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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の五 [趣味・カルチャー]

   第八章「人間関係をうまくやるために」(五)

    為政者の課題・「管理のあり方を考える」

一つのことを徹底させるためには、それに関わることについては、徹底的に気配りをしていなければ、一方では成果を挙げても、一方では危い面が出てきてしまうのではありませんか。

 かなり前から親交のある、朝鮮半島北部の渤海(ぼっかい)國はもちろんのこと、異国からの来訪者も、次第に多くなってきていたのですが、その宿泊、接待などに使われていた東西に作られている鴻臚館(こうろかん)(筑紫、平安京に設けられた外交使節の宿泊施設)が、昨今は病人が寝泊まりしたり、喪に服している者が謹慎生活をするための場として使ったりしているというのです。そのような勝手な使われ方をしていては、いつの間にか建物や垣根を壊したり、庭を汚したりすることを、きちんと管理できないことは明らかです。帝は京の中の取り締まりをしたり、官人の綱紀粛清に努めている弾正台(だんじょうだい)(京内の官人の綱紀粛正を司る)や、京の行政、訴訟などを取り扱う、左右の京職(京の行政、訴訟、租税、交通の事務を行う)に取り締まるように命じたりもされました。迎賓館の整備と同時に、しっかり警備せよと指示したことは大事なことです。公共施設も管理が杜撰(ずさん)だと荒れてしまうはずです。

嵯峨天皇は施設の管理を指示すると同時に、それに使う馬についても考えました。この頃馬に関しては軍用としても大変重要なもので、管理ということを徹底させるためにも警備に使う馬も不足してしまっては意味がなくなってしまうし、備えるといっても馬の整備ができていなければ、目的を果たすことができません。

 軍では馬が重要だが、今聞くところによると、「権門貴族や富豪の者たちが辺境に使いを遣わして、夷狄(いてき)から馬を求め、そのため辺境では騒動が持ち上がり、兵馬が不足している」という。延暦六年(七八七)でも陸奥・出羽国での馬を買い入れは禁止しているが、それを守らなくてはならないと考えられ、違反する者は厳しく取り締まり、買った馬は没収としました。こんな指示を出されたのです。一つのことを徹底させるためには、それに関わることにも気配りをして指示をしなければ、一方では成果を挙げても一方では危い面が出てきてしまいます。このようなことは現代にも起こりそうで、注意を要するのではないでしょうか。

為政者・嵯峨天皇

弘仁六年(八一五)六月二十七日のこと

発生した問題とは

 春になると嵯峨天皇は、神泉苑で花宴を催して文人たちに詩を作らせて楽しんでおられましたが、そんな中でさまざまな情報も手に入れていらっしゃいました。

やがて天皇は四月に祖霊との邂逅を求めるために、気になっていらっしゃった近江國の韓埼(からさき)へ、皇太弟の大伴親王と共に行幸されました。

その時崇福寺(そうふくじ)の門前へさしかかると、大僧都永忠(ようちゅう)や護命法師たちが、僧を率いて門外においてお迎えいたしました。帝も輿(こし)を降りられて金堂に上がられ、仏に敬礼(きょらい)されると、その後、永忠大僧都の案内で、祖霊桓武天皇が天智天皇を追慕して長岡京時代に建立されたという梵釈寺へ向かわれたのです。天皇はそこでも輿を降りられ、眼前に広がる琵琶湖の眺望を楽しまれ詩を作られましたが、それを皇太弟と多くの群臣たちが唱和いたしました。文人でもある帝にとって、最も満足できる瞬間であったかもしれません。やがて帝は琵琶湖へ船を浮かべられ、国司が用意したその土地の歌舞をお楽しみになられました。やがてそんな天皇に永忠は、唐国で留学中に学んだと思われる、茶を点じて給仕されたといいます。それはそのころの最も新しい文化であった、唐風のおもてなしであったはずです。祖霊との絆もつなぎとめられた天皇は、清新な気分で京へ戻られると、近江で大変気に入られた茶を作るように、畿内と近江、丹波、播磨などに指示をなさって、毎年献上するように命じられたのでした。ここでいう茶というのは団茶(だんちゃ)といわれるもので、茶をボール状にまとめたものに湯を通して使ったと思われるものです。

国の財政がひっ迫してしまっているのを知った天皇は、自らの子供が多く、皇族たちを養育するためにかなりぼうだいな経費を要するということも、財政を苦しくさせている原因の一つであることを知って、前代未聞の臣籍降下という思いきった決断を行われたのですが、それは口先だけの、思いつきで済ませるような、いい加減な決心を述べられた決心ではありませんでした。

為政者はどう対処したのか

 天皇は六月になると臣籍降下させた、はじめの皇子、内親王たち八人を、右京から左京に移しましたのです。町の人と接しながら、生きていけということだったのでしょう。

 天皇は各地からやって来る訴えに応えていきます。

 「畿内・近江・丹波等の諸国年来旱害が頻発し、稼苗が損害を被っている。他方、国司は漫然として何もせず、百姓の被害が大きくなっている。中国では孝婦が無実の罪で、処刑されたあと旱魃に悩まされ、能吏百里崇が旱天の徐州

の刺史になると、甘雨(良き雨)が降ったと伝えられている。これにより、禍福は必ず国司によることが判る。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、狎れ汚すことのないようにせよ。もし、効果がないときは言上せよ。もし、効果がないときは言上せよ。以上を恒例とせよ」(日本後紀)

 するとそれから間もなく、右大臣藤原園人が、先祖のことについて政庁に訴えてきました。

 「私たちの高祖である大織冠(だいしょくかん)内大臣藤原鎌子(ふじわらかまこ)(鎌足)は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代に天下を統一して(ただ)し治めた功績により、封一万五千戸を賜り、嗣子(しし)正一位太上大臣不比等(ふひと)などは父を継承して大臣を排出する家風を立て、これにより慶雲四年に勅により封五千戸を賜りました。不比等(ふひと)大臣が固辞しましたため、天皇はその願を許し、二千戸に減定して、子孫に伝えることになりました。天平神護元年に従一位右大臣豊成(とよなり)が上表して返還しましたが、宝亀元年に勅により返賜され大同三年に正三位守右大臣内麻呂(うちまろ)が上奏して返還を申しましたが、許しを得られませんでした。伏して格別の封戸支給の理由考えますと、先祖の功労によると思いますが、いま私たちは陛下のますますの寵愛を受けながら、僅かな功績もなく、御恩を(こうむ)りながら深い山中に姿を隠すように責務を果たしていません。それなのに重ねて格別の恩寵(おんちょう)を貪り、久しく年月を経て、転地に俯仰(ふぎょう)して恥じ恐れるばかりです。これでは満ちれば欠けるという天の戒めに背き、必ずや大臣としての任に堪え得ないことになりましょう。伏して、伝えられてきた功封を返還してわずかでも国の経費を補い、少しでも職責を果たさず禄を貪るという事態をなくすことを請願致します。よく考慮され、私たちの心からの願いを許して下さい。これにより私たち一門の幸いが永続し、世の批判も止むことでしょう。真心に迫られるままに、謹んで表を奉呈してお願いいたします」(日本後紀)

 嵯峨天皇はそれを許しませんでした。

 現在は、とてもそれを許す余裕はまったくありません。

 天皇には実に様々な問題を処理していかなくてはなりません。そのために一つのことを徹底させるためには、一方のほうで不都合が起こってしまうということもあるようです。如何に天皇も真剣である限り、こういうことも起こることがあるでしょう。組織の頂点にある者は、様々なことに関わって処理しなくてはなりません。それは現代でも同じと言っていいでしょうし、現代は更にこれ以上の問題を処理しなくてはなりません。鴻臚館のことについても、現代ではあちこちにインフラといわれる公共工事で無駄なものを作ってしまって、ほとんど使われないという状態で放置されていたものがかなりありました。

 兎に角指揮を執る者は、それなりに毀誉褒貶(きよほうへん)が問われることを覚悟で問題の処理をしていかなくてはなりません。一方ではいいが、一方では困った状態になっていることもあります。よく廃屋となった建物を新たに再生しようとは思っていても、予算の関係で放置しているうちに、いつの間にか犯罪の巣窟になっているといったことが報道されるようなことが起ったりもいたします。

温故知新(up・to・date)でひと言

 そんなところを利用して困った人を助けようとする企画があっても、そこが悪用されてしまったら、「浮石沈木(ふせきちんぼく)というものです。善悪が転倒して物事が逆さまになるということです。「家之狗(そうかのいぬ)といって、見る影もなく元気をなくして痩せ衰えている人のような者は、救ってやらなければなりません。「窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)困窮して頼ってくる者があれば、どんな理由があっても助けてやろうという気持ちは大事にしなくてはならないのではないでしょうか。

 忙しさにかこつけて、手落ちがあまり多くならないようにしなければなりませんね。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言24 [趣味・カルチャー]

「てるてる坊主」

 季節がそろそろ本格的に夏になる頃ですが、その前にどうしても避けて通れないのが梅雨の季節です。今日は久しぶりに裏通りを歩いている時に見つけた、珍しいものについて書くことにしました。

私が小学校に通っていた頃は、遠足や運動会がある時などは、その前の晩になるとテルテル坊主を作って、家の軒先にぶら下げて翌日の晴天を祈ったものですが、21世紀の現代ではどうでしょうか。

都会の住宅地でもあまりテルテル坊主の姿を見ることはなくなってしまいました。

調べてみると中国ではサオチンニャン・・・掃晴娘という人形を作って軒につるして、お天気になるようにと祈ったようです。紅と緑の着物を着せて箒を持たせた人形だそうですが、これがいつごろからか日本に伝わって、テルテル坊主になったといいます。

平安時代の日記文学として知られる、藤原道綱の母の書いた「蜻蛉(かげろう)日記」というものがありますが、五月四日に参詣するのを前にして、同行している侍女でしょうか、彼女は女神・・・ひな人形に新しい着物を三つも縫って着せ替えてやり、翌日の晴天を祈ったことが書いてあったりします。余談になりますが、まだこの頃では雛祭りは三月の風習とはなっていなかったのだそうですね。

本題に戻りますが、いわゆる通称てるてる坊主と言われているものには、本来「てれてれ法師」とか「てるてる法師」「てりてり法師」等とも呼ばれていたということが言われているようで、もしそれをやって効果があった時には、墨で人形に目を書き入れてお神酒を備えた後で川へ流したということです。

思わず少年時代を思い出したので、いろいろと調べてみました。

兎に角スポーツも行楽も活発になっていく季節になりますが、コロナ・オミクロンに対する用心だけは、しっかりと忘れないで欲しいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の四 [趣味・カルチャー]

   第八章「説得力のある訴えのために」(四 


    課題「貧すれば鈍する」


 今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということですが・・・。


為政者・嵯峨天皇


光仁十年(八一九)二月二十日のこと


発生した問題とは


 新年を迎えたのですが、天災による困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます。


 「年来不作で、百姓が飢饉になっております。官の倉は空洞化して、恵みを施すに物がありません。困窮した民は飢えに迫られると、必ず廉恥(れんち)の精神を忘れてしまいます。私たちは使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収穫時に返済させることを要望いたします。こうすれば冨者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命を全うする喜びを持つことが出来るでしょう」(日本後紀)


 それには天皇も直ぐに納得されて許可を出しましたが、ふと昨年のことを思い出していたのです。


 天皇は鬱積しがちな気分を開放しようと嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達にこんなことをおっしゃいました。


 「天命を受けて皇位に就く者は、民を愛することを大切にし、皇位にある者は物を(すく)うことを何より重視し立派な精神を()み行うものである。朕は日暮れ時まで政務に従い、夜遅くなっても寝ずに努めているが、ものの本性を解明するに至らず、朕の誠意では天を動かすことができず、充分な調和を達成できないまま、悪い(しるし)がしきりに出現している。最近、地震が起こり、被害が人民に及んでいる。吉凶は人の善悪に感応して、転がもたらすものであり、災害はひとりでに起こるものではない。恐らくは朕の言葉が理に背き、民心が離れてしまっているのではあるまいか。朕は天が下す刑罰を恐れ心が安まらない」(日本後紀)


 それでも民が理解してくれているか判らないのです。


その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。ところがそれから間もなく霧のかかった天空には、凶兆といわれる白虹が現れたりするのです。それから間もなくのことです。山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となったという知らせがあったのです天皇は直ちに


「倉庫の貯えが尽き恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は(しん)(ごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ」(日本後紀)


 なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。


一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまうのです。それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響が続いているのです。


為政者はどう対処したの 


 それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響が続いているのです。天皇はその翌日水生野(みなせの)で狩猟を行うのですが、夕刻になって河陽宮(かやのみや)へ入り、水生村の窮乏の者に身分に応じて米を賜った。しかし飢饉の状態はひきつづいています。なぜこうまで辛い日々がつづくのだろうかと心労が続くのですが、その脳裏に思い出されることがありました。


「朕に思うところがあり、故皇子伊予と夫人藤原吉子らの本位・本号を復せ」(日本後紀)


突然命じられたのです。


天皇がまだ神野親王と呼ばれていた時代の政庁で実力を発揮していた伊予親王が、突然平城天皇を呪詛したという訴えがあって、不孝にも逮捕されて飛鳥の河原寺へ送られ、祖霊桓武天皇に愛されていた母の吉子と共に自決してしまったのです。その後この事件については藤原氏による誣告(ぶこく)(事実を偽って告げること)ではないかということが秘かに囁かれるようになっていたことから、二人の名誉を回復して、その怨念を鎮めようとなさったのです。それほど飢饉の広がりは深刻だったのです。しかし今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということです。


温故知新(up・to・date)でひと言


 暮らしに追われるようになってしまうと、その日、その時をどう生きられるかと動くだけで、現状がどう回避できるのかと、知恵を働かせることも、そのための努力をしてみる余裕もなくなってしまいます。ただただ為政者の施しが少ないと言って、不満を言うだけでまったく現状打破という希望が生まれる糸口も生まれません。我々に必要なのは、貧した時にこそ、なぜそうなのかということを考えて、その状態から抜け出るには、何が欠けているのかを突き止めて、それを払拭するための努力をしてみなければ、明日に続く希望は何も見つからないでしょう。古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。貧する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。これも「南橘北枳(なんきつほっき)」といって、風土によって人の気質が違うということもあります。「酔生夢死(すいせいむし)」といって、酒に酔い、夢を見ているような心地で、無為に一生を過ごしながら、それに気が付かないでいるような人もいます。今何が起こっているのかをしっかりと知って、そのために何をしなければならないのかということを、真剣に考えなくてはなりません。つまり「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉を頭に叩き込んでおくことが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑24 [趣味・カルチャー]

                     「板についた」

 今回は板についたとは言っても、蒲鉾のことではありません。

 さまざまな仕事の世界でよく使われることばですが、特に演劇の世界ではよく耳にする言葉です。

 その世界に入って、長年研鑽を積んだ結果、1人前になったねという褒め言葉としてよく使われます。

「あいつもようやく板についたようだね」

 つい蒲鉾を連想してしまいがちですが、本来はこの場合に使われているのは「舞台」のことです。

 それを演劇の世界では舞台を「板」という慣例があることから、若手の俳優などが長年の修行の甲斐があって、演題の中でもいい役を無難にこなす様子を見て、「あいつもすっかりいたにちったね」などといって、芝居の中で違和感がなく演じられている姿を見た人がいう言葉です。

 それに対して「いや私はまだまだ蒲鉾役者ですよ」などと謙遜した言葉を受かったりするものから、青野とは蒲鉾から出た言葉と勘違いする人がおいのだと思います。

 これはやがて一般的な日常の中でも使われるようになって、結婚したばかりで手伝いにでた奥さんも、当座は物慣れなくて魚屋の雰囲気にはなっていなかったのだが、数年もするとすっかり威勢のいい魚屋の奥さんとして働いている)姿を見て、

 「あそこの魚屋の女将もすっかりいたについたね」

 お得意さんたちからそんな言葉が飛び出すほどになったりします。

そうだ国会でも何度も大臣の経験を積んでいくうちには、

「最近は質問されても、すっかり答弁も板についてきたね」

などといわれるような人もいますね。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の三 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えをするために」(三)


        為政者の課題・「貧すれば鈍する」


今回は四字熟語のお話をするわけではありません。


良く日常の中でかわされる人生訓とでもいう言葉で、どんな事情があったにしても、暮らしのレベルが通常のレベルを越えて低下してしまうと、いつか品性を疑ってしまうような言動を発してしまうことがあるということです。


現代の人々にとっては、品性とか、品格なということはまったく無関心化も知れませんが、私には決して無視できないことのように思えます。


 それは後で触れることにして、取り敢えず弘仁十年(八一九)の年明けを迎えたという時代です。


為政者は嵯峨天皇です。


思い出すだけでも身震いさせてしまう朝廷の中での殺人事件があったり、疫病の襲撃で死者が増え、生活困窮のためにその始末が出来ないで路上に放置するということが行われていた先年の極めて困難困難な時代の中で、天皇は僧侶の空海が勧める写経を行うことにしたのです。


天皇は持仏堂に籠って写経を始められました。


金粉を使って、一字、一字を慎重に、丁寧に心経を写していかれたのです。


伝え聞くところによれば、一字書く度に三拝するという敬虔な姿勢で、二六二文字を書いていかれ、皇后はその端に薬師三尊を描き、それを空海に供養させました。まさに国難というべき事態を、帝の必死な思いと、空海の修業の力によって、乗り越えていこうとされたのです。


(その時の様子について、「古今著聞集」には、「時の御経、彼御記、嵯峨大覚寺にいまだありなん」と書き留められています)


天皇は三日間持仏堂に参籠されて、食事は素食に徹して、衣服も粗末なものになさって、もっぱら精進して仁王経を転読されたといいます。


ようやく切羽詰った状態から抜け出された天皇は、九月には、疫病の除去を祈願するために伊勢神宮に奉幣しましたが、日照りによる旱魃、地震、洪水による疫病の広がりを、天の下した罰であると受け止められ、ただひたすらに自らの不徳を責めていらっしゃいました。


余談になりますが、この時の天皇の思いを共にするために、六十年に一度巡って来る(つちのえ)(いぬ)の年・・・平成三十年に大覚寺心経殿に収められている天皇宸筆の写経が、勅封が解かれて公開されました。


この年の暮れ近くに、右大臣藤原園人、中納言藤原葛野麻呂が相次いで亡くなり、帝は直ちに大納言藤原冬嗣、中納言藤原緒嗣、文室綿麻呂、参議の良峯安世、藤原三守、秋篠安人、紀広浜、多治比今麻呂に為政の運営を託されました。


時を同じくして、京のすべてを浄めるかのように大雪が降り地震が襲いました。そんな中で天皇は、すべてが無事であって欲しいと祈願されながら、寺の打ち鳴らす梵鐘の音を、しみじみと聞いていらっしゃいました。


そして国難ともいえる疫病の広がりを鎮まらせるための苦闘をされた結果、ようやく弘仁十年(八一八)の新年を迎えたのでした。


しかし困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます 


「年来不作で、百姓が飢饉になっております。官の倉は空洞化して、恵みを施すに物がありません。困窮した民は上に迫られると、必ず廉恥の精神を忘れてしまいます。私たちは伏して、使いを畿内に派遣して富豪の貯えを調査し、困窮の者に無利子で貸し付け、秋収穫時に返済させることを要望いたします。こうすれば、冨者は自分の富を失う心配がなく、貧者は命を全うする喜びを持つことが出来るでしょう」(日本後紀)


それには天皇も直ぐに納得されるのですが、その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。


「山城・美濃・若狭・能登・出雲の国が飢饉となった。『倉庫の貯えが尽き、恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。貸付額は賑給(しんごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ』(日本後紀)


なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまっていたのでした。


 新年を迎えたというのに、天災による困難は前年から引きずったままで、朝議において公卿たちからは、次のようなことが訴えられます。


 それには天皇も直ぐに納得されて許可を出しましたが、ふと昨年のことを思い出していたのです。


 天皇は鬱積しがちな気分を開放しようと嵯峨別院へ行かれたり、神泉苑へ出かけられたりされるのですが、従った重臣達にこんなことをおっしゃいました。


 亀卜(きぼく)筮竹(ぜいちく)で占うと、今回の地震は天の咎であることが判った。往時天平年間にこのような異変があり、疫病により国内が衰弊したことがあった。過去のこの異変を忘れてはならず、教訓として役に立たない遠いものではない。百姓が(くる)しんでいれば、いったい誰と共に君たり得ようか。密かに考え考えてみるに、仏教の教えは奥深く、慈悲を先として、教理は優れ、あらゆるもの(あわれ)み、協議は深淵ですべてを救済することを目指している。また疫病の災いを祓除(ふつじょ)することは、前代の書物に記されている。そこで天下の諸国に指示して、斎食(さいじき)を設けて僧侶を()び、金光明寺(国分寺)で五日間『金剛般若波羅密教』を転読し、併せて禊を行い、災難を除去すべきである。また、畿内・七道諸国が言上してきた弘仁八年以前の租税の未納は、すべて聴衆を止めよ。左右京の民の昨年以前の未納の田租は、言上・不言上を問わず免除せよ。願わくは、仏の力があたりを照らし、災難が発生する前に抑え込み、神の力が福をもたらし、疫病を根こそぎにすることを。もし咎が朕にのみかかってくれば、人が天寿を遂げず死亡することはなくなるであろう。災難を朕が引き受けることを避ける気持ちはない。周の文王(ぶんおう)は責を己に帰したというが、まことに仰ぎ慕うに足る。朕のいっていることは、光り輝く太陽のごとく確かなものである。広く遠方にまで告げ、朕の意を知らせよ」(日本後記)


為政者・嵯峨天皇


弘仁十年(八一九)二月二十日のこと


発生した問題とは


 天皇は心休まる状態にはなりません。


その日任官のあった者に対しては、次のような(みことのり)をされました。ところがそれから間もなく霧のかかった天空には、凶兆といわれる白虹が現れたりするのです。それから間もなくのことです。山城(やましろ)美濃(みの)若狭(わかさ)能登(のと)出雲(いずも)の国が飢饉となったという知らせがあったのです。天皇は直ちに


「倉庫の貯えが尽き恵み与えようにも物がないので、無利子の貸付を行い、百姓の窮迫を救うべきである。


賑給(しんごう)(貧民にほどこして賑わすこと)の例に准ぜよ」(日本後紀)


 なんとか困難を克服したいというお気持ちでいっぱいでした。


一度は青麦を馬の飼料にすることも許可したのですが、それを再び禁止せざるを得なくなってしまうのです。それほど飢饉の広がりは危機的だったのですが、前の年は「天下大疫す」といわれるほどの国家的な危機に襲われたのですが、それを嵯峨天皇と皇后の努力で何とか克服することができたのに、依然として天候の不順の影響がつづいているのです。


為政者はどう対処したか


天皇はそんなある日のこと、水生野(みなせの)で狩猟を行うのですが、夕刻になって河陽宮(かやのみや)へ入り、水生村の窮乏の者に身分に応じて米を賜った。しかし飢饉の状態はひきつづいています。なぜこうまで辛い日々がつづくのだろうかと心労が続くのですが、その脳裏に思い出されることがあったのです。


「朕に思うところがあり、故皇子伊予と夫人藤原吉子らの本位・本号を復せ」(日本後紀)


突然命じられたのです。


天皇がまだ神野親王と呼ばれていた時代の政庁で実力を発揮していた伊予親王が、突然平城天皇を呪詛したという訴えがあって、不孝にも逮捕されて飛鳥の河原寺へ送られ、祖霊桓武天皇に愛されていた母の吉子と共に自決してしまったのです。その後この事件については藤原氏による誣告(ぶこく)(事実を偽って告げること)ではないかということが秘かに囁かれるようになっていたことから、二人の名誉を回復して、その怨念を鎮めようとなさったのです。それほど飢饉の広がりは深刻だったのです。しかし今回敢えて現代の問題として取り上げたのは、怨霊による被害という問題ではありません。冒頭にあった公卿の言葉の中にあった「貧すれば鈍する」ということです。


暮らしに追われるようになってしまうと、その日、その時をどう生きられるかと動くだけで、現状がどう回避できるのかと、知恵を働かせることも、そのための努力をしてみる余裕もなくなってしまいます。ただただ為政者の施しが少ないと言って、不満を言うだけでまったく現状打破という希望が生まれる糸口も生まれません。我々に必要なのは、貧した時にこそ、なぜそうなのかということを考えて、その状態から抜け出るには、何が欠けているのかを突き止めて、それを払拭するための努力をしてみなければ、明日に続く希望は何も見つからないでしょう。古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。


温故知新(up・to・date)


 古代も現代もなく、どうしても貧すると鈍してしまいます。貧する前にやるべきことがあるのではないでしょうか。これも「南橘北枳(なんきつほくき)」といって、風土によって人の気質が違うということもあります。「酔生夢死(すいせいむし)」といって、酒に酔い、夢を見ているような心地で、無為に一生を過ごしながら、それに気が付かないでいるような人もいます。今何が起こっているのかをしっかりと知って、そのために何をしなければならないのかということを、真剣に考えなくてはなりません。つまり「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉を頭に叩き込んでおくことが大事です。



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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言23 [趣味・カルチャー]

「二枚目」

 

最近はすっかり死語となってしまったように使われなくなってしまいました。

今は「イケメン」などという言葉が勢いづいているのではないでしょうか。ちょっと前までは美男とか色男などと呼ばれる男性がいた者です。これは本来歌舞伎の劇場などで、上演している役者さんの名前を書いた看板が掲げられたことが始まりのようですね。ところで今回の写真は京都南座の「招き」といわれる看板ですが、歌舞伎の宣伝をするわけではありません。

     「南座招き」1.jpg

        「京都南座の招き」

これは新年の興行で行われる出し物の紹介と役者が紹介されていますが、こういう看板で二枚目にかかる役者はおおむねいい男の役者が演ずることになっているいい男なのです。そのためにいつからかいい男のことを、二枚目というようになったのです。

 やはりこうした劇場にかかると、やはりイケメンという表現で呼ばれる現代の役者では、どうもぴったりとしませんね。

 やはり「二枚目」しょう。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の二 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えをするために」(二 


        為政者の課題・「天下を治めるには内助が必要」


 嵯峨天皇にとっては、政庁での生活には慣れてきましたが、しかし同時に困難にも遭遇するようになります。


 前年の七月のことです。天皇はこんなことをおっしゃいました。


 「畿内・近江・丹波等の諸国では、年来旱害が頻発して、稼苗が損害を被っている。他方、国司は漫然として何もせず、百姓の被害が大きくなっている。中国では孝婦が無実の罪で処刑されたあと旱魃に悩まされ能吏の百里崇(ひゃくりすう)が干天の徐州(じょしゅう)刺史(しし)(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降った徒伝えられている。これにより禍福は必ず国司によることが判る。今後、日照りとなったら、国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、()(けが)すことのないようにせよ。もし効果がない時は言上せよ」(日本後紀)


 そして更に、年の暮れでしたが、天皇は雪の降る外を眺めながら、こんなこともおっしゃいました。


 「帰順した夷俘は前後でかなりな員数になっている。そこで、適宜各地に居住させているが、官司・百姓は彼らの姓名を称さず、常に夷俘と号している。すでに内国の風習に慣れているので、それを恥じている。速やかに告知して、


夷俘と号するのを止めるべきである。今後は官位により称するようにせよ。もし官位がなければ、声明を称せ」(日本後紀)


 天皇は彼らを戦う対象とは考えていないことを、更に進めていこうとしていらっしゃるようです。


 政庁の姿勢をこれまでのそれとはかなり違った方向へ進めようとしていらっしゃるようです。


 天皇は外国から挨拶に来てくれる使節に対しての対応についても、これまでとは違ったきちんとした決まりを徹底するように指示されます。


 「外国使節はおりおりに日本へやって来る。客館(鴻臚館)の施設は常にしっかりしたものにしておかなくてはならない。近頃、病人が客館で寝泊まりしたり、喪に服している人が謹慎生活のための隠所としていることがある。建物と垣根を壊し、庭を汚しているので弾正台と京職が取り締まれ」(日本後紀)


 情報を手に入れるためには必要な外国の施設の来朝ですが、ただそれが有難いと言って歓迎するあまりに、彼らの無頓着についてはきちんと処理しないと、却って国を乱れさせてしまうということもお考えのようです。


 「軍用では馬がもっとも重要である。いま聞くと頃によると、『権門貴族や富豪の者たちが辺境に使いを遣わして、夷狄(いてき)から馬を求め、そのため辺境では騒動が持ちあがり、兵馬が不足している』という。延暦六年正月に基づき、陸奥・出羽での馬の買い入れは禁止すべきである。 違反者は、厳科に処し、馬は没収せよ。ただし、騎馬に適さない駄馬は禁止する必要がない」(日本後紀)


 天皇は気の付くことを的確に指示していかれます。


 天皇には前からこのような考え方をおっしゃることがありました。


 「朕は慎んで皇位に就き、天皇として事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。見は宮中にあっても心は広く人民のことを思っている。七政(七つの政治の拠所(よりどころ)を整えて水干の災害がなく、九農(中国古代の農業に関する九つの官職。ただしここでは国司)を励まして、仁壽(じんじゅ)(仁徳と長寿)の喜びが得られることを願ってきた。そして年来春耕が始まり、開花の時期を待って有り難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて収穫しきれず、畝間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修繕をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい贈物を得たことで方策を喜んで神々に真心を捧げ、天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、鰥・寡・孤・独で自活不能者に等級をつけて物を施窮せよ。あまねく支給することに心がけよ」(日本後紀)


その思いを民に浸透させるように心がけていらっしゃったのです。


為政者・嵯峨天皇


弘仁六年(八一五)七月十三日


発生した問題とは


 嵯峨天皇のように、意識の上で極めて現代的な思いで皇后を迎えようとされたことは、実に革新的ではないかと思うのですが・・・。更に思いを進めるためには、国の財政の状態が安泰でなくてはならないという現実にぶつかってしまいます。


嵯峨天皇はそれを実践するためには、自らの暮しについても考えなくてはならないものがあるのではないかと考えられるようになったのです。皇子、内親王の数が多く、そのために彼らの暮しを維持するのに、かなりの費用を要することを知っていらっしゃいます。この年自らそれを改革するために、臣籍降下という決断をされました。


 その詳細については、第四章「隠れた事情を突き止めるために」「その四の一」の「「財政悪化で臣籍降下」に紹介されていますのでご覧下さい。



 天皇は思いきったことをされましたが、それにはこんな思いが隠されていたのです。


為政者はどう対処したのか


天皇がこのように多くの皇子、内親王を持つにいたった経緯を考えると、それなりに納得できる理由がありました。つまり母性への憧れが女性への憧れとなっていたのでしょう。まだ天皇が神野親王といわれていた五歳の頃、思慕する母の乙牟漏(おとむろ)を失い、後年最も愛していた妹の高志(たかし)内親王を二十歳というという若さで亡くなられてしまったことが原因であったということが云われています。


しかしてんのうはそうした経験をもとにして考えた結果、為政をきちんと行うためには、身辺を整えるということもあって、これまで夫人(ぶにん)という立場であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)を皇后とする決心を固められて、皇后として迎えることに決めたのです。


その日の平安京は激しい雷雨となってしまって、儀場の庭に雨水が溢れてしまったといいます。


嘉智子はその数日前に、仏が身に着けるといわれる宝飾で作った瓔珞(ようらく)(インド貴族の装身具)を着る夢を見たそうですが、後に仏教信仰の篤さを物語る話として伝えられています。兎に角この日は大変印象的な立后の日となりました。宮内卿の藤原朝臣緒嗣(おつぐ)は承明門の前に進み出ると、宣命(天皇の命令)を読み上げました。


「天皇の仰せになるお言葉を、親王たち、臣たち、百官たち、天下の公民ら皆の者聞きなさい。天皇が天下を治める政は一人で行うべきものでなく、必ず内助が必要であり、古来、皇后を定めて行うものと聞いている。そこで従三位橘夫人を皇后に定めた」(日本後紀)


昔から「内助の功」ということはよく言われていましたが、あの平安時代に、しかも絶対的な存在である天皇が、はっきりと皇后の存在を認めて皇后として迎えたことは驚異的ではありませんか。それまでの天皇が皇后を迎えても、その存在感は絶対的なものであって、現代社会のように人間的に対等な存在として認められたのは、驚異的な事だったのではないでしょうか。それほど嘉智子皇后は若いころから天皇を支えてこられました。天皇が天皇として君臨していられるために、皇后はさり気なくそれを支えていかれたのです。主人が会社へ出勤した後で、夫人は子育て、保育園、幼稚園への送り迎え、ご近所との交流と、男には判らない働きがあります。


天皇は伴侶を得て、為政に取り組み始めたのでした。


 「天が人民を生じ、役人を置いて」収めるのは、財物を豊かにして役立たせ、天下に教化を達成するためである。そこで、朕は人民の落ちぶれた受胎を救おうと思い、夜明けに至るまでつとめ、農民が豊作を歓び、婦女が憂えなく機織できる方策を考えている。しかし、去る五月から洪水が続き、田畑は耕作できなくなっている。いったい百姓が


足らないようであれば、君主は誰と共に足るということがあろうか。そこで、左右経と畿内の今年の田租は中止する。百姓にいつくしみを施すことにつとめ、朕の意に副うようにせよ」(日本後紀)


現代でもいえることです。夫婦は一体で協力し合いながら生活の維持をしていきますが、それと同じような関係で、為政者と非為政者との間に亀裂があっては、いい結果は現れません。お互いにそれぞれの暮らしを守りながら、協力し合うということが大事です。


 温故知新(up・to・date)でひと言


 まさに「同甘共苦(どうかんきょうく)です。共に楽しみ共に苦しむということです。過程を維持する同志でもあります「悪婦破家(あくふはか)と言われますが、まさにその通りです。悪妻は夫の一生を台無しにしてしまいます。皇后橘嘉智子は生涯天皇を支え続けましたが、最後にこんな言葉があるのを紹介しておくことにしておきましょう。「朝雲暮雨(ちょううんぼう)というものです。これはある日愛する男性に、女性が次のようなことを言ったと言います。私は巫山(ふざん)の峯に住み、朝には漂う雲となり、夕べには降る雨なって、毎朝毎晩陽台の下に降ります


翌朝見ると、果たして峯には雲が渦巻き、漂っていたというのですが、この美女は巫山の女神であったということでした。この四字熟語は男女の深い仲を著す言葉ですが、彼女が女神であったということを考えると、家庭での女性の存在は女神としての存在に当たるのかもしれません。その存在をはっきりと見読めて、宣言をしていらっしゃる嵯峨天皇の優しさや、女性の存在感を認めようとする先進性を、改めて感じますが、どうでしょうか。



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閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑23 [趣味・カルチャー]

「烏の行水」

 一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。

かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。

つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。

私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、

「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」

あっさり宣告をしてこられたのでした。

私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。

それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その八の一 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えのために」()


        課題「税金のあり方」


 税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものですが・・・。


為政者・桓武天皇


延暦四年(七八四)七月二十四日のこと


発生した問題とは


 前年の十一月に平城京から長岡宮に移ったばかりでしたが、天皇は厳しい財政事情をよく知っておりました。


 「そもそも正税とは国家の資本であり、水害や旱魃への備えである。しかし近年、国司の中には一時逃れに利潤を貪って、正税を消費し用いる者が多い。官物が減少して米蔵が満たない主な原因である。今後は厳しく禁止せよ。国司の中で、もし一人でも正税を犯し用いる者があれば、その他の国司も同様に罪に問い、共に現職を解任して長く任用してはならない。罪を犯して不正に得た物品もともに返納させよ。死罪を放免したり、恩赦を受ける範囲に入れてはならない。国司たちは相互に検察し、違反を起こしてはならない。また郡司が国司に同調して許すのも、国司と同罪にする」(続日本紀)


 天皇は即位してから五年にもなり、環境も人間関係もそこで暮らすには、さまざまなしがらみがあって住みにくいことから、決心して長岡京へ遷都してきたのです。


 「諸国が納めることになっている庸や調、その他年間に計画を立てて納めることになっている物品はいつも未納があつて、いずれも国家の用途に不足をきたしている。その弊害はすでに深刻である。これは国司や郡司が互いに職務を怠っているのが原因である。ついには物資を民間に横流しし、そのために官の倉は欠乏しているという。また、民を治めることに関しても、多くは朝廷の委任した趣旨に背いている。私欲なくて公平で職務に適う者は百人に一人もいない。その者の行状を調べ、事柄に応じて降位させたり辞めさせたりせよ。担当の者は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するようにせよ」


 税をまともに払わない者がいる上に、職務を怠って徴収することを怠っている者がいるというのです。


為政者はどう対処したのか                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                


 こんなことをおっしゃったのには理由があるのです。


長岡京への遷都はしたものの、為政者として現実の問題と取りくまなくてはなりません。先帝は延暦四年(785)五月に詔を発して、臣民の気持ちを引き締めたことを思い出したのです。


「この度遠江国から進上された調・庸は、品質が悪く、汚れていて、官用に堪えられなかった。およそ近年の諸国の貢進物は粗悪で、多くは使用に当たらない。その状況を他に比べ量って、法律により罪を科すべきである。今後このようなことがあれば、担当の国司の現職を解任し、永く任用しないことにする。その他の官司は等級をつけて罪を科せ。またその国の郡司も処罰して、現職を解任して、その系譜を断絶せよ」


しかしその命令がきちんと行われていないのではないかという心配が出て来たのです。天皇はそうした先の指示に付け加えて、


 「その政務が評判になり、執務態度が悪くならない者は、


はっきり記録してほまれある地位に抜擢せよ。担当の宮司は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するように」


 と命じたのでした。


 そこで太政官たちは為政の上での目標を決めた上で、次のような者が出たら、直ちにその役職を外すという厳しい九か条の厳しい規律を打ち出したのでした。


 つい最近土佐国から貢納された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪であった。


 天皇は五年の二月には厳しい指示をいたしました。


一つ、官職にあって欲が深く心が汚れ、事を処理するのに公平でない。 


一つ、ほしいままに悪賢いことを行って、名誉を求める。


一つ、狩の遊びに限度がなく、人民の生活を見出し騒がせる。


一つ、酒を好んで溺れ、公務を怠る。


一つ、公務に節度があるという評判がなく、ひそかに私門を訪れる人の頼みごとをうける不正が日ごとに多くなる。


一つ、子弟をわがままにさせ、邪な人のもってくる勝手な請託を公然と受け付ける。


一つ、逃亡して失踪する者の数が多く、捕えた人数が少ない。


一つ、兵隊の統率法を誤り、守備兵が命令に違反する。


(続日本紀)


 こんな話題を現代の問題として取り上げたのは、それなりに大事な提起になると考えたからでした。


温故知新(up・to・date)でひと言


 税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。その国を動かすための原資となる税をきちんと自発的に収めないことも困るのですが、それを守るように指導する立場の者には、それなりの責任があるはずです。仕事に力を尽くし、勢力を傾注して励むという姿勢が大事です。も貸しから「精励恪勤(せいれいかっきん)という言葉があります。職務に忠実であって欲しいのですが、被支配者に対して過酷な指示をするばかりでは、目的を果たすことは難しいでしょう。そのために現代の問題としていわれる、燃え尽き症候群などにはならないで欲しいものです。もちろん国民のほうの心得としてもこんな言葉があります。「量入制出(りょうにゅうせいしゅつ)といって、収入を計算して、それから支出を計上する健全財政の心構えが必要です。きちんと税金が払えるように心がけましょう。大盤振る舞いが好きだと言っても「贈遺(いんえんぞうい)という、人を接待して振る舞ったり、物を贈ったりすることには、分相応なようにするべきです。酒食をご馳走したり贈り物をしたりするのは、収入に見合った状態に留めておいて下さい。





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「嵯峨天皇現代を斬る」「参考図書」 [趣味・カルチャー]

「日本書紀」上(中央公論社)


「日本書記」山田英雄(教育社)


「続日本紀」(全現代語訳上)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「続日本紀」(全現代語訳中)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「続日本紀」(全現代語訳下)宇治谷孟(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳上) 森田悌(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳中) 森田悌(講談社学術文庫)


「日本後紀」(全現代語訳下) 森田悌(講談社学術文庫)


「続日本後記」(全現代語訳上)森田悌(講談社学術文庫)


「続日本後記」(全現代語訳下)森田悌(講談社学術文庫)


「女官通解 新訂」浅井虎夫     (講談社学術文庫)


「官職要解 新訂」和田英松     (講談社学術文庫)


「古今著聞集」日本古典文学大系      (岩波書店)


「江談抄中外抄冨家語」新日本古典文学大系 (岩波書店)


「四字熟語の辞典」真藤建郎    (日本実業出版社)


「四字熟語辞典」田部井文雄編      (大修館書店)


「新明快四字熟語辞典」三省堂編集所     (三省堂)


「岩波四字熟語辞典」岩波書店辞典編集部編 (岩波書店)


「在原業平・小野小町」目崎徳衛(筑摩書房)


「在原業平 雅を求めた貴公子」井上辰雄(遊子館)


「弘法大師空海全集 第二巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書


)


「弘法大師空海全集 第六巻」空海全集編輯委員会編(筑摩書房)


「遣唐使全航海」上田雄(草思社)


「二条の后 藤原高子・・業平との恋」角田文衛(幻戯書房)


「持統天皇」日本古代帝王の呪術 吉野裕子 (人文書院)


「飛鳥」その古代歴史と風土 門脇禎二 (nhkブック)


「壬申の乱」(新人物往来社)


「日本の歴史 2」古代国家の成立 直木孝次郎(中央公論社


「女帝と才女たち」和歌森太郎・山本藤枝(集英社)


「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)


「持統天皇」八人の女帝 高木きよ子(冨山房)


「藤原不比等」上田正昭 (朝日新聞社)


「飛鳥」歴史と風土を歩く 和田萃(岩波新書)


「大覚寺文書」(上)大覚寺資料編集室(大覚寺)


「大覚寺」山折哲雄(淡交社)


「宇治拾遺物語」日本古典文学大系 


「続日本紀」(臨川書店)


「新嵯峨野物語」藤川桂介(大覚寺出版)


「大覚寺 人と歴史」村岡空(朱鷺書房)波書店)



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☆雑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言22 [趣味・カルチャー]

「虫がいい」

わたしたちの日常会話の中で、わりによく使われる言葉に「あいつは虫が好かない」とか、「あいつは虫が良すぎる」とか、「どうもあいつの言い分には腹の虫が収まらない」「あいつと出会うとどうも虫酸が走る」などと使われることがあって、どうも私たちは気が付かないうちに何匹もの虫を腹の中に飼っているらしいのですが、時には思いがけないことが起こった時など、「どうもよくないことが起こりそうな虫の知らせがあったのだ」とかどうも原因のはっきりとしないような心理的な表現に、「虫」というようなものの存在を考えたのかもしれません。世の中のさまざまな出来事に関しても、「どうもあの政治判断の結果を見ていると、どうしても腹の虫が収まらない」などとも使われます。

私たちの先人は、なぜか判らないことに対する心理的な受け取り方の表現に、見たこともない不思議な「虫」がいるのではないかと考え出したようです。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の六 [趣味・カルチャー]

      第七章「非情な現世を覚悟するために」(六)

        為政者の課題・「国に上中下あり」

 国を率いていくには、何といって古代の代表的な法律である「律令(りつりょう)」によって決められている、()調(ちょう)(よう)雑徭(ぞうよう)などという税を駆使して、運営していかなくてはなりませんでしたが・・・。

為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)

天長十年(八三三)五月十一日のこと

発生した問題とは

 二月に淳和(じゅんな)天皇の体調が優れないことから、嵯峨太上天皇の御子である、皇太子の正良(まさら)親王に譲位して仁明(にんみょう)天皇としました。新天皇は直ちに淳和太上天皇の御子である恒貞(つねさだ)親王を皇太子として、政庁を率いることになったのですが、「律令」では生産物の多少によって、日本各国を上中下に仕分けしているのですが、たちまち五月になると武蔵国から次のような訴えがあったのです。

 「武蔵国は管内が広く、国内を旅行するに際し困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数に上ります。そこで、多磨・入間両郡の郡境に悲田院を置き、五軒の屋舎建て、介従五位下当宗宿祢(まさむねのすくね)家主(いえぬし)以下、少目従七位大丘秋主(おおおかのあきぬし)以上の六人がそれぞれの公廨(くげ)(俸禄)を割いて、食料の原資とすることを企画しました。割いた公廨分は帳簿に登載して出挙(利息付貸付)し、その利息を充用することとし、以後は弘仁の国司が引き継ぎ、多用は認めないようにしたいと思います」(続日本後紀)

 もちろんその申し入れは認められましたが、間もなく天皇は病にかかってしまいます。しかし天皇は次のようなことをおっしゃいました。

 「大和国が『年来穀物が稔らず、規定の公出挙稲(利息を公用にあてる貸付稲)にも欠ける始末ですので、弘仁十年官符に倣い、国内の裕福な人の稲三万八千束を借り上げ、飢民の生活の資にしたいと思います』と言上してきたので、許可し次のように徴した。富豪の畜稲は、貧者の資けとなるものである。聞くところによると先般以来お子馴れているところをみると、役人はそれに相応しくなく、ただ富豪の稲を刈り上げることに務めるのみで、救済に心がけず、このため貧・富共に疲弊しているという。乏絶している者を救済する態勢維持のために、秋の収穫期に到ったならば、特別に使人を遣わして、借用されている稲をすべて返済させよ」(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

 ところがその二日後のこと、京および五畿内・七道諸国がみな飢饉となり、天皇は直ちに次のように指示をされた。

 「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず窮乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎を固め、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、これを目的にしている。朕は慎んで天命を受けて人民を労り、世を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々が長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると、昨年は昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え、病になっているという。朕は支配者として、臨みながら、民を安らかにすることが出来ていない。静かにこのことを思うと、憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちが無ければ、恐らくは努力が足りないことになろう。京および、畿内・七道諸国の飢民に対して物を恵み与え、その生活を支え(すく)うことができるようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行き渡るようにし、朕の意とするところに沿うようにせよ(続日本後紀)

 しかし現代の県に等しい国によって分かれていて、それぞれはそれぞれの問題を抱えながら、それぞれの知恵を絞って生き残らなくてはなりません。そんな中で山林しか資源がないという、貧しい国が飛騨(ひだ)でした。政庁では国家を支える重大な財力となるものを持っているかどうかということで、国を上中下に分けていたのですが、飛騨はその中でも、ほとんど資源を持っていない国だったので、下下の下国と蔑まれていたのです。それほど貧しい国として捉えられていたのですが、そこに住む者たちは、資源が森林しかない、生きることすら困難な環境と戦いながら、やがて彼らはその貧しい土地から生きる知恵を生み出したのです。

朝廷が祖・調・庸・という税収の目安としていた、国別の

格差を次のような表を作っていました。

大国 大和 河内 伊勢 武蔵 上総 下総 常陸 近江

上野 陸奥 越前 播磨 肥後

上国 山城 摂津 尾張 参河 遠江 駿河 甲斐 相模

   美濃 信濃 下野 出羽 加賀 越中 越後 丹波

但馬 因幡 伯耆 出雲 美作 備前 備中 備後

安芸 周防 紀伊 阿波 讃岐 伊予 筑前 筑後

豊前 豊後 肥前

中国 安房 若狭 能登 佐渡 丹後 石見 長門 土佐

日向大隅 薩摩

下国 和泉 伊賀 志摩 伊豆 飛騨 隠岐 

 この中から飛騨は「下下(げげ)の下国(げこく)」と蔑まれていたほどで、森林以外に暮らしの術を持たない民は、仁徳天皇の時代に地元の有力者であった両面宿儺(りょうめんすくな)という怪人を押し立てて、朝廷軍と戦ったことがあったほどですが、やがてその森林しかない土地であることを逆手にとって、生きる手立てを見つけて知恵を磨き始めたのです。

 こんなお話を現代の問題として取り上げたのは、それなりに意味があります。

 国によって税の比率が違うことが第三章「時代の変化に耐えるために」「その三の六」の「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の文書の記録の中に、その税率の実例が書かれています。どうぞご覧になって下さい。

温故知新(up・to・date)でひと言

飛騨国の者は周辺にいくらでもある森林を使って、交錯する知恵と技術を磨き、飛騨(ひだ)の匠として飛鳥の都へ出て行くようになり、朝廷が立ち上げる皇室の宮殿建設に携わるようになり、その技術が認められるようになり、弥陀の匠としての特異さが認められるようになり、飛鳥から奈良に向けて、都へ出て特別な技術者として朝廷に採用されて宮殿建設に重用されるようになったのでした。敢えてこのようなことを取り上げたのには、それなりに意味があります。貧しい環境であるために、その貧しさを活かして樹林を活かした技術を身に付けていったということを知って頂きたいのです。

 現代の人々は、困ったことがあれば直ぐにインターネットで検索をしてしまいますし、簡単に答えを手に入れて満足してしまいます。それはそれなりに意味はあるのですが、その簡便さのためにそれぞれの人が、それぞれ独自のアイデアを生み出すことが出来なくなってしまっているのです。ちょっと前まではいろいろな時に知恵を出して問題を解決してしまう人のことを、引出しの多い人として評価をされるし、尊敬されました。みな同じ知恵を共有することも作業を進める上では役に立ちますが、それでは結局それ以上の結果を生みだせません。その人なりの知恵の引き出しを沢山持っていることが勝負の分かれ目となります。さまざまな国から、下下の下刻などと蔑まれていた飛騨から、飛騨の匠をという特異な人々が誕生させたには、その貧しい環境である原点であった、樹林しかないという弱点を長所に変えていってしまった智慧の勝利だと思うのです。何でも都会へ出ていかなくては成功しないという偏見は捨ててみましょう。古来「桂玉之艱(けいぎょくのかん)ということが云われます。きわめて物価の高い都会生活をしたり、学校へ通ったりすると、却って苦しむということです。たしかにそんな要素がありますが、育ったところの環境を思い、その環境を活かして、他の人にはない知恵を磨いてみませんか。それがきっかけで、立身出世して都会で尊重される技が活かされて、再び生まれ故郷へ帰ることもできます。まさに「衣錦還郷(いきんかんきょう)ということです。飛騨の者たちは生まれた土地の貧しさ、不自由を逆手にとって、生きる知恵を身に付けて、飛騨の匠という特異な技術者としての地位を確立したのです。都でも尊重されました。まさに生きるものは環境に最も適した者が生き残り、そうでない者は滅びるということを表した「適者生存(てきしゃせいぞん)という言葉の証明をするかのように、古代の飛騨国は存在したかのように思えてきます。この機会に、もう一度身の回りの環境が活かせないかどうかを考えてみてはどうでしょうか。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑22 [趣味・カルチャー]

「烏の行水」

 一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。

かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。

つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。

私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、

「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」

あっさり宣告をしてこられたのでした。

私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。

それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の五 [趣味・カルチャー]

      第八章「説得力のある訴えをするために」()

        為政者の課題・「税金のあり方」

 平城京を支配する人脈の複雑さから抜け出して、やっと長岡京へ脱出してきた桓武天皇は、厳しい財政事情をよく知っておりました。

 政庁を支えていくためには、何といっても税というものを無視するわけにはいきません。しかしそれを収める側にある人は、それが国を支えていく基本であることは充分に理解をしているのですが、出来れば収めずに済めばそれに越したことはないと思うものです。しかし税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。

これは古代も現代もないように思われます。

天皇は新天地を活動の拠点とするために腐心していました。

 「朕は天下に君主として臨んで、人民を慈しみ育んできたが、官民ともに疲れ衰えて、朕は誠に心配している。ここに宮殿の造営などを中止して農業につとめ、政治は倹約をこころがけて行い、財物が鞍に満ちるようにしたい。今、宮の住居は住むのに十分であるし、調度品も不足していない。また寺院の造営も終了した。貨幣の流通量も増え、銭の価値がすでに下がっている。そこで造営者(宮城の造営修理を司る)と、勅旨省(宣旨の伝達と皇室用品調達を司る)の二省と造法花寺司(法華寺造営とを司る)と鋳銭司の両司を止めることにする。それで(くら)の宝をふやし無駄を省いた簡易の政治を尊ぶようにしたい。ただし、造宮省と勅旨省の各種の技術者はその能力によって木工(もく)寮・内蔵寮などに配属し、余ったものはそれぞれ配属以前の基の役所に還せ」(続日本紀)

為政者・桓武天皇(かんむてんのう)

延暦四年(七八四)七月二十四日のこと

発生した問題とは

 それから間もなくのことです。山背国が訴えてきたのです。

「食の兵士は庸を免じられて調を出しています。左右両京の兵士に至っては、またその調も免じられています。ところが今、畿内の国の兵士はこれまで優遇されることがなくて、苦楽がびょうどうではありません。どうか京職の兵士と同じく、その調を免除して頂くようにお願いいたします」(続日本紀)

 天皇はその訴えについて、畿内の兵士の調を免じました。

 ところが陸奥国ではこの頃兵乱があって、奥郡の民はそれぞれの村落にまだ集まって来ていない。それで天皇は指示してまた租税三年間の免除を与えた。

 政庁の基礎固めをしているところであったのに、天皇を困らせたのは、陸奥国・出羽国の問題でした。

 「蝦夷は平城の世を乱して王命に従わないことがまだ止まない。追えば鳥のように散り去り、捨てておけば蟻のように群がる。なすべきことは兵卒を訓練し教育して、蝦夷の侵略に備えるべきである。今聞くところによると、坂東諸国の民は、軍役がある場合、つねに多くは虚弱でまったく戦闘に堪えられないという。ところで、雑色(多種の業務担当の下級役人)の者や、浮浪人のたぐいには弓や乗馬に慣れている物、あるいは戦闘に堪える者があるのに、兵を挑発することがある度に今まで一度も指名していない。同じ皇民であるというのにどうしてこのようなことがあってよいであろうか。坂東八国に命じて、その国の散位の子・郡司の子弟および浮浪人の類で、身体が軍士に堪える者を選び鳥、国の大小によって一千以下五百以上の者に、もっぱら無事の使い方を習わせ、それぞれに郡員としての装備を準備させ四。そして役人となる資格のある人となる資格のある人には便宜を加えて当国で勤務評定を与え、無位の公民には(よう)を免ぜよ。そこで、職務に堪能な国司一人に命じて専門にこれを担当処理させよ。もし非情の事があれば、すぐさまこれら軍士を統率して、現地へ急行し、古都の報告をせよ」(続日本紀)

 実に様々な指示もおこなわなくてはなりませんでした。

 新しい京として起訴を固めていかなくてはまらない天皇の気持ちは複雑です。

 「そもそも正税とは国家の資本であり、水害や旱魃への備えである。しかし近年、国司の中には一時逃れに利潤を貪って、正税を消費し用いる者が多い。官物が減少して米蔵が満たない主な原因である。今後は厳しく禁止せよ。国司の中で、もし一人でも正税を犯し用いる者があれば、その他の国司も同様に罪に問い、共に現職を解任して長く任用してはならない。罪を犯して不正に得た物品もともに返納させよ。死罪を放免したり、恩赦を受ける範囲に入れてはならない。国司たちは相互に検察し、違反を起こしてはならない。また郡司が国司に同調して許すのも、国司と同罪にする」(続日本紀)

 天皇は即位してから五年にもなり、環境も人間関係もそこで暮らすには、平城京ではさまざまなしがらみがあって住みにくいことから、決心して長岡京へ遷都してきたのです。

 「諸国が納めることになっている庸や調、その他年間に計画を立てて納めることになっている物品はいつも未納があつて、いずれも国家の用途に不足をきたしている。その弊害はすでに深刻である。これは国司や郡司が互いに職務を怠っているのが原因である。ついには物資を民間に横流しし、そのために官の倉は欠乏しているという。また、民を治めることに関しても、多くは朝廷の委任した趣旨に背いている。私欲なくて公平で職務に適う者は百人に一人もいない。その者の行状を調べ、事柄に応じて降位させたり辞めさせたりせよ。担当の者は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するようにせよ」(続日本紀)

 税をまともに払わない者がいる上に、職務を怠って徴収することを怠っている者がいるというのです。

為政者はどう対処したのか

 こんなことをおっしゃったのには理由があるのです。

長岡京への遷都はしたものの、為政者として現実の問題と取り組まなくてはなりません。

 まだまだ政庁の基礎を固めるには、様々な問題に取り組まなくてはなりません。

先帝は延暦四年(七八五)五月に詔を発して、臣民の気持ちを引き締めたことを思い出したのです。

「この度遠江国から進上された調・庸は、品質が悪く、汚れていて、官用に堪えられなかった。およそ近年の諸国の貢進物は粗悪で、多くは使用に当たらない。その状況を他に比べ量って、法律により罪を科すべきである。今後このようなことがあれば、担当の国司の現職を解任し、永く任用しないことにする。その他の官司は等級をつけて罪を科せ。またその国の郡司も処罰して、現職を解任して、その系譜を断絶せよ」(続日本紀)

しかしその命令がきちんと行われていないのではないかという心配が出て来たのです。天皇はそうした先の指示に付け加えて、

 「その政務が評判になり、執務態度が悪くならない者は、

はっきり記録してほまれある地位に抜擢せよ。担当の宮司は詳しく行いの是非善悪を弁別し、明確な箇条書きの規定を作成して報告するように」(続日本紀)

 と命じたのでした。

 そこで太政官たちは為政の上での目標を決めた上で、次のような者が出たら、直ちにその役職を外すという厳しい九か条の厳しい規律を打ち出したのでした。

 つい最近土佐国から貢納された調は、その時期が誤っており、物品も粗悪であった。

 天皇は五年の二月には厳しい指示をいたしました。

一つ、官職にあって欲が深く心が汚れ、事を処理するのに

公平でない。 

一つ、ほしいままに悪賢いことを行って、名誉を求める。

一つ、狩の遊びに限度がなく、人民の生活を見出し騒がせ

る。

一つ、酒を好んで溺れ、公務を怠る。

一つ、公務に節度があるという評判がなく、ひそかに私門

を訪れる人の頼みごとをうける不正が日ごとに多

くなる。

一つ、子弟をわがままにさせ、邪な人のもってくる勝手な

請託を公然と受け付ける。

一つ、逃亡して失踪する者の数が多く、捕えた人数が少な

い。

一つ、兵隊の統率法を誤り、守備兵が命令に違反する。

(続日本紀)

 こんな話題を現代の問題として取り上げたのは、それなりに大事な提起になると考えたからでした。

 税金というものはそこで生きる者が、安心して暮らせることが出来るように、政治、文化、経済、福祉などを充実させる基本的な資金となるものです。その国を動かすための原資となる税をきちんと自発的に収めないことも困るのですが、それを守るように指導する立場の者には、それなりの責任があるはずです。仕事に力を尽くし、勢力を傾注して励むという姿勢が大事です。

温故知新(up・to・date)

 昔から「精励恪勤(せいれいかっきん)という言葉があります。職務に忠実であって欲しいのですが、被支配者に対して過酷な指示をするばかりでは、目的を果たすことは難しいでしょう。そのために現代の問題としていわれる、燃え尽き症候群などにはならないで欲しいものです。もちろん国民のほうの心得としてもこんな言葉があります。量入制出(りょうにゅうせいしゅつ)といって、収入を計算して、それから支出を計上する健全財政の心構えが必要です。きちんと税金が払えるように心がけましょう。大盤振る舞いが好きだと言っても「贈遺(いんえんぞうい)という、人を接待して振る舞ったり、物を贈ったりすることには、分相応なようにするべきです。酒食をご馳走したり贈り物をしたりするのは、収入に見合った状態に留めておいて下さい。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言21 [趣味・カルチャー]

            

「シュンのもの」


 


「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」


季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。


昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言え荒れていましたが、江戸の町民たちは無理をして高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。


カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源は「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということ


になるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようですが、


最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものもおおくなってきていますね。その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。


食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。


 一寸寂しい気がしないわけではありません。


 科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わってく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うと残念でなりません。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の四 [趣味・カルチャー]

第七章「非情な現世を覚悟するために」(四)

為政者の課題・「国に上中下あり」

国を率いていくには、何といって古代の代表的な法律である「律令(りつりょう)」によって決められている、()調(ちょう)(よう)雑徭(ぞうよう)などという税を駆使して、運営していかなくてはなりませんでしたが・・・。

現代では路線価税という税金があって、その時その時の評価によって課税される額が変わっていくものがあります。毎年日本一の高い路線価税ということでは、マスコミで評判となる東京銀座の交差点近くの土地が話題になっていますが、古代ではその土地ということではなく、その国の経済状態・・・つまりどういった生産物があるのかということが判断材料になって、はっきりと差別が行われていました。

それが今回のお話です。

為政者・仁明天皇(にんみょうてんのう)

天長十年(八三三)五月十一日のこと

発生した問題とは

この国によって差別が決められた「律令」というのは、

飛鳥浄御原律令というものがはじまりで、やがてそれにこまかな法例も決められて、桓武天皇の時代になって830年頃に律・令・挌・式という四大法典が整備されたといわれていますが、これに背くと死を覚悟しなくてはならないというので、大変な存在感のあるものでした。

そんなことから、古来「急急如律令」と書かれたお札を玄関に貼って、魔除けにした地方もあるくらいです。

二月に(じゅんな)天皇の体調が優れないことから、嵯峨太上天皇の御子である、皇太子の正良(まさら)親王に譲位して仁明(にんみょう)天皇としたのですが、新天皇は直ちに淳和太上天皇の御子である恒貞(つねさだ)親王を皇太子として、政庁を率いることになりましたが、天皇はまず「律令」によって、生産物の多少によって日本各国を上中下に仕分けしてあるのを参考にして運用していくことにしたのでした。ところがたちまち五月になると、武蔵国から次のような訴えがあったのです。

「武蔵国は管内が広く、国内を旅行するに際し困難が多く、公私の旅行で飢病に陥る者が多数に上ります。そこで、多磨・入間両郡の郡境に悲田院を置き、五軒の屋舎建て、介従五位下当宗宿祢(まさむねのすくね)家主(いえぬし)以下、少目従七位大丘秋主(おおおかのあきぬし)以上の六人がそれぞれの公廨(くげ)(俸禄)を割いて、食料の原資とすることを企画しました。割いた公廨分は帳簿に登載して出挙(利息付貸付)し、その利息を充用することとし、以後は弘仁の国司が引き継ぎ、多用は認めないようにしたいと思います」(続日本後紀)

もちろんその申し入れは認められましたが、間もなく天皇は病にかかってしまいます。しかし天皇は次のようなことをおっしゃいました。

「大和国が『年来穀物が稔らず、規定の公出挙稲(利息を公用にあてる貸付稲)にも欠ける始末ですので、弘仁十年官符に倣い、国内の裕福な人の稲三万八千束を借り上げ、飢民の生活の資にしたいと思います』と言上してきたので、許可し次のように徴した。富豪の畜稲は、貧者の資けとなるものである。聞くところによると先般以来お子馴れているところをみると、役人はそれに相応しくなく、ただ富豪の稲を刈り上げることに務めるのみで、救済に心がけず、このため貧・富共に疲弊しているという。乏絶している者を救済する態勢維持のために、秋の収穫期に到ったならば、特別に使人を遣わして、借用されている稲をすべて返済させよ」(続日本後紀)

為政者はどう対処したのか

ところがその二日後のこと、京および五畿内・七道諸国がみな飢饉となり、天皇は直ちに次のように指示をされた。

 「ひとたび穀物が不足すれば、百姓は不満を抱くものなので、必ず窮乏の者を救済するという原則に従い、併せて勧農を行うことにする。これは病む者を救い、国家の基礎を固め、民の生活を安定させることである。時々に沿革はあっても、これを目的にしている。朕は慎んで天命を受けて人民を労り、世を和平にする方策を立て、仁徳が行き渡り、人々が長命を享受できるようにしたいと思っているが、聞くところによると、昨年は昨年は穀物がはなはだ稔らず、民は飢え、病になっているという。朕は支配者として、臨みながら、民を安らかにすることが出来ていない。静かにこのことを思うと、憮然たるの気持ちの止むことがない。ここに暑季が始まり作物が繁茂する時期に当たり、人民を憐れむ気持ちが無ければ、恐らくは努力が足りないことになろう。京および、畿内・七道諸国の飢民に対して物を恵み与え、その生活を支え(すく)うことができるようにせよ。ことは国司に委ねるので、充分に考慮し、努めて恵みが行き渡るようにし、朕の意とするところに沿うようにせよ(続日本後紀)

 しかし現代の県に等しい国によって分かれていて、それぞれはそれぞれの問題を抱えながら、それぞれの知恵を絞って生き残らなくてはなりません。そんな中で山林しか資源がないという、貧しい国が飛騨(ひだ)でした。政庁では国家を支える重大な財力となるものを持っているかどうかということで、国を上中下に分けていたのですが、飛騨はその中でも、ほとんど資源を持っていない国だったので、下下の下国と蔑まれていたのです。それほど貧しい国として捉えられていたのですが、そこに住む者たちは、資源が森林しかない、生きることすら困難な環境と戦いながら、やがて彼らはその貧しい土地から生きる知恵を生み出したのです。

朝廷が祖・調・庸・という税収の目安としていた、国別の格差を次のような表を作っていました。

大国 

大和 河内 伊勢 武蔵 上総 下総 常陸 近江 上野 陸奥 越前 播磨 肥後

上国 

山城 摂津 尾張 参河 遠江 駿河 甲斐 相模 美濃 信濃 下野 出羽 加賀 越中 越後 丹波

但馬 因幡 伯耆 出雲 美作 備前 備中 備後

安芸 周防 紀伊 阿波 讃岐 伊予 筑前 筑後

豊前 豊後 肥前

中国 

安房 若狭 能登 佐渡 丹後 石見 長門 土佐 日向大隅 薩摩

下国 

和泉 伊賀 志摩 伊豆 飛騨 隠岐 

 この中から飛騨は「下下(げげ)下国(げこく)」と蔑まれていたほどで、森林以外に暮らしの術を持たない民は、仁徳天皇の時代に地元の有力者であった両面宿儺(りょうめんすくな)という怪人を押し立てて、朝廷軍と戦ったことがあったほどですが、やがてその森林しかない土地であることを逆手にとって、生きる手立てを見つけて知恵を磨き始めたのです。

 こんなお話を現代の問題として取り上げたのは、それなりに意味があります。

 国によって税の比率が違うことが第三章「時代の変化に耐えるために」「その三の六」の「遣唐大使の要求に小野篁拒否」の文書の記録の中に、その税率の実例が書かれています。どうぞご覧になって下さい。

温故知新(up・to・date)でひと言

飛騨国の者は周辺にいくらでもある森林を使って、交錯する知恵と技術を磨き、飛騨(ひだ)の匠として飛鳥の都へ出て行くようになり、朝廷が立ち上げる皇室の宮殿建設に携わるようになり、その技術が認められるようになり、弥陀の匠としての特異さが認められるようになり、飛鳥から奈良に向けて、都へ出て特別な技術者として朝廷に採用されて宮殿建設に重用されるようになったのでした。敢えてこのようなことを取り上げたのには、それなりに意味があります。貧しい環境であるために、その貧しさを活かして樹林を活かした技術を身に付けていったということを知って頂きたいのです。

 現代の人々は、困ったことがあれば直ぐにインターネットで検索をしてしまいますし、簡単に答えを手に入れて満足してしまいます。それはそれなりに意味はあるのですが、その簡便さのためにそれぞれの人が、それぞれ独自のアイデアを生み出すことが出来なくなってしまっているのです。ちょっと前まではいろいろな時に知恵を出して問題を解決してしまう人のことを、引出しの多い人として評価をされるし、尊敬されました。みな同じ知恵を共有することも作業を進める上では役に立ちますが、それでは結局それ以上の結果を生みだせません。その人なりの知恵の引き出しを沢山持っていることが勝負の分かれ目となります。さまざまな国から、下下(げげ)下国(げこく)などと蔑まれていた飛騨から、飛騨の匠をという特異な人々が誕生させたには、その貧しい環境である原点であった、樹林しかないという弱点を長所に変えていってしまった智慧の勝利だと思うのです。何でも都会へ出ていかなくては成功しないという偏見は捨ててみましょう。古来「桂玉之艱(けいぎょくのかん)ということが云われます。きわめて物価の高い都会生活をしたり、学校へ通ったりすると、却って苦しむということです。たしかにそんな要素がありますが、育ったところの環境を思い、その環境を活かして、他の人にはない知恵を磨いてみませんか。それがきっかけで、立身出世して都会で尊重される技が活かされて、再び生まれ故郷へ帰ることもできます。まさに「衣錦還郷(いきんかんきょう)ということです。飛騨の者たちは生まれた土地の貧しさ、不自由を逆手にとって、生きる知恵を身に付けて、飛騨の匠という特異な技術者としての地位を確立したのです。都でも尊重されました。まさに生きるものは環境に最も適した者が生き残り、そうでない者は滅びるということを表した「適者生存(てきしゃせいぞん)という言葉の証明をするかのように、古代の飛騨国は存在したかのように思えてきます。この機会に、もう一度身の回りの環境が活かせないかどうかを考えてみてはどうでしょうか。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 閑21 [趣味・カルチャー]

「烏の行水」

 一般に小鳥は羽をパタパタとやると水のところから飛び立ってしまいます。

かつて母親などから、早くお風呂に入ってからご飯にしましょうという時などに、「烏の行水でいいから、さっとひと風呂浴びてらっしゃい。烏の行水、烏の行水」などとよく日常の会話の中で耳にした言葉ですが、つい最近のことなのですが、思いがけないことであの「烏の行水」を聞かされてしまったのです。

つい最近になって、足のふくらはぎに、赤い斑点状のものがいくつも現れてしまったので、近くで予約を取るのも大変といわれる皮膚科の医院へ行って診ることにしました。

私の話を聞いた上で、現在現れているところの様子を見ていらっしゃった先生は、「これは乾燥肌ですとおっしゃいました」高齢者にかかる方が多いんですということでした。そして半身浴をして新聞を読むのを楽しみにしていますという私の告白を聞いていた先生は、

「それも原因の一つです。これからは烏の行水にして下さい」

あっさり宣告をしてこられたのでした。

私にとっての楽しみであった夕方のルーテインは、あっさりと禁止ということになってしまったのでした。

それにしても小さなときに母が口にしていた「烏の行水」を皮膚科の先生に言われてしまったのでした。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の三 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(三)

    為政者の課題・「老人・孤独人・寡婦への救済」

弘仁五年(八一四)になると、嵯峨天皇もかなりその異色ぶりを発揮していらっしゃるのですが、兎に角これまでの政庁の主導者は大変権力志向の強い存在であったのですが、今回は大胆に自らの親族に対して臣籍降下をしてしまうというという決断をされました。

そんなこともあって心身ともにお疲れになったのでしょう。六月にはお疲れになって、体調を崩してしまったりいたします。天皇はこれまでと違って、かなり民に対する気づかいをされる方でしたのですが、その方が厳しく管理をすることが出来ないということが判ってしまうと、その

政庁の行う救済処置を悪用して、貧しく困窮しているということを装う不埒な者も出てきます。

 どうも悪の種というものは、K古代も現代もありませんね。折角の政庁の配慮で、欠損を生じた庶民の日常生活を補助しようと、様々な形で援助する施策を打ち出しているのですが、どうもそれを悪用する者が、跡を断ちません。

 そんなある日のこと、右大臣藤原園人(ふじわらそのひと)は、こんなことを進言してきました。

 「去る大同二年に正月七日・十六日のせつを停止し、同三年には三月三日の説を停止しました。これは出費を抑制するため得下が、現在、正月の二節は復活し九月九日の説は三月三日節に準じては医師、復活しています。去る弘仁三年からはこれに花宴が加わり、延暦の頃と比較すると、花宴が一つふえ、大同のころに比べると復興して四節が行われていることになります。これらの節での禄支給により、官庫の貯えが尽きていますので、伏して、九月九日は節会とせず、臨時に文章に優れた者を選び、所司に通知して作詞させることを要望いたします。願わくば、節録支給を取り止め、大蔵の官庫の減損しませんことを」(日本後記)

 更にその人はこうも申し上げました。

 「去る延暦十年に天皇が交野に行幸しましたが、この時畿内国司による献物を禁止しました。しかし、年来この禁止令は守られていません。国郡の官人は必ずしも相応しい人物ではなく、貢献にかこつけてかえって百姓に負担をかけ、穏やかでないとの批判が止みません。伏して、今後一切貢献を禁止することを要望します。ただし、臣下が個人として供進することは禁止する必要がありません」(日本後記紀)

 そのいずれも許可されました。

 天災による被害がかなり広がっていて、そのための国の財政もかなり苦しくなっているようです。しかし本当に救済しなければならない人は救わなくてはなりません。

為政者・嵯峨天皇

弘仁五年(八一四)八月二十九日のこと

発生した問題とは

天皇は神祇官の勧めによって鴨川で(みそぎ)を行ったりされるのですが、それでも七月にはまた天災に襲われたりするのです。

 「六年ごとに班田することは、令条(れいじょう)田令(でんれい))で定められている。これより六年間隔で、諸国が一律に班田すべきであるが、大同以来疾疫(しつえき)が起るなどして、規定通りの班田ができなくなっている国が多い。通法の感点から、あってはならないことである。そこで、遅れて班田した国が六年の間隔を充たすのを待って、全国で一律に校田と班田を行え」(日本後紀)

 天皇は指示をしていらっしゃるのですが、この前にはすでに自らの身を斬る決心で、御子たちの臣籍降下などの決心を発表した後での政庁での指示です。天皇は更に、

「近江、丹波などの諸国では、年来旱害(かんがい)が頻発して稼苗(かびょう)が損害を被っている。禍福は必ず国司によることが判るので、今後日照りとなったら国司官長が潔斎して、よき降雨を祈願して厳重に慎み、(けが)汚すことのないようにせよ」(日本後紀)

 唐国では大変貞節な夫人が、無実の罪で処刑された後、旱魃に悩まされてしまうのですが、能吏百里崇(ひゃくりすう)が旱天の徐州(じょしゅう)刺史(しし)(中国の地方官)になると、甘雨(よき雨)が降ったと伝えられています。

禍福は必ず国司の人となりによると、天皇は唐国の史実を挙げながら、今後日照りとなったら、国司は潔斎してよき降雨を祈願して、暮らしを厳重に慎み、()れ汚すことのないようにせよと、地方の官人の心構えについて戒めたりなさいました。

 「朕は謹んで皇位に就き、天皇としての事業を引き継ぎ正務に励んで年月をへた。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七つの政治のよりどころ整えて、水旱の災害がなく、国司を励まして、仁徳と長寿の喜びが得られることを願ってきた。ところが年末春耕が始まり、開花の時期を待って、有難い雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝の間に穀物を残しているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた結果である。朕はこの喜ばしい賜物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧尼、および六十一歳以上の老人、(かん)(夫を亡くした女)・()(独り者)・()(孤独で自活不能者な者)などの自活不能者の様子によって、あまねく物を支給することに心がけよ」(日本後紀)

為政者はどう対処したのか

 百姓が苦しいといっているのに、為政を行う者が、それを無視することはできないと考えられた帝は、左右京と畿内の今年の田租は、停止すると命じられるのですが、天候は不安定で、日照りが続いて難渋させられたかと思うと、今度は真逆に長雨がつづくようなことが起ってしまいます。帝はその度に伊勢の神、賀茂の神に使者を送って奉幣して安穏を祈りました。

 「朕は謹んで皇位に即き、天皇としての事業を引き継ぎ、政務に励んで年月を経た。身は宮中にあっても、心は広く人民のことを思っている。七政(しちせい)(七つの政治の拠り所)を整えて水旱(すいかん)の災害がなく、九農(きゅうのう)(古代中国の農業に関係する九つの官職。ただし、ここは国司)を励まして仁寿(仁徳と長寿)の喜びが得られ年来春耕が始まり、開花の時期を待ってありがたい雨が降り、秋には稲穂が垂れて、収穫しきれず、畝間(うねま)に穀物をのこしているほどである。これは神霊が幸いを降し、僧侶が修善をしてくれた。結果である。朕はこの喜ばしい贈り物を得たことで、神々に真心を捧げ、豊作を喜んで天下の万民の勤労に報いようと思う。そこで、国司の監督下で、官社に奉幣し、併せて高年の僧侶及び六十一歳以上の老人、(かん)()()(どく)で自活不能者に等級をつけて物を施給(せきゅう)せよ。あまねく支給することに心がけよ。そして、朕の意を称えさせよ」(日本後紀)

まだ即位してから五年というわずかな治世でしかありませんが、先帝とは違った為政の在り方というものを印象づけたくても、まだまだ何もかも整理しきれないことばかりです。国を統治する者としての課題も、あまりにも多い状態でした。まさにこれは現代的な課題でもあります。

 右大臣藤原園人が次のような進言をいたしました。

 「諸国が収納する官物については、納置(のうち)する倉の種類・名称を詳しく正税調(せいぜいちょう)に記載することになっていますが、国司は必ずしも適任者ではなく、国府に近い便郡(びんぐん)の稲は俸禄である公廨(くげ)に充当し、百姓に出挙する稲には遠郡(えんぐん)のものを充てています。このため遠郡の倉はありあまるほどとなり、交替の際には、遠郡と便郡の稲を通計することを行っています。このような事例は、出雲国に多く見られます。もし甲郡に貯積すべき稲が乙郡の倉に納められるとなると、帳簿上は全倉(ぜんそう)(鞍の貯稲穀に欠損が無いこと)となり不意はありませんが、出雲国では俘囚の反乱(荒橿(こうきょう)の乱)により全倉の倉が怪人となっています。伏して、今後諸国では帳簿通りにそれぞれの軍の倉にそれぞれの郡の稲を収納し、甲乙の郡で通計することを許さないよう要望いたします。帳簿と現実に収納されている倉とが食い違っていれば、実情に応じて科罰(かばっ)することを求めます。願わくは、朝廷にとり損害が少なく、人民にとり救いとなりますことを」(日本後紀)

 民の苦境には様々な問題があり、その解決のためには政庁としてその解決をしなくてはならないことがあると進言したのでした。

その進言には意味のあることを感じられた天皇は、直ちにその進言を受け入れて許可しました。

 天皇には臣下の進言であっても、その内容によっては直ちに動き始めます。こういったことは、現代でも充分に参考とすべきではないかと思われます。

 古代も現代もなく共通する問題は、如何に救済を正しく行うかということです。充分に調査をした資料を基に訴えを得た為政者は、現代でもその姿勢を古代と共にあるべきだと思います。

確かに救済を受ける者の中に紛れ込んでいる、偽りの困窮者がいるということも考えなくてはなりません。特に現代では充分に調査するべきです。そんな不埒な人間のために、真に救済されなくてはならない者が外されてしまったら大変です。収入の救済給付金の問題は、正にこのことと符号してしまうのではないでしょうか。

温故知新(up・to・date)でひと言

制度そのものについて、検討すべきことは速やかに行わなくてはならないでしょう。古来、そうした救済してやらなければならないといけないと誰もが認めるよう人々を、「鰥寡孤独(かんかこどく)といっていました。身寄りのない人々を云う。鰥は年を取って妻のない、おとこやもめ。寡は年を取って夫のいない女。未亡人のこと。孤は幼くて親のいない孤児。独は独り者。此の境遇にある者はみじめな境遇で、気の毒な人であるということです。それらの人々を「無告之民(むこくのたみ)」+ともいいました。未亡人、孤児などのように、どこにも頼る人のない天街孤独の人です。現代では未亡人だからといって、しょげ返って生きている人はないかもしれませんが、中には救済を必要とする人々も存在しています。自ら生きる努力を放棄してしまっている若者などは論外ですが、非営利で社会活動をする民間組織であるNPOというものがありますが、それでは満たしきれない人々が存在することも確かです。「貧者一燈(ひんじゃいっとう)」+という言葉がありますが、貧しい人であっても同じような境遇にある人を救おうと寄進して下さる人があります。それはたとえわずかであっても、真心が籠っていれば金持ちの多大な寄付にも勝っているものです。人のために尽くしてあげるということも、生きる力となるかもしれません。


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☆閑談とちょっと気になる新言霊の部屋☆ 言20 [趣味・カルチャー]

「シュンのもの」

「目に青葉山ホトトギス初ガツオ」

季節が来ると必ずと言っていいほど目に入るキャッチフレーズです。

昔から初ものを食べると七十五日は長生きするということが言われていましたが、江戸の町民たちは無理をして、高いのを承知の上でカツオの走りを賞味したらしいようですね。

カツオに限らず、魚、野菜、果物などは、それぞれ出回る時期がありますが、その時は確かにおいしいものです。この「シュン」という言葉の語源を辿るると、「旬」だといわれています。この意味を調べると。「十日」ということになるそうです。つまり「時期」とか「時」という意味もあるようです。しかし最近はいつが旬なのかがはっきり判らなくなってしまっているものも多くなってきていますね。

その代表は「イチゴ」です。本来は夏が近づく頃のものでしたが、今では一年中お店に出ています。

食べ物で季節の変化を知らされていた現代人・・・特に都会の人も次第に季節感がなくなってしまったのでしょうか。

 一寸寂しい気がしないわけではありません。

 科学の進化で、次第に便利であることの恩恵にはあずかっているのですが、その分次第に季節の変わっていく時の、自然が微妙に移り変わっていく姿を楽しめるという感性を、失いつつあるのではないかと思うのです。

 「シュン」という感性を大事にしていきたいと思います。


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閑話 嵯峨天皇現代を斬る その七の二 [趣味・カルチャー]

   第七章「非情な現世を覚悟するために」(二)


    為政者の課題「朝廷に頼り過ぎるな」


弘仁四年(八一三)です。


嵯峨天皇は即位してから数年過ぎていますので、為政について落ち着いた指示をしていらっしゃいます。


 古代の資料を見ていると、天皇が狩猟に出かけるという記録が、かなり出てきますが、これは天皇の体調を計る上で貴重な手掛かりになるだけでなく、それ以上に貴重な手掛かりとなるのは、それを利用して各地の農作物の様子を確認しているようにも思えるのです。


 政庁はそんなある日のこと、次のようなことを発表しました。


「農業作となったのはとしは、土着の民も移住してきた俘囚(ふしゅう)もみなその被災者となるが、物を恵みあたえるに当たっては俘囚は対象から外されている。飢饉の苦しみは一様のはずであるから、恩恵が土着民と俘囚を差別して施されるのはどんなものであろうか。今後は俘囚にも公民に準じて恵みを与えよ。ただし、勲位を帯びたり、村長その他特別に粮米(ろうまい)支給にあずかっている俘囚は支給する限りではない」(日本後紀)


 天皇の俘囚に対する差別をしないという姿勢は、すでに第一章「卓越した指導者といわれるために」「民への気遣いはいつも」の「その一の二」の閑談で触れていますが、基本的に革新的な発想は持ちつづけていました。


 しかし天皇はただ俘囚を理解してやれとおっしゃっているわけではありません。


資料の記録によりますと、次のようなことも指示していらっしゃいました。


 「移住した夷俘(いふ)の性格は、内属の民と異なり、朝廷の教化に従うようになっても、野性の心性を忘れていないので、諸国司らにつとめて教諭を加えさせている。しかし、国司らは朝廷の時事に反して世話をすることを怠り、いつになっても夷俘らの要請を取り上げず、夷俘らは憂いや怨みを抱き、ついには反逆を起こす始末である」(日本後紀


 天皇は夷俘たちの性格も理解した上で、そのために恵みを忘れてしまう国司などがいるために反逆をすることになると、極めて冷静に状況を把握していて、それについての対処の仕方を指示していらっしゃいます。


 天皇は為政者として季節的な変化が農作物などに影響を及ぼしてしまうことについても、かなり心を煩わせていらっしゃいました。


「治国の肝心なことは、民を豊かにすることで、民に蓄えがあれば凶年であっても、その被害を防ぐことが可能である。ところで現今の諸国司らは、天皇の思いに背き不適切な時期に百姓を労役に動員して、農繁期に妨害をして、侵害のみをもっぱらにして、民を慈しむ気持ちを持っていない。このため人民は生業を失い飢饉に陥っている。格別の災害がないのに、絶えず人民が、飢えているという報告がなされている。このため毎年恵みを与えって、倉庫はほとんど空になってしまった。ここで災害が起これば、どうして救うことができるであろうか。すべて悪しき政治の弊害としてこうなってしまったのである。今後は農業が出来なくなったり、疫病にかかったりした時以外で、朝廷に対して安易に援助を求めてはならない」(日本後紀)


 人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれといっていたら、キリがなくなってしまいます。民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては・・・ 


為政者・嵯峨天皇


弘仁四年(八一三)五月二十五日のこと


発生した問題とは


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷(えみし)についてですが、国司(こくし)たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚(ふしゅう)(朝廷の支配下に入って、一般の農民たちとの暮しに同化した蝦夷のこと)たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。帝は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


「辺境では外からの侵略を防ぎ、不慮への備えでは食料が重要である。近年辺境では大軍が頻繁に動員されて、軍粮を費やし尽してしまったが、なお侵犯事件はあり何が起こるか予測し難い状況である。軍粮の蓄えがなければ、突発事件にどうして対処できようか。そこで、陸奥・出羽両国の官人らへの俸禄の財源である公廨稲(くげとう)(奈良・平安時代諸国に蓄積された、利子つきの貸し出し用の稲)は正税に混合し、替わりに毎年、信濃・越後両国で陸奥・出羽国司及び鎮守府官人の俸禄を支給することにせよ」(日本後紀)


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生した為に、世間では飛んでもないことが広がり始めていました。


為政者はどう対処したの 


六月のことですが、右大臣が沈痛な面持ちで報告いたしました。


「以前付き合いのあった者を忘れず、苦労した者に酬いるのは、優れた賢人の教えであります。生命を重んじ大切にする点で、貴賤の間に相違はありません。いま、天下に僕隷を有する者がいますが、常日ごろ使役しながら病患となると道端に遺棄し、看護する人がなく餓死する仕儀となっています。この弊害は言い尽くせません。伏して、京職・畿内諸国に命令して、速やかに禁止することを要望いたします。願わくば路傍に無残な死体を放棄されることがなく、天下の多くの人が天寿を終えることができますことを」(日本後紀)


その訴えに対しては、帝は直ちに禁止の命令を出して、それに違反する者は厳罰に処すると、告知するように指示されました。それにしても最近各地に飢饉が起こり、それに対する手当にも財の支出があって、朝廷はその経営に困難を極めていたのです。


天皇は地方の役人たちに、真摯に為政に立ち向かうよう自覚を促しましたが、民にも朝廷に寄りかかるという悪弊は断ち切らないといけないとおっしゃいました。


ところが為政者と民との間にはまだ他にも問題がありました。朝廷に従って暮らし始めた蝦夷についても、国司たちが指示に従って世話をすることを怠っていて、俘囚たちの要請を取り上げないために、憂いや恨みを抱くことになるのです。朝廷は担当する者を数名派遣して、問題の解決に当たらせるようにさせました。天皇は何を取り上げるにしても、その原因となるものを分析して、その解決法を指示されます。


国の財が乏しくなる中で飢饉が発生して、そのために世間では飛んでもないことが広がり始めていたのです。右大臣の沈痛な報告を聞かれた天皇は、自らも改革をしなくてはならないことがあるのではないかと、思い巡らすようになっていらっしゃったのです。それから間もなくです。臣籍降下というびっくりするような決断を発表されるのです。


確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいます。嵯峨天皇がおっしゃったように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできなくなってしまいます。それは現代の我々にとっても一考する問題なのではないでしょうか。


 天皇がこのようなことをおっしゃいました。


 「自然界の利は公私が共にすべきではあるが、生物は適切な時期に捕獲しないと、繁殖しなくなってしまう。現在、百姓が好んで小魚(あるいは年魚・アユ・の稚魚か)を捕っているが、多量に捕れても、利用することができない。そこで、山城、大和・河内・摂津・近江などの諸国に指示して禁断せよ。ただし、四月以降は禁止する必要はない」(日本後紀)


 確かにこの通りで、欲しいからといってその欲求のままに捕獲してしまっていたら、資源は枯渇してしまいます。これは古代も現代もありません。特に資源が豊かにあるという訳ではない日本の場合は、欲しいからと言って、欲求に従って手に入れてしまっていては、たちまち資源は枯渇して苦しくなってしまうでしょう。


 最近でも電力事情を考えないで、国民が電力を好きなように使っていれば、かなり危機的な状態に陥ります。そうかと言って原子力にその救いを求めるようなことになることは、避けなければならないでしょう。兎に角安全な電力の確保をするために、政府に要求するだけではなく、民間でもエコな電力を開発する努力はしなくてはならないと思います。


温故知新(up・to・date)でひと言


 時代の様相が変わって、福祉ということでは古い時代とは違って、かなり充実してきていると思います。しかしもう充分というには、ほど遠いものがあります。確かに人間の欲求には限りがないものですから、それをすべて為政者に頼って満たしてくれと言っていたら、キリがなくなってしまいますし、実際にやり切れるものではありません。嵯峨天皇がおっしゃるように、民の方にも現状を突破しようという意欲が無くては、なかなか希望を達成することはできないでしょう。為政者にはもっと福祉の充実をしてくれと要求しながら、それと同時に被為政者たちも、現状脱却のための努力をするべきです。官民一体ということが云われるのはそのためでしょう。古来「雲翻雨覆(うんほんうふく)ということがいわれます。世の人の態度や人柄はめまぐるしく変わるということです。人情も移ろいやすく、功績のあった幹部、部下も、利用価値がなくなると捨てられてしまう「狡兎良狗(こうとりょうく)であることを隠していなくてはなりません。現状打破を為政者に求めるだけではなく、自分も困難に立ち向かう努力もしてみましょう。「盤根錯節(ばんこんさくせつ)といって、困難に出合ってはじめてその人の力量、価値が判るといいます。世の中の難儀な事柄に立ち向かってみましょう。為政者への要求は、それからでもできます。お互いにどのような葛藤をしているのかを理解し合いながら、現状打破を目指して精一杯頑張ってみましょう。その上で為政者にも努力して貰わなくてはなりません。



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