☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言9 [趣味・カルチャー]
「秋の七草ご存じですか?」
「春の七草は知っていますか?」
正月七日に食べる年中行事ですから、かなりの人は知っているでしょう。若菜を粥に入れて食べますね。
きっとセリ、ツツジ、ハコベ、ゴギョウ、ホトケノザ、スズナ、スズシロとすらすらと暗誦できるでしょう。
それではここで
「秋の七草は御存知ですか」
と窺ったら、果たして何人ぐらいの方が応えられるでしょうか。
きっと少ないでしょう。
実は私もすぐには答えられなくて困りました。
調べたところ、ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、アサガオ、時にはアサガオでなくて、キキョウを上げる人もいるのが普通のようですね。
しかしどうして秋の七草はこうも認知度が低いのでしょう。
それは簡単です。
「秋の七草」というのは、食用ではなく鑑賞用の草花だからでした。
矢張り秋は何といっても、食欲の秋といわれるくらいですから、どうしてもクリ、カキ、ヤマイモ、ヤマブドウ、キノコ、ギンナン、アケビ、マツタケなどと言うものがあげられます。
それにしても観賞用の「秋の七草」の中に、リンドウが入れられていないのはどうしてなのでしょう。
可憐な花だと思うのですがね。
兎に角食べる方に興味が先走って、どうも鑑賞までには興味が移りませんでした。そろそろ熟年のみなさんは、目の肥やしになるものに興味を持ってもいいかも知れませんね。
閑話 嵯峨天皇現代を斬る その三の五 [趣味・カルチャー]
為政者の課題・「若い能力が必要」
かつて嵯峨天皇が提案されたことでしたが、その時は公卿たちの反対で行えないでいたことが、ここへきて現実の問題として浮上してきたのです。身分は低くても能力のある実力者を起用しなければ、時代の求めることに応えられなくなったのでしょう。
嵯峨天皇の御子として、政庁を率いるようになって、はじめて父の先見性が如何に進んでいたことであったかを、はじめて実感するようになったのです。
先見性が現実のものとなるには、二十数年という年月が必要になるということでしょうか。
為政者・仁明天皇
承和四年(八三七)七月十六日のこと
発生した問題とは
かつて祖霊桓武天皇とかかわりの深い氏族が尊重されて、その子弟が官人として採用されることが多かった時代があったのですが、彼らの多くの者が老齢化してきていたことから、その弱点を知った嵯峨天皇は思い切って若手で実力のある者を採用して、人事を改革しようとしました。しかしそれによって、伝統を維持するということが弱まってしまうという公卿たちの進言によって、文化の衰頽を招いてはいけないとお考えであった天皇は、持論を引っ込めたことがありました。
それから二十二年という年月を経て、皇統もすでに嵯峨天皇の第一子である正良親王が即位して仁明天皇となっています。その四年目のことですが、陸奥国から不可思議なことが起こっているという報告があります。
玉造塞の温泉石神は雷のような響きを上げて震動し、昼夜止まず温泉の湯が川に流れ込んで、漿(おも湯)のような色になっています。それだけではなく、山は噴火し田には塞がり、岩石は崩壊して木は折れ、さらには新しく沼が出現して、雷鳴のような音と共に沸き立っています。このような不思議な現象が、数えきれないほど起こっているというのです。政庁は国司に対して、この異変を鎮めるよう神に願い、夷狄を教え諭すように指示したのです。
すると陸奥出羽按察使の坂上浄野が報告してきました。
鎮守将軍匝瑳末守からの連絡によりますと、
「去年の春から今年にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住民は逃亡する事態になっています。守備につく兵士をふやし、騒ぎを静めて農へ向かうようにすべきです。また、栗原・賀美両郡の逃亡する百姓は多数にのぼり、抑止することができません」(続日本後紀)
ということでありました。
「私、浄野が考えますに、禍を防ぎ騒ぎを静めますには、未然のうちに処置すべきです。それだけでなく、栗原・桃生以北の俘囚は武力に優れた者が多く、朝廷に服属したように見えながら犯行を繰り返しています。
四月、五月はいわゆる馬が肥え、蝦夷らが驕り高ぶる時期です。若し非常事が発生しますと防御が難しくなります。援兵として一千人を動員し、四、五月の間、番をなして異変に勤務させて、備えることを要望いたします。その食料には当地の穀を使用し、慣例に従って支給することにしたいと思います。ただし、返辞を待っていますと時期を失う恐れがありますので、兵を動員する一方で進言する次第です」(続日本後紀)
政庁は直ちに、
「事に対処するには時期が大切なので、進言を許可する。ただし、よく臨機応変に対処して、威厳と恩恵を併せて行うようにせよ」(続日本後紀)
と指示した。
天皇は時代の要求に応えるために、実力のある若手を採用しなければ、時代の要求に応えられないということを、実感するのです。かつて父(嵯峨天皇)が実行しようとしてなし得なかったことを、御子がそれを現実のものとして実践し始めたのでした。その辺の事情に関しては、第三章「時代の変化に堪えるために」「その三の一」「伝統保護禁止の波紋」の閑談で嵯峨天皇が提案を強行しなかった事情を詳しく話題にしていますのでご覧ください。
政庁は時代のさまざまな問題に対応するために、新たな文章生を採用して官衙の雰囲気を変えようとしたのですが、嵯峨天皇の時は式部省から次のようなことが進言されたのです。
大学寮から示された天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅によって採用された文章生の実情ですが、彼らはみな学生らの才器は若年時から勝れている者は少なく、多くは晩成で文章道から官人へ転身した者となると、そろそろ白髪が混じる年齢になっているというのです。
人は賢く優れていても、役に立たなくなっているというので、良家の出身者というだけでは、官人として役に立たなくなってしまっているという現実だったのです。
それで嵯峨天皇は可及的に提案をされたのですが、結局若手の実力者を登用することで、伝統の維持に尽している良家の者を外してしまうと、伝統文化が衰退してしまうという公家たちの進言があって、納得してその提議を引き下げたことがあったのです。
時代を経てさまざまな要求に応えるために、仁明天皇は父の提議した問題を再び取り上げようとしたのです。しかしその時式部省から示されたのは、父の時と同じ大学寮から示された天平二年(七三〇)三月に発せられた詔勅によって採用された文章生の実情でした。しかし時代は反対意見を押し退けて、提案通り受け入れられたのでした。こうした問題はまさに現代の我々に対する問題提起でもあるのではありませんか。
人事の刷新は言うまでもありません。しかしその道に精通したベテランも簡単に外すわけにはいきません。彼らの持てる能力を次代の優秀な若手に伝えるという作業も忘れることができません。よほど慎重に処理しなくてはならないでしょう。
現代我々を取り巻く環境は、全ての面で世代交代が現実的に進行しています。まだまだ旧勢力が残っているところも多くていらいらさせられるでしょうが、先ず身近なところから時代に即応できる実力者を登場させてみましょう。それは実業の世界ではすでに新たな人材が次々と登場して活躍しています。それがほとんど行われていないのが官僚といわれる世界で、そのほころびが次々と現れて呆れさせられます。
今回の仁明天皇の決心も、父嵯峨太政大臣が在位中に起こったことを、御子が取り上げようとしているのです。実に二十数年という年月を得ています。先進的な発想を現実の世界の者とするためには、なんという無駄な時間を費やすものでしょうか。
嵯峨太上天皇の皇子で従四位上源朝臣鎮が神護寺へ入り、剃髪して入道したといいます。宮中の者はそれを聞いて、涙を流したというのですが、かつての時代であったら、少なくても太政天皇の御子ですよ。僧籍に入られるなどということはなかったはずです。ゆとりのある暮らしを楽しみながらお暮しになられるはずです。そんなことを思うと、ついお気の毒という気持になったのでしょうが、こうした生き方をすることになったのも、太上大臣が決められた臣籍降下という姿勢が、決してその時の思いつきで終わるものではなかったということが活きていたことになります。
もう天皇の御子でああっても、特別の援護を得られる訳はなく、自ら選んだ道を生きなくてはならないということを知ったのでした。
恐らく仁明天皇は、父の敷いた施策が間違いなく、二十数年後にも活きているのだということを、改めて感じられたのではないでしょうか。
天皇は間もなく次のようなことを発せられました。
「人の器量は同じでなく、識見・才能はそれぞれ異なりながら定まっている者である。知恵と徳行において他より優れ、仏教の指導者たるに相応しい者を、それぞれ有名、無名を得事無く、また員数を限らず、同じく共に推挙すべきである。そこで仏学の学問に勝れ、仏教を承け伝える能力を有する者と、精進苦行して仲間に知られている者を、大寺ごとに七人選び、僧としての修業年数を注記せよ。もし適任者がいないときは、強いて推挙する必要はない。適任者が多数いても、同一宗教からのみの推挙はならず、各派に諮れ、僧綱一人が寺ごとに衆僧と相対して、選び、推薦結果を記した帳簿には、寺の別当・三綱・学頭(各宗派や諸大寺で教学を統括する僧)が署名せよ。この帳簿は、三年に一度、作成し、十月の内に提出せよ」(続日本後紀)
なかなか埋もれた才能を発掘するということは、至難なことのようでした。
温故知新(up・to・date)でひと言
古来「積薪之嘆」ということが云われていて、薪が後から積まれるために、いつも上の方から使われるので古いものは一向に使われずに、いつまでも積まれているということです。年功序列ということの悪弊です。それも止むを得ない事情があるのです。「後世可畏」といって若者は当初未熟なものです。しかし来たるべき時代の息吹を敏感に感じ取って成長していくので、将来の大きな可能性を秘めています。決して侮ってはなりません。むしろそうした世代の者を敬うべきです。彼らは「疾風勁草」と言って、激しい風が吹いた時に、はじめて強い草の存在が判るという存在なのです。危急存亡の非常事態に出合うと、その人物の節操の堅さが判ります。時代を担う若者も、是非この日の問題提起を真に受け止めて考えておくべきではないでしょうか。