SSブログ

閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の一 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()

        為政者の課題・「伝統保護禁止の波紋」

弘仁二年(八一一)。嵯峨天皇は政庁を率いるようになって、数年後のことです。

 平安京が桓武天皇から始まったということは、ほとんどの方が御存知だと思うのですが、すでに皇統は平城天皇、嵯峨天皇と受け継がれてきているのですが、政庁を率いる公卿(くぎょう)たちは勿論のこと、官衙(かんが)で働く官人たちにも何方からの推薦を受けて官衙で働くようになっていることが多いのですが、即位して間もない嵯峨天皇はこれまでの人事の様子を調べた結果、改革の必要を感じて大胆な提案をされたわけです。

 これまで採用されている官人達は、ほとんど家柄はいいが年を食い過ぎた者たちが多いということを知ったことから、これからは若い才能のある者を採用したいと考えるようになっていらっしゃったのです。

そこで政庁の会議の席で、天皇は思うところを発表されたのです。

ところがそれに対して、列席していた公卿たちからたちまち反対意見が出されたのでした。

為政者・嵯峨天皇

弘仁二年(八一一)二月十四日のこと

発生した問題とは

 若い天皇の革新的な提案なのですが、その真意が納得できない様子なのです。これまでは平安京を開いた貢献者である祖霊桓武天皇と関わりのあった、由緒ある氏族の子弟がかなり多かったのです。そのためでしょうか年を経ていくうちに、彼らは高齢化してきているのです。それを知った二十四歳という若い天皇は、これまでのしきたりによる官人の採用に関して疑問を感じられて、その改革をしようと決心して率直に新たな施策を提案したわけです。

 孝徳天皇の時に置かれた役職が、建郡に貢献のあった人とその子孫が代々就任してきたが、その後採用の基準に才能を採用基準にして、譜代、家柄による任用を廃止しました。今後はそうしたしきたりを改めて、これからは実力のある若手を中心に採用することにするというのです。如何にもこれまでの天皇とは違った感性をお持ちになっていらっしゃる決断でした。ところがそれに対して藤原園人が進言によると、

「功績のあった者も子孫が受け継いで郡領となると、群中の百姓は老いも若きもみな信頼し、その郡務遂行の様子は、他の者が郡領となった場合とまったく異なっていました。しかし、偏に才能を基準として家柄を廃し、才能があっても身分が低い凡庸な人物を立派な門地(もんち)の者の上に置くようになった結果、群政は物情に合わず、訴訟の判決も納得されない者になってしまいました。このため公の観点からは人を救うことができず、古人にとっては愁ことが多くなるばかりです。そこで、伏して、郡司の選任に当たっては、家柄・譜第を先とし、譜第の人を起用できなくなった段階で、才能による任用を行うことを請願します」

と述べている。

ここまで書くと、私のような年齢の者には、就職試験の頃を思い出してしまいます。現代のことであるのに、まるで平安時代に逆戻りしてしまったのではないかという雰囲気であったような気がしてくるのです。そのまま

一応試験ということは行われるのですが、どの会社でも何らかの関係のある人が、そのツテを求めて入社していましたし、その人達によって生まれる社風に憧れて入社したりしていましたので、それぞれ社風がありました。しかもあの頃はどの会社でも終身雇用というのが社会的に常識であったので、安心して働いていたように思うのです。しかしそうした社会的な風潮も、激しい時代の転換期を迎えるようになっては、とてもぬくぬくとして生活をしていくことは出来なくなります。まさに嵯峨天皇がその頃の人事のあり方を見て、才能にある若手が必要になるとお考えになられたのです。まさに先年を越えた現代を見通した先見であったように思えてくるのです。

勿論平安時代のことでしたので、才能によって官人を任用しようという大胆な提案も、当時の社会常識ではなかったのですね。天皇の提案に関しては公卿たちのいい返事がありません。

これまで採用されている者の多くは、確かに祖霊桓武天皇との親しい縁を結んでいた家の子弟が多いので、彼らはかなり年齢が高齢化してきているけれども、そのしきたりをいきなり廃止してしまうと、伝統を引き継ぎそれを守るという作業が継続できなくなり、伝統の文化も継承できなくなるというのです。

これまでの権力者であったら、それも拒否して思う通りにされたに違いありませんが、しかしこの日の天皇は

これまでの為政者とは一線を画していらっしゃいました。

確かにこの請はまことに理に適っているので、これにより譜第を基準にして郡領の任用を行なえ。

改革を目指す天皇の勢いは削がれてしまいそうな事態でしたが、天皇はここで持論にこだわりませんでした。まさにここが、これまでにない画期的な為政者としての姿勢だったように思うのです。

為政者はどう対処したのか

朝廷を率いて間もない天皇にとっては、その勢いを失ってしまうような状況でしたが、今回の朝議における問題の提起をするに至ったある理由があったのです。異色の政治家である嵯峨天皇の登場を知って、世の中も何か変革を求めているのを察した式部省から、大学寮からの報告として次のような報告が行われていたのです。天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅(しょうちょく)によって、文章生(もんじょうせい)二十人を宮司の下級職員として、聡く賢い白丁(はくちょう)(公の資格を持たない無位無冠の男子)から選抜することになったのですが、今、学生らの才器を見ますと、若年時から勝れている者は少なく多くは晩成で、文章道から官人への出身となると、そろそろ白髪が混じる年齢になっております。人は賢く優れていても役に立たなくなっているというのです。つまり良家の出身者だけでは官人として役に立たないということなのでしょう。身分は低くても能力のある者を起用する必要があると訴えてきたのです。天皇はそれに共感されて改革を思い立たれたのです。しかしその精神の思いも、公卿たちの進言を平静に検討してみると、検討するのに値することに気が付きます。革新の気分にあった天皇だったのですが、それを焦り過ぎた先帝の間違いを思い出されたのです。改革もしなくてはなりませんが、それだけを目標に突っ走ったりすると、却って失敗するという教訓を得ていらっしゃったのです。天皇は思い切って自説、持論を引っ込めることにしたのです。そして次のような思いを述べられました.

「為政の大事なことは、状況に応じて適切な指導をすることだ。朕の目指す飾り気がなく、人情の厚い政治は、いまだ全国に及んでいないが、滅び絶えたものを再興しようという思いは、常に胸中に切なるものとしてある」(日本後紀)

改革と保守という二律背反という問題に直面されてしまうのですが、それでも天皇は徒に結果を焦りませんでした。いつかそれは現実の問題として浮上して来るに違いないとお考えだったのでしょう。この話題は決して古代の話に留まらないのではありませんか。

 正に現代が直面していることは、少しでもでも優秀な能力を持った若者の登場を、政治、経済、文化、どの世界でも待ち望んでいる状態です。それだけ時代の進展をリードしてくれる者が出てこないと、様々な世界での競争に後れを取ってしまいます。

 嵯峨天皇は古代では珍しい意識をお持ちであったと思えてきます。それまでの社会的な常識というものを、一気に変えてしまおうとする提案でしたから、それを押し通すことで、公卿たちとの間に亀裂を走らせてしまったら、いつか思い通りの官衙を作りあげることは出来なくなってしまうと考えて、敢えて自説を引っ込めたのです。

きっと内心ではかなり苛立っていらっしゃったのではないでしょうか。

 権力者であるが故に、よく自説に拘らずに我慢されたなと思います。私はこの時の天皇の姿勢に感心してしまいまいした。絶対的な権力者であったことを考えますと、その時に示された姿勢は、なかなか見せられないものであったように思えてなりません。

 

温故知新(up・to・date)でひと言

いつの時代でも若い人はこれまでのしきたりを押し退けて前へ進もうとするものです。しかしそのために大事にしていかなくてはならないものまでも排除してしまったら、大事なものまでも失ってしまうことになるのです。革新の進め方に工夫がないと、ただ反対意見に圧し潰されてしまうだけです。それらの人たちもやがては納得して従ってくれる時を心に秘めながら、努力を積み重ねて生きましょう。天皇も自らが提起されたことを一旦引っ込められるという処置を取られました。改革を急ぐあまり、周囲の者の信頼を裏切ってはならないという決断をされた結果でした。古来「藍田生玉(らんでんしょうぎょく)といわれて、名門から賢明な子弟が出てくるということが云われますが、「張三李四(ちょうさんりし)で、物事を完成したり、ものにしたりするには、それ相応に年月がかかるということです。世の中の変遷も厳しく、「高岸深谷(こうがんしんこく)ということです。高い丘が深い谷に変わり、深い谷が高い岸になるようなはなはだしい変化もあるということです。若者は意欲を持って、目指す世界へ一歩一歩着実に、時に大胆に前進していきましょう。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。