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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の二 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した指導者であるために」(二)


        為政者の課題・「状況に応じた指導をすること」


 まだブログは始まったばかりですから、はじめてお付き合いする方もいらっしゃると思いますので、今回のシリーズについての概要についてもう一度説明しておきたいと思います。


 今回のブログのシリーズは、弘仁(こうにん)元年(八〇九)から天長(てんちょう)承和(じょうわ)十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代


を扱う、探段のための素材です。


為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。


 そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。


本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思ったのですが、今回は取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためなのです。


取り上げた素材に秘められている問題に、現代の問題として考えて頂きながら、楽しんで頂こうという試みが秘められているのです。


一話一話をその頃の現実として受け止めて下さい。


そこで今回取り上げたのは、弘仁二年。(八一一)嵯峨天皇にとって即位から二年目のお話です 


為政者・嵯峨天皇


弘仁二年(八一一)二月十四日のこと


発生した問題とは


政庁が動き始めた時、嵯峨天皇がすぐに直面させられたのが、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥(みちのく)国一帯に勢力を持つ蝦夷(えみし)という民族との抗争問題でしたが、は改めて慌ただしく平城天皇から譲位され為政を受け持つことにさせられた時のことを思い出していました。


発生した問題とは


 平城天皇は即位してからわずか五年弱という短期間の治世でしたが、桓武天皇の信任が厚かった藤原の南家を背景にした実力者の伊予親王による、天皇に対する呪詛という事件が起こったのです。それを知った藤原の北家を中心にした政庁の中には、不穏な空気が漂い始めて、天皇は皇太子であった弟の神野新王に、後を頼まなくてはならなくなってしまったのです。


 親王は直ぐには受け入れませんでした。その間に補佐に動いてくれていたのが、北家の実力者である内麻呂の子の真夏・冬嗣という兄弟でした。二人は神野親王に被害が及ばないようにと庇いつづけてくれたこともあって、政庁の空気が治まりつつあり、ついに大同四年(809)の四月に譲位という形で為政を受け継ぐことになったのです。嵯峨天皇はまだ二十五、六歳という若さでした。


 主力となった藤原北家の後押しがあったこともあって、政庁での手足を受け持って動いてくれるのに助けられて、為政の責任者としての務めを果たすことができるようになりました。


それだけに天皇は周囲への気配りもなかなか大変でした。兎に角古代の天皇の中でも学識経験者の中でも、かなり政治家としての見識の高い英邁の士として評価の高い天皇です。様々ことでの気遣いがあったと思われるのですが、国を率いる者として実に先進的な発想で災害に対処されましたが、ようやく動き出した時に、ぶち当たったのが


、飛鳥・平城時代から引き続いている厄介な問題の一つであった、陸奥(みちのく)国一帯に勢力を持つ蝦夷(えみし)という民族との抗争問題だったのです。


 その鎮圧や防御のための砦の建設、騒動鎮圧のために財を費やしますし、武器の調達や兵士の多くの兵士を送ったりしなければなりませんでしたから、平安京とはかなり離れた遠隔の地である陸奥国での騒動を鎮めるためには、使う費用は大変な負担になる問題です。これまでの天皇はそれらの民族に対して、兎に角力による屈服をさせようと試みてきているのです。


政庁が動き出して間もなく起こった大きな問題でしたが、文人としての資質をお持ちであった異色の政治家であった天皇は、基本的にそうした異質な民族との問題を、ただ単に朝廷と対峙する相手を大きな力で抑え込んでしまおうと考えることはしませんでした。


彼等との間にある問題について、何が摩擦の原因なのかを知ろうとしていらっしゃったのです。しかしそれにしては、まだあまりにも為政に関わってから日が浅すぎます。天皇は暫く葛藤しなくてはなりませんでした。


正月に行われた朝議の席で太政官たちにこうおっしゃったのです。


 「諸国へ移送した蝦夷(えみし)らは、官が支給する公粮により生活をしている。そこで蝦夷らの子供たちにまで公粮を支給せよ。ただし孫には支給しない」(日本後紀)


 そして更に、


「状況に応じて適切な指導をすることが為政の要諦であり、時勢を考慮して良策を立てることが、済民のために本来なすべきことである。朕の目指す飾り気がなく人情に厚い政治は、未だ全国に及んでいないが、滅び絶えたものを再興しようとの思いは、常に胸中に切ないものとしてある」(日本後紀)


 為政に取り組む思いを話したのでした。


しかしまだこの頃は蝦夷との抗争が絶えず、そのための指示が度々行われなくてはならなかったのです。


為政者はどう対処したのか


三月になると天皇は、陸奥出羽按察使文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)、陸奥守佐伯清岑(さえききよしみね)・陸奥介坂上(さかがみ)(たか)(かい)・鎮守将軍佐伯耳麻呂(さえきみみまろ)・副将軍物部足継(もののべあしつぐ)らに次のような指示をいたしました。


 「二月五日の報告によると、『陸奥出羽両国の兵を併せて、二万六千人を動員して、爾薩体(にさちて)弊伊(へい)二村を征討することをご承認願います』とある。


要求した人数どおり動員して征討を行い、討滅を期せ。軍の力でのちに問題を遺さないようにせよ。


また三月九日の報告によると、兵士一万人を減員したという。将軍らは事情をよく考慮して報告をしたのであろうが、勦討(そうとう)作戦を進めるにあたっては多数の兵員が必要であるから兵士の減員には及ばない。将軍らはこの事をよく承知して、力を併せ意を同じくして作戦を完了せよ。


戦闘過程では、出羽守大伴今人が計略を立て、勇敢な浮囚三百余人を率いて敵の不意を打ち、雪中を進行して爾薩体の蝦夷六十余人を殺した。今人の軍功はすぐに知れわたり名は長く伝わった。又この今人は以前備□守に任じられたとき、河原広法と協議して、山を穿ち岩を破って大渠(だいきょ)を開設した。百姓は工事の意図が判らず、はじめ嗷々(ごうごう)たる非難の声を上げていたが、完成するとその利益を受けるようになり、やがて褒め称えて伴渠(ばんきょ)といった。古代中国で灌漑水路を開いた西門豹(せいもんひょう)であってもこれ以上のことはできなかったであろう」(日本後紀)


天皇は指揮のあり方を指示するばかりでなく、実践の指揮についても指示をしたりしています。その間にも為政についての指示もしなくてはなりません。


 「青麦を刈り、馬の飼料とすることは久しい以前から禁止している。ところで、今聞くところによると、『京や村里の百姓は収穫の時期ではないのに、麦を売却して非常時を切り抜けるための資としている』という。(まぐさ)として売却して得る収益は、実を収穫した場合の倍となる。秣として売却するほうが民に利益となるのであるから、どうして禁制する必要があろうか。今後は永く秣として売却することを許せ」(日本後紀)


 何でも禁止ではなく、苦境を突破するためには民の知恵でやれることは許可しようという大所高所の判断をしていらっしゃいます。天皇には更に解決しなくてはならない問題が控えていたからです。


 為政者にはどうにもならない、天災に対する対応についての指示もしなくてはなりませんでしたが、それ以上に気になっていたのは、異民族との抗争をどう収めようかということだったのです。正に現代社会が抱えている、異民族に対することについて、何を提起しようとしているのでしょか。


 現代の日本にはすでに様々な形で、異民族が入って来て共に暮らすようになってきています。それにロシアの侵略から逃れてきたウクライナの非難民という問題まで抱え込んでいます。平安時代からの提起とは言いながら、嵯峨天皇が取り上げようとしていらっしゃる異民族との接触の仕方については、決して無視できないものがあるように思われるのです。その典型的な問題の一つは「差別」ということです。古代に起こる蝦夷と朝廷の紛争にも似ていて、相手に対する理解に欠落するものがあるように思われるのです。


それぞれの人にはそれぞれの暮らし方、考え方、置かれた社会的な立場というものがあって、なかなか一律に片づけることが困難な時代になっています。すでに現代は異民族であっても共に生きていかなくてはならない時代になってきていのです。それぞれの人が、それぞれの人の生き方を理解し合い、受け止め合っていく努力が必要な時代になってきているということです。


古来すでに国内問題として、異質な民族との問題と直面することがあったということです。


 現代ではすべてが複雑化してきていますから、それだけに解決するためには、これまで以上に知恵と配慮が必要になります。しかも世界にはそうした異民族問題を国内に抱え込んでいる国がいくつもあり、その紛争からの難民問題に支援をするうちに、どうかかわるべきかで苦境に立たなくてはならないことがないとは言えません 


温故知新(up・to・date)でひと言


 


少しでもそうした状況を解消するために、「円転滑脱(えんてんかつだつ)ということが云われていたことがありました。物事が円く転がるように、自由自在に変化しながら物事が滞らないように、スムーズに進行できるように心がけていたのです。中でも為政者たちは、その指導によって、「千里同風(せんりどうふう)・・つまり千里の遠くまで同じ風が吹くという平和な状態であることを願ったものです。過日港区「八芳苑」で行われたアメリカ大統領バイデン氏の歓迎会の茶席にもこの掛け軸が掛けられていましたね。それは現代に生きる者すべての願いかもしれません。しかしそれには先ず、歴史の先人が指摘するように、お互いがお互いを理解し合うということが出発点となるように思われるのです。ただその時の都合で取り敢えず解決してしまうのではなく、真に解決に迎える第一歩としての前進を心掛けなくてはならないと思います。そのためには「階前万里(かいぜんばんり)というように、みなが目を見開き、心を開いて振る舞う心構えで、問題が何処にあるのかということを真剣に考えなくてはならないでしょう。それぞれが責任ある行動をする時であるように思われます。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑1 [趣味・カルチャー]

「そして誰もいなくなった」

 

 まるでミステリーのタイトルのようなお話になってしまいました。

 最近になって俄かに気が付いたことですが、昔は中学・高校・大学時代にお付き合いが多かったので、日常のあれこれから、お互いの情報を交換し合う機会が多々あって、会わなくても、電話をし合うか、コンピュウターかスマホなどで、簡単に相談事ができる状態で満足していましたが、年齢を積み重ねていく度に、その相手にしていた人たちが、ぱらぱらと欠けてくるようになってきたのです。

日ごろ鬱積していることを、気楽に吐き出せる雑談が出来なくなってしまったなと思うようになりました。

 もうしばらく前から、物書きの合間に散策に出て、町の文房具屋さん、魚屋さん。八百屋さん。書店の奥様と他愛のない日常の対話を楽しませて頂いていたのですが、生活のさま変わりということもあって、したしめた商店までも廃業ということで姿を消していきました。

町の日常の風景が変わるように、住まう人達も大幅に若い人に変わっていきます。日常のこと、社会的なこと、国際的なこと、心にかかることなどを気軽に吐き出して、思うところを話し合える機会がなくなりました。

 少なくとも七十代までは、そういったことを切実に考えることもなかったのですが、八十歳を越える頃になって、にわかに閑談の出来る知人、友人がいなくなってしまっているのをひしと感じます。

 熟年のみなさん。

 折角自由になる時間をお持ちになられたのですから、気楽な閑談を一緒に楽しみませんか。

 今回はそんな呼びかけからさせて頂くことにいたしました。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その一の一 [趣味・カルチャー]

      第一章 「卓越した為政者であるために」()


         為政者の課題・「災難の受け止め方」


 今回のブログのシリーズは、弘仁(こうにん)元年(八〇九)から天(ちょう)承和(じょうわ)十五年(八四二)にわたるほぼ三十年間は、政局も安定し、平安文化も華を開いたといわれていた時代を扱う、閑談のための素材です。


為政の責任者であった嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らしていた現実というものが、どんなものであったのかを辿っていると、なぜか我々が現在見つめて暮らしている現実と、重なり合うところが妙に多いということに気が付きました。同じ国の、同じ人々によって記録された生活の喜怒哀楽の姿は、本質的に古代も現代もないということを実感させられたのです。


 そこで・・・、ようやく自由になる時間を獲得された方々に、閑談の素材となる読み物として、提案をしたいと思って始めることにしたブログです。


本来は全体を編年体で書いた方が理解し易いとは思うのですが、ブログでは取り上げた問題の年代が、前後することが多々あると思います。それは章ごとに設定したテーマが決めてあるためです。取り上げた素材に秘められている問題に、現代を考えて頂きながら楽しんで頂こうという試みが秘められているためです。一話一話をその頃の現実の姿として受け止めて下さい。


 そのような訳で今回は、大同三年(八〇八)の、平城天皇の時代で、嵯峨天皇はまだ神野親王(かみのしんのう)と言っていた皇太子の頃のお話として始めます。


為政者・平城(へいぜい)天皇


大同三年(八〇八)五月五日のことです 


発生した問題とは


 平安京を作られた桓武天皇がほぼ十年で崩御されて、その子安殿(あて)親王が践祚(せんそ)して平城天皇となられたのですが、即位間もないこともあって、ひたむきな気持ちで民を率いていこうとしていらっしゃいましたが、お気の毒なことに、そのころ日本全土には疫病が広がっていて、そのために様々な問題が広がっていたのです。


 現代の日本では、飢饉(ききん)などという異常事態はほとんど起こりませんし、それによって生まれる死者が放置されるといようなこともありませんが、しかし平安時代の初期では、それが更に疫病を広げてしまう引き金になってしまうのでした。・・・。


平城(へいぜい)天皇は毎朝行なう、朝廷の大事な行事である馬を使って矢を射る、いわゆる騎射を停止しました。


どうも天下に疫病がはやっているためだというのですが、天皇には他にも情報が入っていたのです。


「大同元年に洪水が起きて、その被害から普及しないうちに先年来疫病が流行して、非業の死を遂げる者が多いというのです。人民の困難を顧みると、深く憐れみの思いが生ずるので、恩沢を施して彼らを慰めようと思う。そこで大同元年に七分以上の田が水害により被損したした者が借り入れている、正税稲(せいぜいとう)の未納はすべて免除せよ」(日本後紀)


このような指示が行われたところでした。


情報通りこの頃平安京では、朝廷の力ではどうにもならない飢饉が発生していて、そのために命を落とす者が増えていたのです。その亡くなってしまった人の処理が思うようにできなかったために、疫病が蔓延してしまって死者を増やすという結果になっていたのです。


朝廷内の行事を取りやめて、天皇は今起っている事態に対処しようとなさっていたのです。


子供の頃から、癇癖(かんぺき)とか風病(ふうびょう)いわれる精神的に不安定であっ天皇は、自らの体調の変化に悩みながら、必死で社会的な困難と戦っていたのですが、まず飢饉から暮らしを守るために税の軽減を行い、疫病による若者の死を食い止めたいという気持ちから、神仏の神秘の力に頼りました。こんな時の天皇の受け止め方としては、あくまでも自らの生き方に対して、天帝が叱責してきたのだという謙虚な受け止め方をされたようです。


為政者はどう対処したのか


天皇は十日の朝議の折に、こんなことをおっしゃいました。


 「朕が皇位に就いて以来災いの兆しが出現しており、近ごろ天下の諸国に飢饉が起き、疫病がはやり若死にする者が多い事態になっている。これは朕の不徳によるところであり、災いが人民にまで及んでいる。政治に当たり反省し悩むばかりである。政令や刑罰が本来のものでなく、上は天の心とは違い、だらしなく煩雑な政治を行い、人民に災難をもたらす結果になっているのではないかと恐れている。これらはいずれも朕の過ちである。


人民に何の罪があろうか。


詩経(しきょう)では『人民が疲弊した時は少し租税(そぜい)を軽減すべきである』といっている。そこで、畿内・七道の飢饉を言上してきた国の今年の調はすべて免除せよ。そして国司(こくし)自ら村々を巡行し、医薬を施し、併せて国分二寺(僧寺、尼寺)で七日間大乗仏教の経典を転読させよ。願わくはこの善行の効果が表れて、困窮した者が食料を得、徳を修めることが無駄にならず、さまよっている死者の霊魂も本来の居所である泰山(たいざん)(死者の集まる山)へ戻れるよう朕の意に()うようにせよ」(日本後紀)


 人為ではどうすることもできない天災であっても、わが身の至らなさと受け止めて、為政に向かおうとする姿勢が窺がえます。


ところが同じ十九日には山陽道観察使(かんさつし)の藤原園人(そのひと)が次のような報告を致します。


「山陽道の播磨(はりま)備中(びっちゅう)備後(びんご)安芸(あき)周防(すおう)の五か国は、去る延暦四年以降、二十四年以前の(よう)(ざっ)穀等の未進(みしん)が少なくありません。これは何年も不作がつづき、人民が疲弊したためです。しかしこれらを本来の課税品目のまま追徴するとなると、追徴のことに当たるべき未進発生当時の国司の中には死亡したり交替している者がいて実施することが困難です。人民は病や飢えで京まで貢納物を運び進めることができません。そこで伏して、未進はすべて頴稲(えいとう)で収納し、正税(しょうぜい)に混合することを要望します。こうすることにより、公にとり損失はなく、民においては好都合となります。ただし観察使設置以降の未進分については従来通りの庸品目や雑穀で収納したいと思います」(日本後紀)


天皇はそれに対して直ちに許可されたのですが、このようなことに直面したとしたら、現代の我々はどう対処するだろうか。


災害の連続で苦しみ、そのために発生する疫病のために命を失う者が多いというのです。少なくとも現代ではそこまで追い込まれることがないように対処するでしょう。自衛隊にも出動して貰って、様々な災害による被害を乗り越えています。その救済はかなり行き届いているとはいっても、様々な点での不公平問題があります。先ず、どんな人から救わなくてはならないかということで、多くの国民に理解して貰う必要があるかもしれません。


政庁にかかわる人々は、真に同情すべき人はどういう状況にあるのかということを、真摯に見つめて判断する必要がありますが、行う時には政党間の党利党略を排除して、厳然とそれを行うという決心が必要です。


古代の天皇ですから、予期せぬ災害に備えよなどおっしゃっても、そんなことが簡単にできるはずはありません。もしこういったことが参考資料として出されてきた時には、現代を生きる者としては、どう活かすかということを考えることが肝心です。


古代の天皇はそれらの災害がすべて、自らの至らなさを天帝が責めてこられたのだと受け止められて、真摯に果たすべき務めに励もうとされていらっしゃいました。


そんなことを現代の政治家に問いかけたら、組織と科学を動員して立ち向かうと答えるしかないでしょう。自己責任と感じて立ち向かうようなことはないと思います。


 


ほとんど答えにはならないということです。仮に旱魃(かんばつ)が起ったり、そのためで疫病が発生しても、それらは科学的な予知が不可能であったと釈明するだけで終わってしまうでしょう。絶対に自分は精一杯努力しているとしか答えないでしょう。とても天帝が咎めてきたなどとは言わないはずです。しかしこうした歴史の資料を読んだ時には、現代に生きる者として、その現象の中から何を学んでおくべきかということを考える必要があります。


温故知新(up・to・date)でひと 


 


先人は四字熟語でこのようなことを言っています。「曲突徙薪(きょくとつししん)といって、災害を予防することについてこうは、薪を煙突のそばから離れたところへ移すということです。つまり天災は防ぎようもありませんが、せめて自分の不注意から引き起こすことのないようにということです。心構えとしては確かにその通りなのですが、いつ起こるか判らない天災に関しては防ぎようもありません。何らかの疫病で亡くなってしまった死者について、それが広がらないようにするために、素早く火葬なり、土葬などをして処理をするということも考えられますが、しかしそれも生活にある程度の余裕がなければ、速やかに始末することもできません。多くの場合何か問題が発生した時になって、やっと大騒ぎをするということを繰り返しています。それは現代のコロナ騒ぎでも同じでしょう。「亡羊補牢(ぼうようほろう)という言葉の指摘することが心に響きます。逃げられてしまってから囲いを修理しても遅いという指摘です。事前に危険を感じることでもあったら、病魔の発生しないように事前に用心をしておく必要があります。危機を察知したら、兎に角素早く処置をしておくべきです。


 兎に角天災のような予期せぬ災害に出くわしてしまった時には、「抜本塞源(ばっぽんそくげん)という言葉があります。兎に角その根本の原因を突き止める努力をして、正しい処置をするということです。せめて現代を生きる人は、ただ狼狽しているのではなく、そのくらいの知恵は働かせなくてはならないでしょう。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ はじめに [趣味・カルチャー]

    「はじめに」

 現代は作家の生み出す物語よりも、変化の激しい現実の世界に身を置いて、ありのままの姿で生きる楽しみを抱いて葛藤しています。

 そんな時代にスタートさせるブログです。

これまで密かに書いてきた作品から、これが一つの方向を目指す読み物になるのではないかと考えて、取り上げることにしました。

 既に「おしらせ」の中で、これから書こうとすることの全容はお話してありますが、現代日本の現実と平安時代の現実とでは、かなり時間的に大きな開きはあります。しかし日本という同じ土壌で生きてきた人間たちの日常の暮らしの中の喜怒哀楽は重なり合うのです。

 私は平安時代でも最も安定していたといわれる弘仁(こうにん)天長(てんちょう)承和(じょうわ)にわたる三十年間の暮らしの姿を閑談の素材として取り上げてみました

その間為政を司っていたのが、たまたま古代史関係者からも評価の高い嵯峨天皇でしたが、あくまでも現実と戦う為政の資料として使わして頂くことにいたしました。

 ようやく自由になる時間を獲得された熟年のみなさんに、閑談の素材となるような読み物にしたつもりです。

平安時代でも最も安定していた時代とは言っても、まったく問題がなかったわけではありません。その一つ一つの問題を、知恵と努力によって乗り越えていった、先人たちの記録の一端です。

 一話一話にじっくり時間をかけて、おつき合い下さったら幸甚です。

 

                         藤川桂介


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☆雑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ 2 [趣味・カルチャー]

                   「原稿執筆中」1.jpg

 

 「新連載の全容を紹介いたします」


前回ですでにお話しましたが、今回は物語性を排除して、弘仁・天長・承和という平安時代の一番安定していた時代に天皇・民・百姓が見つめた現実と、現在我々が見つめて暮す現実とをすり合わせた時に、思いがけない発見があるということを知ったことから、自由な時間をお持ちになられた方々に、そんなことを閑談の素材にして楽しんでみませんかという提案をさせて頂くことにいたしました。


幸い古代には、その時その時の現実を見つめた、喜怒哀楽の思いが籠った歴史の記録が残っています。それを素材にしたお話をすることにいたしました。


タイトルも大胆に「嵯峨天皇現代を斬る」といたしました。


 一応平安時代で一番平穏な時代あったといわれている時代が、たまたま嵯峨天皇が統治していらっしゃった時代ではあったので、タイトルにも登場して頂きましたが、決して嵯峨天皇紀の物語を書くわけではありません。あくまでも統治していらっしゃった時代の為政の記録が、閑談の素材になりましたので利用させて頂いただけです。どうぞご理解下さい。


 使用した「歴史資料」は、時代の空気を感じて頂くために、極力原本に近い史書の記録を使うことにしました。しかし毎回の素材の取り上げ方については、時間的に前の時代の問題であったり、後の時代の問題でであったりいたします。それは私のある試みがあってのことですので、ご了解頂きたいと思います。構成は全体で十一章になっているのですが、そのそれぞれの章にはテーマに従って分けてありますが、それらについては、私なりの見解も添えてありますが、みなさんもそれぞれ提出された問題について、お考え下されば一興かと思っているところです。


 ブログには誰もが参加して楽しめる「閑談の部屋」を作りました。気楽に様々な閑談をしたいと思っていますが、それと同時に日常生活の中でさりげなく使われてきた、俗信とか民俗を紹介する「ちょっと気になる新言霊の部屋」を作りました。思い出に繋がる部屋にでもなってくれると嬉しいのですが・・・。


最期には締めくくりとして、毎回最後にはその日の閑談のテーマであったことに関係して、「温故知新」というコーナーを設けてみました。


その時その時に起こる社会現象に関して、先人たちがどんな感想をお持ちであったかを披露する「四字熟語」です。先人たちはどのような思いを述べられているでしょうか、参考までにお読み頂けたらと思います。


いよいよブログは「七月三日の日曜日」にはスタートすることになります。


原則的に毎週日曜日に更新するつもりでおりますが、文体も縦サイズで書いたのですが、これまでのブログの形に合わせて横サイズで送り出すことにいたしました。親しんで頂けるかどうか判りませんが、こつこつと書きつづけていこうと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。


 


つきまして、一つだけお断りしなくてはならないことがあります。


四月のブログで、「フェイスブック」でも読んで頂けるように研究してみたいと発表していたのですが、あれは撤回させて頂くことにいたしました。 多くの読者を期待するというよりは、私のブログを読んでみようと思って下さる方だけに読んで頂ければそれよいと考えるようになったからなのです。


新連載はこのSSブログのみでの発表です。


来週から皆様とお会いできるのを楽しみにしております。


 


                            藤川桂介


 


 


令和四年初夏


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ 1 [趣味・カルチャー]

                    「原稿執筆中」1.jpg


        「新連載についての前書きです」

 

長い時間お休みさせて頂いてきた、ブログを再開するお約束をした時が迫ってきました。


新しくスタートさせる企画にはどんなものがいいのかと試行錯誤を重ねてきたのですが、かねてから密かに書き進めていた作品から、現代の気分にそえるようなものということで、これまでの物語性から離れて、現実と向き合うことをテーマにした読み物にしようと決めました。


弘仁から天長・承和までの、平安時代で一番安定していたといわれる、ほぼ三十年に及ぶ為政を背景にした嵯峨天皇と民・百姓が見つめて暮らした現実と、我々が今見つめて暮らしている現実とを重ね合わせた時に、思いがけず重なり合うようなことが多いということに驚かされました。


もちろん現代日本が直面していることと、はるか千年も前に起こっていたこととでは、時間もスケールも違いすぎるという心配はあったのですが、二つの時代の現実という問題をすり合わせてみると、その本質についてはほとんど現代のものとも変わりがないことを知ったのです。


これこそが、自由な時間をお持ちになれた方々と、史書の記録を素材にした気楽な閑談ができる機会となったと思ったのです。


ブログの余談として、喫茶の時間にでも利用して頂けるような素材についても、いくつか寛げる準備もしました。


いよいよ来週には、全容の紹介ができるようにしたいと思いますので、そのお知らせをすることに板いました。


是非ご期待頂きたいと思います。


 


                           藤川桂介


 


令和四年初夏


 


追伸


 四月までやっていたブログの最終回で、次回のブログが始まる時には


フェイスブックでも読んで頂けるように研究してみたいと発表したのですが、その件につては撤回することにいたしました。


あくまでも読んでみようと思って下さる方だけに楽しんで頂くことに徹するためにです。そんな訳でフェイスブックでの公開はないということにいたしました。


 どうぞご了解下さい。


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