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☆閑談の部屋とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑5 [趣味・カルチャー]

     「遷都しすぎです」

 何をやるにしても、大がかりになってしまうのが現代です。たとえば首都を東京から京都へ移すなどということがあったら、それこそいろいろなもの、いろいろなことが停滞してしまうことになるでしょう。政治を司る人たちも容易ではないと思います。そんなことを考えながら古代の遷都の跡を訪ねてみたのです。

 私がこれまで、調べたり、その場へ行ってみたりしたところは、大体次のようなところです。大雑把にその場を書き上げてみると、次のようなところです。

飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)長柄豐崎宮(ながらのとよざきみや)藤原京(ふじわらきょう)平城(へいじょう)(きょう)()()(きょう)紫楽宮(しがらきのみや)平城京(へいじょうきょう)長岡京(ながおかきょう)平安京(へいあんきょう)

 といった状態です。

勿論そのほとんどのところは、その元の形を残してはいません。精々大極殿の跡が復元されているだけです。飛鳥から藤原京へ移って、かなり本格的な京が出来たはずなのに、持統天皇(じとうてんのう)文武天皇(もんむてんのう)元明天皇(げんめいてんのう)元正天皇(げんしょうてんのう)という女帝三代を中心に、694年から710年というわずか16年間だけで平城京へ移って行ってしまいます。どうしてあれだけ立派な都を作りながらと思ってしまいます。

その場へ行ってみると、その頃のことが想像できて暫く古代を楽しむことが出来るのですが、それにしてもこんなに絶えず遷都していては、財力も大変ですし、それにかかわる人材、資材も必要ですから馬鹿には出来ないはずです。みな疲れてしまうのではないでしょうか。そんなことを考えていると、どうしてこんなに絶えず遷都をしてきたのだろうかという疑問に突き当たってしまうのです。

それは学者の間でも謎の一つになっているようなのですが、私が一番不思議に思ったのは、聖武天皇の短期間での遷都があまりにも多かったということなのです。

大阪にある難波宮のことなのですが、天武天皇が平城京という京を持ちながら、ここの長柄豐崎宮に遷都してくるのです。ごく近くには海があるので、異国から船でやって来た使者は、目の前の高いところに聳え立つ宮殿を見て感動したかもしれません。ところが間もなく、聖武天皇は恭仁京へ遷都してしまうのです。ところがまたたいして時間もたたないうちに、紫楽宮へ遷都してしまいます。しかし更にびっくりするのは、それから暫くするとまた平城京へ還都してしまうのです。

簡単にいいますと平城京から難波宮。難波宮から恭仁宮。恭仁宮から紫楽宮。紫楽宮からまた平城京というわけです。

 天皇は晩年に、どうしてこのごく近くの地へ転々と遷都を繰り返したのでしょう。

政治的な課題があったのか、地理的経済的理由か、それとも宮殿建設の耐用年数の問題なのか、それとも健康的な理由があったのだろうか。いろいろと原因はあると思われるのですが、そのどれもが決定的なことではなかったようです。それではどうして・・・。あなたもいろいろと推理しながら、史跡探訪を楽しんでみませんか。

 というところで、どうしてと思われる古代のお話の中で、嵯峨天皇の子で仁明天(にんみょうてんのう)がいらっしゃいますが、その子である文徳天皇(もんとくてんのう)の話なのです。ややこしい人脈のお話からいたしましたが、こんなに血統も正しい天皇なのに、どうして元号を度々変えなくてはならなくなってしまったのでしょうかという問題です。

 文徳天皇は850年から857年というわずか7年間という短い統治期間の間に、

 「庚午」「仁寿」「斉衡」「天安」

 絶えず年号を変更しました。

 実は彼の場合にはかなり深刻な問題があったのです。

 彼には第一子として惟喬親王がいるので、彼を皇太子にしたかったのですが、どうしても政庁の実力者である藤原良房が政敵の紀名虎の娘である静子(せいし)だったので許しませんでした。

 何をやっても思うようにはならないことから、年号を変えていい流れでも呼び込みたかったのでしょう。ところが天皇の支えとなるはずの嵯峨天皇の皇后であった嘉智子が、彼の即位と同時に他界してしまって、後ろ盾となる人がいなくなってしまいます。そのために一気にのし上がってきたのが右大臣です。文徳天皇を苦しくさせる原因でした。

しばらくして良房は、嵯峨天皇の娘潔姫との間に産んだ娘明子(あきらけいこ)ついに仁明天王との間に惟仁(これひと)親王を誕生させるのです。良房はその惟仁親王を皇太子としたかったのです。

その詳しい経緯については省きますが、結局文徳天皇は息子を即位させられずに、右大臣の孫を天皇とせざるを得なくなってしまったのです。それが清和天皇誕生前後の政界での出来事でした。

聖武天皇の場合とは別の意味で、為政の内で「そんなことを、どうしてたびたびも・・・」と思わせることをなさった、文徳天皇のお話もしておくことにいたしました。彼はツキを変えようと思ったのでしょうね。

政治の世界には、庶民の判らない様々な問題が潜んでいるのですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の二 [趣味・カルチャー]

      第二章「安穏な暮らしを保ちために」(二)


        為政者の課題・「為政者として心がけること」


弘仁九年(八一八)です。嵯峨天皇が即位なさった時から、九年がたっています 


 「去年は旱魃で秋収が損なわれ、現在は日照りで田植えを行うことができなくなってしまった。これは朕の不徳の聖で、百姓に何の罪があろうか。(略)今、天の下す罰を恐れ、内裏正殿を避けて謹慎し、使人を手分けして派遣し、速やかに郡神に奉幣しようと思う。朕と妃の使用する物品および常の食前等は、いずれも削減すべきである。また、左右馬寮で消費する飼料の穀物もすべてしばらことにする。(略)そこでしばらく停止する。そこで左右京職に指示して、道路上の餓死者を収めて埋葬し、飢え苦しむ者には特に物を恵み与えよ。監獄の中には冤罪の者がいると思われるので、役所(ここは刑部省と京職)に今回の処置の趣旨を述べさせた上で釈放せよ。(略)また近ごろ、不順阿天候が続き、浮名も二日照りが十日にもなっている。(略)今月二十六日から二十八日まで三日間、朕と公卿以下百官がもっぱら精進の食事をとり、心を仏門に向けよう。僧綱も精進して転経を行い、朕の平成の思いに副うようにせよ」(日本後紀)


流石にこれまでとは違った対処をなさいます。


 これまで民族の違いから差別的に接してきた皇室と違って、嵯峨天皇は相手を理解するという姿勢を貫いてきていました。


それは天災による被害を受けた者は、これまでの民は勿論のこと、異民族と思われる人々に対しても、まったく差別は行わないということです。大きな組織を率いる者は、如何なることが起こっても、その被害が従う人々には及ばないように心がけながら、葛藤しなくてはならないと思うのですが・・・。


為政者・嵯峨天皇


弘仁九年(八一八)九月十日のこと


発生した問題とは


 兎に角平安京は、絶えず襲いかかって来る地震には、畏怖の念を抱くことはあっても、みなそのために苦しくなってしまう暮らしを、何とか凌げるようにならないかと思うものです。


 平安京では地震が起こって、大きな被害を出したばかりだったのですが、九月に入って間もなく、政庁にはまたまた厄介なことが持ち込まれました。


奈良・平安時代の内憂といえば、陸奥(みちのく)国の地域に拠点を持つ蝦夷(えみし)という民族との間に起こった悶着が、未だに解決することが出来ないまま抗争をつづけているというのです。そのために朝廷は大軍を率いて遠征するのですが、そのために莫大に出費してきていますので国の財政はかなり苦しくなっていました。


はじめは抵抗する蝦夷を一掃しようとするばかりを考えていたのですが、平安時代になる頃からは戦いに敗れた蝦夷の中からも、朝廷に従う者たちも現れてきていたのです。そして丁度その頃に、為政の頂点に立たれたのがこれまでの為政者とは発想の違う、文人政治家の天皇だったのです。


期待通り天皇はこれまでの権力者とは違った発想で、蝦夷と向かい合おうとされるようになりました。


つまり彼らをただ排除するのではなく、政庁と彼らとの距離を縮めるための努力をするように指示されたのです。兎に角為政の基本は民を愛して、飢餓・貧困から救うことで葛藤しなくてはならないというのです。


そんなある日のこと、禁苑である神泉苑へ大臣たちを引き連れて遊宴に出かけられた時に、天皇はこんなことをおっしゃいました。


為政者はどう対処したのか


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を(すく)うことを何より重視し立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことが出来ず、充分な調和を達成できないまま、咎徴(きゅうちょう)(悪いしるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、転がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ心が安まらない。ところで亀甲(きっこう)筮竹(ぜいちく)で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時、天平(てんぴょう)年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が苦しんでいれば、いったい誰と共に君足り得ようか。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後紀)


 ところがこの数年来不作がつづいています。


 公卿が次のように報告いたしました。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっています。官の倉は空尽化して、恵み施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収時に返済させることを要望いたします。こうすれば富者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命をまったくする喜びを持つことができましょう」(日本後紀)


 暮らしに対する要求というものは際限がないものです。


 それをどの程度まで引き上げられるのかを、国力の支えられる能力から判断して国民に納得して貰わなくてはなりません。


為政者にその能力があるかどうかは、要求するだけではなく、為政者を選ぶ国民の責務だと思えてなりません。


現代人にとっては、それを行使する機会として「選挙」という機会があるのですが、よほど国民に意思表示をする機会なのだという自覚がないと、なかなか思い通りの政庁は出来ません。


 組織を率いる指導者には、運営していく最中に起こる様々な問題が、あくまでも従って来る人々にその被害が及ばないようにという配慮が求められます。そのためにどんな施策を行っているのかということなどを訴えて、納得していて貰わなくてはなりません。それが困難の突破ということであったら、なおさら従って生きる者は、協力してくれなくてはなりません。しかし時に予期せぬことが起こってしまったために、不都合なことが生じたりした時など、力のない人々の訴えを理解することよりも、自分の立場の困難振りを訴えることに専念してしまう指導者がいるものです。


指揮を執る者は、そこに起こることのすべては、自らの責務と感じて必死に務めることが必要です。それが信頼を得るきっかけとなるということがあるはずです。人智では解決できない天災によって民が苦しんだり、同じ国土に暮らしている者と対立して戦ってしまったりして、ますますその立場を危うくしてしまって、慌てて神仏に助けを願うしかなくなるという過ちに気付かれた天皇は、先ず自らの生きざまを検証しようと考えられたのでしょう。


こうした状況を現代の我々の世界への提言として受け止めるとしたら、どういうことになるでしょうか。


矢張りやろうとすることをただ強行してしまうのではなく、その組織によって救われたり、活かされている人々が沢山いるのだということを、考えなくてはならないということです。彼らがそれで、感謝する気持ちになってくれないと、結局意味のない努力になってしまいます。


為政を行なう者、それに従う者には、微妙な問題があり、その微妙なことを無視して推し進めると、却っていい結果は生まれないということです。そうしたことを知っておくことが組織を運営していくための基本になるということだと思います。仮に障害となるようなことが起こったとしても、お互いに責任の転嫁をし合ってしまっていては、決していい結果は得られないからです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 


それでも組織を率いる者には、どう努力しても恨みを抱く者が現れるかもしれません。しかしそんな時には、四字熟語の「講演遺徳(こうえんいとく)という言葉を思い出してみて下さい。仮に怨みを抱いている者がいたとしても、慈愛と徳をもって接することが大事だということです。悩みごとや問題解決を図ろうと「千思万考(せんしばんこう)」しても、容易には満足な答えは得られないといわれます。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。「息慮凝心(そくりょぎょうしん)という言葉があります。今やるべきことに専念せよという言葉を思い起こして努力しましょう。いつまで悩んでいても解決はしません。前向きに第一歩を踏み出してみましょう。そうしたことの積み重ねが、「修身斉家(しゅうしんせいか)といって、天下国家を治めるには、先ず個人の身の修身からはじめることが統治の始まりだということに気が付くようになるでしょう。何が起こっても狼狽して事に当たらず、釈明のために屁理屈(へりくつ)を述べて逃げるのではなく、ふと古代における為政者の、ひたむきさを思い出してみることが大事なのかもしれません。


 


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言4 [趣味・カルチャー]

「銀座ここにありき」

 歴史の流れからいいますと、東京というのは実に最近の都で、それほど古いという印象はありません。特に古代という時代を背景にした小説を書いてきた私にとっては、あまりにも新しい都でしかありません。しかしそんな新しい都である東京ではありますが、そんな中で多少歴史を感じるものを、銀座に発見いたしました。

 今や世界のファッション・ブランドが、軒を並べるように出店している銀座ですが、地名の原点がここに銀を生産する「銀座」があったからだということを知っていらっしゃる方はごく少ないのではないでしょうか。それにしても「○○銀座」と謳った街路は、日本中どこへ行っても商店街のあるところには「○○銀座」があります。それだけ銀座というところは、注目を浴びる街になってしまったのだということです。

はじまりは慶長十七年。江戸幕府直轄の銀貨の鋳造、発行所・・・「銀座」役所が置かれたところで新両替町と呼ばれていたところなのです。しかし通称は銀座町と呼ばれていたところで、当時はこの銀座をはじめ、伏見と駿府に同じような役所を設置したものでしたが、やがて京都と江戸に移され、大阪、長崎にも設置されました。

ところがやがて千八百年(寛政十二年)のことですが、不正事件が起こってしまったために、その四つの座は廃止されてしまったのですが、間もなく江戸一か所だけを再興したのです。

それが現在の銀座発祥の原点となったところだったのでしょう。

とにかくそんな経緯のあった「銀座発祥の地」の記念碑が、文房具でお馴染みの伊東屋の前あたりに建てられています。

          「東京・銀座」1.jpg

ほとんど行き交う人々は慌ただしく通り過ぎて行ってしまうだけですが、私も所用で出かけた折にふと気がついたというものだったのです。東京にとっては江戸幕府の拠点であり、都であった証ともなる、記念すべき貴重な歴史的な碑ということができるのではないでしょうか。銀座散策のついでに、ちょっと立ち止まって見るのもいいのではありませんか。

 さあ、銀座のお話をしたところですから、今度は金座のお話をいたしましょう。

 仕事の関係で、私は京都へ行くことが多かったのですが、小説の取材のためというと、どうしてもその時の執筆に関係するところを取材するということになってしまいます。かなりいろいろなところへ行きましたが、仕事で取材するということから解放されて、また別の目的で京都の街を探ることが多くなったのは、京都嵯峨芸術大学の客員教授として奉職するようになってからでしたが、その授業の中でも時に日本の歴史に関しての講義をすることもありましたので、そんな時のためにも町のあちこちを気ままに散策した成果です。

親しい教授の誘いで、思いがけないところへ出かけることもあるのですが、その頃開館して間もない通称マンガ博物館・・・「京都国際マンガミュージアム」がその一つでした。ま、これまでかかわってきたアニメーションという分野のことを考えると、まったく無関係というわけではありませんから、二つ返事で出かけましたが、もちろん今回の話の中心になる話ではありません。実はここを訪ねた収穫が思いがけない発見のきっかけになったのでした。

 この博物館はかつてそこにあった瀧池小学校が廃校になるのを利用して、そのまま博物館にリニュウアルしたもので、全体像はそのまま残っていて、校庭はそのまま庭として利用されていました。ただ取り壊してしまうよりも、大変にいいことだなと感動したのは、その校舎の裏手に回った時に、その道端にさり気なくひっそりと立っている、記念碑を発見したのです。

何とそれは、徳川時代ここに金座が存在したということを記す記念碑だったのです。京都のような千年を超える古都では、江戸時代といってもそれほど古いものとは思えないようで、どこかこの記念碑も寂しげに見えてくるのが不思議なことです。因みに住所は京都市烏丸通御池上ルです。

「マンガミュージアム・京都金座)1.jpg 「マンガミュージアム・京都金座」1.jpg

 金座も銀座も、古代存在していたところが、現代ではかなり賑やかなとこにあったようですが、果たして当時はどんなところであったのでしょう。

そんなことについての推理をしながら、訪ねてみるのも旅を楽しむ一興かもしれません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その二の一 [趣味・カルチャー]

     第二章「安穏な暮らしを保つために」(一 


       為政者の課題・「戦力の不足を知る」


今回は嵯峨天皇が大同四年(八〇九年)に無理矢理平城天皇から譲位されて、践祚(せんそ)されてから間もなくのことです。まだ皇太子神野親王から天皇に変わられたばかりで年齢もまだ二十三・四歳という若さで


 ようやく平安京を統治し始めたばかりだというのに、とんでもない事に遭遇させられてしまいます。


為政者・嵯峨天皇


弘仁元年(八一〇)九月七日のこと


発生した問題


 平城太上天皇は、突然何の前触れもなく、平城旧京への還都をすると指示されました。あまりにも突然の発表です。しかも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふじわらふゆつぐ)紀田上(きのたがみ)たちを造宮使に任じてきたのです。


引退して平城太上天皇となって、平城京で悠然とお暮しかと思っていた平安京の政庁の公卿たちは、あまりにも突然のことで、その真意がまったく理解できないでいました。ところがその指示はすでに動き始めていたのです。


 嵯峨天皇が践祚したばかりだというのに、何をさせようとしているのだろうか。


 事態の進行に疑念を持つ平安京側はその真意を糾そうとしたのですが、それに対して平城上皇は朝廷軍を招集して動き始めたのです。


事件というのはこういうことで始まったのです。


嵯峨天皇としては践祚なさって、ようやくこれからどう平安京を建設していこうかということを、真剣に取りかからなくてはならないといった時です。



これはあくまでも、尚侍(ないしのすけ)となって宮中に権力を振るっている藤原薬子にせがまれて行ったことに違いありません。何もかもが準備もない戦いの始まりでしたが、為政の道筋を糺したいという若い嵯峨天皇の迅速な決断と、それに従った将軍の迅速な統率力で要所の警備を固めた上で少ない兵士を動かしました。


そして更に天皇に呼応した空海は、弟子たちと共に高雄山寺に立てこもり、真言密教による鎮護国家の熱によって後押しをした結果でしょうか、大戦になりかけた事変は、わずか七日という短日のうちに鎮静化してしまったのでした。


しかしこれで政庁のあり方は糾せたのですが、天皇には心にかかる問題を残してしまいました。


ご自身の在位中に、皇太子とした者は絶対に悲劇的な立場には追いやらないと、密かに心に刻んでいたはずなのですが、事件に関与はしていないということは判っていても、高岳(たかおか)親王は上皇の御子であったために連座させられて廃太子とされ、第一皇子である阿保(あぼ)親王も大宰府へ左遷されることを、認めざるを得なくなってしまったのです。


高岳は直ちに春宮を出て、宮中からも去っていかれます。そんな姿をご覧になっていらっしゃった天皇は、心に誓っていたことを違えてしまったと、心中深く痛みとして沈潜していったのでした。


 (いつか救ってやらなくてはならぬ)


 声なき声がそう叫んでいるのでした。


 天皇は直ちに新たな皇太子として、天皇の異母弟であり、中務卿で三品の位を持つ大伴(おおとも)親王を、皇太子として指名しました。それは祖霊桓武天皇の描かれた嫡子による皇統の継承という理想からは遠のいてしまうことになってしまいましたが、いました。それでも若い天皇は祖霊の思いは必ず新たな皇統に活かさなくてはならないと決心していたのでした。


九月十九日。年号も大同五年(八一〇)に弘仁と改められると、仁の気持ちを広めたいという、思いの溢れた年号の元で、民と共に生きようとするのです。若き文人政治家は、さまざまな問題を秘めながらも新たな平安朝の建設に立ち向かったのでした。


為政者はどう対処したのか


 事変は「薬子の変」と呼ばれて、受けて立つ政庁には、当初狼狽がありましたが、天皇は迅速な指揮と的確な判断で、上皇の復権を阻み平安京を守ることができました。


 事件を知った時、政庁ではあまりにも予想外であったこともあって当初狼狽がありましたが、結束して平城上皇と薬子の無謀な企みを排除して、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻したのでした。


それは協力してくれた国々にとっても同じで、ようやく落ち着いた暮らしを取り戻しましたが、間もなく、播磨(はりま)国から万一の時の備えについて、次のような提言があったのです。


 「これまで勲位を頂いた者を健児に起用することになっているのですが、国内の勲位の人は死亡あるいは逃亡していて、現在存在している者は老人や病人が多く、軍事の役には立たなくなってしまっているために、この際白丁(はくちょう)(公の資格を一切持たない無位無官の一般男子)を徴発して、欠員に充てることを要望いたします」(日本後紀)


万一の事変が起こった時に、戦う兵士に事欠くというのです。それは平城天皇の頃から財政の引き締めを行ってきたために、いざという時の兵が、集められなくなってしまっているということだったのです。


 まさにこのようなことは現代の問題としても、考えておく必要があるのではないかと思えます。


いたずらに兵力を蓄えることではなく、そのようなことをしなくてもいい環境を作らなくてはならないのではないかということは周知のことなのですが・・・。


最近は永世中立を建前にしてきた北欧の国々も、万一のために国を守るということのための心構えをしておかなくてはならないという方針を立てて、NATOへの加入を申請しました。我が国についても、周辺の環境が極めて緊張したものとなっています。最近は俄かに軍備に関しての費用を上積みしなくてはならないのではないかという議論が盛んになってきていますが、ロシアによるウクライナ攻撃、北朝鮮の挑発する軍備の拡張、中国の海域の拡大など、日本を取り巻く環境は、かなり激しく危険な状態になりつつあります。もうこれからの国際関係には、無関心という訳にはいかなくなってしまいましたね。


 島国であるための国際関係の難しさを感じます。兎に角舵取りをする指導者の英知が、真摯に問われる時代になってきていることを実感します。


温故知新(up・to・date)でひと言


 兵力を充実して、万一のことが勃発した時の対処をどうするのかという問題ではなく、現代の問題としては、やはり暮らしを優先するか、護りを重視するかという問題にぶつかってしまいます。そのどちらを選ぶとしても、予算というものが伴います。それは平安時代も現代もありません。しかし現代では備えるという理由で軍事費が年々肥大化しています。この問題については、簡単に無視できないものがあるのではないでしょうか。しかしそうかといって、平安時代のように、ただ軍事費を縮小すればいいという訳にはいきません。軍事費を縮小するべきか、それとも福祉の充実によって暮らしを豊かにすることを優先すべきか大きな課題になります。現代ではそうした暮らしの安穏を維持するためには、様々な国かからの挑戦に、どう立ち向かうのかということについて、慎重に考えなくてはなりません。戦う能力を備えることと、国民の暮しの安定を図るという問題は、古代と違った現代の至難な課題です。


 日本自体の経済がどんな状態にあるのかということも考えながら、どう経済を上手く利用して行けるかということを、じっくり考える必要がありそうですね。


昔から「殷鑑不遠(いんかんふえん)ということが云われています。身近な失敗例を自分の戒めとせよという譬えです。また自分の戒めとなるものは近くにあることでもあります。徒に規模を拡大したり戦力を増やしたりするのではなく、自分の私欲や私情、つまり我儘を抑えて、社会の規範、歴偽に従って行動しましょうという「克己復礼(こっきふくれい)という言葉を思い出して、地道に地歩を固めていきましょう。「巣林一枝(そうりんいっし)という言葉もあります。軍事を豊かにするのか、暮らしを豊かにすべきか。鳥は深い林の中に巣を作っても、たった一本の枝を使うに過ぎないという言葉を思い出しながら、じっくりと考えて欲しいものです。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑4 [趣味・カルチャー]

「神仏にも守護神?」

 

 古代では神も仏も神として認識されていましたから、基本的には神仏混交ということになります。しかし現代人にとっては違和感があるかもしれませんが、日本では基本的に神仏混交という習慣を今も続行していることを考えられます。そんなことから、もっと不思議なことがあるのに気が付きました。

寺院にも守護神があって守っているのです。

日本の伝統の宝庫である皇居も、守護神を置いてその安泰を祈っています。今回はその代表的な見本というものを紹介したいと思っています。

平安京が誕生した頃、京の守護のために最澄が創建したという比叡山延暦寺がありますが、この寺を守るために琵琶湖畔にある日吉大社があるのです。ここでは山王の猿が大事に飼育されていますが、神の使いであるという考えによるものです。

 「比叡山延暦寺・根本中堂」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 「山王の猿」1.jpg

この神の使いの猿が、京都御所にも活かされているのをご存じでしたか。この猿を木彫りにして鬼門にしているところに飾っているところがあるのです。

 神は絶対的な存在ですから、彼らを守護するなどということは笑止千万と言うことになりそうですが、どうも実際にはそんなものの存在を無視できないものがあるようです。京都御所にはその鬼門である東北の角には「猿が辻」いうところがありますが、その守護には日吉大社の山王の猿がいます。

        「猿が辻・東北の鬼門」1.jpg  「皇居・猿が辻の猿」1.jpg          

京都御所の鬼門に当る猿が辻の猿・・・日吉大社の木彫りの猿が、御幣を持って飾られています。

機会がありましたら御所の東北の角・・・つまり鬼門へ廻ってみてきませんか。これの基となっている日吉大社では、山王の猿を実際に飼っているのですが、何度もここへお参りしていた後白河法皇は、自宅近くに新日吉神社を建てて、その本殿前の左右に日吉大社の神の使いである猿を彫刻にして祀ってあります。いちいちお参りに大津にまで通うことが出来な

くなったのか、じれったくなったのか、自宅の直ぐ裏手に新日吉神社を建立してしまったのでした。

平安時代においては、こうした信仰が浸透していたわけですが、それだけ政争も激しかったのでしょう。京都ではこの他にも、修学院離宮の近くに、赤山禅院というところがあるのですが、猿の彫刻が屋根に挙げられて存在しているようです。別の面から京都を探るきっかけにでもなると面白いですね。

「赤山神社山門」1.jpg 「赤山神社本殿前」1.jpg 「赤山神社・山王の猿」1.jpg

かつて高野山へ行った時のことなのですが、その地に住んでいらっしゃる方から、「ここへ来て荒神社へ行かないというのは、手抜きになりますよ」と注意されたことがあって、早速足を延ばして「荒神社」へ出向きました。つまり高野山を開いた空海は、この高野山を守るために鬼門に当るところに「荒神社」というものを創建したというのです。

「金剛峰寺の回廊」1.jpg 「平安京・高野山・荒神社参道」1.jpg 「荒神社」1.jpg     

  それを言われて思い出したのが、同じ空海が中國から戻って間もなく、京都西北にある古刹神護寺で修行しましたが、やがて空海はこの寺の守護のために平岡八幡宮を創建いたしました。

 「神護寺山門」1.jpg 「平岡八幡神社・本殿」1.jpg  「神護寺守護神・平岡八幡神社・日月神」1.jpg

現在の皇居である江戸城には、日枝神社がありますが、これは日吉神社の霊力が協力であることを知った徳川家康の希望で、京都の日吉大社と同じ神・・・つまり大津の日枝山から勧請した大山咋神を祀っているのです。 

「皇居と堀」1.jpg 「日枝神社・山門」1.jpg 「日吉大社」1.jpg 

何処をとっても風水の思想が、現代でも大事にされえいるということがお判り頂けたのではないでしょうか。こんな智識でも旅行なさった時に発揮されれば、ただの観光ではない発見の旅にもなるのではないでしょうか。

本日は意外にも古代のお話をしているようでありながら、現代のお話にもなっているのではないかと思います。


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