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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言21 [趣味・カルチャー]

            

「シュンのもの」


 


「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」


季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。


昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言え荒れていましたが、江戸の町民たちは無理をして高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。


カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源は「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということ


になるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようですが、


最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものもおおくなってきていますね。その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。


食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。


 一寸寂しい気がしないわけではありません。


 科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わってく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うと残念でなりません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の四 [趣味・カルチャー]

第七章「非情な現世を覚悟するために」(四)

為政者の課題・「国に上中下あり」

国を率いていくには、何といって古代の代表的な法律である「律令(りつりょう)」によって決められている、()調(ちょう)(よう)雑徭(ぞうよう)などという税を駆使して、運営していかなくてはなりませんでしたが・・・。

現代では路線価税という税金があって、その時その時の評価によって課税される額が変わっていくものがあります。毎年日本一の高い路線価税ということでは、マスコミで評判となる東京銀座の交差点近くの土地が話題になっていますが、古代ではその土地ということではなく、その国の経済状態・・・つまりどういった生産物があるのかということが判断材料になって、はっきりと差別が行われていました。

それが今回のお話です。

為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)

天長十年(八三三)五月十一日のこと

発生した問題とは

この国によって差別が決められた「律令」というのは、

飛鳥浄御原律令というものがはじまりで、やがてそれにこまかな法例も決められて、桓武天皇の時代になって830年頃に律・令・挌・式という四大法典が整備されたといわれていますが、これに背くと死を覚悟しなくてはならないというので、大変な存在感のあるものでした。

そんなことから、古来「急急如律令」と書かれたお札を玄関に貼って、魔除けにした地方もあるくらいです。

二月に(じゅんな)天皇の体調が優れないことから、嵯峨太上天皇の御子である、皇太子の正良(まさら)親王に譲位して仁明(にんみょう)天皇としたのですが、新天皇は直ちに淳和太上天皇の御子である恒貞(つねさだ)親王を皇太子として、政庁を率いることになりましたが、天皇はまず「律令」によって、生産物の多少によって日本各国を上中下に仕分けしてあるのを参考にして運用していくことにしたのでした。ところがたちまち五月になると、武蔵国から次のような訴えがあったのです。

「武蔵国は管内が広く、国内を旅行するに際し困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数に上ります。そこで、多磨・入間両郡の郡境に悲田院を置き、五軒の屋舎建て、介従五位下当宗宿祢(まさむねのすくね)家主(いえぬし)以下、少目従七位大丘秋主(おおおかのあきぬし)以上の六人がそれぞれの公廨(くげ)(俸禄)を割いて、食料の原資とすることを企画しました。割いた公廨分は帳簿に登載して出挙(利息付貸付)し、その利息を充用することとし、以後は弘仁の国司が引き継ぎ、多用は認めないようにしたいと思います」(続日本後紀)

もちろんその申し入れは認められましたが、間もなく天皇は病にかかってしまいます。しかし天皇は次のようなことをおっしゃいました。

「大和国が『年来穀物が稔らず、規定の公出挙稲(利息を公用にあてる貸付稲)にも欠ける始末ですので、弘仁十年官符に倣い、国内の裕福な人の稲三万八千束を借り上げ、飢民の生活の資にしたいと思います』と言上してきたので、許可し次のように徴した。富豪の畜稲は、貧者の資けとなるものである。聞くところによると先般以来お子馴れているところをみると、役人はそれに相応しくなく、ただ富豪の稲を刈り上げることに務めるのみで、救済に心がけず、このため貧・富共に疲弊しているという。乏絶している者を救済する態勢維持のために、秋の収穫期に到ったならば、特別に使人を遣わして、借用されている稲をすべて返済させよ」(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

ところがその二日後のこと、京および五畿内・七道諸国がみな飢饉となり、天皇は直ちに次のように指示をされた。

 「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず窮乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎を固め、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、これを目的にしている。朕は慎んで天命を受けて人民を労り、世を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々が長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると、昨年は昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え、病になっているという。朕は支配者として、臨みながら、民を安らかにすることが出来ていない。静かにこのことを思うと、憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちが無ければ、恐らくは努力が足りないことになろう。京および、畿内・七道諸国の飢民に対して物を恵み与え、その生活を支え(すく)うことができるようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行き渡るようにし、朕の意とするところに沿うようにせよ(続日本後紀)

 しかし現代の県に等しい国によって分かれていて、それぞれはそれぞれの問題を抱えながら、それぞれの知恵を絞って生き残らなくてはなりません。そんな中で山林しか資源がないという、貧しい国が飛騨(ひだ)でした。政庁では国家を支える重大な財力となるものを持っているかどうかということで、国を上中下に分けていたのですが、飛騨はその中でも、ほとんど資源を持っていない国だったので、下下の下国と蔑まれていたのです。それほど貧しい国として捉えられていたのですが、そこに住む者たちは、資源が森林しかない、生きることすら困難な環境と戦いながら、やがて彼らはその貧しい土地から生きる知恵を生み出したのです。

朝廷が祖・調・庸・という税収の目安としていた、国別の格差を次のような表を作っていました。

大国 

大和 河内 伊勢 武蔵 上総 下総 常陸 近江 上野 陸奥 越前 播磨 肥後

上国 

山城 摂津 尾張 参河 遠江 駿河 甲斐 相模 美濃 信濃 下野 出羽 加賀 越中 越後 丹波

但馬 因幡 伯耆 出雲 美作 備前 備中 備後

安芸 周防 紀伊 阿波 讃岐 伊予 筑前 筑後

豊前 豊後 肥前

中国 

安房 若狭 能登 佐渡 丹後 石見 長門 土佐 日向大隅 薩摩

下国 

和泉 伊賀 志摩 伊豆 飛騨 隠岐 

 この中から飛騨は「下下(げげ)下国(げこく)」と蔑まれていたほどで、森林以外に暮らしの術を持たない民は、仁徳天皇の時代に地元の有力者であった両面宿儺(りょうめんすくな)という怪人を押し立てて、朝廷軍と戦ったことがあったほどですが、やがてその森林しかない土地であることを逆手にとって、生きる手立てを見つけて知恵を磨き始めたのです。

 こんなお話を現代の問題として取り上げたのは、それなりに意味があります。

 国によって税の比率が違うことが第三章「時代の変化に耐えるために」「その三の六」の「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の文書の記録の中に、その税率の実例が書かれています。どうぞご覧になって下さい。

温故知新(up・to・date)でひと言

飛騨国の者は周辺にいくらでもある森林を使って、交錯する知恵と技術を磨き、飛騨(ひだ)の匠として飛鳥の都へ出て行くようになり、朝廷が立ち上げる皇室の宮殿建設に携わるようになり、その技術が認められるようになり、弥陀の匠としての特異さが認められるようになり、飛鳥から奈良に向けて、都へ出て特別な技術者として朝廷に採用されて宮殿建設に重用されるようになったのでした。敢えてこのようなことを取り上げたのには、それなりに意味があります。貧しい環境であるために、その貧しさを活かして樹林を活かした技術を身に付けていったということを知って頂きたいのです。

 現代の人々は、困ったことがあれば直ぐにインターネットで検索をしてしまいますし、簡単に答えを手に入れて満足してしまいます。それはそれなりに意味はあるのですが、その簡便さのためにそれぞれの人が、それぞれ独自のアイデアを生み出すことが出来なくなってしまっているのです。ちょっと前まではいろいろな時に知恵を出して問題を解決してしまう人のことを、引出しの多い人として評価をされるし、尊敬されました。みな同じ知恵を共有することも作業を進める上では役に立ちますが、それでは結局それ以上の結果を生みだせません。その人なりの知恵の引き出しを沢山持っていることが勝負の分かれ目となります。さまざまな国から、下下(げげ)下国(げこく)などと蔑まれていた飛騨から、飛騨の匠をという特異な人々が誕生させたには、その貧しい環境である原点であった、樹林しかないという弱点を長所に変えていってしまった智慧の勝利だと思うのです。何でも都会へ出ていかなくては成功しないという偏見は捨ててみましょう。古来「桂玉之艱(けいぎょくのかん)ということが云われます。きわめて物価の高い都会生活をしたり、学校へ通ったりすると、却って苦しむということです。たしかにそんな要素がありますが、育ったところの環境を思い、その環境を活かして、他の人にはない知恵を磨いてみませんか。それがきっかけで、立身出世して都会で尊重される技が活かされて、再び生まれ故郷へ帰ることもできます。まさに「衣錦還郷(いきんかんきょう)ということです。飛騨の者たちは生まれた土地の貧しさ、不自由を逆手にとって、生きる知恵を身に付けて、飛騨の匠という特異な技術者としての地位を確立したのです。都でも尊重されました。まさに生きるものは環境に最も適した者が生き残り、そうでない者は滅びるということを表した「適者生存(てきしゃせいぞん)という言葉の証明をするかのように、古代の飛騨国は存在したかのように思えてきます。この機会に、もう一度身の回りの環境が活かせないかどうかを考えてみてはどうでしょうか。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑21 [趣味・カルチャー]

「烏の行水」

 一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。

かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。

つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。

私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、

「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」

あっさり宣告をしてこられたのでした。

私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。

それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の三 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(三)

    為政者の課題・「老人・孤独人・寡婦への救済」

弘仁五年(八一四)になると、嵯峨天皇もかなりその異色ぶりを発揮していらっしゃるのですが、兎に角これまでの政庁の主導者は大変権力志向の強い存在であったのですが、今回は大胆に自らの親族に対して臣籍降下をしてしまうというという決断をされました。

そんなこともあって心身ともにお疲れになったのでしょう。六月にはお疲れになって、体調を崩してしまったりいたします。天皇はこれまでと違って、かなり民に対する気づかいをされる方でしたのですが、その方が厳しく管理をすることが出来ないということが判ってしまうと、その

政庁の行う救済処置を悪用して、貧しく困窮しているということを装う不埒な者も出てきます。

 どうも悪の種というものは、K古代も現代もありませんね。折角の政庁の配慮で、欠損を生じた庶民の日常生活を補助しようと、様々な形で援助する施策を打ち出しているのですが、どうもそれを悪用する者が、跡を断ちません。

 そんなある日のこと、右大臣藤原園人(ふじわらそのひと)は、こんなことを進言してきました。

 「去る大同二年に正月七日・十六日のせつを停止し、同三年には三月三日の説を停止しました。これは出費を抑制するため得下が、現在、正月の二節は復活し九月九日の説は三月三日節に準じては医師、復活しています。去る弘仁三年からはこれに花宴が加わり、延暦の頃と比較すると、花宴が一つふえ、大同のころに比べると復興して四節が行われていることになります。これらの節での禄支給により、官庫の貯えが尽きていますので、伏して、九月九日は節会とせず、臨時に文章に優れた者を選び、所司に通知して作詞させることを要望いたします。願わくば、節録支給を取り止め、大蔵の官庫の減損しませんことを」(日本後記)

 更にその人はこうも申し上げました。

 「去る延暦十年に天皇が交野に行幸しましたが、この時畿内国司による献物を禁止しました。しかし、年来この禁止令は守られていません。国郡の官人は必ずしも相応しい人物ではなく、貢献にかこつけてかえって百姓に負担をかけ、穏やかでないとの批判が止みません。伏して、今後一切貢献を禁止することを要望します。ただし、臣下が個人として供進することは禁止する必要がありません」(日本後記紀)

 そのいずれも許可されました。

 天災による被害がかなり広がっていて、そのための国の財政もかなり苦しくなっているようです。しかし本当に救済しなければならない人は救わなくてはなりません。

為政者・嵯峨天皇

弘仁五年(八一四)八月二十九日のこと

発生した問題とは

天皇は神祇官の勧めによって鴨川で(みそぎ)を行ったりされるのですが、それでも七月にはまた天災に襲われたりするのです。

 「六年ごとに班田することは、令条(れいじょう)田令(でんれい))で定められている。これより六年間隔で、諸国が一律に班田すべきであるが、大同以来疾疫(しつえき)が起るなどして、規定通りの班田ができなくなっている国が多い。通法の感点から、あってはならないことである。そこで、遅れて班田した国が六年の間隔を充たすのを待って、全国で一律に校田と班田を行え」(日本後紀)

 天皇は指示をしていらっしゃるのですが、この前にはすでに自らの身を斬る決心で、御子たちの臣籍降下などの決心を発表した後での政庁での指示です。天皇は更に、

「近江、丹波などの諸国では、年来旱害(かんがい)が頻発して稼苗(かびょう)が損害を被っている。禍福は必ず国司によることが判るので、今後日照りとなったら国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、(けが)汚すことのないようにせよ」(日本後紀)

 唐国では大変貞節な夫人が、無実の罪で処刑された後、旱魃に悩まされてしまうのですが、能吏百里崇(ひゃくりすう)が旱天の徐州(じょしゅう)刺史(しし)(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降ったと伝えられています。

禍福は必ず国司の人となりによると、天皇は唐国の史実を挙げながら、今後日照りとなったら、国司は潔斎してよき降雨を祈願して、暮らしを厳重に慎み、()れ汚すことのないようにせよと、地方の官人の心構えについて戒めたりなさいました。

 「朕は謹んで皇位に就き、天皇としての事業を引き継ぎ正務に励んで年月をへた。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七つの政治のよりどころ整えて、水旱の災害がなく、国司を励まして、仁徳と長寿の喜びが得られることを願ってきた。ところが年末春耕が始まり、開花の時期を待って、有難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝の間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい賜物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧尼、および六十一歳以上の老人、(かん)(夫を亡くした女)・()(独り者)・()(孤独で自活不能者な者)などの自活不能者の様子によって、あまねく物を支給することに心がけよ」(日本後紀)

為政者はどう対処したのか

 百姓が苦しいといっているのに、為政を行う者が、それを無視することはできないと考えられた帝は、左右京と畿内の今年の田租は、停止すると命じられるのですが、天候は不安定で、日照りが続いて難渋させられたかと思うと、今度は真逆に長雨がつづくようなことが起ってしまいます。帝はその度に伊勢の神、賀茂の神に使者を送って奉幣して安穏を祈りました。

 「朕は謹んで皇位に即き、天皇としての事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七政(しちせい)(七つの政治の拠り所)を整えて水旱(すいかん)の災害がなく、九農(きゅうのう)(古代中国の農業に関係する九つの官職。ただし、ここは国司)を励まして仁寿(仁徳と長寿)の喜びが得られ年来春耕が始まり、開花の時期を待ってありがたい雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝間(うねま)に穀物をのこしているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた。結果である。朕はこの喜ばしい贈り物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、(かん)()()(どく)で自活不能者に等級をつけて物を施給(せきゅう)せよ。あまねく支給することに心がけよ。そして、朕の意を称えさせよ」(日本後紀)

まだ即位してから五年というわずかな治世でしかありませんが、先帝とは違った為政の在り方というものを印象づけたくても、まだまだ何もかも整理しきれないことばかりです。国を統治する者としての課題も、あまりにも多い状態でした。まさにこれは現代的な課題でもあります。

 右大臣藤原園人が次のような進言をいたしました。

 「諸国が収納する官物については、納置(のうち)する倉の種類・名称を詳しく正税調(せいぜいちょう)に記載することになっていますが、国司は必ずしも適任者ではなく、国府に近い便郡(びんぐん)の稲は俸禄である公廨(くげ)に充当し、百姓に出挙する稲には遠郡(えんぐん)のものを充てています。このため遠郡の倉はありあまるほどとなり、交替の際には、遠郡と便郡の稲を通計することを行っています。このような事例は、出雲国に多く見られます。もし甲郡に貯積すべき稲が乙郡の倉に納められるとなると、帳簿上は全倉(ぜんそう)(鞍の貯稲穀に欠損が無いこと)となり不意はありませんが、出雲国では俘囚の反乱(荒橿(こうきょう)の乱)により全倉の倉が怪人となっています。伏して、今後諸国では帳簿通りにそれぞれの軍の倉にそれぞれの郡の稲を収納し、甲乙の郡で通計することを許さないよう要望いたします。帳簿と現実に収納されている倉とが食い違っていれば、実情に応じて科罰(かばっ)することを求めます。願わくは、朝廷にとり損害が少なく、人民にとり救いとなりますことを」(日本後紀)

 民の苦境には様々な問題があり、その解決のためには政庁としてその解決をしなくてはならないことがあると進言したのでした。

その進言には意味のあることを感じられた天皇は、直ちにその進言を受け入れて許可しました。

 天皇には臣下の進言であっても、その内容によっては直ちに動き始めます。こういったことは、現代でも充分に参考とすべきではないかと思われます。

 古代も現代もなく共通する問題は、如何に救済を正しく行うかということです。充分に調査をした資料を基に訴えを得た為政者は、現代でもその姿勢を古代と共にあるべきだと思います。

確かに救済を受ける者の中に紛れ込んでいる、偽りの困窮者がいるということも考えなくてはなりません。特に現代では充分に調査するべきです。そんな不埒な人間のために、真に救済されなくてはならない者が外されてしまったら大変です。収入の救済給付金の問題は、正にこのことと符号してしまうのではないでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

制度そのものについて、検討すべきことは速やかに行わなくてはならないでしょう。古来、そうした救済してやらなければならないといけないと誰もが認めるよう人々を、「鰥寡孤独(かんかこどく)といっていました。身寄りのない人々を云う。鰥は年を取って妻のない、おとこやもめ。寡は年を取って夫のいない女。未亡人のこと。孤は幼くて親のいない孤児。独は独り者。此の境遇にある者はみじめな境遇で、気の毒な人であるということです。それらの人々を「無告之民(むこくのたみ)」+ともいいました。未亡人、孤児などのように、どこにも頼る人のない天街孤独の人です。現代では未亡人だからといって、しょげ返って生きている人はないかもしれませんが、中には救済を必要とする人々も存在しています。自ら生きる努力を放棄してしまっている若者などは論外ですが、非営利で社会活動をする民間組織であるNPOというものがありますが、それでは満たしきれない人々が存在することも確かです。「貧者一燈(ひんじゃいっとう)」+という言葉がありますが、貧しい人であっても同じような境遇にある人を救おうと寄進して下さる人があります。それはたとえわずかであっても、真心が籠っていれば金持ちの多大な寄付にも勝っているものです。人のために尽くしてあげるということも、生きる力となるかもしれません。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言20 [趣味・カルチャー]

「シュンのもの」

「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」

季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。

昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言われていましたが、江戸の町民たちは無理をして、高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。

カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源を辿るると、「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということになるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようです。しかし最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものも多くなってきていますね。

その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。

食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。

 一寸寂しい気がしないわけではありません。

 科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わっていく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うのです。

 「シュン」という感性を大事にしていきたいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の二 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(二)


    為政者の課題「朝廷に頼り過ぎるな」


弘仁四年(八一三)です。


嵯峨天皇は即位してから数年過ぎていますので、為政について落ち着いた指示をしていらっしゃいます。


 古代の資料を見ていると、天皇が狩猟に出かけるという記録が、かなり出てきますが、これは天皇の体調を計る上で貴重な手掛かりになるだけでなく、それ以上に貴重な手掛かりとなるのは、それを利用して各地の農作物の様子を確認しているようにも思えるのです。


 政庁はそんなある日のこと、次のようなことを発表しました。


「農業作となったのはとしは、土着の民も移住してきた俘囚(ふしゅう)もみなその被災者となるが、物を恵みあたえるに当たっては俘囚は対象から外されている。飢饉の苦しみは一様のはずであるから、恩恵が土着民と俘囚を差別して施されるのはどんなものであろうか。今後は俘囚にも公民に準じて恵みを与えよ。ただし、勲位を帯びたり、村長その他特別に粮米(ろうまい)支給にあずかっている俘囚は支給する限りではない」(日本後紀)


 天皇の俘囚に対する差別をしないという姿勢は、すでに第一章「卓越した指導者といわれるために」「民への気遣いはいつも」の「その一の二」の閑談で触れていますが、基本的に革新的な発想は持ちつづけていました。


 しかし天皇はただ俘囚を理解してやれとおっしゃっているわけではありません。


資料の記録によりますと、次のようなことも指示していらっしゃいました。


 「移住した夷俘(いふ)の性格は、内属の民と異なり、朝廷の教化に従うようになっても、野性の心性を忘れていないので、諸国司らにつとめて教諭を加えさせている。しかし、国司らは朝廷の時事に反して世話をすることを怠り、いつになっても夷俘らの要請を取り上げず、夷俘らは憂いや怨みを抱き、ついには反逆を起こす始末である」(日本後紀


 天皇は夷俘たちの性格も理解した上で、そのために恵みを忘れてしまう国司などがいるために反逆をすることになると、極めて冷静に状況を把握していて、それについての対処の仕方を指示していらっしゃいます。


 天皇は為政者として季節的な変化が農作物などに影響を及ぼしてしまうことについても、かなり心を煩わせていらっしゃいました。


「治国の肝心なことは、民を豊かにすることで、民に蓄えがあれば凶年であっても、その被害を防ぐことが可能である。ところで現今の諸国司らは、天皇の思いに背き不適切な時期に百姓を労役に動員して、農繁期に妨害をして、侵害のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを持っていない。このため人民は生業を失い飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が、飢えているという報告がなされている。このため毎年恵みを与えって、倉庫はほとんど空になってしまった。ここで災害が起これば、どうして救うことができるであろうか。すべて悪しき政治の弊害としてこうなってしまったのである。今後は農業が出来なくなったり、疫病にかかったりした時以外で、朝廷に対して安易に援助を求めてはならない」(日本後紀)


 人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれといっていたら、キリがなくなってしまいます。民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては・・・ 


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)五月二十五日のこと


発生した問題とは


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷(えみし)についてですが、国司(こくし)たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、一般の農民たちとの暮しに同化した蝦夷のこと)たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。帝は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


「辺境では外からの侵略を防ぎ、不慮への備えでは食料が重要である。近年辺境では大軍が頻繁に動員されて、軍粮を費やし尽してしまったが、なお侵犯事件はあり何が起こるか予測し難い状況である。軍粮の蓄えがなければ、突発事件にどうして対処できようか。そこで、陸奥・出羽両国の官人らへの俸禄の財源である公廨稲(くげとう)(奈良・平安時代諸国に蓄積された、利子つきの貸し出し用の稲)は正税に混合し、替わりに毎年、信濃・越後両国で陸奥・出羽国司及び鎮守府官人の俸禄を支給することにせよ」(日本後紀)


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生した為に、世間では飛んでもないことが広がり始めていました。


為政者はどう対処したの 


六月のことですが、右大臣が沈痛な面持ちで報告いたしました。


「以前付き合いのあった者を忘れず、苦労した者に酬いるのは、優れた賢人の教えであります。生命を重んじ大切にする点で、貴賤の間に相違はありません。いま、天下に僕隷を有する者がいますが、常日ごろ使役しながら病患となると道端に遺棄し、看護する人がなく餓死する仕儀となっています。この弊害は言い尽くせません。伏して、京職・畿内諸国に命令して、速やかに禁止することを要望いたします。願わくば路傍に無残な死体を放棄されることがなく、天下の多くの人が天寿を終えることができますことを」(日本後紀)


その訴えに対しては、帝は直ちに禁止の命令を出して、それに違反する者は厳罰に処すると、告知するように指示されました。それにしても最近各地に飢饉が起こり、それに対する手当にも財の支出があって、朝廷はその経営に困難を極めていたのです。


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しましたが、民にも朝廷に寄りかかるという悪弊は断ち切らないといけないとおっしゃいました。


ところが為政者と民との間にはまだ他にも問題がありました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷についても、国司たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。天皇は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生して、そのために世間では飛んでもないことが広がり始めていたのです。右大臣の沈痛な報告を聞かれた天皇は、自らも改革をしなくてはならないことがあるのではないかと、思い巡らすようになっていらっしゃったのです。それから間もなくです。臣籍降下というびっくりするような決断を発表されるのです。


確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいます。嵯峨天皇がおっしゃったように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできなくなってしまいます。それは現代の我々にとっても一考する問題なのではないでしょうか。


 天皇がこのようなことをおっしゃいました。


 「自然界の利は公私が共にすべきではあるが、生物は適切な時期に捕獲しないと、繁殖しなくなってしまう。現在、百姓が好んで小魚(あるいは年魚・アユ・の稚魚か)を捕っているが、多量に捕れても、利用することができない。そこで、山城、大和・河内・摂津・近江などの諸国に指示して禁断せよ。ただし、四月以降は禁止する必要はない」(日本後紀)


 確かにこの通りで、欲しいからといってその欲求のままに捕獲してしまっていたら、資源は枯渇してしまいます。これは古代も現代もありません。特に資源が豊かにあるという訳ではない日本の場合は、欲しいからと言って、欲求に従って手に入れてしまっていては、たちまち資源は枯渇して苦しくなってしまうでしょう。


 最近でも電力事情を考えないで、国民が電力を好きなように使っていれば、かなり危機的な状態に陥ります。そうかと言って原子力にその救いを求めるようなことになることは、避けなければならないでしょう。兎に角安全な電力の確保をするために、政府に要求するだけではなく、民間でもエコな電力を開発する努力はしなくてはならないと思います。


温故知新(up・to・date)でひと言


 時代の様相が変わって、福祉ということでは古い時代とは違って、かなり充実してきていると思います。しかしもう充分というには、ほど遠いものがあります。確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいますし、実際にやり切れるものではありません。嵯峨天皇がおっしゃるように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできないでしょう。為政者にはもっと福祉の充実をしてくれと要求しながら、それと同時に被為政者たちも、現状脱却のための努力をするべきです。官民一体ということが云われるのはそのためでしょう。古来「雲翻雨覆(うんほんうふく)ということがいわれます。世の人の態度や人柄はめまぐるしく変わるということです。人情も移ろいやすく、功績のあった幹部、部下も、利用価値がなくなると捨てられてしまう「狡兎良狗(こうとりょうく)であることを隠していなくてはなりません。現状打破を為政者に求めるだけではなく、自分も困難に立ち向かう努力もしてみましょう。「盤根錯節(ばんこんさくせつ)といって、困難に出合ってはじめてその人の力量、価値が判るといいます。世の中の難儀な事柄に立ち向かってみましょう。為政者への要求は、それからでもできます。お互いにどのような葛藤をしているのかを理解し合いながら、現状打破を目指して精一杯頑張ってみましょう。その上で為政者にも努力して貰わなくてはなりません。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑20 [趣味・カルチャー]

「つつがなくお過ごし?」

 コロナ、オミクロンと、次々厄介な病原体が襲いかかってきて、親しい人とも気軽に会えませんし、まして遠方にいらっしゃるかとは、わざわざ出かけて行くことも不安になって、ついご無沙汰ということになってしまいます。兎に角消息が知れないのは不安になるものです。

 そんなことからせめて手紙を出そうと思うのですが、その冒頭の書き出しのところなのですが、私などはつい「暫くご無沙汰してしまっていますが、つつがなくお過ごしでしょうか」という、典型的なご挨拶で始まる手紙を書くことになるのですが、よく考えるとこの「つつがなく」というのはどういう意味なのかということに突き当たりました。

そこで一寸調べてみることにしましたので、その結果をお知らせしておこうと思いました。

 これが何と聖徳太子の時代から、これは「つつが虫」という虫の名前で、原因不明のきわめて恐ろしい病気として恐れられていたというではありませんか。変に専門的なお話になりますが、これはダニ目のツツガムシ科の節足動物なのだそうで、野ネズミなどに寄生していてつつが虫病を媒介するというのです。

 この病原体が突き止められたのは明治時代あたりになってからのようで、それまでは死亡率が40パーセント以上という、極めて恐ろしい病だった

のでした。

 事件の発生地として知られているのは、明治以降では新潟県の阿賀野川、信濃川・山形県の最上川、秋田県の雄物川が知られているのですが、大雨などが降った時などに水をかぶってしまう、草原や耕地に人が入るとつつがむしの餌食になるようです。ところで思わず思い出したことがあります。

聖徳太子の住んでいらっしゃった奈良県の飛鳥あたりは、湿地帯だったということなのです。古代の大きな戦争として知られる物部氏と蘇我氏の戦いは、湿地帯に暮らして雨季にはいつもあたりに洪水に見舞われる蘇我氏に対して、大阪の八尾市という乾燥した地域に暮らす物部氏は、極めて農産物にも恵まれていたということを考えますと、いつかはその有利な支配地を取ろうとする蘇我氏と、それを拒否する物部氏との間での戦いになることは、止む追えない状況でした。

言うまでもなく聖徳太子は蘇我氏と共に戦いました。

称徳太子はつつが虫を大変警戒していたという話がありましたが、その話が切実に迫ってきます。

どうぞみなさんは充分に知識を頭に置いて、警戒をしながら地方への観光旅行にお出かけ下さい。

つつがなきことを切にお祈りいたしております。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の一 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(一)

    為政者の課題・「神を利用するな」

弘仁三年(八一二)嵯峨天皇にとっては政庁を率いるようになって三年目のことです。

 嵯峨天皇はさまざまなことに余裕を持って為政を率いるようになっていらっしゃいましたので、早春には神泉苑へ行幸されて、文化人たちと共に花宴を開かれ、詩を作ったりして楽しみました。この時の催しが、花宴の始まりであったといわれているのですが、これまでの天皇とは確かにひと味違っています。

平安宮の改革にも手をつけられ、それまで日常お使いになっていらっしゃった正寝(おもて御殿)は、仁寿殿といって紫宸殿の北にあったのですが、その西に清涼殿をお造りになられて、休息を兼ねて日常の生活をなさる所として、仁寿殿と交互に使われるようになりました。それともう一つ、平城天皇の退位なさった時の教訓でしたが、お住まいになる「院」というものが存在していなかったということです。そのことについては、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で詳しく書いてありますのでご覧下さい。

 天皇は巷の様子を見届けながら、さまざまなことに目配りをしていらっしゃるのですが、神仏に関わる者たちには、決められたことはきちんと守るように、毅然とした姿勢をお示しになられました。

為政者・嵯峨天皇

弘仁三年(八一二)二月十二日のこと

発生した問題とは

 いつの時代になっても、社会的に不安のある時などになると、どういう訳かおかしな神様が登場してきて、何かと不安を抱えている庶民を、巻きこんでいってしまうことがありますが・・・。

 天皇は大変気になることがありました。神仏に関することで次々と指示をされています。

「近年、諸寺の僧尼は多数に上り、うわべは真面目に修行しながら、実は戒律を守らず、きちんと精進しないで、しばしば淫犯をなす者がいるという。取り締まるべき僧綱は、阿って取り締まらず、役所の方も糺すことをしていない。また、法会で懺悔を行うに当たっても男女が混雑して区別なく、挙げきれないほどの非礼の行動がなされている。これほど仏教の教えを破り、風俗を乱すものはない。永くこの弊害のことを思うと、懲粛しなければならない。そこで、京職と諸国に命令して、部内の寺・道場などのすべてに立て札を立て、淫犯の類を禁断せよ。もし、禁制を守らず、男女別であるべきところへ一人でも混入するのを容認すれば、三綱(儒教で社会の根本となる君臣、父子、夫婦)と混入した者らには違勅罪を科せ」(日本後紀)

いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。

 「近頃、多くの僧侶が法律を犯しているが、薬傷は放置して戒律に委ねるのみで、取り締まりを行っていない。国法が蔑にされ、深刻な弊害となっているので、今後は、僧侶が罪を犯したならば、軽重を問わず、すべて僧尼令により糾せ」(日本後紀)

この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。

 「封戸(神戸(じんこ))を与えられている神社では、神戸が修造に当たるが、封戸のない神社では修造に当たる者がいない。今後は禰宜(ねぎ)(はふり)(神官)が修造に当たるようにせよ。小さな損壊が出来するたびに修繕し、怠って大破に到ることのないようにせよ。国司が頻繁に巡検すべきである。もし、禰宜・祝らが任務を怠り破損が出来した時は、解任せよ。有位の禰宜・祝は位記を没収し、無位無官の者は(じょう)百に処せ。国司が巡検せず、破損した場合は、交替のときに解由を拘留せよ。ただし、風災・火災などの非常の損に遭い修繕できないようなときは、言上して判断を仰げ」(日本後紀)

 いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。

 「伊勢国の神郡(しんぐん)である多気(たけ)渡会(わたらい)両郡および飯高(いいたか)飯野(いいの)等七郡の神戸百姓(ひゃくせい)らは正税(しょうぜい)の授受・返納過程での不正や遅延があると刑罰が加えられ、これにより、神事執行に当たって円滑な決済ができなかったり、逃亡する仕儀となっている。このため、以前から出挙を停止しているが、公出挙(くすいこ)に与かれないため民は富民(ふみん)から稲を借り、返済する額は元本の数倍にもなっている。このため、違法な出挙を行う者は犯罪者となり、返済する側は弊害を受ける事態となっている。そこで、らいねんからはじめて(しん)(ぜい)の他に、正税十三万三千束を出挙し、その利息は斎宮の経費に充てよ」

(日本後紀)

 この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。

天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって、早くいい雨が降ってほしいと急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。

神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。

夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのような受け止め方をしているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃったのです。

すべて満足な状態ではなくなっていることは承知していらっしゃるのですが、そのような思いを抱かせるということは、やはり為政者の責任であると受け止めていらっしゃったのです。

天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、神仏に関しての思いを政庁の中で徹底していかれたのでした。兎に角神仏に関しては、いい加減に扱ってはならないということです。

 「近頃は疫病と日照りが続き、人民は穏やかではない生活を送っている。静かにこのことを思うと、人民の苦しみが思いやられる。ところで、神祇には禍を転じて福となす働きがある。願わくは、神助けによりこの災禍を消滅できることを。そこで天下の名神に速やかに奉幣せよ」(日本後紀)

 天皇は指示をされると、大極殿へ出られて伊勢大神宮に奉幣されました。疫病と日照りからの救済を祈ってのことである。

これまで夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃいます。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。

天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、

 「聖人は怪力乱神を語らず。世を惑わす妖言の罪は重大であるが、諸国は民の狂言を信じて、しきりに報告してきたりするのだが、それらは天皇を批判する言葉であったり、濫りがましい吉凶の予言に関わったりしている。これ以上法や秩序を乱しているものはない。今後、百姓が濫りに神託を称するようなことがあれば、男女を問わず処罰せよ。ただし神託が明白で、しっかりした証拠があれば国司が調査の上で、事実を上申せよ」(日本後紀)

 いつの時代でもそうなのですが、不安が広がったりすると、なぜか神頼みの気分が生まれ、そんな心理状態を利用して怪しげな神様が、あちこちに誕生してしまいます。これは決して古代の問題ではありません。現代の我々の問題でもあるのです。

 いつの時代になっても、何かと不安を抱えている庶民を巻きこんで行ってしまう怪しい神様が登場します。よく噂の真相を突き止めないと、神を使った者の話術に騙されて、その渦の中に巻き込まれていってしまいます。

温故知新(up・to・date)でひと言

 よく話題になることですが、四字熟語では「街談巷説(がいだんこうせつ)といって、巷に渦巻く噂話。根も葉もない噂などに慌てふたむいて、「周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してしまって適切に処置できなくなってしまったりしたら、まさに「矮子看戯(わいしかんぎ)ということになってしまいます。物事を判断する見識のないまま、付和雷同してしまうということです。噂の渦に巻きこまれてしまって、偽の神様の思うが儘に利用されてしまいます。兎に角時代が不安になった時には、インチキ神様が絶えず登場して、迷っているものを探してさまよい歩きます。どうか迂闊にその魔力にひっかからないで下さい。地道に努力を積み重ねることが大事です。


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