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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言8 [趣味・カルチャー]

      「大器晩成考」

 最近、とても気になることがあります。

 昔は社会的に成功した人を評価する時に、若い頃を振り返ってこう言いました。

「そういえば彼は若い時から才走ったところがありましたよ。まさに「栴檀は双葉より芳しだな」などと褒めたたえることが多かったように思います。

 その逆に、若い頃に「あなたは大器晩成型だね」と言われた時は、ほとんど褒め言葉にはなっていないことが多いのではないでしょうか。むしろ時間をかけてじわじわと才能を伸ばして成功するだろうという、地味な時間のかかる出世を期待した褒め言葉になっていたはずです。普通はなかなか若い人を励ます時などには使われないと思います。やはり褒め言葉として使われるのは、やはり「栴檀は双葉より芳しですね」になるでしょうね。

残念ですが私はその「栴檀」という植物の本体は見たことがありませんので何とも言えないのですが、調べてみるとどうやら仏教の中にそんざいしているようですね。つまり一種の香木であるようなのです。

 やはり素晴らしい人間は、やはり「若い時からその片鱗を見せているものだな」ということになるようです。果たして長い人生を生きてこられた人を評価する時に、その褒め言葉として的を得ているといえるのでしょうか。矢張り年配の方となる場合は、下手に使うとおかしなことになってしまいそうです。つまり若い時は「栴檀は双葉より芳し」で良かったのですが、その後時を経るに従って冴えなくなってしまって、「あまり芳しさが長持ちしませんでしたね」ということになってしまいます。勿論、第成功していれば、「やはり「栴檀は双葉より芳し」でしたね」ということになります。

矢張り相手が年配者である場合は、相手になる場合は、仮に派手な成功者でなくても、「やはりあなたは大器晩成の方でしたね」ということが最高の褒め言葉になるのではないでしょうか。

あなたはこのどちらのタイプに当るのでしょうか。

しかし人の最期の評価は、やはり人間には出来ません。結局神に評価を下して頂くしかないようです。

時代が時代ですから、何かにつけて讃辞を受けたいばかりに目立つことばかりを狙う若者が多すぎますが、それで人生の終わりにどんな評価を得ることになるのでしょう。

今がすべてだなどと、投げやりなことは言わないで、人生大事にしていきましょう。何か大事なことを欠落しながら積み上げる人生ではないことを、祈りたいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の三 [趣味・カルチャー]

      第三章「時代の変化に堪えるために」()


        為政者の課題・「流行は暮らしを変える」


今回は弘仁十年(八一九)ごろの話です。


 苦しいことに耐えながら、嵯峨天皇は三十歳を越えられてから、すっかり落ち着いていらっしゃるのですが、大変気になることがありました。


 この八年、九年に水害と旱魃(かんばつ)が起こってしまったために、その影響を受けて困窮した民は、飢えに迫られると必ず廉恥(れんち)の精神を忘れてしまうといわれつづけていたのです。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっています。官の倉は空洞化して、恵み施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収時に返済させることを予防いたします。こうすれば富者は自分の富を失う心配なく、貧者は命を全くする喜びをもつことができましょう」


(日本後紀)


 公卿の進言は許可されました。


為政にかかわる者からは、使いを畿内に派遣して、富豪の貯えを調査して困窮の者に無利子で貸し付け、秋の収穫時に返済させルようにしたいという要請があるのです。


公卿の進言は許可されました。


 しかし天皇は更にできることはしようとしていらっしゃったのです。


発生した問題とは


 公卿は協議した結果を報告いたしました。


 「倉庫令では『官倉の欠損分を責任者から徴収するに際し、納入責任者が在任中は本倉に納れ、離任している場合は転任先ないし本貫(郷里)において納入することを認める』と定めていますが、いま畿内の国司は偏にこの条令により、納入せねばならない欠損分をみな転院先の外国(畿外)で填納(てんのう)しています。(日本後紀)


ところで、畿内は京に近接していて、そこの稲穀は京に関わるさまざまな用途に費用されています。それだけでなく、稲の値段を見ますと、畿内と畿外で大きく相違し、畿内のほうが高値となっています。このような事情がありますのに、畿内で失われた分を畿外で填皇するのは、誠に深刻な弊害となっています。伏して、今後は畿内の欠損を畿外で()め合せることを停止しますよう要望いたします」(日本後紀)


 勿論その申し出を許可しました。


 天皇はそのような指示を与えたり、またある時には、


 「安芸国は土地が痩せていて、田の品等は下下である。百姓は豊作であっても貯えを有するに至っていない」(日本後紀)


 とおっしゃって、税の取り立てを薄くしたりいたしました。しかしそれでも都の平安京では、都市開発が進められていたのでした。


「民を豊かにすることが国を発展させることになる」という信念のために、苦しい現状にはあっても、平安京の開発には手を緩めようとはなさいませんでした。


中国の文化芸術に心酔していらっしゃった天皇でしたが、先年大唐越州(だいとうえっしゅう)である周光翰(しゅうこうかん)言升則(げんしょうそく)とい者たちが新羅(しらぎ)船でやってきた時に、唐国についてお聞きになられると、光翰はこのように話ました。


 「私たちは長安の都を離れた遠隔地の者なので、京内での出来事を知りませんが、去る元和十一年(光仁七年)に円州節度李師道(えんしゅうせつどしりしどう)が兵馬五十万からなる精鋭を擁して、反乱したのですが、天子の第十一代皇帝憲宗は諸道の兵士を発興して討伐しようとしましたが成功せず、天下は騒乱状態です」(日本後紀)


 貴重な情報を得たのですが、目下のところそうした騒動もない国の情況にあることに感謝しつつ、遅ればせながら文化の唐風化を図ったり、国の大学寮の他に民間に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」のような学校を作ったりして、ある種の文化革命を進めていたのです。国賓のための迎賓館としても「鴻臚館(こうろかん)」を作ったりしていきました 


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)のこと


政庁は何とか町を活性化しようと知恵を絞った結果、唐国の長安の市を模して、千本通りを左右に挟む、六条付近の左京に「東の市」「右京に「西に市」を開いたのでした。これまでも大化前には軽市(かるのいち)海石榴市(つばいち)などというものがあって、町の賑わいを生みだそうということは行われていますので、平安京もそれにならって何とか活性化を図ろうとしたのでしょう。


為政者はどう対処したのか


一ヶ月の前半は左京側の「東市」、後半は右京側の「西市」で、それぞれ登録された商人が十五日ずつ、決められた品物を自由に売買できるようにしました。


市場の周囲は高い塀で囲まれていて、市の開閉には櫓の上の太鼓が「ドーン。どーん」とならされて、毎日午前十時から午後四時まで開かれました。そこには朝廷から派遣された監察官が詰めていて、高級貴族といっても帯剣したまま入場はさせません。市場の中では不正な取引も厳重に取り締まっていましたから、万一それに違反する者でもあれば、大衆の前で刑罰を科せられてしまいます。それでもやりたいことはやってしまうのが、人間の性というものです。古代も現代もありません。賭け事をして、乗ってきた馬を失ってしまう者、着ている衣を賭けて勝負に失敗して失う者、中には屋敷を失う者もいたといいます。万一それに違反する者でもあれば大衆の前で刑罰を科せられてしまうのですが、それでもつい手を出してしまうのが博打(ばくち)です。陰陽寮の者が何人も杖打ち八十などという刑に処せられたのもこのころでした。しかし高貴な女性が毎日市へ行かないと落ち着かないといわれるほどで、光孝(こうこう)天皇の皇后などは、毎日市場へ買い物に行かないと一日憂鬱になるといっていたほどでした。


こうした感覚は古代、現代の違いはないのではありませんか。市ではさまざまな物が売られましたが、その中の大事な物の一つが塩でした。瀬戸内で造られたものが、淀川、桂川、鴨川づたいに運ばれて、七条あたりで陸揚げされて運ばれました。現在でも残っている「塩小路」という通りはその頃の名残です。


日常の必需品はもちろんですが、女性にとってその時その時の目新しいものに触れる機会であったのです。そんな中で高貴な女性たちの興味を惹いたのは、商いのために通って来る大原女(おはらめ)がかぶっている市女笠(いちめがさ)というものでした。やはり決まりきったファッションではないということが受け入れられたのでしょう。ようやく十一年になると穀物がよく稔ったこともあって、官人の俸禄も払えるようになって、市も賑わいを見ることになりました。


 こんな企てというものは、その規模が違うだけで、現代でもよく見られます。


 様々な都市で大型のアウトレット・モールが開かれています。兎に角流行というものは広がり始めると、身分の上下は関係なく広く広がっていくようです。それは古代も現代もないようですね。そのきっかけとなるのは、多く人の集まるようなところが点火の始まりになりやすいようですね。現代ではそのあたりがコロナの広がりを生むところでもあるのは痛し痒しです。どちらにしても多く人が集まるところであることがきっかけとなるようです。


 古代ではこれまで高貴な人が使うものではなかった、庶民のものであった大原女の衣裳までが、市場でのファッションリーダーとなりました。


 現代でいえば様々な市町村の活性化のために建設されているアウトレットとかマルシェとか言われるものが、古代の市に当たるものでしょう。ファッションというものは、得てしてこうした沢山の人が集まるところから発生するようで、何といっても注目されるのは女性に関係するものではないでしょうか。


温故知新(up・to・date)でひと言


 そのためには何といっても、大原女の市女笠のように、高貴な暮らしをする奥方たちの関心を捉えてしまった、「斬新奇抜(ざんしんきばつ)であることが大事です。際立って新しく斬新な魅力に富んでいるものを開発すれば、たちまち人の目を引いて点火することになります。そしてその評判が口コミという伝播力で広がり、流行となっていってしまいます。しかしファッションのヒットというものは、何がきっかけになるか判りません。それが面白いのかもしれませんね。「雨後春筍(うごしゅんじゅん)といって、ひと雨降った後に沢山生え出る筍のように多くなるのですが、それが速くて勢いがあって盛んになります。しかしそれにしても、市のように人の集まるところには、困ったことも招いてしまいます。古来悪い木の陰には、しばしの間でも休むなということで、「悪木盗泉(あくぼくとうせん)ということが言われます。市ではいつか賭け事が行われて、誘い込まれて病み付きになってしまう者もいたのでしょう。いわゆる盛り場には充分にお気をお付け下さい。一夜にして栄華を極める者もいるでしょうし惨めな境遇に落ち込む者もいるはずです。現代では、目下進められているカジノを含む総合型リゾート(IR)実施は見止められて入るのですが、一向に進められたという状態にはなっていません。真に活きたものになるかどうか、それを享受する人間たちの心構えが大事になるかもしれません。



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