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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言10 [趣味・カルチャー]

「憧れの原点」

古代の人たちは、長い冬から春が目覚めて、夏がやってきて活力が頂点に達していくと、それからはじょじょに衰えていきながら秋になり、やがて勢いを失う冬になっていくと考えていました。

最近、つくづく思うことなのですが、漢字には実に意味深いものが多いようですね。漢字の妙とでも言うのでしょうか・・・その表記に篭められた意味が、ずばりとその核心を突いていることがありますし、微妙な雰囲気を伝えていることもあるように思えてくるのです。

たとえば「魂離(あくが)れ」という言葉です。

つまり魂が体から離れていくという、頼りない状態を表す表現なのです。

多くの方は、ほとんど出会ったこともない言葉だと思いますが、これは間違いなく古代に生まれた言葉です。しかし二十一世紀の現代でも、これらが基になった言葉が活きつづけているのですが、気がつきませんか。

「魂離れ」・・・文字をそのまま読むと、魂が離れるということですが、昨今よく言われる、魂が体を離れて飛行するという、霊体遊離などという興味本位のものとは違って、そうなった時の状態を表す言葉・・・つまり物思いに耽った結果、体から魂が離れてしまう状態をいうのです。

ちょっとその時の姿を想像してみて下さい。

何かに心を奪われて、思わずぼーっとしてしまう状態のことです。

最近は「スポーツの秋」、「食欲の秋」、「旅行の秋」などといわれることが多いのですが、私たちが若い頃は、「物思いの秋」などといわれることが多かったのです。同時に精神的な発露である芸術の秋それと同じような状態ともいわれ、それに因んで読書週間が設定されてきました。

しかしそんな時に、魂が体から離れていってしまう魂離(あくが)れした状態では、とても読書どころではありませんね。下世話な例になりますが、好きな歌手、好きな俳優のことを思ったりしていると、いつか恍惚状態になってしまったりすることがあるでしょう。これは年齢に関係なく、老いも若きも取りつかれてしまう精神状態です。

あの、ぼーっとしてしまう状態というのは、やはりまるで魂を奪われてしまったような状態というしかないでしょう。そんな陶然とした状態を、古代の人は「魂離(あくが)れ」と表現していたのです。

彼らは秋になって、太陽の勢いが衰えていくのにつれて、統治者である天皇から魂が抜けてしまって、「魂離(あくが)れ」状態になるのを心配して、新たな活力が籠められている収穫したばかりの新米を食べたりしたことが起源なのです。

現在の勤労感謝の日・・・昔は新嘗祭(にいなめさい)の始まりでした。

これらのきっかけとなった「魂離れ」の状態が、時代を経るに従って「(あこが)れ」と言われるようになったのです。確かに好きになったスターを目の前にして陶然としてしまう若い人を見ることがありますが、まさにあれは魂離(あくが)姿だと思います。

もの思う秋だけでなく、「魂離(あくが)れ」してしまうほど夢中になる新しい「憧れ」の対象を発見したいものですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その四の一 [趣味・カルチャー]

      第四章「隠れた事情を突き止めるために」(


        為政者の課題・「財政悪化で臣籍降下」


弘仁五年(八一四)。嵯峨天皇が即位してから六年になろうとしています。すっかり政庁での活動にも慣れて落ち着いてきていて、政庁にとって何が必要なのかということについても、充分に認識されていらっしゃいます。


 平城天皇から譲位されて為政を担ってから、まだ五年ですが、蝦夷(えみし)との抗争に多額の財を費やしている上に、前年には肥前(ひぜん)国の島で新羅(しらぎ)の者が百人を超える者が上陸して、激しい戦いが起こったりしたことがあったという知らせがありました。万一の時に政庁の者が結束していなくては対処できないというので、まず身近な者との結束を固めておくことが大事だというので、天皇は右大臣藤原園人を伴って近衛大将の藤原冬嗣(ふゆつぐ)の屋敷である閑院(かんいん)や、弟であり皇太子でもある大伴皇子の屋敷である南池(なんち)院を歴訪したりして親睦を図り、万一の時にも結束が乱れないのを確認していらっしゃいました。


為政者・嵯峨天皇


弘仁五年(八一四)五月八日のこと


発生した問題とは


それにしても国内の状態を調べると、相変わらず天災に見舞われて、飢饉のために民が危機的な状態に陥っているために、貧困であることは勿論のことですが、そのために死者が出てもその始末が出来ずに路上へ遺棄してしまうという状態なのです。これでは疫病を発生させてしまうことは勿論ですが、それを蔓延させてしまうことは必然です。


そのために政庁は、各地の援助をしなくてはなりませんから、これでは税の徴収も思い通りという訳にもいきません。次第に国の財性も厳しい状態になってきていたのです。


そのことについては政庁の誰もが気がついてはいても、とても天皇に訴えかけることは出来そうもありません。しかし税の徴収も思うに任せないことを考えると、政庁の財政状態がいいとは言えなくなっています。


為政者はどう対処したのか


 非常に繊細な感性をお持ちでした嵯峨天皇が、そんなことに気が付かないわけがありません。そうした国家的な危機を回避するために、ある日公卿たちもびっくりするような施策を打ち出されたのです。


「朕は平城天皇から位を譲られ、皇位に就いたが、人民に睦び近づく徳に欠け、教化が遠方に及ばないことを恥じている。そしてなすことなく年月が過ぎ、子供の数が次第に増えてしまった。子が親に仕える子道(しどう)をわきまえないうちに、却って人の親となってしまったのである。子供たちはかたじけなくも封戸を支給され、官庫の給与に(あずか)っているが、朕は心を痛めるばかりである。そこで子供たちに親王号を付さず朝臣の姓を与え、一の戸籍を編み、公務に従事させることとし、最初に六位に序そうと思う。ただ、すでに親王号を与えられている者は改めず、同母で今後生まれ者にも親王号を与えようと思う。これに関して他に上申すべきことがあったら朕が裁可しよう。人は賢愚により知恵を異にしても、育ての恩は同じである。朕は秘かに親王を廃止し、子孫を廃止し子孫を分家させて広めようとしているのではない。元より天地の長く続王を廃止し、子孫を分家させて分家させて広めようとしているのではない。もとより天地の長く続くのと同様に、皇位は次々に継承されていくのであるから、朕が子に親王号を一時の安楽を求め、万代にわたる衰亡を忘れてよいものであろうか。広く内外に告知して、朕の意を告知せよ」(日本後紀)


公卿たちは大変衝撃を受けてしまいますが、しかしはじめは直ぐには信じられませんでした。


子供たちを独立させることで新しい氏族を作って、ある種の権益集団とするのではないかという心配をしたようですが、天皇にはまったく他意はなく純粋でした。


公卿たちはそれから数日後には次のような申し出をいたします。


「もし、皇子に親王号を付さずに臣下とし、親王の(ほう)(ろく)(給与)収入を国家に託し、天皇から別れた皇族を卑しい身分とすれば、おそらく後世の有識者は、穏やかなことではないと批判することになりましょう。陛下の立案に従わず、敢えて奏する次第です。謹んで申しあげます」(日本後紀 


しかし天皇はその奏上を許可せずに断行されました。


そんなある日のこと、公卿の中からは、天皇の真摯な思いが伝えられて、暫く疑心暗鬼であった思いを解消したことがあったのでした。天皇は思いがけない決断に至った思いについて、こう告白していらっしゃったのです。


「・・・年月が過ぎ、子供の数が次第に増えてしまった。子が親に仕える子道をわきまえないうちに、かえって人の親となってしまったのである。子供たちはかたじけなくも封戸を支給され、官庫の給与にあずかっているが、朕は心を痛めるばかりである。そこで、子供たちに親王号を付さずに朝臣の姓を与え、一の戸籍に編み、公務に従事させることとし最初に六位に叙そうと思う」(日本後紀)


直ちに(まこと)(ひろむ)(ときわ)(あきら)という親王の四皇子と、(さだ)姫、 これまで親王として過ごしてこられた御子達に働くことを決定づけられたのです。


(きよ)姫、(うつ)姫、善姫の四皇女に源朝臣という氏姓を授けて、いわゆる臣籍降下を強行されたのです。それに伴って皇宮改革も行い、皇妃、后、夫人(ぶにん)(ひん)という序列を決められたのでした。


この記録を知った時、私はようやく嵯峨天皇に対するある疑念を拭い去ろうという気持になりました。どうしても女性関係に関しては、どうも古代のどの為政者にもあった乱脈さから抜け出していない印象があって、これまでの折り目正しい生き方は仮の姿ではなかったのかという疑念が付きまとっていたのです。しかし今回のお子様の処遇に関して、自らの身を斬るという決断を知って、考え方を改めることにしました。国の財の危機的な状態を救うということで、為政者として先ず自らの御子の臣籍降下という処遇を決意なさったという一点で、印象を変えることにいたしました。これまでの為政責任者にはなかった覚悟を示されました。


 天皇の心情は第一章「卓越した指導者といわれるために」「その一の七」「評価は天が決める」の閑談で触れていますが、人生最後の審判は神が行うということを述べていらっしゃいます。今回の決断はそうした心情に基ずくものであると考えるからです。


これでこれまで貫いてきた嵯峨天皇の、清廉潔白で折り目正しい生き方を通される方として、畏敬の思いを持ちつづけることができると確信しました。


これまでの幼少の頃からの母の乙牟漏(おとむろ)を失い、二・三歳違いの最愛の妹である高志(こうし)内親王を失うという、母性への思慕があって、父の桓武天皇には五十人を超える女性関係があったのですが、財政的な問題があっても、それに対して特別に指示するようなことはありませんでした。嵯峨天皇ははっきりと国の財政の健全化のために、自らの身を斬ることを表明されたのです。これですべて天皇に対する疑念は解消しました。やはり平安京における傑出した為政者であると確信したところです。


果たして現代の政治家には、このような清廉な生き方をはっきりと示して生きられる方がどれだけいるでしょうか。これまでの人間としての足跡を知らない方からは、桓武天皇を超える数の女性と接触があったことで、厳しい判断がされそうですが、多少でも天皇の足跡を知ると、母を求める思いから起こった女性問題だと思って差し上げられないかと考えるようなったのです。


あまりにも予期せぬ突然の申し出でしたが、公卿たちの戸惑いと、彼らに広がったある不安は一気に解消されたでしょうか。


いや、決してそうはいかなかったと思います。


それだけ衝撃的な申し出であったのです。


現在の皇室問題を考えると、考えさせられるものがあります。


国の財政を見直すということから始まった天皇の決断でしたが、現代の我が岸田内閣総理大臣は、行き詰っている経済関係についての突破口として、内閣の発足時に「新しい資本主義」と称して「分配政策」よりも「成長戦略」を重視して、国と地方の基礎的財政収支の黒字化目標とするという骨太の政策を発表されました。


ところが資産家から多くの税を徴収して、生活に困窮する人々の徴税を軽減すという政策はあっという間に引っ込めてしまいました。


政権を維持する自民党内からの反対が多かったためであったようですが、目玉であった「分配政策」はあっという間に引っ込めてしまうという状態です。


国家の財政を築くための大胆な政策は、あくまでも貫いて欲しいのは、古代も現代もありません。為政者が自ら我が身を削って窮状を突破せよとは言いませんが、言葉だけで終わらない意気ごみというものを見せて欲しいものです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 前にも触れたことがありますが、古代の為政者は人智で解決できない天災に襲われた時には、潔く天帝の怒りをかってしまったといって反省しています。今回のことはあくまでも本人が生みだした問題の処理の仕方です。それについては思いきった決断については評価したいと思います。


嵯峨天皇は、かなりこれまでの為政者と違って、かなり旧習に捉われない発想をされる方でしたが、古来「八面玲瓏(はちめんれいろう)という四字熟語があります。心中にわだかまりがなく、清らかに澄み切っています。あくまでも国の財政の危機を救おうという純粋なものだったのでしょう。古来男女間の問題にはすっきりとしないものが残しがちになるものですが、問題を残さずに処理していくことが大事です。現代でも不倫問題をはじめ男女の間には、絶えず吹っ切れないことがあって、マスコミを賑わしていますが、いずれにしても後味の悪いものが残りつづけています。果たしてあなたは問題を残さずに女性問題を処理していらっしゃるでしょうか。「狐疑逡(こぎしゅんじゅん)といって、疑い躊躇(ためら)ってことに臨んでぐずぐずすることに使われるのですが、狐は疑い深いといわれるところから、決心がつかずにいるさまをいうようです。このような問題をいつまでも抱えたままでいたら、あとあとまで問題を引きづってしまいます。これまでの為政者でこのような処理をした方は見当たりません。如何に嵯峨天皇が文人政治家といわれるに値する理知的な方であったかの証明です。しかし何といっても天皇は自らの内に間違いが存在しているということに気がつたということです。城狐社鼠(じょうこしゃそ)といって、城に棲む狐、神社に巣くう鼠。城や神社に隠れている狐や鼠を取り除こうとすると、城や神社まで壊したり、焼いたりしなくてはならないので、手が出せないということです。つまり権威の陰にいて、悪事を働く者をいうのですが、天皇はそれが我が身中にあると気付かれたということです。果たして現代の為政者に、こうしたことで身綺麗にできる人がいるでしょうか。



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