☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑6 [趣味・カルチャー]
「傲慢な自己中心」
古代ではまだまだ正確な世界地図などというものが存在しているはずがありませんから、世界的な視点に立って自分がどんなところに存在しているのかなどという、大局的に見つめることができませんし、確かめることもできません。
記録によれば、飛鳥時代にはかなり東南アジアあたりからもやって来る人がいたようなのですが、それでも彼らの国が、一体どのあたりに存在しているのかなどということを、確かめることはできなかったはずです。
恐らく朝廷の重臣たちにしても、韓国(旧朝鮮半島)、中国(中国大陸)がどのあたりに存在しているかということぐらいは、知っていたと思いますが、まだまだ東南アジアに関しては、やって来た者から話を聞く程度で、詳しく知ろうとするような努力はしなかったのではないかと思います。
まぁ、知っているのは、韓国と中国ぐらいというだけといってもいいのではないでしょうか。
外国に対する認識というものは実にお粗末なものでしたから、時の皇帝
はすべて自国が世界の中心であるという、誇らしい認識に立って政治・外交を行っていたと思われます。
それはどうやらすべての国の認識のようでしたが、特に四千年の歴史を誇っている中国としては、すでに中華思想というものが徹底していて、その誇り高い態度は今も昔も変わらないようですね。
とにかく自分たちが世界の中心であるという思想です。
そういった尊大な態度に対して、日本もその誇りにかけて対抗した人物がいました。
隋の煬帝に送り出す遣隋使の小野妹子に持たせた、親書の仕掛け人である聖徳太子です。煬帝への親書にはこうしたためてありました。
「日出ずる処の天子、日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」
これはあまりにも有名ですが、これも自国から判断すると、確かに太陽は東から登りますし、太陽が沈む時は中国の存在する西の方向に沈みます。聖徳太子にとっては、やはり日本が世界の中心にあるのは自分たちなのだという自負心があったに違いありません。
実に先方にとっては失礼そのものの親書を送ったものですが、わざわざ先方の皇帝に対して、失礼千万な新書を持たせることにしたのは、それなりに理由があったのです。これまでの中国の煬帝との尊大な態度には、相当我慢が出来なくなる尊大な態度を取られてきていたからです。
誇りを持って対処しようとした太子の心情に同情してしまいます。
中国のほうは国が広大であったし、わが国と同じようにその大平原の彼方から日が昇るのですから、まさに日は自分たちの国から昇るのだと自負していても止むを得ないことだったと思います。
彼らはあくまでも世界の中心の国であると思っていたし、日本などは、東海の小島に過ぎないと考えていたはずです。
使者がやってきたといっても、その受け入れる態度が尊大になるはずです。その後日本を(極東)などと呼ばせているのは、まさにそういった認識によるものだと思います。
自分は世界の中心にあるという自負心が、その後の国の思想となったものが、所謂(中華思想)というものだと思います。
聖徳太子の煬帝に当てつけた誇らしげな表現などは、実に可愛いものだと思います。
中国などはその国の広大さから考えても、彼らが世界の中心にあると認識しても仕方がなかったかもしれません。しかしそれでも、これはあくまでも古代なのだからといって許されても、現代では全てが明らかになっていますし、通信網も複雑に広がっている時代です。
それなのに中国は、今日でも依然として自分たちが世界の中心的な存在であるというような、傲慢なほど誇らしい姿勢を保ちつづけているように思えてなりません。確かに国土の大きさは確かですが、その中にはかなり弱小民族を支配下に置いているという、誇りがあるからでしょう。
そろそろ大国であるという誇りはいいとして、各国と協調するということも考えないと、これからの世界の覇者となることを目指すのであれば、大変な障害になるのではないかと思います。道遠しになるのではないでしょうか。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の四 [趣味・カルチャー]
第二章 「安穏な暮らしを保つために」(四)
為政者の課題・「武器は時と共に古くなる」
今回は承和二年(八三五)のことです。
嵯峨太上天皇の御子正良親王が、淳和天皇から譲位されて、仁明天皇として為政に取り組み始められているところです。
実はこの譲位については、かねて嵯峨太上天皇が在位中に知った皇統の引継ぎについては、常に騒動が起こっていたということを実体験していたのです。
それは「第二章の安穏な暮らしを保つために」(一)「その二の一」「戦力の不足を知る」という閑談で詳しく触れていますが、嵯峨天皇は十四年という統治を行ったところで、同じ桓武天皇の御子である大伴親王に譲位して、淳和天皇として政庁を指揮されてこられたのですが、天皇もこれまで繰り返されてきた権力闘争の原因を調査した結果、先帝のおっしゃる通り、権力の継承はきちんとした決まりとしておきたいという気持になられて、十年という統治を行ったところで、嵯峨太上天皇の御子で皇太子として勤めてこられた正良親王に、譲位されることにしたのでした。それから二年した頃の話です。
為政者 仁明天皇
承和二年(八三五)三月十二日のこと
発生した問題とは
相変わらず各地に地震が起って、民心を騒がせているというのに、その最中に夜盗が跋扈したりするようになり、その取り締まりに腐心していらっしゃいます。ところがそんなところへ、更に心配なことが大宰府あたりから報告されてきたりしたのです。
承和二年(八三五)も三月になりますと、これまで親密に使節がやって来ていた渤海国の使節が、ほとんど姿を見せなくなっているということが気になっていたところなのですが、大宰府の政庁から緊張する知らせが入ってきたのです
「壱峻島は遠く離れた海中にあり、土地は狭く人口もわずかで、危急に対処するのが困難です。年来新羅商人が絶えず狙っていますので、防人(東国から派遣される北九州の守備兵士)を置かないことには、非常事態に備えることが出来ません。雑徭(民)に課した無償の労働義務)を負担している島人三百三十人に武器を持たせ、十四か所の要害の岬を守らせたいと思います」(続日本後紀)
古代でも武器が時代と共に古くなってしまうということが問題になっていたことがあったということが判ります。まして二十一世紀の今日では、新しい武器の開発は日進月歩という状態で、各国では自国の防衛ということに関しては、神経を使わなくてはならなくなっています。言うまでもなく我が国についても、どうしておくことが安穏でいられるのかという問題は、武器が新しいか古いかということではすまない問題がありますね。
政庁では遣唐使船の派遣を前にしていたこともあって、大宰府に命じて、綿甲(表裏を布で作り、その内側に綿を入れて矢石を防ぐ)百領、冑百口、袴四百腰を用意して、遣唐使船が予期せぬ事態に遭遇した時のために、備えさせたりいたしました。しかしそんな自国の治安という問題から離れると、若い天皇はいつか御子への皇統の継承という夢をふくらませていらっしゃったのです。
後ろ盾に嵯峨太上天皇という強力な方が存在していらっしゃるとはいっても、全てが望むように進められるまでには、まだ充分に条件が満たされているとはいえません。
(時よ、緩やかに歩め)
ひそかにそう祈っていらっしゃったのではないでしょうか。
それから間もない三月二十一日のことです。
嵯峨太上天皇の心を通わす友であった密教の空海は、六十三歳で遷化してしまわれたのです。
これまで何かの時に政庁の支えとなってこられた彼がいなくなるということは、為政者にとって不安な要素が広がります。どうも近隣の国の動きに気になるところがあるのです。天皇にとっては遣唐使の唐国への派遣という大きな事業を控えているところです。
為政者はどう対処したのか
海外の文化芸術、政治の様子を知ることはもちろんのこと、異国の動きを知るためにも欠かせない大きな役割を果すことになることから、嵯峨太上天皇が望んでいた大きな事業でしたが、これまでそれを成功させることができませんでした。そんなこともあって、その御子である仁明天皇は父の夢を果すことになると、必死な気持ちでいらっしゃったのです。
時代が新たな時を刻みながら変化していくのに対処するために、天皇は次のようなことを発表されました。
「『易経』に上を損じて下を益すれば民が喜ぶとあり、安らかで倹しくすることが礼に適っている。王者はこの原則に従うことで古今一致している。朕は才能がなく愚かであるが、よきあり方に従い斉えようと思う。おごりを辞め倹約に務めたいというのは、早くからの朕の気持ちである。今いる朕の子には親王号を避けて、朝臣姓を与えることにする。嵯峨太上天皇は限りない御恩の上に更に恩沢を加え、子を一様に源氏として世々別姓を設けず、本流も分派も同様とした」(続日本後紀)
政庁の内にもかなり源氏を名乗る者が入り、皇族の援護ができるようになっていましたから、天皇は嵯峨太上天皇の為政を受け継ぐことを強調して、公卿たちに不安感を抱かせないようにしていらっしゃるのです。
時代の変化によって、何事にもあまり積極的な意志決定をせずに、流れるままに生きるような無気力な気風が広がっていきつつある世相であった上に、諸国で疫病が流行って苦しむ者が多いという知らせが入れば、その元凶である鬼神を封殺するために、般若(仏教の知恵)の力を信じて祈祷をするように指示をしたりいたします。
六月には東海道、東山道の川では渡船が少なかったり、吊り橋が整備されていなかったりするために、京へ調(現物納税の一種)を運ぶ人夫らが川岸まで来たところで、十日も渡河が出来ないなどということがあるので、そのために川ごとに船を二艘増やしたり、浮橋を作ったりもいたしました。
天皇はかつて嵯峨太上天皇が行った、「弘仁」という為政の精神に立ち返ろうと発表したり、努力を積み重ねていらっしゃるのですが、そんな九月のことです。
時代と共に変化してくる近隣諸国の様子も無視できませんでしたが、政庁の者が着目していたのは、蝦夷との長い抗争という経験から戦いを有利に導くには、武器は常に新しい威力のあるものでないと有利な状態に持ち込めないということでした。
そのようなことを解決するために、強力な武器の開発も必要だと考えていたのです。万一の時に備えなくてはならないということがあって、辺境での軍事を整えるために嶋木真という者が作った、四方に射かけることができる回転式の新しい大弓が注目されました。
大臣以下公卿たちをはじめ諸衛府の者を朱雀門へ招集して、その大弓を試射させたのです。ところがその結果、飛び出す音は聞こえたものの、矢はあっという間に見えなくなって、どこへ落ちたかも判らなかったというようなことが、話題になったりいたしました。
このような問題を取り上げることにしたのは、現代ともかなり接点のある話題だと思うからなのです。
国の安穏ということで、真剣に考えておかなくてはならないことだとは思うのですが、平安時代とは違って、軍事費の費用が増額されることと、国民の暮らしがどう運営できるようになるのかということが、現代の大きな問題として注目されます。
これまでマスコミでは、政府は専守防衛という基本に則って日本の安全を守ろうとしていましたが、このところの世界情勢の変化から、ただ単に専守防衛と言っているだけでは対抗できないという考え方から、攻撃を仕掛けてきた敵に対して、どの範囲で先制攻撃をするかということが議論されるようになっています。それを叶えようとすればかなり高額の予算を立てなくてはなりません。
兎に角平和であるための話し合いが進まない限り、いつまでこのような状態でいられるか、保証されるわけではありません。日常生活においても、生活の利便性ということでは家計と相談しながらやらなければなりませんし、利便性だけを優先して考えてしまうと、暮らしそのものの基本を崩してしまうかも知れません。
国を経営する者として考えれば、ただ古くなったからといって武器を処理してしまうのも一考を要する問題です。
日常生活の安定と、危険を排除する用心とをどうバランスよく配慮するかは、為政者の大事な配慮でしょうね。
温故知新(up・to・date)でひと言
如何に優秀な武器を持つかという利便性ということだけを考えないで、まず平和であるということを考えた時、先人の中には「偃武修文」を心がけてみませんかと呼びかけたものがあります。これは戦争を止めて、文化を高めるということです。偃は伏せるということで、偃武は武器を仕舞って使わないこと、修文は文徳を修め法律を整備することです。あくまでも平和主義を唱えるものですが、しかし時代は「滄海桑田」といわれます。時勢の移り変わりが激しいものです。兎に角いろいろなことを解明して、果たすべき事業を完成させなくてはなりません。「開物成務」というのはそのことです。破壊につながる武器の開発ではなく、平穏な状態の中で文化、芸術が開花した中で、暮らしが豊かに実るように心がけたいというものです。
☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言5 [趣味・カルチャー]
「現世と来世について」
日本の創世記といえば、まず神々の歴史から始まったことは、ほとんどの方がご存じでしょう。
一応日本の国史ともいわれる「古事記」があるので、そこに乗っている神話時代というものを素直に受け止めると、やがて天孫降臨が行われて、豊葦原瑞穂国が作られて、そこに生きるか弱い人間たちが生きていけるように、さまざまな試練を与えながら支えてくれたことになっています。
やがてその中から日本の各地に王といわれる者が現われて、民を率いていくようになりましたが、その中から王の中の王が選ばれて大王となり、やがて天皇という存在になって、民を統治するようになったわけです。
つまりここまでは天に存在する神が暮らしのほとんどを支配して来たのですが、地上での支配をする王の時代から大王の時代に移って行く頃になると、海を越えて異国の神が入って来るようになりました。
それが仏という存在です。
とにかく古代においては、神仏共に威力のある力を持った存在であるところから、民は神と同格の者として、仏も畏敬の念で接するようになっていきました。
日本では自然のすべてのところに神が存在している八百万神という思想でしたが、彼らは清冽な暮らし方を指示して、民に折り目正しい生き方をするように厳しく教育をしていったのです。ところがその一方である仏の場合は、そういった神の厳しい生き方よりも、慈悲の精神で民と接したのです。これまで神の厳しい指導の下で暮らしてきた民にとっては、仏と接している時だけが救いになったはずです。しかも現世を指揮する神に対して、仏は来世を取り仕切っていましたので、死後の世界を知ることができない民にとって、兎に角来世については仏に庇護を願うしかありませんでした。
現世の神か、来世の仏か・・・次第に神の国であった日本に定着していって、神仏混淆という状態が始まったのですが、それは現代でも同じようなものですね。
神社へ祈願に行ったり、結婚の仲立ちを頼んだりしながら、やがて現世から去る時には、寺院へその橋渡しを頼んだりしているのが現状です。
日本はこの他にもキリスト教も受け入れているし、一神教の国々とはちょっと違う宗教観を持っていますが、とにかく宗教に関してはかなり寛容な民族であるように思います。
明治時代のある時期、廃仏毀釈などという不幸な時代がありましたが、とにかく現代は古代から引きつづいて、現世は神に願い、来世は仏に願うということを、なんの抵抗もなく受け入れている日本です。
この神仏混淆というファジーな感性は、はたしていいことなのかまずいことなのかを時々考えてしまいます。しかし一神教の国がかなり挑戦的であるのを考えると、やはり神仏混交というのは、日本らしい穏やかな国民性の基本なのかも知れないと考えたりもしているのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の三 [趣味・カルチャー]
第二章 「安穏な暮らしを保つために」(三)
為政者の課題・「対岸の火事に学ぼう」
弘仁十年(八一九)です。
嵯峨天皇は即位してから十年経過していましたが、決して平坦な道筋ではありませんでした。しかし有能な腹心の藤原冬嗣に助けられて、政庁を危うくするような事態にはならずに運営して来られました。
嵯峨天皇は先進の国の先達が残した図書から、様々な知識を得ていらっしゃいましたが、今異国では何が起こっているのかというような、生きた情報を得ることについては簡単に手に入れることは難しかったはずです。
そんなところへ大唐越州(ベトナムの国境)の人である周光翰・言升則という者たちが、新羅船に乗って到来いたします。そして彼らは、政庁にとっては通常得られないような唐国の情報をもたらすのです。
「三年前の弘仁七年(八一六年)頃のこと、節度使(唐五代の軍団司令官)の李師道が、兵馬五十万という精鋭を率いて反乱を起こしたというのです。唐十一代皇帝の憲宗は各地の兵士を集めて討伐しようとしたものの、平定することが出来ずに目下天下騒乱中です」(日本後紀)
こんな情報でした。
その一年前といえば、戊戌の大疫の年といわれて、天皇はその困難を突破するのに大変苦闘されたばかりです。
そのような時に、もし異国の騒乱が飛び火してきたら、国内の問題も穏やかに治めることが難しくなってしまいます。
幸い目下のところ、政庁の周辺に困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知っておくことは、なかなか貴重な情報となるものです。
為政者・嵯峨天皇
弘仁十年(八一九)六月十六日のこと
発生した問題とは
天皇にとっては国を護るためには、絶対に欠かすことが出来ないのが、用心であるということを、改めて印象づけられた新羅船の来訪でした。
平安京は東西に市が開かれたりして、高貴な者、民、百姓に至るまで、すべての者が入り乱れて、買い物を楽しむようになっていたのですが、どうもこの頃唐国には、反乱があって騒がしい状態になっているという情報がもたらされてきたわけで、天皇は日本国内の安穏な状態に、満足しているわけにはいかないものを感じていました。
まだ世界の国々の国交が、開かれている時代ではありませんし、近隣の国についても、ごく限られたところとの交流があるだけでしたから、たまたまやって来た異国の者から得る情報には、神経を尖らせることもあったのです。
目下のところ我が国の政庁の周辺には、困難な問題は存在しませんが、こうして異国の状況を知ることは、国を護るためになかなか得られない貴重な情報です。国を護るためには絶対に欠かせない用心ということになります。仮にその情報が唐国の事変であったとしても、それがどんな形で我が国へ飛び火してくるかもしれないのです。
為政の指揮を執る天皇は、神経を尖らせても止むを得ません。しかしその頃、平安京では数十日もの間厳しい炎暑がつづき、旱魃が起ってしまっていたのです。
降雨を願って伊勢神宮、井上内親王の宇智陵へ使者を派遣しました。
その祈りが通じたのか、京には暴風雨をともなって白龍が現れ、民の家屋を破壊するという事件があったりしたのです。
政庁の者にとっては、心理的に嫌なものを感じざるを得ません。国内の問題を解決しなければならない時だっただけに、異国に起こる事件にも神経を使わなくてはならなかったのです。それがいつ我が国に影響を及ぼすことになるかも知れないからです。気持ちを引き締めなくてはなりませんでした。
近隣の国の様子にも目配せしながら、国内の問題である炎暑と旱魃が数十日も続き、ほどよい降雨を見ていないのです。〈略〉そこで十三大寺と大和国の定額諸寺の常住の僧侶に、それぞれの寺で三日間「大般若経」を転読させようとしています。適当な雨を願ってのことです。
同じ頃ですが、政庁では公卿が意見を交わしていました
「倉庫令では「官倉の欠損分を責任者から徴収するに際し、納入責任者が在任中は本蔵に納れ、離任している場合は転任先ないし本貫(郷里)において納入することを認める」と定めていますが、今畿内の国司は偏にこの令条により、納入せねばならない欠損分をみな転任先の外国(畿外)で填納しています。ところで畿内には京に近接していて、そこの稲穀は京に関わる様々な用途に費用されています。それだけでなく稲の値段を見ますと、畿内と畿外では大きく相違し、畿内の方が高価となっています。このような事情がありますのに、畿内で失われた分を畿外で填納するのは、まことに深刻な弊害となっています。伏して、今後は、畿内の欠損を畿外で埋め合わせることを停止しますよう。要望します」(日本後紀)
天皇はそれを認めました。
国内での細かなことでの手当てを、しなくてはならないことが起ってきています
「安芸国は土地が痩せていて、田の品等は下下である。このため、百姓は豊作であっても貯えを有するに至っていない。このため、去る大同三年に六年間を限り国内の耕作田の六分を得田、四分を損田として田租を収納することにした。今その六年の年限が過ぎたが、衰弊した民はまだ十分となっていない。そこで更に四年間の延長を行え。(大同三年九月庚子条参照。安芸国では、弘仁五年に不四得六制の延長が行われ、本日条で再度の延長が行われているらしい)(日本後紀)
国内に起こる違和感の解消に神経を使いながら、異国に起こる小さな出来事が、いつ飛び火してくるかしれないのです。とても無関心ではいられないはずです。
現代ではさまざまな方法を講じて、他国の情報を得るように努力はしていると思うのですが、異国人の来訪が唯一の情報源であった平安時代とはまったく違っています。
スケールの広がり、情況の複雑さということでも、とても古代のそれとは比べようもありません。それだけ国際関係には神経を使うことになっているはずです。情報問題に関しては、古代だから、現代だからと、関心の違いを言って済ませる問題ではありません。むしろこのような事件があった時を利用して、近隣諸国との関係についても、これまでとは違った気構えで考えておく必要があります。特に日本は国の目指す方向の違う国が、ごく近くに存在していますから、そんな環境を考えると、安定を保つということは至難の業です。
平安時代のように、他国の情報は殆ど実際に行って見るか、こうしてやって来た者によってもたらされる情報以外には、他国の様子を知る機会はまったく存在しませんでした。
現代ではフェイクニュースと呼ばれる偽情報も含めて、インターネットなどという情報網を使って、世界中に飛び交います。あとは受け手の判断による、取捨選択次第という時代になってきています。それだけ為政者は神経を使わなくてはならないでしょう。判断を間違ってしまったら、命取りになってしまいます。
それがどこであろうと、異国で起こっていることだからといって、無関心でいることは許されません。その不用心が大変危険な火種になってしまうかも知れないのです。
日常生活の中で起こる「おれおれ詐欺」という問題がそうです。
あれは被害にあっている人の不用心が原因ですよなどといって、笑っている場合ではありません。私が家と親しい関係にあった方の中で、まさかと思える人が、危うく数百万円にもなる金銭を用意して、相手に渡してしまいそうになったケースがあるのです。幸い最後の段階で親族が現われて、お金の受取人に渡さずに済んだという話をしに来てくれましたが、その方は確かにしっかりした方でしたから、まさかこの人が・・・信じられないことでした。
自分は大丈夫と思っていても、用心を越えた巧妙なやり方で詐欺を仕掛けて来ることが多いのです。飛び交い情報についても、私は引っかからないという過信が被害者になってしまうかもしれません。
温故知新(up・to・date)でひと言
現代は情報を如何に活かしていくかということを、考えておかないといけない時代です。
私だけは絶対にやられないという変な自信はもたないことです。その自信過剰が、逆効果となってしまうような神経戦となって、相手のぺースに乗せられてしまうようです。
日常生活の周辺のことであっても、自分の周辺の状況がどんな風になっているのかということぐらいは、知っておきましよう。そういうことを無視していると、思わぬ落とし穴に堕ちることになってしまいます。現代は親しい人からもたらされる情報についても、その真偽を確認しながら進まなくてはならない、慎重さが必要な時代です。こんな時には昔から先人が残している四字熟語という者があります。その一つに、「他山之石」というものがあります。他人を参考にして、自分の啓発向上に役立てようということです。他山から出た山石でも砥石として使えば、自分の宝石を磨くのに役立つということから出た言葉のようですが、情報を胸に収めたら、ただそれだけで終わらせないで、我が身の時の素材として活かすくらいの気持ちになっていたいものです。まさに「深謀遠慮」という言葉どおり、深く思い巡らして、将来のビジョンまで慎重に慮らなくてはなりません。「改過自新」ということがありますが、もしミスでもあったらそれを素直に認めて、新たな気持ちで取り組んでいかなくてはならないでしょう。