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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の二 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(二)


    為政者の課題「朝廷に頼り過ぎるな」


弘仁四年(八一三)です。


嵯峨天皇は即位してから数年過ぎていますので、為政について落ち着いた指示をしていらっしゃいます。


 古代の資料を見ていると、天皇が狩猟に出かけるという記録が、かなり出てきますが、これは天皇の体調を計る上で貴重な手掛かりになるだけでなく、それ以上に貴重な手掛かりとなるのは、それを利用して各地の農作物の様子を確認しているようにも思えるのです。


 政庁はそんなある日のこと、次のようなことを発表しました。


「農業作となったのはとしは、土着の民も移住してきた俘囚(ふしゅう)もみなその被災者となるが、物を恵みあたえるに当たっては俘囚は対象から外されている。飢饉の苦しみは一様のはずであるから、恩恵が土着民と俘囚を差別して施されるのはどんなものであろうか。今後は俘囚にも公民に準じて恵みを与えよ。ただし、勲位を帯びたり、村長その他特別に粮米(ろうまい)支給にあずかっている俘囚は支給する限りではない」(日本後紀)


 天皇の俘囚に対する差別をしないという姿勢は、すでに第一章「卓越した指導者といわれるために」「民への気遣いはいつも」の「その一の二」の閑談で触れていますが、基本的に革新的な発想は持ちつづけていました。


 しかし天皇はただ俘囚を理解してやれとおっしゃっているわけではありません。


資料の記録によりますと、次のようなことも指示していらっしゃいました。


 「移住した夷俘(いふ)の性格は、内属の民と異なり、朝廷の教化に従うようになっても、野性の心性を忘れていないので、諸国司らにつとめて教諭を加えさせている。しかし、国司らは朝廷の時事に反して世話をすることを怠り、いつになっても夷俘らの要請を取り上げず、夷俘らは憂いや怨みを抱き、ついには反逆を起こす始末である」(日本後紀


 天皇は夷俘たちの性格も理解した上で、そのために恵みを忘れてしまう国司などがいるために反逆をすることになると、極めて冷静に状況を把握していて、それについての対処の仕方を指示していらっしゃいます。


 天皇は為政者として季節的な変化が農作物などに影響を及ぼしてしまうことについても、かなり心を煩わせていらっしゃいました。


「治国の肝心なことは、民を豊かにすることで、民に蓄えがあれば凶年であっても、その被害を防ぐことが可能である。ところで現今の諸国司らは、天皇の思いに背き不適切な時期に百姓を労役に動員して、農繁期に妨害をして、侵害のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを持っていない。このため人民は生業を失い飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が、飢えているという報告がなされている。このため毎年恵みを与えって、倉庫はほとんど空になってしまった。ここで災害が起これば、どうして救うことができるであろうか。すべて悪しき政治の弊害としてこうなってしまったのである。今後は農業が出来なくなったり、疫病にかかったりした時以外で、朝廷に対して安易に援助を求めてはならない」(日本後紀)


 人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれといっていたら、キリがなくなってしまいます。民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては・・・ 


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)五月二十五日のこと


発生した問題とは


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷(えみし)についてですが、国司(こくし)たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、一般の農民たちとの暮しに同化した蝦夷のこと)たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。帝は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


「辺境では外からの侵略を防ぎ、不慮への備えでは食料が重要である。近年辺境では大軍が頻繁に動員されて、軍粮を費やし尽してしまったが、なお侵犯事件はあり何が起こるか予測し難い状況である。軍粮の蓄えがなければ、突発事件にどうして対処できようか。そこで、陸奥・出羽両国の官人らへの俸禄の財源である公廨稲(くげとう)(奈良・平安時代諸国に蓄積された、利子つきの貸し出し用の稲)は正税に混合し、替わりに毎年、信濃・越後両国で陸奥・出羽国司及び鎮守府官人の俸禄を支給することにせよ」(日本後紀)


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生した為に、世間では飛んでもないことが広がり始めていました。


為政者はどう対処したの 


六月のことですが、右大臣が沈痛な面持ちで報告いたしました。


「以前付き合いのあった者を忘れず、苦労した者に酬いるのは、優れた賢人の教えであります。生命を重んじ大切にする点で、貴賤の間に相違はありません。いま、天下に僕隷を有する者がいますが、常日ごろ使役しながら病患となると道端に遺棄し、看護する人がなく餓死する仕儀となっています。この弊害は言い尽くせません。伏して、京職・畿内諸国に命令して、速やかに禁止することを要望いたします。願わくば路傍に無残な死体を放棄されることがなく、天下の多くの人が天寿を終えることができますことを」(日本後紀)


その訴えに対しては、帝は直ちに禁止の命令を出して、それに違反する者は厳罰に処すると、告知するように指示されました。それにしても最近各地に飢饉が起こり、それに対する手当にも財の支出があって、朝廷はその経営に困難を極めていたのです。


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しましたが、民にも朝廷に寄りかかるという悪弊は断ち切らないといけないとおっしゃいました。


ところが為政者と民との間にはまだ他にも問題がありました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷についても、国司たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。天皇は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生して、そのために世間では飛んでもないことが広がり始めていたのです。右大臣の沈痛な報告を聞かれた天皇は、自らも改革をしなくてはならないことがあるのではないかと、思い巡らすようになっていらっしゃったのです。それから間もなくです。臣籍降下というびっくりするような決断を発表されるのです。


確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいます。嵯峨天皇がおっしゃったように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできなくなってしまいます。それは現代の我々にとっても一考する問題なのではないでしょうか。


 天皇がこのようなことをおっしゃいました。


 「自然界の利は公私が共にすべきではあるが、生物は適切な時期に捕獲しないと、繁殖しなくなってしまう。現在、百姓が好んで小魚(あるいは年魚・アユ・の稚魚か)を捕っているが、多量に捕れても、利用することができない。そこで、山城、大和・河内・摂津・近江などの諸国に指示して禁断せよ。ただし、四月以降は禁止する必要はない」(日本後紀)


 確かにこの通りで、欲しいからといってその欲求のままに捕獲してしまっていたら、資源は枯渇してしまいます。これは古代も現代もありません。特に資源が豊かにあるという訳ではない日本の場合は、欲しいからと言って、欲求に従って手に入れてしまっていては、たちまち資源は枯渇して苦しくなってしまうでしょう。


 最近でも電力事情を考えないで、国民が電力を好きなように使っていれば、かなり危機的な状態に陥ります。そうかと言って原子力にその救いを求めるようなことになることは、避けなければならないでしょう。兎に角安全な電力の確保をするために、政府に要求するだけではなく、民間でもエコな電力を開発する努力はしなくてはならないと思います。


温故知新(up・to・date)でひと言


 時代の様相が変わって、福祉ということでは古い時代とは違って、かなり充実してきていると思います。しかしもう充分というには、ほど遠いものがあります。確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいますし、実際にやり切れるものではありません。嵯峨天皇がおっしゃるように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできないでしょう。為政者にはもっと福祉の充実をしてくれと要求しながら、それと同時に被為政者たちも、現状脱却のための努力をするべきです。官民一体ということが云われるのはそのためでしょう。古来「雲翻雨覆(うんほんうふく)ということがいわれます。世の人の態度や人柄はめまぐるしく変わるということです。人情も移ろいやすく、功績のあった幹部、部下も、利用価値がなくなると捨てられてしまう「狡兎良狗(こうとりょうく)であることを隠していなくてはなりません。現状打破を為政者に求めるだけではなく、自分も困難に立ち向かう努力もしてみましょう。「盤根錯節(ばんこんさくせつ)といって、困難に出合ってはじめてその人の力量、価値が判るといいます。世の中の難儀な事柄に立ち向かってみましょう。為政者への要求は、それからでもできます。お互いにどのような葛藤をしているのかを理解し合いながら、現状打破を目指して精一杯頑張ってみましょう。その上で為政者にも努力して貰わなくてはなりません。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑20 [趣味・カルチャー]

「つつがなくお過ごし?」

 コロナ、オミクロンと、次々厄介な病原体が襲いかかってきて、親しい人とも気軽に会えませんし、まして遠方にいらっしゃるかとは、わざわざ出かけて行くことも不安になって、ついご無沙汰ということになってしまいます。兎に角消息が知れないのは不安になるものです。

 そんなことからせめて手紙を出そうと思うのですが、その冒頭の書き出しのところなのですが、私などはつい「暫くご無沙汰してしまっていますが、つつがなくお過ごしでしょうか」という、典型的なご挨拶で始まる手紙を書くことになるのですが、よく考えるとこの「つつがなく」というのはどういう意味なのかということに突き当たりました。

そこで一寸調べてみることにしましたので、その結果をお知らせしておこうと思いました。

 これが何と聖徳太子の時代から、これは「つつが虫」という虫の名前で、原因不明のきわめて恐ろしい病気として恐れられていたというではありませんか。変に専門的なお話になりますが、これはダニ目のツツガムシ科の節足動物なのだそうで、野ネズミなどに寄生していてつつが虫病を媒介するというのです。

 この病原体が突き止められたのは明治時代あたりになってからのようで、それまでは死亡率が40パーセント以上という、極めて恐ろしい病だった

のでした。

 事件の発生地として知られているのは、明治以降では新潟県の阿賀野川、信濃川・山形県の最上川、秋田県の雄物川が知られているのですが、大雨などが降った時などに水をかぶってしまう、草原や耕地に人が入るとつつがむしの餌食になるようです。ところで思わず思い出したことがあります。

聖徳太子の住んでいらっしゃった奈良県の飛鳥あたりは、湿地帯だったということなのです。古代の大きな戦争として知られる物部氏と蘇我氏の戦いは、湿地帯に暮らして雨季にはいつもあたりに洪水に見舞われる蘇我氏に対して、大阪の八尾市という乾燥した地域に暮らす物部氏は、極めて農産物にも恵まれていたということを考えますと、いつかはその有利な支配地を取ろうとする蘇我氏と、それを拒否する物部氏との間での戦いになることは、止む追えない状況でした。

言うまでもなく聖徳太子は蘇我氏と共に戦いました。

称徳太子はつつが虫を大変警戒していたという話がありましたが、その話が切実に迫ってきます。

どうぞみなさんは充分に知識を頭に置いて、警戒をしながら地方への観光旅行にお出かけ下さい。

つつがなきことを切にお祈りいたしております。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の一 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(一)

    為政者の課題・「神を利用するな」

弘仁三年(八一二)嵯峨天皇にとっては政庁を率いるようになって三年目のことです。

 嵯峨天皇はさまざまなことに余裕を持って為政を率いるようになっていらっしゃいましたので、早春には神泉苑へ行幸されて、文化人たちと共に花宴を開かれ、詩を作ったりして楽しみました。この時の催しが、花宴の始まりであったといわれているのですが、これまでの天皇とは確かにひと味違っています。

平安宮の改革にも手をつけられ、それまで日常お使いになっていらっしゃった正寝(おもて御殿)は、仁寿殿といって紫宸殿の北にあったのですが、その西に清涼殿をお造りになられて、休息を兼ねて日常の生活をなさる所として、仁寿殿と交互に使われるようになりました。それともう一つ、平城天皇の退位なさった時の教訓でしたが、お住まいになる「院」というものが存在していなかったということです。そのことについては、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で詳しく書いてありますのでご覧下さい。

 天皇は巷の様子を見届けながら、さまざまなことに目配りをしていらっしゃるのですが、神仏に関わる者たちには、決められたことはきちんと守るように、毅然とした姿勢をお示しになられました。

為政者・嵯峨天皇

弘仁三年(八一二)二月十二日のこと

発生した問題とは

 いつの時代になっても、社会的に不安のある時などになると、どういう訳かおかしな神様が登場してきて、何かと不安を抱えている庶民を、巻きこんでいってしまうことがありますが・・・。

 天皇は大変気になることがありました。神仏に関することで次々と指示をされています。

「近年、諸寺の僧尼は多数に上り、うわべは真面目に修行しながら、実は戒律を守らず、きちんと精進しないで、しばしば淫犯をなす者がいるという。取り締まるべき僧綱は、阿って取り締まらず、役所の方も糺すことをしていない。また、法会で懺悔を行うに当たっても男女が混雑して区別なく、挙げきれないほどの非礼の行動がなされている。これほど仏教の教えを破り、風俗を乱すものはない。永くこの弊害のことを思うと、懲粛しなければならない。そこで、京職と諸国に命令して、部内の寺・道場などのすべてに立て札を立て、淫犯の類を禁断せよ。もし、禁制を守らず、男女別であるべきところへ一人でも混入するのを容認すれば、三綱(儒教で社会の根本となる君臣、父子、夫婦)と混入した者らには違勅罪を科せ」(日本後紀)

いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。

 「近頃、多くの僧侶が法律を犯しているが、薬傷は放置して戒律に委ねるのみで、取り締まりを行っていない。国法が蔑にされ、深刻な弊害となっているので、今後は、僧侶が罪を犯したならば、軽重を問わず、すべて僧尼令により糾せ」(日本後紀)

この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。

 「封戸(神戸(じんこ))を与えられている神社では、神戸が修造に当たるが、封戸のない神社では修造に当たる者がいない。今後は禰宜(ねぎ)(はふり)(神官)が修造に当たるようにせよ。小さな損壊が出来するたびに修繕し、怠って大破に到ることのないようにせよ。国司が頻繁に巡検すべきである。もし、禰宜・祝らが任務を怠り破損が出来した時は、解任せよ。有位の禰宜・祝は位記を没収し、無位無官の者は(じょう)百に処せ。国司が巡検せず、破損した場合は、交替のときに解由を拘留せよ。ただし、風災・火災などの非常の損に遭い修繕できないようなときは、言上して判断を仰げ」(日本後紀)

 いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。

 「伊勢国の神郡(しんぐん)である多気(たけ)渡会(わたらい)両郡および飯高(いいたか)飯野(いいの)等七郡の神戸百姓(ひゃくせい)らは正税(しょうぜい)の授受・返納過程での不正や遅延があると刑罰が加えられ、これにより、神事執行に当たって円滑な決済ができなかったり、逃亡する仕儀となっている。このため、以前から出挙を停止しているが、公出挙(くすいこ)に与かれないため民は富民(ふみん)から稲を借り、返済する額は元本の数倍にもなっている。このため、違法な出挙を行う者は犯罪者となり、返済する側は弊害を受ける事態となっている。そこで、らいねんからはじめて(しん)(ぜい)の他に、正税十三万三千束を出挙し、その利息は斎宮の経費に充てよ」

(日本後紀)

 この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。

天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって、早くいい雨が降ってほしいと急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。

神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。

夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのような受け止め方をしているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃったのです。

すべて満足な状態ではなくなっていることは承知していらっしゃるのですが、そのような思いを抱かせるということは、やはり為政者の責任であると受け止めていらっしゃったのです。

天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、神仏に関しての思いを政庁の中で徹底していかれたのでした。兎に角神仏に関しては、いい加減に扱ってはならないということです。

 「近頃は疫病と日照りが続き、人民は穏やかではない生活を送っている。静かにこのことを思うと、人民の苦しみが思いやられる。ところで、神祇には禍を転じて福となす働きがある。願わくは、神助けによりこの災禍を消滅できることを。そこで天下の名神に速やかに奉幣せよ」(日本後紀)

 天皇は指示をされると、大極殿へ出られて伊勢大神宮に奉幣されました。疫病と日照りからの救済を祈ってのことである。

これまで夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃいます。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。

天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、

 「聖人は怪力乱神を語らず。世を惑わす妖言の罪は重大であるが、諸国は民の狂言を信じて、しきりに報告してきたりするのだが、それらは天皇を批判する言葉であったり、濫りがましい吉凶の予言に関わったりしている。これ以上法や秩序を乱しているものはない。今後、百姓が濫りに神託を称するようなことがあれば、男女を問わず処罰せよ。ただし神託が明白で、しっかりした証拠があれば国司が調査の上で、事実を上申せよ」(日本後紀)

 いつの時代でもそうなのですが、不安が広がったりすると、なぜか神頼みの気分が生まれ、そんな心理状態を利用して怪しげな神様が、あちこちに誕生してしまいます。これは決して古代の問題ではありません。現代の我々の問題でもあるのです。

 いつの時代になっても、何かと不安を抱えている庶民を巻きこんで行ってしまう怪しい神様が登場します。よく噂の真相を突き止めないと、神を使った者の話術に騙されて、その渦の中に巻き込まれていってしまいます。

温故知新(up・to・date)でひと言

 よく話題になることですが、四字熟語では「街談巷説(がいだんこうせつ)といって、巷に渦巻く噂話。根も葉もない噂などに慌てふたむいて、「周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してしまって適切に処置できなくなってしまったりしたら、まさに「矮子看戯(わいしかんぎ)ということになってしまいます。物事を判断する見識のないまま、付和雷同してしまうということです。噂の渦に巻きこまれてしまって、偽の神様の思うが儘に利用されてしまいます。兎に角時代が不安になった時には、インチキ神様が絶えず登場して、迷っているものを探してさまよい歩きます。どうか迂闊にその魔力にひっかからないで下さい。地道に努力を積み重ねることが大事です。


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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

 

「日本書紀」上(中央公論社)

「日本書記」山田英雄(教育社)

「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)

「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)

「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)

「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)

「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)

「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)

「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)

「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)

「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)

「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)

「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)

「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)

「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)

「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書

)

「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)

「遣唐使全航海」上田雄(草思社)

「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)

「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)

「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)

「壬申の乱」(新人物往来社)

「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論

社)

「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)

「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)

「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)

「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)

「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)

「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)

「大覚寺」山折哲雄(淡交社)

「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 

「続日本紀」(臨川書店)

「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)

「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言19 [趣味・カルチャー]

「冬至余談」

新しく太陽が甦る日として重要視されている日が冬至の日です。

この日を境にして日が伸びたり短くなったりするのを知った人間は、この日を境にして日脚が伸び出すこともあって、どうも夏至よりもこちらの方を大事にする傾向がありますね。

日本はもちろんですが、世界各地でも、その日のためのいろいろな行事が行われたりしますが、日本では柚子湯につかって体を温めるようなことが、日常的に行われていますが、日あしの伸びるこの日を年の始まりと考えた結果、冬の最中にお正月を迎えることになりました。欧米諸国が孤陽当たりをクリスマスの行事の始まりにしているのはそのためなのでしょう。

にほんでもブラ里などでは神の子が村の中を巡るという行事を行うところが大分あるように思いますので、クリスマスのような行事はすべて外国からの輸入品ということでもなさそうです。

昔から言われる言葉の中に、「冬至冬なか冬はじめ」というのがあるようですが、暦の上で冬至は立冬から立春の丁度真ん中にあたるのですが、実際は寒さの厳しくなり出すのが,冬至の頃からだという意味でしょう。

一月一日から二月十日までは最低気温が氷点下になったりしますが、こうした寒さが新年の始まりとなるのは古代人の太陽信仰の名残だということになりますね。

余談になりますが、日本の神社ではこの当時の日に「一陽来復(いちようらいふく)」というお札を出すところがかなりありますが、こうした事のためだと思います。

平安時代では桓武天皇(かんむてんのう)がこの当時の日でも朔旦冬至(さくたんとうじ)といって、ほぼ十九年に一回巡って来る十一月一日の冬至を大変大事にしていたという記録があるのです。

これからいよいよ一年が始まるのだという新鮮な気持ちになって正月を迎えたのでしょうね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の七 [趣味・カルチャー]

      第六章「非情な現世を覚悟するために」(七)


        為政者の課題・「神を利用するな」


弘仁三年(八一二)嵯峨天皇にとっては政庁を率いるようになって三年目のことです。


 嵯峨天皇はさまざまなことに余裕を持って為政を率いるようになっていらっしゃいましたので、早春には神泉苑へ行幸されて、文化人たちと共に花宴を開かれ、詩を作ったりして楽しみました。この時の催しが、花宴の始まりであったといわれているのですが、これまでの天皇とは確かにひと味違っています。


平安宮の改革にも手をつけられ、それまで日常お使いになっていらっしゃった正寝(おもて御殿)は、仁寿殿といって紫宸殿の北にあったのですが、その西に清涼殿をお造りになられて、休息を兼ねて日常の生活をなさる所として、仁寿殿と交互に使われるようになりました。それともう一つ、平城天皇の退位なさった時の教訓でしたが、お住まいになる「院」というものが存在していなかったということです。そのことについては、第二章「安穏な暮らしを保つために」「その二の一」「戦力の不足を知る」の閑談で詳しく書いてありますのでご覧下さい。


 天皇は巷の様子を見届けながら、さまざまなことに目配りをしていらっしゃるのですが、神仏に関わる者たちには、決められたことはきちんと守るように、毅然とした姿勢をお示しになられました。 


為政者・嵯峨天皇


弘仁三年(八一二)二月十二日のこと


発生した問題とは


 いつの時代になっても、社会的に不安のある時などになると、どういう訳かおかしな神様が登場してきて、何かと不安を抱えている庶民を、巻きこんでいってしまうことがありますが・・・。


 天皇は大変気になることがありました。神仏に関することで次々と指示をされています 


「近年、諸寺の僧尼は多数に上り、うわべは真面目に修行しながら、実は戒律を守らず、きちんと精進しないで、しばしば淫犯をなす者がいるという。取り締まるべき僧綱は、阿って取り締まらず、役所の方も糺すことをしていない。また、法会で懺悔を行うに当たっても男女が混雑して区別なく、挙げきれないほどの非礼の行動がなされている。これほど仏教の教えを破り、風俗を乱すものはない。永くこの弊害のことを思うと、懲粛しなければならない。そこで、京職と諸国に命令して、部内の寺・道場などのすべてに立て札を立て、淫犯の類を禁断せよ。もし、禁制を守らず、男女別であるべきところへ一人でも混入するのを容認すれば、三綱(儒教で社会の根本となる君臣、父子、夫婦)と混入した者らには違勅罪を科せ」(日本後紀)


いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。


 「近頃、多くの僧侶が法律を犯しているが、薬傷は放置して戒律に委ねるのみで、取り締まりを行っていない。国法が蔑にされ、深刻な弊害となっているので、今後は、僧侶が罪を犯したならば、軽重を問わず、すべて僧尼令により糾せ」(日本後紀)


この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。


 「封戸(神戸(じんこ))を与えられている神社では、神戸が修造に当たるが、封戸のない神社では修造に当たる者がいない。今後は禰宜(ねぎ)(はふり)(神官)が修造に当たるようにせよ。小さな損壊が出来するたびに修繕し、怠って大破に到ることのないようにせよ。国司が頻繁に巡検すべきである。もし、禰宜・祝らが任務を怠り破損が出来した時は、解任せよ。有位の禰宜・祝は位記を没収し、無位無官の者は(じょう)百に処せ。国司が巡検せず、破損した場合は、交替のときに解由を拘留せよ。ただし、風災・火災などの非常の損に遭い修繕できないようなときは、言上して判断を仰げ」(日本後紀)


 いかにしたら為政を落ち着いた状態にしておけるかということに腐心していらっしゃるのです。社会の乱れがやがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃることからでした。それでこれまで秘めておられた心情を、朝議において示されたのです。


 「伊勢国の神郡(しんぐん)である多気(たけ)渡会(わたらい)両郡および飯高(いいたか)飯野(いいの)等七郡の神戸百姓(ひゃくせい)らは正税(しょうぜい)の授受・返納過程での不正や遅延があると刑罰が加えられ、これにより、神事執行に当たって円滑な決済ができなかったり、逃亡する仕儀となっている。このため、以前から出挙を停止しているが、公出挙(くすいこ)に与かれないため民は富民(ふみん)から稲を借り、返済する額は元本の数倍にもなっている。このため、違法な出挙を行う者は犯罪者となり、返済する側は弊害を受ける事態となっている。そこで、らいねんからはじめて(しん)(ぜい)の他に、正税十三万三千束を出挙し、その利息は斎宮の経費に充てよ」


(日本後紀)


 この頃は雨期だというのに雨の降らない日がもう十日も続いているのです。その影響で京中でも米価が高騰してしまうのですが、官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたします。


天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって、早くいい雨が降ってほしいと急いで畿内の神社に奉幣せよと指示いたしました。


神仏の霊威に対して絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。


夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのような受け止め方をしているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃったのです。


すべて満足な状態ではなくなっていることは承知していらっしゃるのですが、そのような思いを抱かせるということは、やはり為政者の責任であると受け止めていらっしゃったのです。


天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、神仏に関しての思いを政庁の中で徹底していかれたのでした。兎に角神仏に関しては、いい加減に扱ってはならないということです。


 「近頃は疫病と日照りが続き、人民は穏やかではない生活を送っている。静かにこのことを思うと、人民の苦しみが思いやられる。ところで、神祇には禍を転じて福となす働きがある。願わくは、神助けによりこの災禍を消滅できることを。そこで天下の名神に速やかに奉幣せよ」(日本後紀)


 天皇は指示をされると、大極殿へ出られて伊勢大神宮に奉幣されました。疫病と日照りからの救済を祈ってのことである。


これまで夢中で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようにもなっていらっしゃいます。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。


天皇はそんな傾向を知っていらっしゃったので、


 「聖人は怪力乱神を語らず。世を惑わす妖言の罪は重大であるが、諸国は民の狂言を信じて、しきりに報告してきたりするのだが、それらは天皇を批判する言葉であったり、濫りがましい吉凶の予言に関わったりしている。これ以上法や秩序を乱しているものはない。今後、百姓が濫りに神託を称するようなことがあれば、男女を問わず処罰せよ。ただし神託が明白で、しっかりした証拠があれば国司が調査の上で、事実を上申せよ」(日本後紀)


 いつの時代でもそうなのですが、不安が広がったりすると、なぜか神頼みの気分が生まれ、そんな心理状態を利用して怪しげな神様が、あちこちに誕生してしまいます。これは決して古代の問題ではありません。現代の我々の問題でもあるのです。


 いつの時代になっても、何かと不安を抱えている庶民を巻きこんで行ってしまう怪しい神様が登場します。よく噂の真相を突き止めないと、神を使った者の話術に騙されて、その渦の中に巻き込まれていってしまいます。


温故知新(up・to・date)でひと言


 よく話題になることですが、四字熟語では「街談巷説(がいだんこうせつ)といって、巷に渦巻く噂話。根も葉もない噂などに慌てふたむいて、「周章狼狽(しゅうしょうろうばい)してしまって適切に処置できなくなってしまったりしたら、まさに「矮子看戯(わいしかんぎ)ということになってしまいます。物事を判断する見識のないまま、付和雷同してしまうということです。噂の渦に巻きこまれてしまって、偽の神様の思うが儘に利用されてしまいます。兎に角時代が不安になった時には、インチキ神様が絶えず登場して、迷っているものを探してさまよい歩きます。どうか迂闊にその魔力にひっかからないで下さい。地道に努力を積み重ねることが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑19 [趣味・カルチャー]

「つつがなくお過ごし?」

コロナ、オミクロンと、次々厄介な病原体が襲いかかってきて、親しい人とも気軽に会えませんし、まして遠方にいらっしゃるかとは、わざわざ出かけて行くことも不安になって、ついご無沙汰ということになってしまいます。兎に角消息が知れないのは不安になるものです。

 そんなことからせめて手紙を出そうと思うのですが、その冒頭の書き出しのところなのですが、私などはつい「暫くご無沙汰してしまっていますが、つつがなくお過ごしでしょうか」という、典型的なご挨拶で始まる手紙を書くことになるのですが、よく考えるとこの「つつがなく」というのはどういう意味なのかということに突き当たりました。

そこで一寸調べてみることにしましたので、その結果をお知らせしておこうと思いました。

 これが何と聖徳太子の時代から、これは「つつが虫」という虫の名前で、原因不明のきわめて恐ろしい病気として恐れられていたというではありませんか。変に専門的なお話になりますが、これはダニ目のツツガムシ科の節足動物なのだそうで、野ネズミなどに寄生していてつつが虫病を媒介するというのです。

 この病原体が突き止められたのは明治時代あたりになってからのようで、それまでは死亡率が40パーセント以上という、極めて恐ろしい病だった

のでした。

 事件の発生地として知られているのは、明治以降では新潟県の阿賀野川、信濃川・山形県の最上川、秋田県の雄物川が知られているのですが、大雨などが降った時などに水をかぶってしまう、草原や耕地に人が入るとつつがむしの餌食になるようです。ところで思わず思い出したことがあります。

聖徳太子の住んでいらっしゃった奈良県の飛鳥あたりは、湿地帯だったということなのです。古代の大きな戦争として知られる物部氏と蘇我氏の戦いは、湿地帯に暮らして雨季にはいつもあたりに洪水に見舞われる蘇我氏に対して、大阪の八尾市という乾燥した地域に暮らす物部氏は、極めて農産物にも恵まれていたということを考えますと、いつかはその有利な支配地を取ろうとする蘇我氏と、それを拒否する物部氏との間での戦いになることは、止む追えない状況でした。

言うまでもなく聖徳太子は蘇我氏と共に戦いました。

称徳太子はつつが虫を大変警戒していたという話がありましたが、その話が切実に迫ってきます。

どうぞみなさんは充分に知識を頭に置いて、警戒をしながら地方への観光旅行にお出かけ下さい。

つつがなきことを切にお祈りいたしております。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の六 [趣味・カルチャー]

     第六「運気の悪戯だと思うために」(六) 


       課題「物の怪についての見解を覆す」


 先進的な嵯峨天皇のものの怪についての考え方に対して、それを覆してしまう現実主義というものがあります。現代でもこうした処理が行われるようなことがあるのでは・・・。


為政者・仁明天皇


承和十一年(八四四)五月のこと


発生した問題とは


五月のことです。


飢饉の影響でしょうか淡路国では他国の漁師たちが三千人もやって来て、土着の人たちを痛めつけたり、山林も伐採して立ち去るということが起こったりします。今上は七月には左大臣に源常を就け、今上の近親である橘氏公が右大臣に就いて、少しでも為政の方向を糺そうとするのですが、時代は徐々に荒んで行くように思われます。政庁は京や畿内で耕作すべき田をそれぞれに分け与えるという班田を実施したりするのですが、結局いい結果は出せず、平安京はもちろんのことその周辺や諸地方の治安も、あまりよくない状況になってきていました。


政庁には前年から、あまりいい情報が集まって来ていませんでした。嵯峨太上天皇の諒闇中ということもあって、このところ近隣の新羅国なども朝貢にもやって来なくなってきていた上に、四月には神功(じんぐう)皇后の山稜(みささぎ)から雷鳴のような山鳴りがあって、赤色の気体のようなものがつむじ風のようになって、南へ飛んだという不気味なことが起こったりすると、陸奥国からは、城柵に籠って警備に当たっている兵士たちの中から、生業に就けないという不満が募って逃亡する者が増えているという知らせがあったりするのです。七月に祖霊嵯峨天皇の一周忌を迎えるのですが、それから間もなく祖霊桓武天皇以来為政に尽してくれた藤原緒嗣が亡くなってしまい、朝廷は公卿が百官を率いて朱雀門において祓いを行って喪を解いたのでした。ところがそれから間もない八月には、大宰府から連絡が入ってきます。対馬島上県郡竹敷埼の防人らが「去る正月中旬から今月六日まで、遥か新羅国の方から鼓声が聞こえ、耳を傾けますと日に三度響いてきます。常に午前十時頃に始まり、それだけでなく黄昏時になると火が見えます」というのです。何か不安を感じさせることが重なり過ぎます。


 「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒であり、将軍が驕(おご)り兵が怠けるようなことは、軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくても,慎むべきことである」(続日本後紀) 


 ところがそんなところへ、文室宮田麻呂が謀反を起こそうとしているという事件が持ち上がるのです。文室宮田麻呂が謀反を起こそうとしているという事件が持ち上がるのです。弾正台と京職が対立していて、平安京の取り締まりも思うように行われない状態になっているということが背景にあったのでしょうか。直ちに朝廷は勅使を送って難波にある彼の邸宅を調べると、そこにはかなりの武具が揃えられていたことが判り、逮捕するといった事件もありました。そんな不安の積み重ねでしょうか、年が変わって承和十一年になると、今度は宮中に物の怪が現れるというのです。すると大納言藤原良房の指示を受けた文章博士たちが集められて、嵯峨天皇時代の政庁の見解を覆すような発表をするのです。


為政者はどう対処したのか


「先帝嵯峨太上天皇の遺戒に『世間では、物の怪が出現するたびに亡者の霊の祟りだとしているが、はなはだ謂れのないことである』とありますが、今、物の怪の出現のままに役所に卜わせてみますと、亡者の祟りであると明瞭に出ています。私たちが卜いの結果を信じれば遺戒の旨に背き、依らなければ現状に対する戒めである祟りを忍ばねばなりません。進退ここに窮まりどうしたらよいか判りかねます。あるいは遺戒は後の者が改めるべきでしょうか。私たちは検討を行い、改めるべきか否かについて、古典の文章を引用して典拠としたいと思います」(続日本後紀)


 中国古代のさまざまな例を取り上げて検証すると、


「君子は何事につけ適・不適を予断せず、筋道を立てて考えるものだと述べています。これらに依り考えてみますに、卜筮の告げるところは信じるべきであり、君父の命令は適宜取捨すべきものでして、これより改めるべきは改めることに、なんら疑問はありません」(続日本後紀) 


まだ祖霊嵯峨太上天皇の崩御から二年だというのに、その理性と博識に基づいた遺訓は、大納言の指示で変えられることになってしまうのでした。


ここで敢えてこのような話題を持ち出したのは、現代のような先進的な科学力もない時代に示された、あの古代という時代では実に新しい嵯峨天皇のものの怪についての考え方でしたが、それを覆してしまう藤原氏の現実主義というものでした。しかしこうしたことは、現代でもあることだとはありませんか 


温故知新(up・to・date)でひと言


 先進的な先見性が受け入れられずに、現実主義的な処理によって葬られていってしまうということは、現代でもよく行われることではないでしょうか。それが果たしていいことなのかどうかを官衙手観る必要がありそうです。姿・形が尋常ではない異類異形(いるいいけい)でこの世のものとは思われない怪しい姿をした化け物、妖怪の類はあくまでも創作上の工夫ということとしては認められますが、それが如何にも大問題というような捉え方をして不安を掻き立てるような者によって利用されるようなことがあるのがしばしば見受けられます。しかしそんなものは見逃しておくわけにはいきません。雲烟過眼(うんえんかがん)といって、雲や霞が眼前を過ぎ去って行くのを見るように、物事を深く心に留めないことがいいのかどうか、考えなくてはならないのではないでしょうか。


 



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ お知らせ7 [趣味・カルチャー]

                   「原稿執筆中」1.jpg

                「更新変更のおしらせ」

 


 次週の3月19日の日曜日が更新日ですが、その次の26日は都合により当日更新ができませんので、19日に26日の分も一緒に更新させて頂きます。


 どうぞよろしくお願いいたします。


 


                          藤川桂介


 


令和四年三月十二日



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言18 [趣味・カルチャー]

          

「冬至余談」


新しく太陽が甦る日として重要視されている日が冬至の日です。この日を境にして日が伸びたり短くなったりするのを知った人間は、この日を境にして日脚が伸び出すこともあって、どうも夏至よりもこちらの方を大事にする傾向がありますね。


日本はもちろんですが、世界各地でも、その日のためのいろいろな行事が行われたりしますが、日本では柚子湯につかって体を温めるようなことが、日常的に行われていますが、日あしの伸びるこの日を年の始まりと考えた結果、冬の最中にお正月を迎えることになりました。欧米諸国が孤陽当たりをクリスマスの行事の始まりにしているのはそのためなのでしょう。


にほんでもブラ里などでは神の子が村の中を巡るという行事を行うところが大分あるように思いますので、クリスマスのような行事はすべて外国からの輸入品ということでもなさそうです。


昔から言われる言葉の中に、「冬至冬なか冬はじめ」というのがあるようですが、暦の上で冬至は立冬から立春の丁度真ん中にあたるのですが、実際は寒さの厳しくなり出すのが,冬至の頃からだという意味でしょう。


一月一日から二月十日までは最低気温が氷点下になったりしますが、こうした寒さが新年の始まりとなるのは古代人の太陽信仰の名残だということになりますね。


余談になりますが、日本の神社ではこの当時の日に「一陽来復(いちようらいふく)」というお札を出すところがかなりありますが、こうした事のためだと思います。


平安時代では桓武天皇(かんむてんのう)がこの当時の日でも朔旦冬至(さくたんとうじ)といって、ほぼ十九年に一回巡って来る十一月一日の冬至を大変大事にしていたという記録があるのです。


これからいよいよ一年が始まるのだという新鮮な気持ちになって正月を迎えたのでしょうね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の五 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(五)

    為政者の課題・「ものの怪、またまた内裏へ」

 承和七年(八四〇)仁明天皇(にんみょうてんのう)の治世になってから、もうかなりの年月を経てきていますが、お気の毒に一生懸命勤めてはいるのですが、世の中の空気は一向に良くなりません。

すでに第六章「運気の悪戯だと思うために」「その三の三」「ものの怪、内裏へ現る」の閑談で触れましたが、またまた同じような不可解なものの登場と戦わなくてはならないようです。父嵯峨太政天皇が健在であれば、何らかの考え方を示してくれるかも知れないと思う公卿も多かったでしょう。

 兎に角平安時代では、神仏に対する信仰によって、その霊威によって危機をかわすことが唯一の手立てであったのです。

 政庁は年明けの二月に、六衛府に対して特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。

勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、天皇には世相の乱れが気になっている最中のことでした。

「朕は人民を治める方法に暗く、人民を豊かにし教化をすすめる点に掛けるところがあり、政治は人民に安楽を齎+さず、十分な貯えを有するに至っていない。これまで日照りの害で秋稼(しゅうか)が稔らず、賑給(物を恵み与える)が広く行き渡っていないので、服御の費えを減らし、公卿らも食事の削減を志、適切な臨機応変のしょちを取り、封禄の一部を差し出し、公の費用を助勢することになった。これは疲弊状態を救い、国家を交流させるための時宜に応じた方策である。朕は公卿らの我が身を顧みない誠に応じしているが、なお、人民を豊かにできない恥の思いを抱いている。いま、時は秋で穀物はすこぶる豊熟となっている。国用を支えることができると判ってきたので、削減した封禄をすべて旧に復するのがよいと思う。司の者は子のことをよく理解し、朕の思いにそうようにせよ」(続日本後紀)

 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を創作して、身柄を捕えかつすすめ、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)

 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。

 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)

為政者・仁明天皇

承和七年(八四〇)六月五日のこと

発生した問題とは

そんなある日のこと、散位従五位上文室朝臣宮田麻(ふんやのみやたまろ)の従者陽候氏雄(やこのうじお)が、宮田朝麻呂が謀反を起こそうとしていると訴えてきたので、内豎(ないじゅ)を遣わして宮田麻呂を召喚した。すると宮田麻呂は使人と一緒に蔵人所(くろうどところ)へやって来たので、左衛門府に禁獄しました。

勅使左中弁(さちゅうべん)正五位下、長岑(ながみね)朝臣木連(いたび)・右中弁五位下伴宿祢成益(とものすくねなります)・少納言従五位下清滝朝臣河根(きよたきあそんかわね)左兵衛大尉(さひょうえのだいじよう)藤原朝臣直道らを京および難波の宅へ派遣して、謀反に関わる武具を捜索した。

 その日は宮城の諸門を閉鎖しました。

 訴え出た陽候氏雄を左近衛府に収監した。(罪ありと訴え出た者は誣告罪(ぶこくざい)の容疑者扱いとなる)

勅使らは宮田麻呂の京宅を捜索して、かなり沢山いろいろな沢山の武具を得、難波の宅の捜索で、更に兜二枚・壊れた甲二領・剣八口・弓十二張・やなぐい十具・鉾三柄からなる兵器を得、右近衛陣に棄て置いた。

 参議滋野朝臣貞主(しげのあそんさだぬし)左衛門佐藤原朝臣丘雄(さえもんのすけふじわあそんおかお)を遣わして、文屋宮田麻呂を尋問した。

 やがて謀反人文屋宮田麻呂の罪は斬刑に当るが、一等降ろして伊豆国に配流と下。その男二人のうち内舎人忠基は佐渡国へ流し、無官の安恒は土佐国へ流すことにした。従者二人のうち和邇部福長(わにべのふくなが)は越後国へ、井於枚麻呂(いのえのひらまろ)は出雲国へ流すことにし、連座した従者神叡(じんえい)枚麻呂と同所へ流すことにした。

訴え出た陽候氏雄は特別に大初位(だいそい)下を授け、筑前権少目(ちくぜんのごんのしょうさかん)に任じた。その告言(こくげん)により、犯罪の一端が明らかになったからである。

  為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのような事件は運よく未然に処理できたのでした。しかし為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが、またまた現れるようになったのです。

 平城京時代ではよく表れたのがはっきりとした相手に対する怨念を秘めて現れたのですが、今は何が原因となっているのか得体の知れない「ものの怪」などという妖怪が登場してきます。それが激しく話題になってきたのは、まさに仁明天皇の時代だったように思われます。

時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。

それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。

 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりするのです。

 それに対して天皇は次のように答えた。

「治にいて乱を忘れずとは、古人の明らかな戒めであり、将軍が驕り、兵が怠けるようなことは軍事の観点からあってはならない。たとえ事変がなくても、つつしむべきことである」(続日本後紀)

奥地の民がみな庚申待ち(庚申の夜、寝ないで徹夜する習俗)だと言って、みだりに出回るのを制止することが出来ないというのです。前はこのような行為は懲粛してきたのですが、国の力なくしては、こうした民の騒動を抑えることはできません。そこで援兵を動員して事態に備えるべきです。その食料には陸奥国の穀を充てたいと思います。但し、上奏への返報を待っていますと、時期を失う恐れがありますので、上奏する一方で動員致しますとあったのでそれを許可し、よく荒ぶれた民を制止し、併せて威と徳をもって臨むべきであると指示をしたのでした。

 得体の知れない物の怪などが現れることは、あくまでも為政者に対する神々による罰の暗示であると考える天皇は、更にこんな指示をいたします。

「神は居ますが如く祀り、民には自分のこの如く対処するのが、国司のとるべき古今の法則である。この故に従前、しばしば法令を出してきた。しかし国司の治政をみると、役人は公平ではなく民は疫病に苦しみ、穀物は稔らず、飢饉がしきりに発生している。政治のあり方として懲らしめ糺す必要がある。何につけ怠るのは人情であるから、五畿内・七道諸国に命じて、これまでの怠慢を改め、今後はしっかり勤務するように仕向け、部内を巡行して神社を修造するようにすべきである。禰宜(ねぎ)(あふり)らが怠務すれば、前格に従い職を解き処罰せよ。年間の神社修造数は書類にして申告せよ。三年の内に使いを遣わして調査し、神社が壊れているようであえば、国司・郡司は違勅罪に処すなどと指示します(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

遣唐使船の第二船が帰国の途中で航海中に逆風に遭って、治安の不安な南海の土地へ漂着して戦うことになった時敵は数が多く私たちは少なく、敵よりははなはだ弱体でしたが、運よく克てましたのは大神の御助けによると思われましたというのですが、今落ち着いて考えると、去年出羽国が報告してきた、大神が十日間戦う音を聞いたあと、兵器の形をした隕石が降ってきたというのと、遣唐使たちが南海の賊地で戦っていた日時とがまさに一致しているというのです。大神の神威が遠く南海まで及びましたことに驚き、かつ喜び、従四位の爵位を授け、二戸の神封を充て奉りますと申し上げよと申し上げます。捕獲した兵器を帰国後献上したのだが、それは我が国のものとは違うものであったと衝撃的な話が付け加えられました。

 こんなことは形が違っても、決して現代とは関係がないといって、一蹴してしまうことはできないのではないでしょうか。古代では天皇をはじめ為政に関わる者にとって、極めて不安な不気味な存在でしたが、現代社会においては誰もそんなものが登場したということはいいませんが、実際はその後まったく見せない物の怪よりも不気味なものが、(うごめ)いているかもしれません。

温故知新(up・to・date)でひと言

 現代では神仏の存在ということについての思い込みは、とても古代の人とはその思い込みに差がありますが、それでも祖霊嵯峨天皇は、極めて覚めた視点でそうした得体の知れないものを見ようとしていました。祖霊は「局天蹐地(きょくてんせきち)といって、恐れてびくびくすることはないとおっしゃいました。一つの月を見るにしても、「一月三舟(いちげつさんしゅう)といって、三隻の舟から眺めるとそれぞれ異なって見えるように、人によって異なった受け取り方をするというたとえ通りで、兎に角奇奇怪怪(ききかいかい)なものが登場しても、仰天不愧(ぎょうてんふき)というもので、心の中にやましいところがなければ、天に対しても少しも恥じるところはないのです。みな胸を張って自信を持って生きていきましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑18 [趣味・カルチャー]

       

   「出勤風景今昔」


 


 テレビで朝の出勤風景を見ることがあります。


 東京駅などから、人、人、人が、まるで洪水のような勢いで、丸の内を目指して流れていきます。


 思わずご苦労さまと声をかけたくなってしまいますが、一体古代ではどうだったのだろうかと考えてしまうことがあります。


古代の中の大きな王朝といえば、平城宮があげられると思うのですが、農民は別として、王宮の官衙(かんが)で働く官人たちも、現代のサラリーマンと同じように、時間に遅れないように出仕しなくてはなりませんでした。


そのころ平城京には、二十万人という人が住んでいたといいますが、その中の平城宮で働く官人は、高級役人百五十人、中、下級役人五百人、位を持たない下働きがほぼ六千人、宮中の人夫などがほぼ千人、合わせて八千人ぐらいだったといいます。彼らは夜明けとともに作業が始まるので、早朝から丸の内へ向かって出勤する人、人、人という光景に、似たような姿があったのではないかと思います。


上級の官人たちは官衙に近いところに住んでいましたから、かなりゆっくりと出仕できました。特に大臣クラスの高貴な方々は、牛車などに乗って出仕して来ても、日の出前までには間に合いますが、下級の官人たちは官衙から遠いところに住んでいましたから、夜明けまでにやって来るには、まだ夜明けにはほど遠い、きらきらと星が輝いている空を仰ぎながら、出かけて来なくてはなりません。


農民たちも夜明けと共に農作業をはじめますが、もうその頃には官人たちは平城宮の前に着いて、午前三時に門が開くのを待っていたのです。もちろん左大臣、右大臣、大納言、中納言、小納言、参議という、所謂太政官(だじょうかん)と呼ばれる、政治を動かして行く為政者である上級の官人たちも、執務が行われる朝堂院(ちょうどういん)の門が開くには六時半と決まっているので、その南にある朝集殿というところで開門を待っていたのです。もしそれに遅れた時は、朝堂へ入ることは許されません。それでもこうした上級の官人たちは、午前中だけ仕事をして退出して行ってしまいます。


そうなるとこのあとの余暇は、趣味を追及して行ったり、親しい者と交流したり、学術の習得や追究をしたりすることにあてられる余裕も生まれました。しかしこれに対して、下級の官人たちは夜明けから日没まで、せっせと働かなくてはなりませんでした。


どんな時代になっても、下支えをする人たちはかなり大変な努力を強いられるもののようですね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の四 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(四)


    課題「ものの怪と太陽の異変」


 まだ現代科学のような先進的な知識のない古代では、天空に起こる現象については、神仏に祈る意外にまったく手出しのできないことでした。中でも月と太陽については驚異の現象でしかなかったのですが・・・。


為政者・仁明天皇


承和十年(八四三)五月八日のこと


発生した問題とは


 三月に神功皇后(じんぐうこうごう)楯別山稜(たてなみさんりょう)陵守(みささぎもり)が次のようなことをいってきました。


 「先月十八日の午前八時頃、山稜が二度鳴りました。雷鳴のように響き、それと共に赤色の気体状のものがつむじ風のように南を指して飛んでいきました。午後四時頃再度音がし、気体状のものが西を指して飛んでいきました。参議の正躬(まさみ)王を遣わして調べてみると、山稜の木七十七本と無数の若枝等が伐られていました。そこで陵守長百済春継(くだらはるつぐ)を処罰して天皇に報告しました。それからまもなくのことです。陸奥(みちのく)国からこんなことをいってきました。


 諸軍団の軍毅らが、


「兵士は一年に六十日兵役につき、六番に分かれて、十日ごとに交代しています。食料は自弁で城柵に詰めるに当たり、遠方から出仕しますので、常に往復に疲弊し、在宅日数も少なく、生業をこなすことができません。このため逃亡する者が多く、民は動揺しています。そこで兵士を千人加増し、元の兵士と併せて八千人とし、八番に分け、六番から八番へ番の数を増やすことにより、疲弊した兵士の負担の軽減を要望いたします。ただし、軍団数を増やすことなく、増員した兵士は従来の軍団にあまねく配分したく思います」(続日本後紀)


と言ってきた。


 政庁はそれを許可したのですが、今度は式部省からこんなことが訴えられたのです。


 「従前勘籍人(かんじゃくにん)(戸籍により身許を調査した者)を諸司の番上や諸衛府の舎人に任用してきましたが、事情を検討しますと、官人身分取得を目的に任用を求めているのが実情です。官人身分の取得が困難なのは久しい以前からのことですが、当今に置いては、任用されていた者は一選(勤務成績による叙位のために必要な年限。選叙令に規定されている)を勤務した後、他の官職へ遷ることができるようにしますよう、要望します」(続日本後紀) 


 政庁はそれも許可いたしました。


 するとまた陸奥鎮守の御春(みはる)浜主が、次のようなことを訴えてきたのです。


 「健士(けんし)は元来爵位を有する者です。調庸の負担がなく鎮守府では、これまで武芸に優れた者を選び健士と名づけ、食料を支給して田租を免訴し、番をなして兵役に当たらせてきました。しかし現在、勲位は一人もおらず、建士に充用することができません。そこで、格旨により白丁を動員し食料を支給して調庸を免除扱いとしたいと思います。人にはそれぞれ役割がありますので、射が下手な健士は、下手な兵士に准じて、城の修理に使役したいと思います」(続日本後紀)


 人事的な問題が次々と持ち込まれている政庁ですが五月になると、また人智ではどうにもならない、気になることが報告されるのです 


為政者はどう対処したの 


 太陽に光りがなく、終日回復しなかったのです。雲でも霧でもない黒い気体状のものが天に広がり、正午過ぎになって時々日が射したが、陽光は黄色がかった赤色でした。神祇官(じんぎかん)陰陽寮(おんようりょう)に命じて、昨日の気体状のものに謝せしめた。本日正午ごろ陽光が明るさを取り戻したのでした。しかしそれから数日後に内裏の物の怪と太陽の異変を鎮めるために、百人の僧を呼んで三日間「薬師経」を清涼殿で読み、薬師法を常寧殿で修し、「大般若経」を大極殿で転読(経文の初・中・終わの要点だけを略読する)した。


 何も起こらなければいいのですが、用心しているのにそれから間のなく、犬が天皇の座の前の参議以上の者の座の近くまで上がると、反吐を吐き尿をしたりしてしまったといいます。


 何か異常なことが起こっています。


 不安が現実になったのは、一ヶ月ほど経った頃のことですが、伊賀、尾張、参河(みかわ)、武蔵、安房(あわ)上総(かずさ)下総(しもうさ)、近江、上野、陸奥(みちのく)、越前、加賀、丹波、因幡、伯耆(ほうき)、出雲、伊予、周防など十八国に飢饉が発生して、天皇の命によって物を恵み与えた。七月には嵯峨太上天皇の一周忌が行われました。しかし祖霊の遺詔によって、民間の俗事に拘泥してはならないということで、葬儀には三日以上かけてはならないというのです。丁度この頃仁明天皇は発熱しているために相談するわけにもいきません。 天空の異常現象の影響が及んできているのでしょうか、不安が広がったのでした。


 こんな現象自他が、現代ではただ単に話題になるだけで、それで治国を危うくしてしまうようなことはありません。天文マニアを喜ばせるだけでしょう。


温故知新(up・to・date)でひと言


 しかし昨今の異常気による被害の広がりがつづく状態は、人智では解決のしようのない問題で、それは古代と何の変りもありません。流金焦土(りゅうきんしょうど)ということがいわれますが、炎暑の激しいたとえです。金属をとかし、大地を焦がすような暑さだということですが、すでにほとんどの方が実感されたのではないかと思います。卵をかさねたように非常に不安定で、危険な状態であることをいう累卵の危(るいらんのき)という言葉がありますが、そんなことが引き金になるのでしょうか、古代では物の怪が出没するのです。正に神出鬼没(しんしゅつきぼつ)です。正に神わざで、どこでも自由自在に出没してきます。現代では地球規模という広がりの中で、地球温暖化に向かい合わなくてはならなくなっているように思います。兎に角天空に起こる異変が、あくまでも地球を危うくするようなものでなく、天文ショウとして楽しめるようになって欲しいと思うのですがどうでしょう。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言17 [趣味・カルチャー]

      

「海獣蜃気楼」


 いつも話題で取り上げられるのは、富山湾でおこる現象が蜃気楼というものです。勿論現代の人は科学的な光の屈折で起こる不可思議な現象であるとしか思わないでしょうが、恐らく古代の人々にとっては、神が何かを暗示する怪奇現象だと思って、気持ち悪い思いでいたに違いありません。


ものの本による解説によりますと、蜃気楼の「蜃」というのは、ハマグリのことだそうで、これが気を吐くので、空中に楼閣が現われるのだなどと言われていたようで、ナマズが激しく動くので自信が起るのだという話とつながるような話ですが、私が少年時代にそのナマズが動くのを察知する能力があるというので、防火水槽に雷魚を買っていたことがありましたが、こういった話には様々な尾ひれがつくようで、「蜃」は鮫竜の仲間で大きな角のある蛇のような動物で、これが蛇と雉との混血児だという説もあったのだそうです。


 勿論それ等はほとんど信用できませんが、富山湾の蜃気楼については、冬の話題としてしばしば他の仕舞えてくれます。


 冬の間日本アルプスに積もった雪がはるになって溶け出し、それが流れて富山湾に注ぐので海水温が下がるのですが、そうなると海面すれすれの空気は温度が低くて濃くなります。するとその上を吹く風はそれに比べて温度が高くてうすいので、そこで屈折が起って遠くのものが浮かび上がって見えて来るということになるらしいようです。つまり蜃気楼というのは現代的に説明すると、ただ光が屈折して起こる現象ですということになります。


 あの砂漠に起こる蜃気楼も同じようなことなのだそうですが、古代の人にとっては突然起こる神の啓示ではないのかと思って、よくないことが起るのか、はたまたよいことが起るのかと、普通ではいられなかったのでないでしょうか。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る 六の三 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(三)


    為政者の課題・「ものの怪、内裏へ現る」


承和四年(八三七)仁明天皇が統治して四年になろうとしています。


 正月の十六日のことです。恒例によって皇太子を伴って紫宸殿へお出でになられた今上は、踏歌をご覧になられると翌日は豊楽殿で射礼(じゃらい)(六衛府から選ばれた者で行われる宮中の正月の儀式)を観覧されるのですが、その翌日も殿上に設けられた天皇の座の近づこうとした時、突然得体の知れない「ものの怪」が出現したのです。


 天皇は慌てて出席を諦めて大臣を遣わしたりいたしました。それにしてもなぜか仁明天皇が即位してから、ほとんど日常的に物の怪が現れるようになっているのです 


 「君主が安穏に過ごし、人民が和らぎ楽しんで暮らせるようにするには、十一面観世音菩薩の密教に基づく奥深い呪言の力以上のものはない」(続日本後紀)


 平城時代と変わって、怨霊ではなくものの怪などという得体の知れないものが宮中にも表れるという事態です。


 これまでは人間関係の中での複雑な関わり合いから生まれる怨霊というものでしたから、それを除くための手立てもいろいろとあったのですが、このところ盛んに表れる「ものの怪」というものは、何かを暗示しているのでしょうか・・・。


 天皇については、なぜ内裏へ現れるのか、その原因が掴めません。


為政者・仁明天皇



承和四年(八三七)正月十八日のこと


発生した問題とは


神仏の加護にすがるしかありません。為政の運営に困難を極めているところへ、嵯峨太上天皇の時代から気を使ってきていた俘囚(ふしゅう)たちが、時を経るうちに不満が溜まってきているようで、二月には陸奥国から不穏な動きが感じられるという報告が行われてきました。


蝦夷(えみし)との戦いの報告があって、その時に使われる武器が論議されるのですが、彼らは軍馬を使っての戦に優れているので、なかなか制圧できないということが陸奥国から進言してきました。しかし武器庫を調べても全体的に不調だし、その責任者を置くには財源がないという状態でした。


為政者はどう対処したのか


 朝議においては、次のようなことが話し合われていました。


剣戟(けんげき)は交戦の際に役立つ武器であり、弓弩(きゅうど)(大弓)は離れたところから攻撃する際の強力な仕掛けです。このために五兵(弓矢(きゅうし)(しゅ)()()(げき)からなる五種の武器)は適宜用いるものであり、一つとして欠けてはなりません。まして弓馬による戦闘は蝦夷らが生来(なら)いとしているもので、通常の民は十人いても蝦夷一人に適いません。しかし弩による戦いとなれば、多数の蝦夷であっても一弩の飛ばす(やじり)に対抗できないものです。即ちこれが夷狄(いてき)を制圧するたまには最も有力です。ところで、今武器庫の中の弩を調べると、あるものは全体として不調であり、あるものは矢を発する部分が壊れています。また、弩の使用法を学ぶ者がいますが、指導する者がいません。これは事に当たる責任者を置くに必要な財源がないことによります。そこで鎮守府に倣い、弩師(どし)を置くことを要望します」(続日本後紀)


何かすっきりとしない空気が広がっていきます。朝廷にはその始まりのところでつまずいている遣唐使問題もありますから、何とかそれを解決しなければなりません。遣唐大使常嗣と副使篁に再び節刀を与えて、それぞれ日を置いて大宰府へ向かわせました。ところがそれから間もなくのことです。四月になると陸奥国から玉造塞(たまつくりのさい)温泉石神(ゆのいしがみ)が雷のような響きを上げて振動して昼夜止まらず、温泉の湯が川に流れ込んで(おもゆ)のような色になっているというようなことが報告されてきたのです。それだけではありません。山が噴火して谷は(ふさ)がり、岩石は崩壊して更には新しく沼が出現して雷鳴のような音と共に沸き立っているというような、不思議な現象が数えきれないほど起こっているというのです。しかもそうした人心の不安を背景にして、俘囚たちが不気味に動き出していると按察使(行政官を観察する官)の坂上大宿祢浄野(さかのうえおおすくねきよしの)が至急便で報告してくるのです。


「去年の春から今年の春にかけて、百姓が不穏な言葉を発して騒動が止まず、奥地の住人は逃亡する事態になっています。栗原、桃生(ものう)以北の俘囚は武力に優れた者が多く、朝廷に服従したように見えながら、反抗を繰り返しています」(続日本後紀)


 兵を増員したり、待遇を改善して欲しと訴えてきます。朝廷は直ちにそれに応えながら、威厳と恩恵を併せてそれを施すように指示するのですが、天帝が為政者の心構えを(いさ)めようとされるのか、六月のある日のこと、内裏の目の前に天の架け橋といわれる虹が、六つもかかるという不可思議な現象を起こしたりするのです。


 今度は十月になると霖雨(長雨)のために、穀物の価が跳ね上がってその手当もしなくてはなりません。それから間もなくのことです。天帝の咎めなのでしょうか、日の出から激しく風が吹き荒れ、京中の家々が損壊してしまうという災害に見舞われてしまったりするのです。時代の空気が怪しげなものを呼び込んでしまうのでしょうか。廷臣たちは天候異変ということが引き起こす現実的な問題の処理に腐心するのが精一杯で、時の流れの背後にある問題などについては、まったく考える余裕はありませんでした。しかしこんなことは現代でもあり得ることです。本人の心理状態にある緊迫したものがあると、予期せぬようなものを見てしまったりします。


 天皇には国内の落ち着かない雰囲気を治めることばかりでなく、前年あたりから接触して来る新羅国のことが気になっていました。遣唐使船を送り出す時に、海難事故に遭うことが多かったことから、新羅国へ使者を送って、仮に遭難した結果新羅国へ漂着することがあった時のことを、頼むために遣新羅国使(けんしらぎこくし)紀三津(きのみつ)送ったりしたのですが、彼は自らの失敗で使者としての任務を果たせず、新羅の不当な脅しを受けて帰国したのですが、その後のことが気になり始めました


 新羅国から婉曲に紀三津という者は信用できないという文書が送られてきたのです。その簡単な説明文につけて、新羅国の立場を説明した抗議文が届けられました。


 「三津は新羅へ到着すると、朝廷から託された使命を放棄して、もっぱら友好を目的として訪問したといったのである。恐れ怯えて媚び、自分に都合のよい発言をしたらしい。新羅執事者は太政官牒(だいじょうかんちょう)の趣旨と異なることを疑い、再三にわたり訪問したが、三津はますます困惑し、説明できなくなってしまった。これは三津に見識がなく、また弁舌が下手だったことによる。この故に執事者の太政官宛て牒では「新羅・日本国はお互いに通じ合い、偽り欺くようなことは少しも行なわないものです。使人三津はその任に相応しくない人物で、頼むに足りません」といっている。ただし執事者牒では「小野篁の乗船した船は、遠く唐に向けて出帆しており、必ずしも三津を重ねて唐へ派遣するのではないと言っています」とも述べている。へ派遣する施設には大使がおり、篁は副使でしかない。どうして大使の名を出さず、その下の者の名を出したのか。それだけでなく、その時、篁は日本にいて渡海は以前であり、「遠く唐に向けて出帆している」というのは、いずれも海路をとり航行する商人らの流言を聞いて、でたらめを言ったに過ぎない。「首枷(くびかせ)(にな)いて耳を破る」(易経・罪重くしかも改めようともしないで重罰を蒙る者のこと)というのは、思うにこのようなことであろう。また、三津は一介の六位に過ぎず、小舟に乗ったこのような者がどうして入唐使に擬せられようか。このような三津の発言は、ないことをあったようにいう偽論に近い。今回のことについて、大略を記すのみで事の推移を詳述しておかないと、後代の人は事情が判らなくなるので、執事省牒を全文写し附載しておく」(続日本後紀)


 このような前置きをした上で、新羅国執事者が日本国太政官の通牒してきたのです。


 「紀三津が朝廷の使人を詐称し、併せて贈物を(もたら)してきました。しかし、太政官牒を調査するに及んで、実の使人でないことが判明しましたので、通知いたします。三津らが提出した書状に当りますと、朝廷の命を受けて、もっぱら友好のためにやって来たとありますものの、太政官牒の入った函を開け牒を閲読しますと、大唐国へ派遣する使節の船が、新羅の領域へ漂着したら、救助して遅滞なく送還して欲しいとありました。我が方では再度勅使を出して丁寧に尋問しましたが、三津の言うことと太政官牒の内容とが一致せず、虚実を判断できない事態となりました。(後略)」(続日本後紀)


 近隣の国との接触にも神経を使わなくてはなりませんでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 そんな経験をしたことがありませんか。怨霊にしても物の怪にしても、その時の自分の置かれている状況と無縁ではありません。「意路不倒(いろふとう)といって、人間の思慮分別では理解できない不可思議なことと出合ったり、体験したりします。まさに「妖異幻怪(よういげんかい)というものです。この世の物とは思われない怪しい物や、尋常の能力では計り知れない不思議なことで、SF作品に登場しそうですが、物の怪などというものが現れることは、「探卵之患(たんらんのかん)といって、自分の拠り所を襲われたり、自分の内に秘めて居るようなものを見抜かれるのではないかという不安に駆りたてられるものです。そんな時にどう判断できるかによって、道筋を誤まらなかったり、とんでもない判断ミスをして困難と葛藤しなくてはならなくなるという、瀬戸際に立つことになってしまうかになってしまいます。果たしてどんなことに出合っても冷静でいられるでしょうか。



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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

 


「日本書紀」上(中央公論社)


「日本書記」山田英雄(教育社)


「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)


「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)


「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)


「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)


「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)


「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)


「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)


「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)


「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)


「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)


「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)


「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)


「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)


「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書


)


「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)


「遣唐使全航海」上田雄(草思社)


「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)


「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)


「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)


「壬申の乱」(新人物往来社)


「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論


社)


「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)


「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)


「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)


「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)


「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)


「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)


「大覚寺」山折哲雄(淡交社)


「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 


「続日本紀」(臨川書店)


「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)


「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑17 [趣味・カルチャー]

「妖怪今昔物語」

 

 怪しい話というものは、いつの時代にも誕生するものです。

 平安時代で嵯峨天皇の息子で仁明(にんみょう)天皇の時ですが、世の中が落ち着かない時代だというのに、かつて盛んに表れたという怨霊ではなく物の怪という得体の知れないものが現われるということが話題になっていました

するとそんな噂を証明するように、承和四年(八三七)年正月の十六日のことです。

恒例によって皇太子を伴って紫宸殿へお出でになられた天皇が、踏歌をご覧になられると、翌日は豊楽殿で射礼(じゃらい)(六衛府から選ばれた者で行われる宮中の正月の儀式)を観覧されるのですが、その翌日も殿上に設けられた天皇の座の近づこうとした時、突然得体の知れない物の怪が出現したのです。

天皇は慌てて出席を諦めて大臣を遣わしたりいたしましたが、それにしてもなぜか仁明天皇が即位してから、ほとんど日常的に物の怪が現れるようになっているのです。

 同じ仁明天皇の為政者・仁明天皇の承和七年(八四〇)六月五日のことです。政庁は年明けの二月に、六衛府に対して、特別に平安京の夜間の巡邏を行わせました。群盗が各所に跋扈したことによります。

勅命に背いたということで隠岐の島へ配流されていた、小野篁が帰還させることになったことから、町民たちには多少でも明るい話題にはなったのですが、世相のほうは乱れが気になっていたのです。

 「聞くところによると、悪事をする者が真に多く、暗夜に放火したり、白昼物を奪うことをしている。静かにこの悪しき風潮を思うと、人を溝に押し込め、苦しめている思いをつよくする。左右京職・五畿内・七道諸国に命じて、厳しく取り締まり、村里を捜索して身柄を捕え、遅滞のないようにせよ」(続日本後紀)

 このような指示をしたりしました。

 不安に対する指示をされると、平安京内の高年で隠居(生業がなく生活する)している者と飢え病んでいる百姓らに物を恵み与えるように指示をされると、やがてこんなこともおっしゃるのでした。

 「国家が盛んになるために肝心なのは、民を富ますことであり、倉が充ち足りるようになるには、(まこと)に稔りがあればである。この故に耕作時には作物が盛んに繁るようにし、農作時に適切に対処しないと、飢饉の心配が生ずるのである。すなわち農の道に励まなければならない。去年は干害となり、穀物は稔らず百姓は飢え、国用に不足をきたした。災異の出来は天によるとはいえ、人民が愚かで怠惰であることを恐れる者である。現在、季節は春で、農事の始まる時期に当たる。今が勧農を行う適時なので、五畿内諸国に命じて、農事につとめて戒(いまし)め、時宣に応じた対処をし、怠ることのないようにせよ」(続日本後紀)

 為政の混乱か、世相の混乱を象徴するかのように、為政の頂点に立つ天皇のお暮しになられる宮中に、得体の知れないものが現れるようになったのです。

時代が変化を求めるようになったのでしょうか。そのために起こる混乱に乗ずるのか、今年正月に、またまた内裏に「ものの怪」が現れるのです。

それは柏原山稜・・・つまり祖霊桓武天皇の祟りだというので、朝廷は慌てて使者を送って祈させたりしました。

 何か不安な雰囲気が漂う年明けでしたが、三月には陸奥(むつ)国から援兵を二千人も頼んできたりしました。

 時代に乱れがあると、そこに生きている民にとっては不安な気持ちが生じるのでしょう。これらは何といっても今から1100年以上も魔の話ですが、それから八百年ほどたった江戸幕府の五代将軍綱吉将軍の時の出来事はこうでした。或る夜のこと、何者か怪しいものが近づいてきたと思うと、御台所の寝殿まで来ると、緞帳を掲げ上げて中を覗いていたというのです。

御台所は気がつきましたが、少しも騒がずに、

「誰か私の枕元へきていたようだね。捕らえよ」

と言って平然としていらっしゃいました。

大騒ぎとなって、御台所は御広敷の方の役人に来てもらって、やっとその得体の知れない潜入者を捕らえたのですが、その怪物は何と葛西(かさい)の百であったといいます。

奥女中たちが化け物ではないかと怖がっているのを聞いて、「天狗か何かに誘われて飛んでいるうちにここへ落されてきたのだろう。こんな正気でないものが何もできるものではない」

と、平然と言われたということです。

 怪物とは言っても、時代については、実に現実的で、神秘性のかけらもない話になってしまいますね。

時代の差は歴然としています。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の二 [趣味・カルチャー]

      第六章「運気の悪戯だと思うために」(二)

        為政者の課題・「凶兆も受け止め方次第」

 天長三年(八三五)ですから、もうすでに嵯峨天皇は政庁を退いて、淳和天皇に治世を託して太上天皇としての悠々とした日々を楽しまれていました。これまでの為政のあり方は高く評価されていて、今でもその存在は畏敬の対象として存在しています。

 先年ですが、その嵯峨太上天皇の四十歳を祝賀する祝宴があって、それに出席した右大臣の藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)が、その時の様子について淳和天皇に報告いたしております。

 天皇が酒を取り群臣に進め、日暮れに至り、宴はたけなわとなりました。琴歌(きんか)を共に奏して、(かん)を極めて終わり、身分に応じて禄を下賜しました。

 太陽が西に傾くと、燭を(とも)して続行します。

雅楽寮(うたりょう)が音楽を奏し、中納言正三位良岑(よしみね)朝臣安世(やすよ)冷然院(れいぜんいん)正殿南階(みなみのきざはし)から降りて舞い、群臣もまた連れ立って舞います。

日暮れになると雪が降り出し、その中を妓女が舞器(ぶき)をもって舞いましたが、夜になって終わり、身分違応じて録を下賜されました。

詔があって解由を得ていない四、五位の者たちにも録を賜った。また参議以上の者には冷然院の御被(みふすま)を賜った。

 やがて皇太子正良親王(まさらしんのう)進み出ると、次のように申し上げました。

 私は、「礼の極致にあっては格別責めることなく天地が互いに合致し、大音楽にあっては個別楽器の音や声は弁舌できないものの法則に適っている」と聞いております。

堯は星の運航を見て農耕の暦を定め、舜は暴雨・雷雨に迷わず天子の位に即きました。孔氏は「天命を受けた王者が後一世代(三十年)を経て仁の世になる」と述べています。

この講師の言葉は真実を穿っています。漢の高祖より恵帝(けいてい)小帝(しょうてい)孝文帝(こうぶんてい)まで四代、四十年となります。桓武聖帝から淳和帝、暦を調べますと四十年、天皇は四天皇である。嵯峨太上天皇と淳和天皇は四十歳で、総計すると百二十歳となり、真に立派な政治によるめでたい(しるし)です。伏して考えますに、陛下の四十の算駕の後は、これまでの善き運が集中し、至徳(しとく)はますます盛んになり、陛下の行いは虞舜(ぐしゅん)に一致し、仁は漢の文帝よりも(あつ)く、いよいよ礼楽につとめ、寿命は長くなりましょう。わたしは皇太子として、陛下を仰ぎ見、天下がを同じくし、人々が慶んでいるのが判ります。私も大変伊合わせであり、心からの喜びです。わずかな贈り物で、陛下を汚すことになりますが、謹んで衣・琴等を献上いたします。これはものというより私の誠意をしめすものです。伏してねがいますには、陛下がこの衣服を着して無為にして治績を上げ、大琴をとり、舜と同様によく治まった世を(うた)った南風の詩を謳歌しますことを。四十の算賀には前例がないわけでなく、臣下のまことして、黙っていることは出来ません。およそ聖人の寿命は天から受けるもので、臣下がそれを祝福しても利益はありませんが、心中の思いを言葉に表わさずにはいられません。願わくは、陛下が日月星辰と共に皇位の坐を、遠く長寿を仰ぎ、変わらぬものの(たと)えである南山(なんざん)と同様でありますことを。

 私は幼いころから抜きんでて陛下の恵みを受けかたじけなくも皇太子となっていますが、これまで君・親・年長者に仕える三善を欠いております。しかし陛下の思い()

は重ね重ねに及び、他の者より深く厚い栄誉と恵みを与えられ、極まりない南山の竹を用いても、恩を書き尽すこができません。東海の大亀であっても、恩徳を担わせることができましょうか。そこで、群臣と共に伏して、心中の思いを表わしました。恐れかつ祝う気持ちのままに、謹んで表を奉呈いたします」(日本後紀)

 まさに嵯峨太上天皇も、淳和天皇に譲位なさって悠々自適の暮しを始められているころのことです。

これまでもそうなのですが、人智では解決しない現象が起こった時などは、その正体、その意味を陰陽寮(おんようりょう)博士の判定に委ねていましたが、七月に入ったある日のこと、豊楽殿で相撲を観覧した時、慶雲が西の空に出現したのです。

五色の色彩が混ざり合って、夾纈染(きょうけちぞめ)(古代の染色の一つ)の絹の模様のような瑞雲だったのですが、つい先日のことですが、五月に淳和天皇の第一皇子であった恒世親王が亡くなったという訃報がもたらされて、大変悲しんでいらっしゃったところでした。

三年前の即位にあたって、皇太子として指名されながらなぜか親王はそれを辞退され、再三の説得にも応えないまま行方知れずになっていたところだったのです。

二十二歳という早い親王の死だったので、当時から病を得ていたのかも知れないということになり、やっと皇太子辞退の真相が納得できたところでもあったのです。

 天皇はその知らせが入ると、暫く喪心してしまわれて政務に就くこともできずに、気分の優れない日々を過ごしていらっしゃったのです。

そんなところへ慶雲という知らせが届きました。

失意の底に沈んでいらっしゃった天皇を、多少でもお慰めできるのではないかと、公卿たちはもちろんのこと、京の者はみなほっとして祝賀の気分に浸りみな安堵しました。ところがその頃嵯峨太上天皇には、吉兆とは真逆の知らせがあったのです。

為政者・嵯峨太上天皇

天長三年(八三五)七月十六日のこと

発生した問題とは

これまで為政の片腕として、太上天皇にとっては欠かせない有能な政庁の左大臣藤原冬嗣が、療養の甲斐もなく五十二歳という年齢で鬼籍へ入ってしまったというのです。政庁からは使いの者を深草の別荘に送って、丁重に哀悼の言葉を贈り弔いました。

為政者はどう対処したのか

 まだ嵯峨太上大臣が皇太子神野親王(かみのしんのう)といっていた頃のことです。政庁の実力者であった伊予親王に、平城天皇の呪詛という疑いがかかって大きな事件になって政庁の中は大騒ぎになっていた頃のことです。

不安な気持ちでいる神野をほっとさせてくれたのが、右大臣藤原内麻呂(ふじわらうちまろ)の指示によって東宮へ送られてきた真夏(まなつ)冬嗣(ふゆつぐ)という兄弟だったのです。彼らは事件が落着まで神野に誠実につき従い、誠心誠意尽くしてくれたのです。

あれから十九年。

彼らは能力を発揮して仕え、やがて即位して政庁を率いるようになられた嵯峨天皇のために、その安定を保ち、維持していくために貢献してきてくれました。

その後神野親王は文人政治家嵯峨天皇として君臨することになるのですが、天皇とは違った考え方をする彼らは、理想的な朝廷のあり方にも協力しながら、極めて現実的な施策をして、民・百姓からは大変世論で受け入れられてきた貢献者でした。

冬嗣は嵯峨の支持もあって能力を発揮して公卿たちにも信頼を得ていくと、ついに左大臣という政庁の頂点へ上り詰めていくのです。

あの瑞雲さえも為政の片腕であった藤原冬嗣を送る、葬送の前触れであったのだと受け止めざるを得なくなったのでしたが・・・。太上天皇は彼との日々を思い巡らしていましたが、やがて冬嗣の死もあくまでも天命であって、冷静に受け止めなくてはならないことだと諦められたのでした。

それよりも、これから受け継がれていくであろう嵯峨王朝の足跡の中に、家父長として果たさなければならない責務があるということを、真摯に思い巡らしていらっしゃったのです。

冬嗣の死についての思いを整理された太上天皇にとって、冬嗣の子息である良房と、臣籍降下させた一人である潔姫(きよしひめ)とが結婚していて、藤原の新たな道筋を開き始めていたことについてはご存知でしたので、祝福すればこそ不安を感じさせるようなことは微塵も感じておりませんでした。

もう現在はそのころ淳和天皇の御子である恒世親王(つねよしんのう)の辞意を受けて、皇太子には太上天皇の御子である正良親王(まさらしんのう)が就いていらっしゃるのです。

やがて彼が皇統を受け継ぐことになるのは自然の流れです。嵯峨王朝は理想的な形で始まり、太上天皇の夢はやがて正良親王の時代に開花することになるはずでした。

その時の為にも、家父長として健在でいなくてはなりません。自らの進むべき道筋が過ちでないことを、何度も自問しながら納得されると、忠臣冬嗣の死を境に現れた瑞雲も、決して凶兆ではなくむしろ吉兆と受け止めて進もうとしていらっしゃったのでした。

これに似たような話は、現代でもよくあるのではありませんか。

 ものは考えようというものです。

同じ現象でも、吉兆なのか凶兆なのか、それを見た人の境遇によってその受け止め方が変わってしまうものです。そのことは充分に承知しておくべきでしょう。

 温故知新(up・to・date)でひと言

 人間にはいい時も悪い時もあります。「死中求活(しちゅうきゅうかつ)といって、窮地の中で工夫を巡らして活路を見出すことが必要です。その結果、「斉紫敗素(せいしはいそ)といって、災いを転じて福となすこともあるのではないかと思うのです。古事を引っ張りだすと、斉紫というのは斉の国名産品で紫色の絹地なのですが、素は白絹で、敗素は廃物の白絹のことです。斉紫は大変高価なものだが、もとを糺せば使い古した白絹を染め直したものに過ぎなかったもので、一度駄目になったものを、立派なものに仕立て上げることのたとえに使われます。どちらにしても吉凶を材料にしておかしなことに引っ張り込まれないことが大事です。「破邪(はじゃ)顕正(けんせい)です。悪い見解を打ち破って正道をいきましょう。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言16 [趣味・カルチャー]

「夢占い」

 「今日は夢見が悪かったな」

 朝起きた時、何だかすっきりとしないことがあります。そしてその日一日、

「どうしてあんな夢を見たんだろうか」

その原因がはっきりとしないまま、何か重苦しい気分で過ごすことがあります。

占いの本に「夢占い」というものがあります。どうしてあんなものを見たのか、その原因がはっきりとしないことが多いのではないでしょうか。それはどうも古代も現代もないようです。それだけに現代のような、ある程度の精度で精神的な解析ができる時代となったとは言っても、なお不可解な部分があります。

超科学時代であってもこのような状態なのですから、まだとても科学というものが存在しない古代ということを考えると、それはある暗示を与えるものとして大事にされてきたことが考えられます。特に為政者たちの関心事は大変なものでしたが、その最高位にある天皇にとっては、権力だけではどうにもならないものが夢の暗示が不気味だったのです。

夢は神々と交信するために人間が見るものなので神々は見ないといわれます。

古事記、日本書紀にでも、夢の記述が出てくるのは初代天皇といわれる神武天皇からでしたが、はじめは巫女による神懸かりの宣託を得るということでしたが、天皇が神託を得るために見た夢は、三十一文字の和歌でお告げがくると言われていました。

やがてはあの聖徳太子も、「夢殿」という夢託を受けるための特別なところを持ったくらいで、夢は自然に見るものではなくて、乞い願って見るものであったのです。

そんなことから、古代の貴族などは、そうした夢から何かお告げを得たいということで、寺社のような聖地がお告げを受け易いということで、京都の清水寺、石山寺、奈良の長谷寺のようなところへ籠って、夢を見ようとしたのでした。

しかし悪い夢を見てしまった時はどうすればいいのかというと、法隆寺にある夢違え観音のように、その観音様に祈れば吉に変えてくれるということで信仰を集めていました。

後の時代になると、その夢の意味することがどんなことなのかを、解析することを商売にする者が現れたり、更にいい夢を見た人から、それを買い取るなどということを考えた者が現れたりするようになってしまいました。大体いつの時代でもそうですが、ここまでくるといい夢見を願う風潮も終わってしまうのでした。

 


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その六の一 [趣味・カルチャー]

   第六章「運気の悪戯だと思うために」(一)

    為政者の課題・「身を立てるには学べ」

弘仁三年(八一二)ですから、嵯峨天皇が即位されてから三年目に当たります。

 つまり為政者としての思いが新鮮な頃のことです。それでなくても、これまでとは様々ことで、旧来のあり方に拘らないところをお示しになられる方ですが、公卿たちもアッと思うような提案をなさいます。

 今回も学ぶなどということには、まったく縁のない農民に対しても、嵯峨天皇は敢えて「学ぶ」ということ勧めたのです。

彼らにはとてもそんなことが出来る余裕などが無いことは判っているはずです。公卿たちはみなそう思ったに違いありません。

 平城天皇から皇位を受けついて即位された嵯峨天皇は、まだ在位三年であったことから、為政についてもやる気満々です。感性の鋭い文人政治家であった天皇は、かねてから社会の乱れが、やがて為政を乱すことになるということを恐れていらっしゃったこともあって、これまで秘めておられた心情を朝議において発表されたのでした。

為政者・嵯峨天皇

弘仁三年(八一二)五月二十一日

発生した問題とは

「国を治め、家を整えるには、文章が何より大事であり、身を立て、名を上げるにも、学問が何より大切である。平城天皇時代のはじめから、諸王、貴族の十歳以上の者は、みな大学へ入り、専門に分かれて学問を習得するようにした。これで優れた者を大学に集め、才能ある者による、学問興隆を意図したのだが、朽木(きゅうぼく)(みが)き難いという(たとえ)どおりで、愚かな者は長年月を経ても学業が一つも成就しない状態である。今後は先の決まりを改めて、各自の意向を尊重して、現実に合わせるようにせよ」(日本後紀)

 先取の気風をお持ちであった天皇にはそれなりに訴えたいことがあったのです。時に学ぶということが大事と、民に心掛けを説かれるのです。

それに応えて公卿からも次のような発言がありました。

私たちは「法律を定めて人を指導するのは世を(すく)うことを目的とし、制度を改め風俗を匡正(きょうせい)するのは、時勢に適合するようにするためである」と聞いております。政道においては適切な改革が重要であり、それにより制化が達成されることが判ります。仮にも政化が広まらないならば、琴柱(ことじ)を膠で固定するがごとく融通を利かせなくともよいものでしょうか。柵定令条は去る神護景雲三年に作成されましたが、施行を許されないまま数十年たち、その後頒下した(続日本紀)延暦十年三月内寅条)ところ、かえって訴訟が頻発し、不便で常に守るべき規則とはなしがたいことが判りました。そこで、この柵定令の長所と短所と食え悪しく遣唐使、改正することを請願いたします。時と処に適合し長く順守するに足る法として、教化を広め弊害をなくし、人民が恩恵に浴して悪い風習が消滅し、家業を滞りなく果たせるようになることを要望します」(日本後紀)

結局この訴えについては協議した上で裁可いたしました。

長いこと法が決められたまま、まったく変更されないままでいると、かえって不便なことが起こってしまいます。天皇はその意を受けて法の正しい運用ができるようにと、糺すべきものはきちんと糺そうとされるのでした。

為政者はどう対処したのか

ある日天皇が指示をしました。

 「諸国に移住させた夷俘らは朝廷の法制に従わず、犯罪を犯す者が多い。彼らの野蛮な心性を強化するのがこんなんだとは言え、教諭が十分行き届いていなことが原因なので、夷俘の中から有能で仲間の推服を受けている者一人を選び、その長とし、取り締まりに当たらせよ」(日本後紀)

 それから間もなく、はじめてですが、参議従四位した紀朝臣広浜・陰陽頭正五位下阿部朝臣真勝ら十余人が参席し、散位従五位下多朝臣人長が博士として『日本書記』の講義を行った。

 為政の基本となることを糾そうということをなさろうとしたところ、問題となるようなことが次々と取り上げられましたが、そのきっかけを作られたのが天皇でした。

伊勢国から次のようなことが訴えられました。

伝馬(てんま)の利用は、新任国司の送迎に充てるのみで、他に乗用する者はおりません。いま、東海道は桑名(くわな)郡の榎撫(えなつ)駅(三重県桑名市)から尾張国へ至っていますが、ここはもっぱら水路となっていて、伝馬を置いてはあるものの利用されず、民に負担をなすばかりです。伏して、桑名郡の伝馬を廃止して、永く百姓の負担を軽減することを請願いたします」(日本後紀)

 政庁はそれを許可しました。

 まだ始まったばかりの政庁ですが、そうしたさまざまなことで持ち上がる問題に応えていかなくてはなりません。そんな中で天皇は考えました。

この頃雨の降らない日がもう十日も続いていたために、農作業が思うに任せず、その影響で京中でも米価が高騰してしまいます。

政庁は官の倉庫の米を放出して低価格で貧民に売却することで救済いたしましたが、天皇は田畑のことを思って心を痛め、ひたすら神霊の助けによって早くいい雨が降ってほしいと願って、急いで畿内の神社に奉幣せよと指示されます。

神仏の霊威に対して、絶対的な信仰を寄せておられる天皇は、大変神経を使っていらっしゃいます。ここまで必死で朝廷を率いてこられたのですが、ふと、民は朝廷の為政についてどのように受け止めているのだろうかと、気にされるようになっていらっしゃったのです。すべて満足な状態にはなっていないことは、充分に承知していらっしゃいますが、不満であることはすべて為政者の責任だと思いがちなものです。天皇は民がどう考えているのかと知りたくなっていました。こんなことは現代でも現実的にあるのではありませんか。

為政者の思いと被為政者の受け止め方に齟齬(そご)があることは、永遠の課題です。いつの時代であっても、為政者は理解を求めなくてはなりませんが、被為政者たちの方も、為政者たちが何をしようとしているのかを理解できなくてはいけないのではないかと思うことがあるのです。

それにはどうしても学ぶということの必要なのではないでしょうか。もしそうでなければ、社会がどんな方向へ向かっているのかということについても、特別関心もなく時の過ぎるままに生きていることになってしまいます。仮に法律に不足するところがあっても、それに対してまったく何もすることがなく、たた不満を云いながら暮らしていくだけになってしまうでしょう。

 ある日大納言正三位兼皇太子傳民部卿勲五等藤原朝臣園人が次のようなことを進言されました。

「私は平凡で才能が内にもかかわらず、しきりに諸国の官人となり、西から東まで経巡(へめぐ) 十八年になります。人民の苦労や政治の得失を見聞きして、正しい判断ができるようになりました。天皇の命令を受けて地方官として赴任し、統治の原則を守ってきましたが、民に親しみ行政に当るのは郡領(ぐんりょう)の譜代(家柄)から採用するという旧例に復帰しました。これにより、終身官である郡領に人を得れば、国司は安心して国内を治めることが可能になり、代々群領の家柄であっても才質のない者を任用すれば、責任を問われることになりました。このため、群領の任に堪え得る人物を精選して申告させることにしたのですが、在京する者が譜弟の優劣を争い諸国の国司が選考した候補者をおしのけて任命される次第となっています。これでは                                                                                                   行政に当らせても風化が広まらず、一体誰が推戴しましよか。国司が指令を出しても理解せず、郡内は年々疲弊するばかりです。これによる不治の責はかえって国司に及び、いっこうに嘆くばかりです。現在、朝廷の仁徳は遠方に届き、恵みを与える特性がしきりに行われていますが、衰弊は止まず、百姓が苦しんでいますのは、ことに当たる人財を欠いていることによります。伏して、推戴された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書にのみよることを請願します。もし、推薦された人物が適任でなく政績があがらないときは、推薦書に連署した官人(国司の四等官)はみな解任して、永く叙用せず将来への戒めとすれば用意でしょう。陛下が配慮されて、私の請願をお許しいただけるならば、今年の補任予定者は、すべて白紙にもどし、改めて来年春に選衡を開始するようにしたいと思います。願わくは、よく治まっているという評判が今年中に起き、人民が富み、安楽であることを称える

富康(ふこう)の歌謡が後代にまで歌い継がれますことを。主人に懐く犬馬の思いで、謹んで上表し、死を冒して申し上げます。

 天皇はその申し出を許可した。

学ぶことによって人生は変わります。これから何をすべきなのかということを、自ら見つけ出すことが必要ですがどうでしょう。

今は学ぶより、先ず実践することの方が喜ばれるようですが、意外にも学習塾の現状を調べると、どんどん通って来る世代が早くなってきているということです。しかし今風になんでもまずやってみるということも、同時に認めて進めているというのが現代のようですね。

 温故知新(up・to・date)

 そのためにも、思うところを人に訴えるためにも、先ず「意到随筆(いとうずいひつ)です。つまり文章が自分の意のままに書けるということが必要ですし、意気込みを持って「進取果敢(しんしゅかかん)です。意気込みを持って、積極的で決断力や実行力を発揮しなくてはなりません。目指すことに向かって走らなくてはなりません。「俊足長阪(しゅんそくちょうはん)です。才能のある優れた人物が困難にあうと、自分の力を実地に試そうとして走り出すということです。俊足に優れた駿馬は険しい坂にあうと、これを速く走って越そうと試みるといいます。それによって、広く才能を示す機会となるかもしれません。あなたも長所を生かして突っ走ってみませんか。


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