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思い出作品の部屋☆ 思14「溢れるいけいけの気分」 [趣味・カルチャー]

  

もう一度1986年の頃のことを思い出してみて下さい。角川書店が地上編「宇宙皇子」を完結して次の天上編のスタートまで数か月の空白の時間ができた時のことでした。


映像時代からお付き合いの深かった徳間書店で小説を書いて下さいという依頼があって、私は古代歴史ロマンの「宇宙皇子」とは世界の違う現代を舞台にした青春小説として「エプリル・シャワー物語」を書きました。イラストも「宇宙皇子」のいのまたむつみさんとはまったく違った正統派の太田慶文さんというまったく違った画質の方を起用して、その特徴を鮮明にしました。そして更に徳間書店は時を置かずにその本についてのサイン会を企画したのです。小説の舞台であった横浜の港が見える丘公園にある「大佛次郎文学記念館」で、かなり多くのファンとの交歓会を催したりしました。


 この頃の私としては、いくらでもものが書けるというエネルギーに満ちた時代であったこともあって、実にごく自然の流れの中での作業であったのですが、今となって考えてみると、とてもそんな悠長な話として済ませてはおけない問題が漂ってしまったのです。勿論私にはそんな気配があるような雰囲気は見せませんでしたが、角川書店ではその徳間書店の参入にかなり刺激を受けてしまったようで、「エプリル・シャワー物語」と同じような青春物を書くようにいってきたのです。私はまったく抵抗を感じることなく、軽井沢を舞台に青春物語を書いてみようと思い立っていました。


 私にとっての軽井沢は青春時代からの憧れの地で、いつかいろいろな作家が集まって交歓会を開いていた軽井沢へいけるようになりたいと頑張ってきた経緯がありましたので、放送作家30周年という記念のパーテイを行ったのを境に、映像時代に蓄積した資金で、憧れの作家であった掘辰雄さんが最初に別荘を作ったところで、恋人の入院しているサナトリュウムヘ見舞いに通ったという釜の沢に、「宇宙皇子」を中心に原稿を書く場として山荘を手に入れたのです。


              「涼光山荘・全容」1.jpg 「素材・空を見なさい」1.jpg 「角川・ペパーミントシャワー物語」1.jpg


 


それから毎年夏になると、ここで休息を兼ねながら原稿を書くようになり、角川書店の編集者はもちろんのことですが、さまざまな雑誌社の編集者もここまで原稿を受け取りに来たりしていましたが、後はようやくゆっくりとする時間が持てるようにもなっていました。私は軽井沢の山荘へ行った時は、綺麗に澄んだ美しい夜空の星々の世界を眺めながら、それを率いている月神と対面していました。苦闘時代に仰いだ夜空とは違った達成感を噛みしめながら、ここまで辿り着くまでの私のさまざまな姿を見つめてきて下さった月神を、改めて見つめ直していたのでした。夜になると空を仰ぐことが習慣になっているのはそのためです。どうもぎらぎらと輝く太陽よりも静かな月の静かな姿に惹かれてしまいます。


この頃から私は時間を見つけては一人で山荘へ出かけて原稿を書きました。「ペパーミント・シャワー物語」はそんな状態で書き上げたものです。


 実業界で頂点を極めたある男性が、若者にひと夏の楽しい思い出作りをさせようと考えて、毎年彼の広大な別荘へ泊りに来る若者たちに呼びかけて、男女それぞれ40人の若者を募集して「男組」「女組」と別れて、ひと夏をそれぞれが工夫したカフェで働きながら青春時代をどう生きるのかを実践して貰おうという試みを行うことになりました。寄宿所は提案者の広大な別荘ですが、店は軽井沢駅から真っすぐに伸びている新軽井沢の大通りを右左に分かれて、「ペパーミント・シャワー男組」と「ペパーミント・シャワー女組」というそれぞれが工夫したカフェで、日給1万円という条件で働いて貰おうというのです。しかも夏の終わりには、オーナーから特別に口には出来ない特別料理をプレゼントするという提案もありました。若者たちはそんな条件のもとでそれぞれどんな工夫をしながら、どのくらい楽しく豊かなひと夏を過ごすことになるかという実験でもあるのです。「ペパーミント・シャワー物語」はそんな小説でした。


 ここで「ペパーミント・シャワー物語」の締めくくりとなる、口には出来ない特別料理というものがどんなものであったかを種明かしをしておきます。軽井沢の中心地には離れ山という小さな山があるのですが、そこを避暑客の外人たちは昔からテーブル・マウンテンといっていて、夕日がその真ん中に堕ちてくるのが如何にもテーブルへ特別料理が載っているような絶妙な光景になるといわれているところなのです。


オーナーはこの瞬間を若者たちにプレゼントしたという結末です。


このころの作業としては、兎に角依頼を受けた時に余裕があれば、抵抗感もなく受け入れて作業にかかれる状態であったこともありましたし、青春物については興味ある世界の話でもあったこともありましたので、徳間書店の仕事が完全に終わったあと続編の話はきていませんでしたので、角川書店からの依頼があったのをきっかけに、前述の二冊を連続的に書いていたのです。しかし今となって思い返してみると、この頃の両社はとても平然としていられる状態ではいられなかったのではないでしょうか。角川書店は兎に角勢いに乗っていましたから、私については他社で書かないように寸暇を開けないように動いていたようです。その頃から徳間書店以外の会社からも、かなり私に接触を求める打診が角川書店に入ってきていたようで危機感があったのでしょうか、これまで直接の担当ではないベテラン編集者も私の作業に入ってきて、今回の青春物の執筆を依頼してきたものでした。兎に角角川書店は藤川作品のすべてを独占してしまおうという態勢になっていたのではないでしょうか。それほど社内の雰囲気は、正にイケイケという勢いに乗った状態になっていたのです。


兎に角徳間書店から「エプリル・シャワー物語」を出した同じ1986年6月に、角川書店は「ペパーミント・シャワー物語」を六月に、つづいて「メープル・シャワー物語」は十二月に発売しました。


                                                    「角川・メープルシャワー物語」1.jpg


 過去にいまわしい傷を背負い、未来を失ってしまった女性がやがてアメリカから帰国するのですが、やがて同窓会で出会ったのが、京都の料亭で修業している同窓生でした。二人はやがて苦難の青春時代に夢を拓いて近づいていくというお話でしたが、明らかに徳間書店で青春時代を背景にした「エプリル・シャワー物語」の続編を書かせない態勢になったようです。


天上編の宇宙皇子が出た頃から、私を取り巻く環境にはじょじょに変化が表れてきていたようでしたが、私は兎に角書くことに夢中でしたから、私を巡る他社の関係についてはなかなか厳しい空気が生じていたことについては、ほとんど判らないままでした。しかしそれがやがてそうしたものは、現実のものとして表面化してしまうのです。それから数年後の映像関係の新年会でのことでした。


(ああ、これはあの時から噴き出しつつあったことだったのだな)


はじめて現実の社会ではまったく気が付かないことが進行していたのに気が付いたのです。その時の衝撃的なお話は、その時がやってきた時にお話することにいたします。


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思い出作品の部屋☆ 思13「角川文庫100万部表彰」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」新書版の地上編の十巻が完結したのは1988年9月でしたが、この間にファンクラブが結集されたり、第一回の体験ツアーが行なわれたりして、「宇宙皇子」の人気は一気に頂点へ向かって行きましたが、そんな中でじっとしていられなかったのは、テレビ時代からわたしと縁の深かった徳間書店です。「宇宙皇子」の第六巻が発売される直前に、若い人に向けた小説である「エプリル・シャワー物語」を出版しました。しかも時を置かずにサイン会まで用意して、小説の舞台になっている横浜の港が見える丘公園にある「大佛次郎文学記念館」へ読者を集めて映像化に向けたキャンペンを行ったりしてきたのです。これは角川書店には大変刺戟になったように思われます。勿論あの頃の私はそんなことまで考える余裕はありません。仕事の依頼を嬉しく頂いて、やれる限りのことをしようとしていただけです。しかし時をへて今日まで時代を重ねてくると、これまで見えなかった世の中の経緯がいろいろと見えてくるものです。あの頃のことを思うと、徳間書店が私に青春小説を書かせてきたことはかなり刺激的であったようにおもえるようになりました。それから二年もしない「宇宙皇子」の天上編の第三巻目を前にして1986年10月に、徳間書店の青春小説に釘をさすように、角川書店は地上編の宇宙皇子を文庫化して発売し始めたのです。これまでの新書版よりも廉価で手に入れられるようということもあったのか、それとも表紙のイラストが新しくなっていたためか、第一巻から大変な売れ行きになりました。


 それから暫くして1987年(昭和62年)12月にまだ文庫の六巻目を出したあたりだったのですが、角川書店からある案内状が届きました。これまで私の図書で文庫版になったものが、大変早いペースで100万部を突破したので表彰したいということです。文京区の高級レストランに招待されて、角川春樹社長から表彰されました。


こんなに早く100万部を達成した人はいないということのようで、大変嬉しい報告でしたが私にはまったく見当がつかないお話でした。


 社長自ら感謝状と、賞金が渡され、記念のブロンズ像が渡され、


                                    「角川感謝状」1.jpg       


         「宇宙皇子100万部突破表彰謝礼」1.jpg 「宇宙皇子100万部突破表彰銅像」1.jpg


 社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


社長はまだ出版界の様子に慣れていない私のために、図書の奥付に記されている、版数・・・つまり何版となっているかということについての、ほとんどの人に知られていないからくりと言うことについて教えて下さいました。


 あの版数が必ずしも正確なものではなく、会社によってはやたらに多い版数を刻んであるものがあるけれども、それは本来の実際の売れ行きとはならないものが多いということです。私が関係した図書の場合にも、十版を越えるものがあるのですが、その出版社では千部売れても一版と数えれば、十版といっても結局は一万部ということになりますが、角川書店の場合は、五万部で一版と数えるというのです。当然ですがこういう計算だと、二十版というと十万部ということになります。


 それを伺ってから、奥付の版数によってその図書の判断をすることには、いささか問題があるということを知りました。


 こんなことが縁になって、社長からは毎月軽井沢の別荘へ招待されて、さまざまな方との出会いも作って頂きましたが、社長が大事にしていた神仏への祭りにも参加させて頂きました。


 年が変わって1988年(昭和62年)になると天上編の宇宙皇子は三月に第七巻目「めぐり逢い、輪舞」が、第八巻目「落葉帰根の詩」が五月に、第九巻「さらば、いとしの客人」が六月、第十巻目「珍(うず)皇子(みこ)よ」が九月に発売になりました。


      「天上編・7」1.jpg 「天上編・8」1.jpg 「天上編・9」1.jpg 「天上編・10」1.jpg 


 同じように地上編宇宙皇子の文庫も七巻目が三月に、八巻目が八月に、九巻目が六月に、十巻目が七月に発売されて完結しました。


      「天上編文庫・7」1.jpg 「天上編文庫・8」1.jpg 「天上編文庫・9」1.jpg 「天上編文庫10」1.jpg 


 この七巻、八巻、九巻、十巻という宇宙皇子は、天上編ということで一つのシリーズが完結することになったのですが、その十巻目の作品については、私には生涯忘れることの出来ない別れとの遭遇をすることになってしまったのです。話が長くなってしまいますが、私が大学を出て間もなく、就職をあきらめて作家を目指したいと申し出た時のことです。作家の世界の厳しさを熟知していた父の怒りをかってしまって、家を出なくてはならなくなってしまったことがありました。それから十数年という間口もきいてくれない断絶状態があったのですが、長いこと絶遠状態にあった父も「宇宙戦艦ヤマト」のヒットや「宇宙皇子」のヒットという私の活躍を知って、ようやくかつての勘気を解いてくれ始めたころのこと、非常に元気はつらつとしていたはずだった父も喉頭癌を患って次第に体調を崩してしまい、やがて気持ちの張りを失ってしまって記憶障害が始まり、私の親友が院長である病院へ入って貰っていたのですが、次第に記憶は薄れて体調も衰えていってしまいました。


この本については、宇宙皇子が苦闘しながら、やっと自分の父と思われる天上の神と出会うのですが、その宮殿へようやくたどり着いて、彼が生まれたいきさつについて聞き出したかったのですが、必死で宮殿内へ飛び込んでいこうとする宇宙皇子に対して、父たる神は厳しく「まだ早い」と言って突き放されて地上へと戻されてしまうのです。


私にとっては、この別れこそが、実の父との別れの光景と重なり合っていたのです。


1989年(平成元年)2月3日。父は喉頭がんを患って療養中の医院で体調を崩し、一気に回復不能状態になってしまい、ほとんど言葉もかわせない状態になって鬼籍の人となってしまいました。いろいろな行き違いはありましたが、ようやくこれまでの親子関係を取り戻したばかりだというのに、その絆を断ち切るように天界へ向かって行ってしまった父の姿を見ていると、いよいよ納棺という時は天界の父に会いに行った宇宙皇子が、門前で突き放されて、また苦界の現世に戻されてしまいましたが、そんな宇宙皇子と同じような気持ちになってしまって、出版されて間もないあの天上編十巻目「珍皇子よ」の本を棺に収めながら、涙を禁じ得ずに兄弟たちに囲まれながら号泣しつづけてしまったのでした。


 


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告知と放談の部屋☆ 放91「連作する馬力が必要」 [趣味・カルチャー]

 「宇宙皇子」シリーズのベストセラー化は読者の希望に沿うためか、それとも書店の希望によるものなのか、出版社である角川書店の希望によるものかは判りませんでしたが、兎に角よく売れましたが、地上編の第十巻目を1985年9月に出版した後で、1986年(昭和61年)6月に次のシリーズである天上編の第一巻「天界の異邦人」が発売になるまでには充分に時間がありましたので、私はかねてからお話のあった徳間書店の、「エプリルシャワー物語」という青春小説を執筆して4月に発売したのです。

ところがそのことが、私にとっては試練の時になってしまったのでした。


しかし残念でしたが当時はそんなことなどに気づくようなことはまったくありませんでした。むしろ二つの出版社から違ったジャンルの作品を出版できたことで、大変満足していましたし充足感でいっぱいでした。その後角川書店の「宇宙皇子」の「天上編」の一巻目の原稿も問題なく快調に書き上げてしまいましたので、徳間書店から依頼のあった「エプリルシャワー物語」のサイン会も快く受けたのでした。


まだこの頃は出版界についてはほとんど知識もない頃ですから、それぞれの会社から連絡をしてくれることについては、その依頼については真摯に受け止めて、やれるかどうかという判断をした上で判断した通りきちんと応えてきました。まったく迷惑を掛けずに、どちらの会社の依頼についても成し遂げてしまいました。


「宇宙皇子」の天上編「天界の異邦人」は間違いなく、予定されている日に出版されました。


                                           「宇宙皇子・天上編1」1.jpg


ところがこの時から角川書店と徳間書店との間には、密かに私を巡って激しい戦いが始まっていたようです。勿論あの頃そんなことにはまったく神経を尖らせている余裕はありませんでした。前述しましたが、私にはまったくそういうことについて神経を尖らせるほどこの世界についての常識についての知識がありませんでしたので、出版社から入る原稿の依頼にどう応えていくかということに必死だったのです。お陰様で締め切りを頭に置いて混乱しないように整理していましたが、兎に角各社からくるさまざまな依頼をこなしていくには、まず筆力を発揮できるのかどうかという問題があるということに気がつきました。どんなに仕事の機会を作って頂いてもそれを支障なくこなしていくには、先ず原稿を書くという肉体的な負担に耐えられかどうかという問題に直面します。もしそれに応えられないのであれば、一刻も早くお断りしなくては、先方に迷惑をかけることになってしまいます。仮に日常的な暮らしを犠牲にしてもいいというような決心はつけられたとしても、基本的に体力がないと作業をしつづけることは出来ません。


 その頃は私自身子供との対応は家内に任せて、私はほとんどかかわれなくなっていました。今になって思い返しますと、よくあの無茶苦茶な私の生活ぶりに耐えてくれていたなと思っています。しかしこの考えようもない状況に耐えて仕事に支障を生じないようにしていけたのは、私自身の驚異的な強靭さに支えられていたということがあったからです。


当時の写真を見ると兎に角痩せていて頬もこけていますが、肉体的にはかなり酷使してもそれで倒れてしまうというようなか細さはありませんでした。それだからこそ、来る仕事も来る仕事も喜びを持って挑んでいくことができたのです。最近になってつくづく思うことは、当時の無茶苦茶なスケジュールに耐えられたのは、ひとえに健康そのものであったということのお陰です。若い頃からテニスで鍛えていたことがよかったのかもしれません。


 


 ところが角川書店に異変が起こりだしたのは天上編の第二巻目の「戯女市の女」が七月に発売された後のことだったのです。


                                           「天上編・2」1.jpg


角川書店は新書版の地上編の十巻の文庫化を始めたのです。九月、十月に三巻まで発売してきたのです。どうして天上編が始まったばかりだというのに、前のシリーズの文庫化をし始めたのです。


 (こんなことをしてもいいのか)


 出版の理屈が判りません。


 


 しかし営業的な部署での授総部の判断であるということで、それに反対するようなことは出来ません。新たな文庫に関しても、まったく勢いは落ちませんでした。新書版の時と同じように売れていきます。当初心配した私もそれを知ってまったく気にするようなことがなくなってしまっていたのでした。


                       「宇宙皇子・文庫1」1.jpg 「地上編文庫・2」1.jpg 「地上編文庫・3」1.jpg


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  天上編の宇宙皇子第三巻目「天の補陀落恋渡海」は、ようやく11月に発売になって1986年は終わったのでした。


翌年の1987年は、天上編第四巻目「荒魂怨歌抄」第五巻目「天界千年戦☆陰の巻」第六巻目「天界千年戦☆陽の巻」が発売され、増したが、地上編文庫の次のような4巻、5巻、6巻が発売されたのでした。


                      「天上編・4」1.jpg 「天上編・5」1.jpg 「天上編・6」1.jpg


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文庫化は新しく話を書き下ろすということはありませんので、作家にとってはその分時間的なゆとりができますので、他に書くものがあれば、充分に書くことができますが、兎に角このような滅茶苦茶なスケジュールをこなしていくには、こうして作品を連作する体力がなくてはできません。特に大衆作品を書く人にとっては、それができるかどうかということが評価を決められてしまいます。それだけは自信を持って言い切れます。藤川には影武者がいるのではなどと陰口をきく者もいたようですが、あれだけ絶えず編集者が出入りしていては、とても影武者がたちいる余地などまったくないことは判ったはずです。若い時から夢をため込んでいることも、連作する大事なことだと思います。あとはその発表の機会を待つだけです。わたしはその機会と巡り合う幸運にも恵まれたということでしょう。どん底時代に巡り合った月とのめぐり逢いから、なぜか運の流が変わったように思えます。


 


 


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思い出作品の部屋☆ 思12「エプリル・シャワーと横浜」 [趣味・カルチャー]

  

映像の世界から転身する機会を模索している間に角川書店との縁が出来て、幸いにも「宇宙皇子」という作品がヒットして、その勢いに乗って活字の世界での作業を連打している最中のことでした。すでに「宇宙皇子」の地上編十巻の出版が終わりましたので、映像時代からのお付き合いの深い、その中でもテレビの放送番組に関する雑誌である「アニメージュ」とのつながりから、徳間書店から依頼された小説の執筆という話です。角川書店の作業に区切りがついた時でもあり、本来ならそれで暫く休息していてもいい状態だったのですが、書くということに意欲が高まっていたこともあったことから、まったく休息するという気持にはならず、これまでのおつき合いに感謝する気持ちもあって徳間書店の依頼を引き受けることにしました。


テレビ時代では、こんなものも書きたいと思っても、何か流行っている番組があると、大体それと同じような作品の執筆依頼がつづいてしまうのが通例で、物書きとしては大変欲求不満状態であったのです。そんな状態であったところに、放送界にも不景気が遅い襲いかかってきたのです。私はそんな機会に転身の機会を探し始めていたのです。


そんな時に縁を得て書いたのが古代歴史ロマン「宇宙皇子」でしたが、幸いにも好評で地上編を終わりました。もうその時次のシリーズは「天上編」ということになるということについては編集部へ伝えてありましたし、その第一巻の発売が来年の六月になるということもはっきりとしましたので、徳間書店から声がかかったのです。しかも幸いなことに、「宇宙皇子」と同じような古代史を背景にしたものをというような註文はありませんでした。そこで私は、かねてからいつか書いてみようと思っていた青春小説を書きたいと提案しました。編集担当としてやって来て下さったのが、テレビの人気作品であった「六神合体 ゴットマーズ」の、軽井沢でのスタッフの座談会を取材しに来てくれたこともある気心が知れたOさんという女性だったこともあって、私の提案についてほとんど反対はなく、構想についてはほとんどお任せして頂きました。ただその時私は、イラストレイターの選考についてはある注文をしておきました。映像時代では作画にいちいち注文を付けることは出来ませんでしたが、小説の挿絵である以上あまり筆力の落ちる方は困るので、青春を飾るのに相応しい絵の描ける人を選んで欲しいと注文したのでした。その間に私は早速提案した青春物に相応しい内容を煮詰めていました。


 実はこの頃私は横浜からデビュウして「結婚するって本当ですか」で大ヒットを飛ばしたダ・カーポとのお付き合いで、彼らが横浜青年会議所でのコンサートを行うことになり、その構成を受け持つことになったことがあったのですが、その時に紹介された青年会議所幹部の面々から、たまたま私がさまざまな映像作品のヒットにかかわっているということを知って、彼らは横浜を舞台にした映像作品が作りたいと思っていたので、何かいい話を考えて貰えませんかというお話になったのです。それ以来そのことは忘れたことはありませんでしたが、すでに角川書店でのヒット作品を連続的に書かなくてはならなくなってしまったこともあって、直ぐには青年会議所用の作品のことを考えることはなかったのです。ところがそんなところへ飛び込んできたのが徳間書店からの小説の執筆依頼だったのです。兎に角今は「天上編」を書くまでにかなり時間的に余裕があります。


 1986年4月30日発売の「エプリル・シャワー物語」は夢中で書き上げたのでした。


「宇宙皇子」を執筆しながらでも、当時は活力が溢れていて執筆が苦しいとか嫌になるというような気持ちにはまったくなりません。「宇宙皇子」とは違ったジャンルの作品が書けるということもあって、楽しみを持って書ききる馬力を発揮することができたのです。イラストについてもいくつかの候補から、私は太田慶文さんに引き受けて頂くことにいたしました。


大変品格のある美しい少女の姿に惹かれたのがきっかけでした。


                                             「徳間・エプリスシャワー物語」(1980・6・4)1.jpg


横浜の町の片隅に捨てられていた不幸な人生を生きることになってしまった赤ん坊を、たまたま発見してしまった高校生の男女が、その捨て子を放っておくことができなくなって、さまざまな障害を克服して面倒を見てやろうと動き出したのでした。あまりストーリーのすべてを説明することができませんが、もし映画化という計画が現実化するとしたら、その中心人物となって赤ん坊を育てることになる人のいい男子学生には、当時デビュウして人気を得ていた、剽軽もので明るく軽快な演技でも評価されている柳沢慎吾さんを起用しようと思ったりしながら、それらの作業は横浜青年会議所の方々にお任せして、私はもう角川書店の作業にかかっていましたので、「エプリル・シャワー物語」の映像化に関してはほとんどお任せ状態でしたが、その間に徳間書店も編集担当のOさんは、キャンペーンのために、サイン会を企画して下さいました。6月5日のことです。横浜大仏次郎博物館での読者との懇親会を開くことになったのです。横浜の港が見える丘公園にある「鞍馬天狗」などで評判の作家大佛次郎さんの文学館でした。


  「徳間・大佛次郎記念館・案内板」1.jpg 「徳間・大仏次郎記念館を望む」1.JPG 「徳間・大佛次郎記念館」1.JPG


紹介した写真は、今から31年も前のことですから、もうあの時集まってくれたファンのみなさんも、みな40代になっていらっしゃるはずです。今頃はどんな青・壮年気を迎えていらっしゃるでしょう。皆さんにとっても、それぞれの思い出に繋がる光景ですが、残念ながら一人一人のお名前も判りませんし、追跡して掲載の許可を取るということもできませんので、思い切って当時を懐かしく思いながら掲載に踏み切りました。どうかご了承下さい。


                    「徳間・ファンとの交流1」1.jpg  「徳間・ファンとの交流2」1.jpg


                           「徳間・ファンとの交流」1.JPG


残念でしたが、横浜を舞台にした青春物語は映画にすることは出来ませんでしたが、作中で活躍した登場人物たちは、今でも生き生きと存在しています。ヒーローになりそこなってしまった幻の柳沢慎吾さんもまだ元気な姿をテレビで拝見しますが、その度に私は幻となってしまった映画のことが思い出しています。


 みなさんとはコロナのために出会うこともできませんが、どうか元気でお過ごし下さい。


私も高齢にはなりましたが元気いっぱいです。まだまだ頑張るつもりでおります。


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告知と放談の部屋☆ 告11 「更新日変更の件」 [趣味・カルチャー]

                                                       「素材・原稿執筆中」1.jpg

  

来週の日曜日(20日)の更新は、都合により日曜日でなく土曜日(19日)に更新いたします。


 急な変更で失礼します。


 


 


                             藤川桂介


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告知と放談の部屋☆ 放90「体験ツアーで思ったこと」 [趣味・カルチャー]

  

はじめて体験ツアーが行なわれたのは、どんな時代であったかを考えてみたいと思います。1985年8月ということですから、もう一度36前を思い出してみませんか。恐らく現在50代から60代あたりの年齢にかかっていらっしゃる方々は、まだかなり記憶に新しいかもしれません。かつて時代の背景について書いたことがあったはずなのですが、兎に角時代自体が変わろうとして苦悶している中でしたので、大変落ち着かない激動している時代でした。恐らくブログをご覧のみなさんも、そんな時に青春時代を過ごしていらっしゃった方が多いのではないでしょうか。


当時は中曽根康弘総理大臣の統治が始まって三年目という頃で、世相は世界的な石油ショクという影響で、そのためにまったく落ち着かない、行き先の見えない混乱という状況にあった時代です。何もかもが新しい生き方を探って必死の時代でしたから、思いもかけない人間像を持った者が跳び出してきたりします。特に今回は若い人たちの集まったツアーの話ですから、当時の若者たちの中から現われてきて世間を騒がせた塊についてお話しますが、この頃話題になっていたのは、若者たちの群がり現象というものです。しかし当然ですが、そういった群れには加わらない・・・いや。加われない真面目で地味な性格の持ち主で、真面目に自分の向かうべき方向を探そうと努力する者たちもいたのですが、そういう人たちをあの群がり族たちは、「ネグラ」といって無視していました。自称新しがり屋で如何にも時代の先端をいっているのだと誇示したがる派手な者が多かったし、気に入らなければ学校でも家庭でも暴力をふるうという傍若無人という若者が激増していたのです。新時代の到来でパソコンが使われはじめると、そうしたものを得意になって新しがる若者が出て来たかと思うと、時代の急激な変化に対応できないでいる者も多くなるのですが、そんな若者たちを「ネアカ」とか「ネグラ」といって差別し合うようなことが起ったり、小中学では校内暴力やイジメが問題になったり、家庭内暴力を振るう者が現われたりする新人類が跋扈する話題ばかりの時代でしたので、その日ツアーで出会った若者たちは、一体どういう範疇に入る人たちなのであろうかと注意して見ていましたが、今回体験ツアーに集まった若者たちは、どう考えてもそれらの人たちとはひと味違っているように思えてなりませんでした。


目下話題になるような荒れる若者たちとはまったく縁のない、気持ちのいい仲間たちといったような集団です。どちらかというと時代の風潮には馴染みようもない若者に見えました。恐らく現在ブログをご覧いただいているみなさんには、そんな時代の混乱期に青春時代を過ごしてきたか、青春時代前期にあった方々であったかもしれません。


 私はそんな時代の若い人たちに向けて、「宇宙皇子」という運命的な誕生をして差別される若者が、そういう理由にならないものと戦いながら虐げられているものが安らかに暮らせる時代を求めて活躍する大河ロマンを考えましたが、その背景にはそんな時代を背負った運命の子だったのです。彼はたまたま起こった壬申の乱の最中に、神と農民の女性との間に生まれるのですが、彼が父と思う人は戦に駆り出されて戦ううちに、悲劇的な死を遂げてしまうのです。謎めいた運命の子の頭からは、なぜか頭髪の中から小さな角が現われていた。そのために「鬼」と言われて差別さる青春時代を生きることになるのです。


出版が始まると同時に思いがけない方から電話を頂きました。身障者の子が通う学校の先生からでした。生徒の中から、私と会いたいといっている者がいるというので、集会があったら行かせてやりたいというものでした。勿論私は講演会に招待して上げて、「宇宙皇子」の誕生秘話についての話をいたしましたが、彼は宇宙皇子が「鬼」と言って差別されるのに負けずに、そういった差別と戦う姿に共感するようになったということを知りました。養護学校の少年は、たまたま身障者として生まれてしまった運命の子です。それに対して現代のような理解が行き届かない時代です。さまざまな差別の中で青春時代を過ごさなくてはなりませんでした。何の配慮もない新人類に対して、彼らに代って立ち向かってくれるヒーローとして、宇宙皇子という存在を発見したのでしょう。彼には決して負けるなと励ましたことがありました。


私は「宇宙皇子追体験ツアー」というものを企画して、はじめて実際にその読者となった人たち・・・時代の影響を受けて暮らしている少年少女の実像を知ることになりました。彼らの現在を生きる若者としての姿を、夜のお楽しみの時間になって知りました。彼らを取り巻いている時代背景や、その影響を受けながら送っている青春時代の日常を受け止めることになったのです。大変素直で明るい若者たちは、七夕祭りの飾りつけを行い、ショートコントを演ずる様子を見ていると、出会った時の印象とはまるで違った姿を見るような気がしました。彼らはそれまで派手なパフォーマンスなど、とてもするようなことの出来ない者たちだと思っていたのですが、実際はそういった想像をまったく覆してしまう姿でした。「宇宙皇子」というヒーローを仲立ちにして集まった、同志たちと結集できたという安心感が生まれていたのでしょうか、とても大胆な自己表現をして楽しんでいたように思えました。


あの数日間の若者たちを見たり、接したりするうちに、彼らは今の置かれている状況に反発できずにいる、いわゆる群がれないでいる地味な性格の若者たちの姿を見たように思ったのです。彼らが普段発揮できないであろう派手なパフォーマンスが、この同じ仲間たちの中だけでは、思い切り発揮できたのではないでしょうか。お互いに宇宙皇子という差別と闘う若者と同じ思いに共感しあう、同志として開放的な気持ちを味わっていたに違いありません。「宇宙皇子」シリーズの勢いが出版する度に、ますますその勢いを増して行ったその背景には、彼らの共感を得た時代感覚を描き出したことになっているのではないかと思いました。熱烈な読者たちは、同じ時代の背景を持った同志として窮屈な環境にあった者たちであったのかも知れません。彼らがあのように開放的で何も遠慮をすることもない自己表現をして楽しむ姿を見ているうちに、閉塞状態にある環境から思いきり解放してあげたいという気持になりました。そんなことから私は、若者に自信を持って生きなさいといって激励するための呼びかけを書いてみようと思い始めたのです。


                                  「ぼくの青春論」1.jpg 「文庫・君が輝いて見えるとき」1.jpg


丁度その頃PHP出版からの依頼があったので、1990年10月には「僕の青春論」・・・という本を出版して頂きましたが、それから暫くして、もう一寸沢山の人に読んで貰おうという意図があって、同じ出版社から1993年5月に「君が輝いて見えるとき」とタイトルを変えて出版して下さいました。余談になりますが、この本の最期の「あとがき」に、私のいくつかの謎について面白く書いてくれたのは、最後の弟子としてすでに作家となっていた若き森川潤君でしたが、彼は現在教育者としても活躍していることをつけ足しておきます。


 いつの時代でもそうですが、新しい時代に直ぐに飛びついていける人、それらしく生きていける人がいると思うと、なかなか器用には生きられない人がいるものです。問題なのは、自分とは違った生き方をする人に対する思いを、「差別」という形で表現してしまうことがあることに気をつけなくてはならないでしょう。それぞれ違った生き方をしながら、それぞれの目標に向かって進んでいくのが人生です。何もかもうまくいくこともあり、うまくいかないままになってしまうこともあります。しかしそれはあなた自身が選んだ選択であったのかも知れません。兎に角そのどちらの道を与えられたとしても、それに負けないことです。あの頃の二冊については出来れば読んで頂きたいと思うのですが、かなり時間を経過しているので、もう手に入らないかも知れませんね。


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思い出作品の部屋☆ 思11「宇宙皇子体験ツアー始まる」 [趣味・カルチャー]

  

当時テレビでは、番組の支持者がこういう風に集まるというケースはよくあるのですが、恐らく出版物にこのようなファンが集まってくるということは、これまであまり聞いたこともありませんでした。そんなことから私は、彼らを担当の編集長A氏に紹介したのですが、彼もそんな読者に接した結果、彼の率いていた「あすか」の編集部の一部をFCの拠点として、会報の編集などに使うようにと貸して下さったのがFCの始まりでした。


会員となることを希望する人々が次々と申し込んできました。やがて彼らには会報や会員証を送るための費用を会費として払って頂いてクラブを維持していくことにいたしました。勿論その中心と働く者はまったくの自弁です。


「鬼笛伝説」の0号が送り出される頃には、会員になることの希望者があまり多いということが判りましたので、この際そうしたファンを一堂に集められたらどんなにいいかと夢を見るようになっていた私は、「宇宙皇子」が作中で活躍する場へ読者も同じヒーローとなって歴史の世界を旅してみてはどうかという提案をいたしました。お陰様で角川書店には旅行を扱う部署もありましたので、それを扱ってくれるということにもなり、その夢の企画は現実的なものとなって動き出したのでした。それが「鬼笛伝説」0号の裏表紙に出された体験ツアーの呼びかけでした。その結果取り敢えずかってなかった「宇宙皇子体験ツアー」が現実のものとなり、第一回目の抽選で決まった200人という参加者と共に、1985年(昭和60年)8月6日~8日までの三日間行われました。会報もその報告を兼ねて、ついに正式な第一号が発行されるようになりました。それに従って角川書店としてもその活動を支援して下さるようになり、小説を担当する編集長のS・Aさんを筆頭に、ベテランのT・Yさん。Y・Tさん。そして若手のK・S君。T・Y君。R・T君も参加して協力してくれるようになりました。


念願の宇宙皇子追体験ツアーは会報の第一号となった「鬼笛伝説」で特集記事として紹介されることになりました。


                「会報・鬼笛伝説1号」1.jpg


      「宇宙・体験ツアー・1」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・2」1.jpg 「宇宙・体験ツアー・3」1.jpg


東京(二台)・横浜・大阪からバスで移動してきたファンたちは、金剛山の頂上にある駐車場で合流して、普段は出会うこともできない同じ宇宙皇子ファンとして出会うことになります。みなバスで来るのできっと疲れていたと思いますが、到着するとたちまち若者の活力を発揮していました。


写真はなるべく個人的に困ることにならないように集団中心のものにいたしましたのでご了承いただきたいと思います。


    「宇宙・バスで集結」1.jpg 「宇宙・金剛山頂で集結」1.jpg 「宇宙・緑陰講義」1.jpg


   「宇宙・遺跡へ向かう」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・夕食・」1.jpg


   「宇宙・揃ったかな」1.jpg 「宇宙・検討中」1.jpg 「宇宙・どうだ」1.jpg


   「宇宙・七夕コンクール」1.jpg 「宇宙・表彰」1.jpg 「宇宙・夜の講義」1.jpg


ツアーの参加者は、それぞれの地方からのバスに乗って、遠路はるばる奈良県の金剛山頂で集結して合流してから、我がヒーローの宇宙皇子が駆け巡った飛鳥の歴史の跡を探索する旅に向いました。言い出しっぺということもありますが、私は四台のバスを連ねて史跡を訪ねる度に、その遺跡の場が小説の中のどんなところに登場したのかとか、その意味と歴史的な意味につての解説をしながら巡るのですが、その他にすべてのバスを、移動する度に乗り換えて、車内で「宇宙皇子」の執筆にまつわる話、読者との出会いなどについての話をしながら旅をしていきましたが、ツアーから帰ったその日から、また直ぐに次の作品の執筆にかからなくてはならないので、これはかなり重労働の旅でした。


FCの世話役も会長を務めてくれたY・N君。主力メンバーの二人のT・S君。T・Nの君そしてY・Oさんなどは参加者の面倒を見るために参加しましたが、何かと私のかかわったイベントに協力して参加してくれていた弟子の脚本家K・T君。J・T君。そして親しい後輩の脚本家のS・T君が協力してくれていましたので、参加した人たちにとっても通常味わえない楽しみでもあったでしょう。


 兎に角炎熱の夏ですから、史跡、史跡へ移動しながら、なるべく緑陰を見つけながら小説とのかかわりについて説明をしながら強行軍をつづけました。夜は入浴、食事を楽しみ、それからは書く地域の参加者がグループとなって、宿が用意して下さった竹を使って七夕飾りのコンクールとなり、彼らがそれぞれ工夫した寸劇を演じたりして、やがてそれをゲストの参加者による審査が行われて賞を贈りました。


 「宇宙・サイン会」1.jpg 「宇宙・史跡での講義」1.jpg 「宇宙・全員集合」1.jpg


二日目は史跡めぐりをした後は、翌日は朝からサイン会です。いのまたむつみさんも大変だったと思いますが、そのあとまた史跡めぐりをしますが、その度に私は小説の宇宙皇子と史跡のかかわり方などを説明していきますから、まったく休息時間はありませんでした。夜は落ち着いたところで古代史についての簡単なお話をしたりしましたのでくたくたでした。三日目はほとんど帰途の準備ですが、一寸だけ立ち寄るところへ行った後は、それぞれの出発点へ向けて帰途について行きました。


この「宇宙皇子追体験ツアー」はそれから何回か行なわれるのですが、毎回予定人数をかなり超える応募者があったので抽選は大変でしたが、その度に行けなかった人たちも会員として登録してくるようになったので、当時のアイドルのファンクラブと比べても、それをはるかに越えた会員数を誇るFCとして、各方面からも注目されるようになっていったのでした。


やがてFCの拠点は三番目のところへ移転しましたが、日本歯科医大裏のハーモニ会館という千代田区九段北2-3-7の前川九段ビル (九段下)の賃貸オフィスという狭い作業所でしたが、それから何年もの間はずっとここで頑張ってくれたのでした。


最近でもその頃のことを話す機会があると、主力メンバーの人たちはみな口を揃えて、大変ではあったけれども楽しかったといってくれます。彼らにいとっても青春時代のいい思い出になっているのではないでしょうか。


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言霊謎解きの部屋☆ 言32 「ひとくち言霊」(多多良女(たたらめ))    [趣味・カルチャー]

                                                                                                                     「若菜イラスト」.JPG

   

女性の身だしなみについては、とても簡単には言えないような時代になりました。しかしお会いした時に、こちらが予想もしていないようなところに、さり気無く気を使っているようなことに気が付くと、とても嬉しくなることがあります。そんな時、ふと思い浮かべてしまうのは、古代の女性のたしなみのことなのです。


昨今は女性のなみについては、とても簡単には論評できなくなってしまいました。特にファッションなどについてはそうです。迂闊に論評などはできません。実に大胆で、奇抜なファッションを生み出してきたりしますから・・・。それに鮮度や、センスの新しさを感じることもあるのですから。しかしパフォーマンスとしては理解できるのですが、あまりにも行き過ぎと感じるようなものには、納得しかねるものも多くなってきました。価値観の違いによる違和感なのかもしれません。


昨今は男性、女性の中性化という傾向もあって、かつてのように男性は男性らしく、女性は女性らしく振舞うという風習が、大分薄れてきてしまいました。そのために、すべての表現が大胆になって、いわゆる恥じらいなどというものが、ほとんど感じられなくなってしまっています。そしてそれに同調するように、お互いがお互いを気遣うという気風が、すっかり希薄になってきてしまっています。お互いに行きすぎを改めないと、あまりいい雰囲気がなくなってしまうのではありませんか。


そこでですが、男女の性の差がはっきりとしていた時代・・・お互いに、その差を最大限に発揮して生きようとしていた頃のことです。


恋する男と女が出会う約束をした時など、女は大変気を使って出かけて行きました。約束の場へ向かう道すがら、女は小梅の花びらを口に含んでいったのです。それは口臭のために、相手に不快な思いをさせないようにという、ごく常識的な気遣いの風習だったのです。


現代のように、いい医薬品などがまったくない時代のことです。女性はこのような気遣いをして、恋する人と会おうとしました。古代の女性たちは、そうした不自由なところを解消するために、それぞれの知恵を使って、克服していました。


お金を出しさえすれば、すべて用意されてしまう現代の欠点は、工夫することを放棄してしまうということです。そのために知恵も萎えていってしまいます。そしてそれと同時に、恥じらいという感覚も失ってきてしまいました。電車の中で化粧をしたり、足を広げて座ったり、更にはものを食べたりしている人を見かけることがありますが、それが女性なのですから、言葉を失ってしまいます。


女性が人に会う時の心得として、多多良女を口に含んで人に会おうとしていた古代の女性を、妙にいとしく思えたりする梅の季節です。もう、古代の女性のような、心優しい気遣いのある女性に出会うことは、大変難しい時代になってしまったのでしょうか。


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歴史と旅する部屋☆ 歴4「中国取材・演出上手な皇帝たち」 [趣味・カルチャー]

  

「宇宙皇子」の成功で大変活動しやすくなった私は、古代日本と政治的にも文化の面でも中国大陸との接触は無視できないということを知ったことがきっかけで、是非その原点を知っておきたいという気持になって、古代日本にとって先進国として君臨していた中国大陸の統治をする唐国の様子を吸収しておこうという気持になっていました。兎に角北京へ行ったらその代表的な博物館へ赴いて、日本と関係の深かった唐国様子を調べたいと思いました。お陰様で「宇宙皇子」は営業的にもかなり貢献していましたから、当然のことで直ぐにも許可が出ました。おおむね自分の言ってみたいところを列挙して、その希望する史跡を書いて提出したところ、角川トラベルという旅行を仕切っている部署が、交通関係その他の手配を済ませてくれましたので、私は北京空港から市内の大きい飯店・・・日本でいうホテルへ着くと、直ちに編集のS君を引き連れて北京博物館へ向かいました。日本の常識からいえば首都の代表的な博物館ですから、ここへ行けばほんど目的は果たせると思っていったのです。ところが実際に行ってみて愕然としてしまいました。博物館自体はかなり立派に見えましたが、その内容に関しては愕然としてしまったのです。ここで中国の唐時代の歴史を調べて、日本とのかかわりを調べてから史跡を探訪すれば、宇宙皇子の作品に活かしていけると思っていたのですが、その期待はのっけからすっかりはずされてしまいました。二十世紀後半に起こった中国の歴史的な激変にほとんど無関心であったことによりました。中国は1976年(昭和51年)・・・ほぼこの時よりも10年前に、中国大陸を支配していた保守的な蒋介石将軍を支配者とした政権に対して、周辺の貧しい弱小地域の民兵を率いて戦いを挑んできた毛沢東・江青夫妻を指揮官とする共産軍が、激しい戦闘の結果、蔣介石一派を台湾へと追いやってしまって、毛沢東を頂点とする政権による共産政権の支配に変わってしまっていたのです。仮に政変はあったとしても、すでにそれから10年を経過していましたからすべては落ち着いていると考えていたのが大間違いだったのです。今は必死で新しい政権の統治を徹底しようとピリピリしている状態だったのです。


 私は「唐時代」の朝廷の様子が詳しく知りたかったのですが、現代の新政府は古代の朝廷は人民を苦しめる皇帝という権力者の時代だということで、古代の展示物はほとんど排除されていて、そこに出されているのは簡単な紹介が書かれている説明書だけでした。博物館内の展示はほとんど毛沢東が率いて攻め込んできた共産軍の進行状況や、どうやって蔣介石軍を大陸から追放して行ったのかといったといった、共産軍の勝利までの歴史が補トンです。ほとんど資料となるような図書を買うこともできませんでしたが、ついでにお話すると日本から輸入されている角川新書などは、表紙が刺激的で許せないというので、ほとんどのイラストが描かれた表紙ははぎ取られてしまっていました。そんな状態ですから、取材の目的であった古代の歴史についての資料はまったく手に入れることは出来ず、わずかに古代の三国志の政界での戦いなどに使われたという武器の、常に南を指すという羅針盤である指南盤というものを乗せた指南車を見つけたので、それを模型にして売っていたので購入してこられただけでした。最近はどうか知りませんが、さまざまな競技でその指導者を柔道指南とか県道指南とかいうのは、必ず南の方向を示すという指南盤からきた言葉です。


                             「中国・指南車」.jpg  「中国・指南盤」1.jpg


 こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。 


こんな状態でしたが、宿泊するホテルも大きなものでしたが、設備はほとんど昔の儘で、新しいものはまったくありません。日本へ電話をかけるにも、廊下に一台だけあって止宿するものの共用で、いちいち電話を繋いでもらうように交換手に申し込んで、部屋で待っているという状態のものでした。あくまでも1985年頃のことですが、それでも私には、当時の中国は日本と比べて100年以上遅れていると思ったものです。


 市民の暮らしもまだまだほとんど昔の儘で、とても新しくなったといえるようなものは見られません。S君と市内へ出かけた時には、街角ではじめて人民裁判というものを実際に見かけました。多くの人々に取り囲まれた中で、争いになっている二人の男が激しく自己主張をし合うのです。それに対して集まっている人民がどっちの言い分が正しいかを判定するのです。


 とても日本では見ることもないような風景を見ることもありましたが、予定されているタクシーで史跡の探訪に出かけた時にびっくりしたのは、まったく整備されない広い大通りを爆走するのです。しかもその間に青島ビールを瓶のまま飲みながらです。S君とひやひやしっぱなしでした。


 郊外に到達して万里の長城へ行った時には、流石に古代の戦いが想像できました。


                      「中国・山を回る長城」1.jpg 「中国・万里長城・攻撃壁」1.jpg


  古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


 


古来中国は匈奴という騎馬民族によってしばしば侵略されるというので、それに抵抗して戦うために築いた城壁が、取り敢えず観光施設としては解放されていましたが、こんなものを何年もかけて完成させる中国という国の国民性というようなものを感じました。


                  「中国・宮殿から見た庭」1.jpg 「中国・香炉の置かれた階段」1.jpg


北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。北京市内へ戻ってから案内して貰ったのが、皇帝の使っていた宮殿の様子でしたが、彼らはその宮殿から現れる時には、そこから下へのびて作られた階段のすべてに巨大な香炉のツボが置かれていて、それから香が立ち昇っているのです。臣下たちはその階段の下の下にいて、やがて合図の妙なる演奏と共にまるで天空から現れるようにして薫香に包まれた宮殿から現れるのです。皇帝は正に神々しい天空から現われる神のような姿となって臣下たちの目には映ったことでしょう。当時の中国皇帝が実に演出上手であったことは、天壇公園というところで皇帝が臣下たちに演説をするところも、岡の上のあるところから演説すると、その声は地上よりも高いところから聞こえてくるように響いて、丘の下に控える臣下たちのいる庭に聞こえたといいます。今もその場は残っていて、観光客がみなその場へいって試しています。皇帝たちの残した遺跡をいくつも見ましたが、彼らは自分を如何に偉大であるかを知らしめるために、さまざまなことを利用して神格化を演出していたのを知りました。


                     「中国・天壇公園」1.jpg 「中国・円丘の下」1.jpg


いろいろ紹介したいこと、紹介したいところはあるのですが、最後に日本から唐へ渡って、そのまま中国の朝廷に仕えて生涯を終えた阿倍仲麻呂の記念碑を見た時には、ちょっと複雑な気持ちになりました。きっと彼は夜を迎えると、故国日本の平城京の三笠の山に昇る月を思い出して、望郷の思いを噛みしめていたことでしょう。


                                       「中国・吉備真備記念碑前」1.jpg


残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。残念ですが今回は北京での取材を断片的に紹介しましたが、とにかく36年もの昔のお話です。何だか嘘のように思えるかもしれませんが、何もかも旧政権の痕跡を排除するのに必死であった、共産政権の姿だけが印象付けられた取材でした。


 


 


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