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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言4 [趣味・カルチャー]

「銀座ここにありき」

 歴史の流れからいいますと、東京というのは実に最近の都で、それほど古いという印象はありません。特に古代という時代を背景にした小説を書いてきた私にとっては、あまりにも新しい都でしかありません。しかしそんな新しい都である東京ではありますが、そんな中で多少歴史を感じるものを、銀座に発見いたしました。

 今や世界のファッション・ブランドが、軒を並べるように出店している銀座ですが、地名の原点がここに銀を生産する「銀座」があったからだということを知っていらっしゃる方はごく少ないのではないでしょうか。それにしても「○○銀座」と謳った街路は、日本中どこへ行っても商店街のあるところには「○○銀座」があります。それだけ銀座というところは、注目を浴びる街になってしまったのだということです。

はじまりは慶長十七年。江戸幕府直轄の銀貨の鋳造、発行所・・・「銀座」役所が置かれたところで新両替町と呼ばれていたところなのです。しかし通称は銀座町と呼ばれていたところで、当時はこの銀座をはじめ、伏見と駿府に同じような役所を設置したものでしたが、やがて京都と江戸に移され、大阪、長崎にも設置されました。

ところがやがて千八百年(寛政十二年)のことですが、不正事件が起こってしまったために、その四つの座は廃止されてしまったのですが、間もなく江戸一か所だけを再興したのです。

それが現在の銀座発祥の原点となったところだったのでしょう。

とにかくそんな経緯のあった「銀座発祥の地」の記念碑が、文房具でお馴染みの伊東屋の前あたりに建てられています。

          「東京・銀座」1.jpg

ほとんど行き交う人々は慌ただしく通り過ぎて行ってしまうだけですが、私も所用で出かけた折にふと気がついたというものだったのです。東京にとっては江戸幕府の拠点であり、都であった証ともなる、記念すべき貴重な歴史的な碑ということができるのではないでしょうか。銀座散策のついでに、ちょっと立ち止まって見るのもいいのではありませんか。

 さあ、銀座のお話をしたところですから、今度は金座のお話をいたしましょう。

 仕事の関係で、私は京都へ行くことが多かったのですが、小説の取材のためというと、どうしてもその時の執筆に関係するところを取材するということになってしまいます。かなりいろいろなところへ行きましたが、仕事で取材するということから解放されて、また別の目的で京都の街を探ることが多くなったのは、京都嵯峨芸術大学の客員教授として奉職するようになってからでしたが、その授業の中でも時に日本の歴史に関しての講義をすることもありましたので、そんな時のためにも町のあちこちを気ままに散策した成果です。

親しい教授の誘いで、思いがけないところへ出かけることもあるのですが、その頃開館して間もない通称マンガ博物館・・・「京都国際マンガミュージアム」がその一つでした。ま、これまでかかわってきたアニメーションという分野のことを考えると、まったく無関係というわけではありませんから、二つ返事で出かけましたが、もちろん今回の話の中心になる話ではありません。実はここを訪ねた収穫が思いがけない発見のきっかけになったのでした。

 この博物館はかつてそこにあった瀧池小学校が廃校になるのを利用して、そのまま博物館にリニュウアルしたもので、全体像はそのまま残っていて、校庭はそのまま庭として利用されていました。ただ取り壊してしまうよりも、大変にいいことだなと感動したのは、その校舎の裏手に回った時に、その道端にさり気なくひっそりと立っている、記念碑を発見したのです。

何とそれは、徳川時代ここに金座が存在したということを記す記念碑だったのです。京都のような千年を超える古都では、江戸時代といってもそれほど古いものとは思えないようで、どこかこの記念碑も寂しげに見えてくるのが不思議なことです。因みに住所は京都市烏丸通御池上ルです。

「マンガミュージアム・京都金座)1.jpg 「マンガミュージアム・京都金座」1.jpg

 金座も銀座も、古代存在していたところが、現代ではかなり賑やかなとこにあったようですが、果たして当時はどんなところであったのでしょう。

そんなことについての推理をしながら、訪ねてみるのも旅を楽しむ一興かもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の一 [趣味・カルチャー]

     第二章「安穏な暮らしを保つために」(一 


       為政者の課題・「戦力の不足を知る」


今回は嵯峨天皇が大同四年(八〇九年)に無理矢理平城天皇から譲位されて、践祚(せんそ)されてから間もなくのことです。まだ皇太子神野親王から天皇に変わられたばかりで年齢もまだ二十三・四歳という若さで


 ようやく平安京を統治し始めたばかりだというのに、とんでもない事に遭遇させられてしまいます。


為政者・嵯峨天皇


弘仁元年(八一〇)九月七日のこと


発生した問題


 平城太上天皇は、突然何の前触れもなく、平城旧京への還都をすると指示されました。あまりにも突然の発表です。しかも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)紀田上(きのたがみ)たちを造宮使に任じてきたのです。


引退して平城太上天皇となって、平城京で悠然とお暮しかと思っていた平安京の政庁の公卿たちは、あまりにも突然のことで、その真意がまったく理解できないでいました。ところがその指示はすでに動き始めていたのです。


 嵯峨天皇が践祚したばかりだというのに、何をさせようとしているのだろうか。


 事態の進行に疑念を持つ平安京側はその真意を糾そうとしたのですが、それに対して平城上皇は朝廷軍を招集して動き始めたのです。


事件というのはこういうことで始まったのです。


嵯峨天皇としては践祚なさって、ようやくこれからどう平安京を建設していこうかということを、真剣に取りかからなくてはならないといった時です。



これはあくまでも、尚侍(ないしのすけ)となって宮中に権力を振るっている藤原薬子にせがまれて行ったことに違いありません。何もかもが準備もない戦いの始まりでしたが、為政の道筋を糺したいという若い嵯峨天皇の迅速な決断と、それに従った将軍の迅速な統率力で要所の警備を固めた上で少ない兵士を動かしました。


そして更に天皇に呼応した空海は、弟子たちと共に高雄山寺に立てこもり、真言密教による鎮護国家の熱によって後押しをした結果でしょうか、大戦になりかけた事変は、わずか七日という短日のうちに鎮静化してしまったのでした。


しかしこれで政庁のあり方は糾せたのですが、天皇には心にかかる問題を残してしまいました。


ご自身の在位中に、皇太子とした者は絶対に悲劇的な立場には追いやらないと、密かに心に刻んでいたはずなのですが、事件に関与はしていないということは判っていても、高岳(たかおか)親王は上皇の御子であったために連座させられて廃太子とされ、第一皇子である阿保(あぼ)親王も大宰府へ左遷されることを、認めざるを得なくなってしまったのです。


高岳は直ちに春宮を出て、宮中からも去っていかれます。そんな姿をご覧になっていらっしゃった天皇は、心に誓っていたことを違えてしまったと、心中深く痛みとして沈潜していったのでした。


 (いつか救ってやらなくてはならぬ)


 声なき声がそう叫んでいるのでした。


 天皇は直ちに新たな皇太子として、天皇の異母弟であり、中務卿で三品の位を持つ大伴(おおとも)親王を、皇太子として指名しました。それは祖霊桓武天皇の描かれた嫡子による皇統の継承という理想からは遠のいてしまうことになってしまいましたが、いました。それでも若い天皇は祖霊の思いは必ず新たな皇統に活かさなくてはならないと決心していたのでした。


九月十九日。年号も大同五年(八一〇)に弘仁と改められると、仁の気持ちを広めたいという、思いの溢れた年号の元で、民と共に生きようとするのです。若き文人政治家は、さまざまな問題を秘めながらも新たな平安朝の建設に立ち向かったのでした。


為政者はどう対処したのか


 事変は「薬子の変」と呼ばれて、受けて立つ政庁には、当初狼狽がありましたが、天皇は迅速な指揮と的確な判断で、上皇の復権を阻み平安京を守ることができました。


 事件を知った時、政庁ではあまりにも予想外であったこともあって当初狼狽がありましたが、結束して平城上皇と薬子の無謀な企みを排除して、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻したのでした。


それは協力してくれた国々にとっても同じで、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻しましたが、間もなく、播磨(はりま)国から万一の時の備えについて、次のような提言があったのです。


 「これまで勲位を頂いた者を健児に起用することになっているのですが、国内の勲位の人は死亡あるいは逃亡していて、現在存在している者は老人や病人が多く、軍事の役には立たなくなってしまっているために、この際白丁(はくちょう)(公の資格を一切持たない無位無官の一般男子)を徴発して、欠員に充てることを要望いたします」(日本後紀)


万一の事変が起こった時に、戦う兵士に事欠くというのです。それは平城天皇の頃から財政の引き締めを行ってきたために、いざという時の兵が、集められなくなってしまっているということだったのです。


 まさにこのようなことは現代の問題としても、考えておく必要があるのではないかと思えます。


いたずらに兵力を蓄えることではなく、そのようなことをしなくてもいい環境を作らなくてはならないのではないかということは周知のことなのですが・・・。


最近は永世中立を建前にしてきた北欧の国々も、万一のために国を守るということのための心構えをしておかなくてはならないという方針を立てて、NATOへの加入を申請しました。我が国についても、周辺の環境が極めて緊張したものとなっています。最近は俄かに軍備に関しての費用を上積みしなくてはならないのではないかという議論が盛んになってきていますが、ロシアによるウクライナ攻撃、北朝鮮の挑発する軍備の拡張、中国の海域の拡大など、日本を取り巻く環境は、かなり激しく危険な状態になりつつあります。もうこれからの国際関係には、無関心という訳にはいかなくなってしまいましたね。


 島国であるための国際関係の難しさを感じます。兎に角舵取りをする指導者の英知が、真摯に問われる時代になってきていることを実感します。


温故知新(up・to・date)でひと言


 兵力を充実して、万一のことが勃発した時の対処をどうするのかという問題ではなく、現代の問題としては、やはり暮らしを優先するか、護りを重視するかという問題にぶつかってしまいます。そのどちらを選ぶとしても、予算というものが伴います。それは平安時代も現代もありません。しかし現代では備えるという理由で軍事費が年々肥大化しています。この問題については、簡単に無視できないものがあるのではないでしょうか。しかしそうかといって、平安時代のように、ただ軍事費を縮小すればいいという訳にはいきません。軍事費を縮小するべきか、それとも福祉の充実によって暮らしを豊かにすることを優先すべきか大きな課題になります。現代ではそうした暮らしの安穏を維持するためには、様々な国かからの挑戦に、どう立ち向かうのかということについて、慎重に考えなくてはなりません。戦う能力を備えることと、国民の暮しの安定を図るという問題は、古代と違った現代の至難な課題です。


 日本自体の経済がどんな状態にあるのかということも考えながら、どう経済を上手く利用して行けるかということを、じっくり考える必要がありそうですね。


昔から「殷鑑不遠(いんかんふえん)ということが云われています。身近な失敗例を自分の戒めとせよという譬えです。また自分の戒めとなるものは近くにあることでもあります。徒に規模を拡大したり戦力を増やしたりするのではなく、自分の私欲や私情、つまり我儘を抑えて、社会の規範、歴偽に従って行動しましょうという「克己復礼(こっきふくれい)という言葉を思い出して、地道に地歩を固めていきましょう。「巣林一枝(そうりんいっし)という言葉もあります。軍事を豊かにするのか、暮らしを豊かにすべきか。鳥は深い林の中に巣を作っても、たった一本の枝を使うに過ぎないという言葉を思い出しながら、じっくりと考えて欲しいものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑4 [趣味・カルチャー]

「神仏にも守護神?」

 

 古代では神も仏も神として認識されていましたから、基本的には神仏混交ということになります。しかし現代人にとっては違和感があるかもしれませんが、日本では基本的に神仏混交という習慣を今も続行していることを考えられます。そんなことから、もっと不思議なことがあるのに気が付きました。

寺院にも守護神があって守っているのです。

日本の伝統の宝庫である皇居も、守護神を置いてその安泰を祈っています。今回はその代表的な見本というものを紹介したいと思っています。

平安京が誕生した頃、京の守護のために最澄が創建したという比叡山延暦寺がありますが、この寺を守るために琵琶湖畔にある日吉大社があるのです。ここでは山王の猿が大事に飼育されていますが、神の使いであるという考えによるものです。

 「比叡山延暦寺・根本中堂」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 「山王の猿」1.jpg

この神の使いの猿が、京都御所にも活かされているのをご存じでしたか。この猿を木彫りにして鬼門にしているところに飾っているところがあるのです。

 神は絶対的な存在ですから、彼らを守護するなどということは笑止千万と言うことになりそうですが、どうも実際にはそんなものの存在を無視できないものがあるようです。京都御所にはその鬼門である東北の角には「猿が辻」いうところがありますが、その守護には日吉大社の山王の猿がいます。

        「猿が辻・東北の鬼門」1.jpg  「皇居・猿が辻の猿」1.jpg          

京都御所の鬼門に当る猿が辻の猿・・・日吉大社の木彫りの猿が、御幣を持って飾られています。

機会がありましたら御所の東北の角・・・つまり鬼門へ廻ってみてきませんか。これの基となっている日吉大社では、山王の猿を実際に飼っているのですが、何度もここへお参りしていた後白河法皇は、自宅近くに新日吉神社を建てて、その本殿前の左右に日吉大社の神の使いである猿を彫刻にして祀ってあります。いちいちお参りに大津にまで通うことが出来な

くなったのか、じれったくなったのか、自宅の直ぐ裏手に新日吉神社を建立してしまったのでした。

平安時代においては、こうした信仰が浸透していたわけですが、それだけ政争も激しかったのでしょう。京都ではこの他にも、修学院離宮の近くに、赤山禅院というところがあるのですが、猿の彫刻が屋根に挙げられて存在しているようです。別の面から京都を探るきっかけにでもなると面白いですね。

「赤山神社山門」1.jpg 「赤山神社本殿前」1.jpg 「赤山神社・山王の猿」1.jpg

かつて高野山へ行った時のことなのですが、その地に住んでいらっしゃる方から、「ここへ来て荒神社へ行かないというのは、手抜きになりますよ」と注意されたことがあって、早速足を延ばして「荒神社」へ出向きました。つまり高野山を開いた空海は、この高野山を守るために鬼門に当るところに「荒神社」というものを創建したというのです。

「金剛峰寺の回廊」1.jpg 「平安京・高野山・荒神社参道」1.jpg 「荒神社」1.jpg     

  それを言われて思い出したのが、同じ空海が中國から戻って間もなく、京都西北にある古刹神護寺で修行しましたが、やがて空海はこの寺の守護のために平岡八幡宮を創建いたしました。

 「神護寺山門」1.jpg 「平岡八幡神社・本殿」1.jpg  「神護寺守護神・平岡八幡神社・日月神」1.jpg

現在の皇居である江戸城には、日枝神社がありますが、これは日吉神社の霊力が協力であることを知った徳川家康の希望で、京都の日吉大社と同じ神・・・つまり大津の日枝山から勧請した大山咋神を祀っているのです。 

「皇居と堀」1.jpg 「日枝神社・山門」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 

何処をとっても風水の思想が、現代でも大事にされえいるということがお判り頂けたのではないでしょうか。こんな智識でも旅行なさった時に発揮されれば、ただの観光ではない発見の旅にもなるのではないでしょうか。

本日は意外にも古代のお話をしているようでありながら、現代のお話にもなっているのではないかと思います。


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