応がありません。すると奥さんも私の呼びかけに呼応して階段下へ行くと、「藤川先生もいらっしゃったのですよ。降りてきて下さい」と呼び掛けてくれました。

 それでついに松本零士氏は決心してくれたようです。

支度を整えて自分で局へ向かうということになったのでした。勿論、同じ車に乗るわけもありません。私たちが乗った車の後を追って自家用車でついてきてくれました。もうすでに放送は始まっていて、車の中でラジオの進行を聴きながら、ようやくその冒頭部を終了するぎりぎりに局へ飛び込むということになったのでした。しかしあの日の混乱など、ほとんどの人が知るわけがありません。

すべては私と問題の当事者である西崎義展氏だけが体験したお話です。

松本氏もこれまでの付き合いから信頼をしてくれていたこともあったのでしょう。私まで来てくれたということを知って、ようやく出かける決心をしてくれたのでした。

西崎氏にとっても、私という存在は「宇宙戦艦ヤマト」を制作する上に、絶対に欠かせない存在になっていると確信した深夜でした。 


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