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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑8 [趣味・カルチャー]

   「護符(おまもり)の効き目

超自然のさまざまな威力に対して、あまりにも無力な人間は、とにかく何らかの力に寄りかかって苦難から逃れようとします。勢いを得ようともします。

科学の進化が目覚ましい時代である現代においても、なぜか襲いかかる正体不明の不安から逃れようとして、さまざまな形のお守りを、密かに持っていたりしています。別にその威力を目の当たりにした訳でもないのに、それを持っていると心強く思えたり、勇気を持つことができたりして、生きてもいけたり、何かに挑戦していけたりもするものです。

神社、寺院へ行けば、これでもかこれでもかと言わんばかりに、さまざまな御守りを販売していますが、超科学時代の21世紀の現代ですらこんな有様なのですから、まだまだ知識も進化していない時代であった古代などでは、所謂現代では迷信だと一笑に付されてしまうようなものであっても、当時は本気で信じていて、それこそ身を守るために、いろいろな種類のお守りを持っていたのではないかと思います。しかし古代においては、魔性のものから身を守るには、神仏の力に頼らなくても、身近な女性の魔力を秘めた領巾(ひれ)などを腹に巻いたり、比布(ひれ)を肩にかけたりしましたが、旅に出るような時などは、女性からわざわざ魔力の籠った領巾を頂いて出発する男性なりいました

有名な話があるでしょう。

姉の忠告を聞かずに、比布をつけずに旅立ったヤマトタケルなどは、そのために妖魔に襲われて死んでしまったくらいです。

危険から逃れるために、果たして普通の人はどんなお呪いを唱えたのでしょうか。修験者から教わった、「臨兵闘者皆陣列在前」という九字の呪文を唱えて護身をしたりしましたが、ちょっとびっくりしたのは、「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」という呪文です。

         注連縄(神島)1.jpg

この律令というのは、古代の法律のようなもので、これを侵すということは、死に値するようなものであったわけで、その厳しさは民にとっては、実に恐ろしい存在であった訳です。そんな威力があったくらいですから、魔も寄りつかないに違いないと考えたに違いありません。民が如何に律令というものを恐れていたかという証拠です。そんな恐怖する思いが、とうとう護符にまでしてしまったというわけでしょう。

時を経るに従って、こんなことを書いたお札を家の前に貼ったりして、魔が襲って来るのを撃退するようになりました。三島由紀夫の、「潮騒」という小説の舞台となった神島の民家は、全戸「急急如律令」の呪符を玄関に掲げているということで知られていますが、右の写真はこの注連縄の後ろに、「急急如律令」と書かれるようです。しかもこの注連縄は一年中玄関前につけられているということです。奈良県田原本町では、「急急如律令」という呪文を彫った瓦を、屋根に載せるという風習があると聞いていましたが、ついに最近までこうした風習を残していたお宅がなくなってしまったということでした。

沖縄の宮古島などには、「石敢当」などと、石に彫られたものが、家の角などに立てられているのを見ましたが、これは危険なものがぶつからないようにという、お呪いだそうです。

         「素材・宮古島石敢當」.jpg

これも故事に因んだもののようですが、つい最近のこと、東京の自由が丘というファッションの町の一角に、この石のお守りを玄関の入り口にセットしてある家を発見いたしました。とても珍しいもので、ひょっとするとこのお宅は、沖縄の出身のからなのかもしれませんね。しかし同じお守りでも、現代人が・・・特に若い女性が持ち歩いているようなものなどは、まだまだ夢があっていいのかもしれません。一種のアクセサリーのようなものなのですから・・・。古代のそれは、生活に直結する切実なものだったのですから、決してないがしろには出来ないものだったのです。災いを払う方法がこれしかなかった時代なのですから、仕方がありません。切実な思いから身につけたり、家に取り付けたり、貼ったりしてきました。

果たして現代人は、本当にそれらの護符といわれるようなものの存在を、まったく無視することができるのでしょうか。 

いえ。人間はとても弱い面があるので、何かに守ってもらいたい、何かの力に頼って力づけられたいと思うものです。きっとどんなに時代は進化しても、こうしたお守り・・・護符の存在に無縁ではいられないのではないでしょうか。ふとそんなことを考えることがあります。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の二 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「民が豊かになれば国も貧しくならない」


弘仁十一年(八二〇)のことです。


嵯峨天皇は即位されてから十年近くたちました。


即位早々のことでしたが、平城上皇が内侍(ないしのかみ)に就任させた藤原薬子(ふじわらくすこ)が、平城上皇を再び復活させようとして再び都を平城京にするという所謂還都宣言を発してこられたことがありました。その時のことは、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で主催はお話しましたが、兎に角嵯峨天皇は大事になりそうな事件の発端を何とか素早い対応で一段落させることができたのですが、


平安京の建設に励むようになっていたのですが、まだこの頃平安京は未開発だったのです。民は右京南部の大湿原を避けて西北の一部に住んでいましたし、左京は鴨川の河原で住み難いし、現在の下京区一面は田園で、碁盤目の道もあぜ道に過ぎない状態であったのです。


そんな時代の正月早々に、親しく交遊される文武の王公や渤海(ぼっかい)国からの使節の朝賀を受けたのです. 


「周では公旦(こうたん)が周朝の基礎固めを褒賞されて、その子孫が七枝族(しちしぞく)に分かれて栄え、漢では(しようか)が功績を上げて礼遇され、一門から十人もの諸侯が出ている。藤原氏の先祖(鎌足)は、朝廷から悪人を追い払った(大化の改新で曽我入鹿を殺した)。これにより歴代絶えることなく放縦の封戸を支給され、総計一万五千戸となっている。藤原氏の者は白丁(はくちょう)となった以降も五世まで課税を免除し、これを代々の例とせよ」(日本後紀)


政庁を支える藤原氏を讃えると、天皇は五位以上の者と渤海使節と、豊楽殿で宴を催しました。そして天皇は渤海国の王の近況を問い、王について抱いていらっしゃることをお話になりました。


 「渤海国王は生まれつき信義を身に付け、礼儀をもって書している。朝廷に仕える蕃国(ばんこく)としての立場を守り、以前からの友好関係を継承して、雲の様子を観察し、風のさまを窺がい、誠意をもって使節を送り出した。使節は適切な時期に来航し、朝廷の倉がいっぱいになるほどの素晴らしい贈り物をもたらしてくれた。さらに前使慕感徳(ぼかんとく)らは船が難破して渡海出来なくなり、朕が一艘の船を与え、帰国させたところ、その恩恵を忘れることなく、前代のよき例に倣い、謹んで使いを出立させ、遠方から感謝の意を述べたのであった。ここに汝の誠意を思い、深く喜ぶものである。渤海国は大海により隔てられた遠方の地域であるが、朕には渤海を望み見て遠い国と思われない。施設の帰国に当たり贈り物を託す。種類は別紙に期した。春のはじめでまだ寒さが残っている。今息災である。汝の国内が平安であるようにほぼ意を述べたが、充分に尽していない」(日本後紀)


儀礼上の挨拶を述べて帰国させます。


発生した問題とは


 やがて異国から使節がやって来たり商人がやってきたりするようになると、官人たちの俸禄さえも思うようには払えないという苦しい経済状態でしたが、天皇は平安京を発展させようとしていらっしゃいます。


 先進の国である唐国の歴史からいろいろと学んでいらっしゃった天皇は、その結果辿り着いたのが、民が豊かであれば、国は貧しくならないという考えでした。しかし現実はかなり厳しい状況にあったのです。八年、九年と続く旱魃の影響もあったのですが、それでも天皇はさまざまな試練を受けてすっかり為政についても自信が生まれていらっしゃいます。その指導力についても臣民に浸透していくようになっていたのですが、この頃政庁にある者を苦しめていたのは、相変わらず天災による被害がかなり広範囲にわたっていて、官衙で働く者の給料の支払いにも苦慮していらっしゃったのです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁十一年(八二〇)四月九日のこ 


為政者はどう対処したのか


 現実には、昨年から人智ではどうにもならない天災がつづき、容赦なく力のない民に襲いかかっているのです。そんな様子を見るにつけて、


「天候が調和せず、穀物が実らず、家々に貯えがなく、人民は栄養不足で顔色の悪い状態である。一日の飢えは秋三月(みつき)の飢えに相当する。顧みてこれを思うと心中深く憐の気持ちを抱く」(日本後紀)


 


とおっしゃって、天皇は謙虚に自身の生き方を(ただ)して、天帝の下している試練に向かい合おうとしていらっしゃったのです。そんな中で天皇が考え出されたのは、極めて現実的な解決策でした。


それは農民の未納となっている調(ちょう)(よう)を免除するばかりでなく、未納で追徴不可能な租税や、昨年無利子で貸し付けられたものまで返納を免除したのです。しかしそれを行うには大変現実的な問題が横たわっています。


ところが天皇は上の者の利益を削り、下の民を優遇すれば、民の喜びは限りないはずであるとおっしゃって、その決断を覆しませんでした。


困難を伴うことは承知で、さまざまなことで税を免除するような施策を行っておられました。そのためもあって、国の蓄えは底をついてしまう結果になるのでした。


そんな中で天皇はこういって太政官たちを励ましたのです。


 「人民が富んでいれば国家が貧しいという例があったことはない。つとめて誠意をもって(のぞ)朕の意を人民が称えるようにせよ」(日本後紀)


これまでとてもそんな考え方に達した方はなかったのではないでしょうか。それだけ天皇は先進的な思考をお持ちだったと言えるのですが、その思いを述べるだけではなく、現実に実践していこうとされたのです。


為政に携わる者にとって大事なことは、どんな時にも言行位置している必要があるのではないでしょうか。現代の政界を見ていると、言葉面だけは実に心地よいものがあるのですが、実際の施策ではまったくそれが活かされないままであったということがよくあります。


現代でも起こりそうな話にも思えます。


ここで示されている現代的な問題は共に生きるという覚悟のことです。


その後この年の穀物の収穫も豊富になり、官人の俸禄も払えるように回復しましたが、天皇の姿勢は現代の我々に対してある示唆をしているように思えます。


政庁が行う場合は、ある程度成算があって行われるのですが、それでもその時の自然の情況によって、困難に襲われてしまうということになります。それは自然の回復を待って必ず回復するという希望は持てるのですが、現代で起こり得る問題としては、兎に角机上の計算では成り立っても、実際にその企画に仕掛かった時に、まったく計算通りにならないということがあります。保証もまったく望めません。それでも天皇は為政の責任者としての責務を果たそうと努めていらっしゃいます。現代の場合とは同一の線上で評価はできないと思います。


 為政を行なう者とそれに従う者という関係だけではなく、同じ星の下で暮らす者は、それぞれ痛み分けを行って、富める者からその収入を分けて貰い、それで苦しむ者を助けて生きようという気持ちの表明です。


 すべての人の平等を云いながら、次第に格差が広がっているといわれる昨今です。そんな時にこの嵯峨天皇の提言が活きてくるのではないかと思ったりするのです。


すべての人の平等を云いながら、次第に格差が広がっているといわれる昨今です。そんな時にこの嵯峨天皇の提言が活きてくるのではないでしょうか。


いろいろな事情で子供の面倒が見られない家庭の子が、自由にきて食事をとって学校や塾へ行けるようにと、昨今子供たちが自由に利用できる「寺子屋子供食堂」などというところがあちこちに設けられているのを見ると、古代に叫ばれた共存共栄の姿が、現代で活きていると思えるのは、嬉しいことです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 天皇の行おうとされたことは、現代でもまったく違和感がなく通用しそうなことではありませんか。しかしいくら先進の考え方を具体化するとは言っても、それが真に現実的なものとして採用されるかどうかが問題です。「子供庁」という構想が、真に意味のある役所となるのか、大変興味があります。いつの時代でも「暖衣飽食(だんいほうしょく)といって、贅沢な衣服と美味しい食べ物を揃え、ぬくぬくと着て、腹いっぱい食べる満ち足りた暮らしが出来るなら、まさに「活溌溌地(かっぱつはっち)といって、何かについてピチピチ跳ねる魚のように勢いがよくて、生き生きと元気になることは間違いありません。仮に今は辛くても暗雲の外に出れば、蒼穹(そうきゅう)(あおぞら)は広く、あたたかいという雲外蒼天(うんがいそうてん)という気分で、困難を乗り越え、努力して克服すれば快い青空が望めると思って奮闘できます。多少現実的な願望となる目標を生み出すことが、困難な立場にいる者たちを救うことになるという貴重な話であったように思えます。現代のさまざまな時代の変化で揺さぶられ続けている私たちにしては、必ずしもやがては回復するという希望的な観測は出来ません。現状を突破するには、兎に角前向きに考えて、困難を突破するための知恵と努力を積み重ねなくてはなりません。それがすべての決め手になるように思えます。



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