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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の三 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(三)

    為政者の課題・「老人・孤独人・寡婦への救済」

弘仁五年(八一四)になると、嵯峨天皇もかなりその異色ぶりを発揮していらっしゃるのですが、兎に角これまでの政庁の主導者は大変権力志向の強い存在であったのですが、今回は大胆に自らの親族に対して臣籍降下をしてしまうというという決断をされました。

そんなこともあって心身ともにお疲れになったのでしょう。六月にはお疲れになって、体調を崩してしまったりいたします。天皇はこれまでと違って、かなり民に対する気づかいをされる方でしたのですが、その方が厳しく管理をすることが出来ないということが判ってしまうと、その

政庁の行う救済処置を悪用して、貧しく困窮しているということを装う不埒な者も出てきます。

 どうも悪の種というものは、K古代も現代もありませんね。折角の政庁の配慮で、欠損を生じた庶民の日常生活を補助しようと、様々な形で援助する施策を打ち出しているのですが、どうもそれを悪用する者が、跡を断ちません。

 そんなある日のこと、右大臣藤原園人(ふじわらそのひと)は、こんなことを進言してきました。

 「去る大同二年に正月七日・十六日のせつを停止し、同三年には三月三日の説を停止しました。これは出費を抑制するため得下が、現在、正月の二節は復活し九月九日の説は三月三日節に準じては医師、復活しています。去る弘仁三年からはこれに花宴が加わり、延暦の頃と比較すると、花宴が一つふえ、大同のころに比べると復興して四節が行われていることになります。これらの節での禄支給により、官庫の貯えが尽きていますので、伏して、九月九日は節会とせず、臨時に文章に優れた者を選び、所司に通知して作詞させることを要望いたします。願わくば、節録支給を取り止め、大蔵の官庫の減損しませんことを」(日本後記)

 更にその人はこうも申し上げました。

 「去る延暦十年に天皇が交野に行幸しましたが、この時畿内国司による献物を禁止しました。しかし、年来この禁止令は守られていません。国郡の官人は必ずしも相応しい人物ではなく、貢献にかこつけてかえって百姓に負担をかけ、穏やかでないとの批判が止みません。伏して、今後一切貢献を禁止することを要望します。ただし、臣下が個人として供進することは禁止する必要がありません」(日本後記紀)

 そのいずれも許可されました。

 天災による被害がかなり広がっていて、そのための国の財政もかなり苦しくなっているようです。しかし本当に救済しなければならない人は救わなくてはなりません。

為政者・嵯峨天皇

弘仁五年(八一四)八月二十九日のこと

発生した問題とは

天皇は神祇官の勧めによって鴨川で(みそぎ)を行ったりされるのですが、それでも七月にはまた天災に襲われたりするのです。

 「六年ごとに班田することは、令条(れいじょう)田令(でんれい))で定められている。これより六年間隔で、諸国が一律に班田すべきであるが、大同以来疾疫(しつえき)が起るなどして、規定通りの班田ができなくなっている国が多い。通法の感点から、あってはならないことである。そこで、遅れて班田した国が六年の間隔を充たすのを待って、全国で一律に校田と班田を行え」(日本後紀)

 天皇は指示をしていらっしゃるのですが、この前にはすでに自らの身を斬る決心で、御子たちの臣籍降下などの決心を発表した後での政庁での指示です。天皇は更に、

「近江、丹波などの諸国では、年来旱害(かんがい)が頻発して稼苗(かびょう)が損害を被っている。禍福は必ず国司によることが判るので、今後日照りとなったら国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、(けが)汚すことのないようにせよ」(日本後紀)

 唐国では大変貞節な夫人が、無実の罪で処刑された後、旱魃に悩まされてしまうのですが、能吏百里崇(ひゃくりすう)が旱天の徐州(じょしゅう)刺史(しし)(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降ったと伝えられています。

禍福は必ず国司の人となりによると、天皇は唐国の史実を挙げながら、今後日照りとなったら、国司は潔斎してよき降雨を祈願して、暮らしを厳重に慎み、()れ汚すことのないようにせよと、地方の官人の心構えについて戒めたりなさいました。

 「朕は謹んで皇位に就き、天皇としての事業を引き継ぎ正務に励んで年月をへた。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七つの政治のよりどころ整えて、水旱の災害がなく、国司を励まして、仁徳と長寿の喜びが得られることを願ってきた。ところが年末春耕が始まり、開花の時期を待って、有難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝の間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい賜物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧尼、および六十一歳以上の老人、(かん)(夫を亡くした女)・()(独り者)・()(孤独で自活不能者な者)などの自活不能者の様子によって、あまねく物を支給することに心がけよ」(日本後紀)

為政者はどう対処したのか

 百姓が苦しいといっているのに、為政を行う者が、それを無視することはできないと考えられた帝は、左右京と畿内の今年の田租は、停止すると命じられるのですが、天候は不安定で、日照りが続いて難渋させられたかと思うと、今度は真逆に長雨がつづくようなことが起ってしまいます。帝はその度に伊勢の神、賀茂の神に使者を送って奉幣して安穏を祈りました。

 「朕は謹んで皇位に即き、天皇としての事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七政(しちせい)(七つの政治の拠り所)を整えて水旱(すいかん)の災害がなく、九農(きゅうのう)(古代中国の農業に関係する九つの官職。ただし、ここは国司)を励まして仁寿(仁徳と長寿)の喜びが得られ年来春耕が始まり、開花の時期を待ってありがたい雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝間(うねま)に穀物をのこしているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた。結果である。朕はこの喜ばしい贈り物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、(かん)()()(どく)で自活不能者に等級をつけて物を施給(せきゅう)せよ。あまねく支給することに心がけよ。そして、朕の意を称えさせよ」(日本後紀)

まだ即位してから五年というわずかな治世でしかありませんが、先帝とは違った為政の在り方というものを印象づけたくても、まだまだ何もかも整理しきれないことばかりです。国を統治する者としての課題も、あまりにも多い状態でした。まさにこれは現代的な課題でもあります。

 右大臣藤原園人が次のような進言をいたしました。

 「諸国が収納する官物については、納置(のうち)する倉の種類・名称を詳しく正税調(せいぜいちょう)に記載することになっていますが、国司は必ずしも適任者ではなく、国府に近い便郡(びんぐん)の稲は俸禄である公廨(くげ)に充当し、百姓に出挙する稲には遠郡(えんぐん)のものを充てています。このため遠郡の倉はありあまるほどとなり、交替の際には、遠郡と便郡の稲を通計することを行っています。このような事例は、出雲国に多く見られます。もし甲郡に貯積すべき稲が乙郡の倉に納められるとなると、帳簿上は全倉(ぜんそう)(鞍の貯稲穀に欠損が無いこと)となり不意はありませんが、出雲国では俘囚の反乱(荒橿(こうきょう)の乱)により全倉の倉が怪人となっています。伏して、今後諸国では帳簿通りにそれぞれの軍の倉にそれぞれの郡の稲を収納し、甲乙の郡で通計することを許さないよう要望いたします。帳簿と現実に収納されている倉とが食い違っていれば、実情に応じて科罰(かばっ)することを求めます。願わくは、朝廷にとり損害が少なく、人民にとり救いとなりますことを」(日本後紀)

 民の苦境には様々な問題があり、その解決のためには政庁としてその解決をしなくてはならないことがあると進言したのでした。

その進言には意味のあることを感じられた天皇は、直ちにその進言を受け入れて許可しました。

 天皇には臣下の進言であっても、その内容によっては直ちに動き始めます。こういったことは、現代でも充分に参考とすべきではないかと思われます。

 古代も現代もなく共通する問題は、如何に救済を正しく行うかということです。充分に調査をした資料を基に訴えを得た為政者は、現代でもその姿勢を古代と共にあるべきだと思います。

確かに救済を受ける者の中に紛れ込んでいる、偽りの困窮者がいるということも考えなくてはなりません。特に現代では充分に調査するべきです。そんな不埒な人間のために、真に救済されなくてはならない者が外されてしまったら大変です。収入の救済給付金の問題は、正にこのことと符号してしまうのではないでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

制度そのものについて、検討すべきことは速やかに行わなくてはならないでしょう。古来、そうした救済してやらなければならないといけないと誰もが認めるよう人々を、「鰥寡孤独(かんかこどく)といっていました。身寄りのない人々を云う。鰥は年を取って妻のない、おとこやもめ。寡は年を取って夫のいない女。未亡人のこと。孤は幼くて親のいない孤児。独は独り者。此の境遇にある者はみじめな境遇で、気の毒な人であるということです。それらの人々を「無告之民(むこくのたみ)」+ともいいました。未亡人、孤児などのように、どこにも頼る人のない天街孤独の人です。現代では未亡人だからといって、しょげ返って生きている人はないかもしれませんが、中には救済を必要とする人々も存在しています。自ら生きる努力を放棄してしまっている若者などは論外ですが、非営利で社会活動をする民間組織であるNPOというものがありますが、それでは満たしきれない人々が存在することも確かです。「貧者一燈(ひんじゃいっとう)」+という言葉がありますが、貧しい人であっても同じような境遇にある人を救おうと寄進して下さる人があります。それはたとえわずかであっても、真心が籠っていれば金持ちの多大な寄付にも勝っているものです。人のために尽くしてあげるということも、生きる力となるかもしれません。


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